二匹の猫は考える

もっちり羊

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ひりひりの冬休み

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 昼休み。静かな教室の一角。そこには私、葉月葵はづきあおいの席がある。

 低い冬の日差しが、私の紺色のブレザーを淡く濡らしている。
 陽だまりの柔らかな温もり。それがまるで温泉かあるいはコーンポタージュのように、体の奥までじんわりと染み込んでいく。

 私の席は教室の一番後ろ。窓際の席だから少しだけ外からの冷気が伝わるけれど、体を震わせるほどじゃない。
 給食でお腹をいっぱいにした私は、頬杖をつき、ショートヘアーの毛先を指先でつまみながら、雪の積もった学校の小さな庭園をぼんやりと眺めている。友達二人がスマホのゲームの話を始めてしまったから、少しの間だけ私のお口は休憩なのだ。
 庭を眺めていると、意識が雪景色のなかへと溶けていくような感覚があった。
 お腹がいっぱいなせいで少し眠くなったのかもしれない、と私は思った。せっかくのクリスマスイブなのに、なんで学校は休みじゃないんだろう……。

「ねえヒナ、本当に告白するの?」

 きゃぴきゃぴとした雑多な会話の合間、突然低いトーンで発せられたのはナナの声だった。私は会話の異変に少しの焦りと興奮を感じ、視線を教室の方へと戻す。
 ゲームの話は終わりみたい。私は頬杖をついたまま視線を移した。
 見ると、私のひとつ前の席で小野寺奈々子おのでらななこが不安そうな表情を浮かべていた。

 小野寺奈々子と私は中学に入った頃からの友達。あだ名は『ナナ』。髪はそれぞれ両耳の後ろで結んでおさげにしている。背が低くて顔立ちも幼いから、たまに妹みたいに感じてしまうこともある。ナナは寒がりだから、この季節にはブレザーの下にベージュのカーディガンを重ね着する。袖からはみ出した細い指先がとってもキュートだ。
 
 私はナナのいつになく険しい顔つきを確認して、それから彼女の視線を辿っていった。
 ナナの言った『ヒナ』というのは、もちろん私のあだ名なんかじゃなく、いま私の隣の席に座っている朝倉陽菜あさくらひなのことである。

 朝倉陽菜は私の幼馴染み。彼女とは幼稚園の頃からずっと一緒だ。つややかで長い黒髪はまっさらなストレートにしていて、茶色い縁の落ち着いた眼鏡をかけている。最近はなぜだか目の下に薄くくまができていて、私はそれが少し心配なのだ。ヒナもナナと同じく寒がりのはずだけれど、私と同じくカーディガンは着てはおらず、ブレザーのすぐ下では真っ白なワイシャツが露わになっている。本人によれば、カーディガンは不良っぽいからイヤとのこと。かわいいと思うけどな、ベージュのカーディガン。私は重ね着が苦手だから着ないだけなんだけどね。

「だって、いつまでもこのままじゃ、駄目になっちゃうもん」とヒナは言う。彼女はわずかに顔を赤くし、居心地の悪そうな笑顔をつくった。
 ヒナはいま片想い中。片想いの相手はひとつ年上――中学三年生の天野健あまのたけるくん。サッカー部のエースで、学校中の女子の憧れの的。私は幼稚園の頃に『たっくん』なんて呼んでいたこともあったけれど、それはもうだいぶ昔の話だ。
 
 ナナはヒナの片想いについて興味津々って感じだけど、ここだけの話、私はそれについてはもううんざりといった感じなんだ。
 だってヒナのこの恋は、それこそ幼稚園の頃からずうっと続いているんだもん。

「それはそうだけど……」言いかけて、ナナはそこで言葉を飲み込む。

 ナナもナナだ。なんで当事者であるヒナの決意をわざわざ曲げさせようとするんだろう。
もしかして、ヒナの恋に恋しちゃってるのかな。もしそうなら、それはきっといけないことだ。だってヒナの恋はヒナのもので、ナナのものでも、ましてや私のものでもないはずだから。
 
 ナナが助けを求めるような目でこちらをみつめる。「ねえ、アオアオはどう思う?」
 突然の呼びかけに、そこらじゅうに散らばっていた私の意識たちが慌ててきちんと整列をする。いつまでも眺めているだけというわけにはいかないみたいだ。

『アオアオ』ってあだ名は、なんだかオットセイの鳴き声みたいでかっこ悪い。ヒナが私のことを『アオ』って呼んでいるのだから、ナナもそれに合わせればいいのに、と思う。それでもなぜか、ナナが言うとかわいく聞こえちゃうから不思議なものだ。

 私はその質問がされたときに返す、いつもの意見を組み立て直す。「私は何度も言ってるよ。ヒナが良いと思ったタイミングで告白すればいいと思う」
 我ながら無責任な言い方だと思う。でもそれ以上どうすることもできない。だってこの恋は私のものじゃないから。
「ナナだって、それはそうだと思うけど――」ナナは言葉を区切る。
 ナナは生徒のまばらな教室内を見渡し、それから私の机に肘を乗せ、口元に手を添える。
 それは内緒話の合図だ。私とヒナは顔を近づけ、ナナのささやきに意識を集中させる。
「だって天野先輩っていったら、人気ナンバーワン男子なんだよ? サッカー部の男子のことが好きってだけでも大変なのに、それでは飽き足らずナンバーワンって……そんなの周りの女子なんてみーんなドロドロ昼ドラ展開間違いなしだよ。隙さえあれば先手必勝。ライバルを蹴落とすためなら陰湿ないじめだってためらわないよ。どことどことが繋がってて、誰と誰とがキスしたかだってわかったもんじゃない。そんなとこに飛び込む危険性、ヒナもアオアオも本当にわかってる?」
「飛び込む気はないよ」と、か細い声でヒナは言う。「私はこの痛みから解放されたいだけだもん。きっと告白は失敗するし……ちょっとそこに入って、帰ってくるだけだよ」
 ヒナの諦めにも似たその言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。何かの印のような言葉。私はそんなヒナを見るのがキライだ。見てるこっちまで苦しくなってくるから。
 飲み込んだ言葉が逆流し、胸の奥から込み上げてくる。
「痛かったんなら、こんなに長く耐えることなかったのに」
「こらっ!」ナナが私の頭を軽くこづく。
「いたっ……なに?」
「いいアオアオ。恋する女の子にはいろいろあるんだよ。ナナは少女マンガとか……少女マンガとかいーっぱい読んでるから、ヒナの抱える悩みや迷いはなんとなくだけどわかるの」
「……つまり、どういうことなの?」
「つまり、そんな言い方しちゃダメってこと。アオアオは男らし過ぎるんだから」
 身振り手振りを交えて訴えるナナ。まるでテレビドラマの女優さんみたいだ。
「いや、私だって女の子だし……」
ナナにこづかれたところをさすりながら、私はさっき呟いた言葉を頭のなかで繰り返す。
 もしかして嫌味に聞こえちゃったのかな。そんなつもりじゃなかったんだけど。
 ナナはふーっと息を吐くと、おもむろにブレザーのポケットからピンク色のスマホを取り出し、親指で器用に操作をはじめる。画面の上をすいすいと、彼女の指先が泳いでいく。それは明らかにスマホ慣れした女の子の手付きだった。
「まあでも、ナナもアオアオの意見にはおおむね同意なんだけどね」とナナは言う。
「え、そうなの?」やめさせたいんじゃなかったの?
「うん。ナナはね、『ヒナがドロドロに巻き込まれちゃわないかな』とか、『ヒナがフラれちゃったときのショックに耐えられるかな』とか、そういうのが心配なだけなの。それにオーケーだったら、そのドロドロにもっと深くまで足を突っ込まなきゃいけなくなるしね」
「そんな、オーケーなんてありえないよ!」ヒナは真っ赤になった顔の前で、両手をはらはらと揺らす。「それに、それはそれで……なんというか……困る、というか」
「困るの?」私は反射的にそう尋ねる。「付き合いたいから、コクるんじゃないの?」
 ヒナは真っ赤な顔でこくりと頷く。
「前に進むための告白ってのもあるんだよ、アオアオ」ナナはまるで仏様みたいに優しい顔でそう言った。ヒナはその言葉にコクコクと何度も頷いた。
 え? わかってないの、私だけ?
「来年はナナたちも受験だし、いつまでも立ち止まってはいられないよね」ナナはスマホの操作をひと通り済ませると、私たちの方にその画面を向ける。
 スマホの画面にはマンガみたいな吹き出しがいっぱい。これはたしか、スマホ同士で連絡を取り合うアプリだ。クラスのみんなや、学校のみんなを夢中にしているアプリ。
 ガラケーの私にも噂くらいは回ってくる。名前は……なんて言ったっけ。
「はいこれ、ウチの学校の『告白グループ』ね。告白したい人は予定日の二日前までに、ここに告白する相手と場所を書き込むの。いまのところ天野先輩の名前はないから、とりあえず告白はできそうだね。場所は、ナナは非常階段の下がいいと思うけど、どうかな?」
「えっ、なに?」ナナによる突然の現実的な提案に、ヒナはおろおろとうろたえてしまう。
 ヒナが混乱している隙に、私はナナに率直な疑問を投げかける。
「好きな人に告白するのに、なんでグループなんか作ってるの?」
 だっておかしいよ。私の知ってる少女マンガでも、お母さんの好きなドラマでも、恋っていったら奪い合いの話だった。グループ戦じゃないはずなのに。
「告白をスムーズに運ばせるためだよ。はち合わせなんてことになったら気まずいからね。それこそ昼ドラ展開になっちゃうもん」
「なるほど、たしかにそう……なのかな」
 なんだか想像していたのと違う。なんて器用な恋なんだろう。もしかしたら、マンガやドラマの方が嘘なのかもしれない。
「みんながスマホを使い始めてからね、いろいろと変わったんだよ。アオアオも早くパパにおねだりしないとね」
「いや、いらないって……」
 私にはスマホの魅力がイマイチよくわからない。流行りのゲームにだってそこまで興味は持てないし、『グループ』なんていうのもめんどくさそうでなんだかイヤ。ケータイなんて、電話とメールで十分じゃない?
「でも、二日前までって……それじゃあもう間に合わないよ」ヒナは苦しそうに声を出す。
 たしかにヒナの言う通りだ。明日は終業式。その次の日からは冬休みが始まる。
 学校が長いお休みに入れば、ヒナがたっくんを呼び止めることは難しくなる。
 告白を決行するのなら今日か明日か。
「何言ってんのヒナ。ナナたちがこんなグループに従う義理なんてないよ。ナナたちにとってこれはただの情報なの。黙って告白したのがバレていじめられた子もいるらしいけど、まあ要はバレなきゃいいわけだし」
『いじめ』というワードにヒナは過敏に反応する。彼女は根っからの平和主義者なのだ。
「なんで好きな人に告白するだけでいじめられなきゃならないの?」とヒナは問う。
 ナナはヒナの問いにすぐには答えられない。
「そういうルールができちゃってるわけだし……」そこまで言って、結局ナナはどもる。
それからスマホを私の机の上に置き、両手をパンと打つ。
「まあまあ、難しい話はいいよ。とりあえず明日、放課後に。天野先輩の連絡先なら、たしかアオアオが持ってるよね」
「一応、持ってるけど」どこか腑に落ちないままに私は言う。
 私がパパにケータイを買ってもらったのは小学三年生のときだ。
 当時は不審者だとか誘拐だとかのニュースが増え始めていて、世の中物騒だからと、高性能な防犯ブザーのような意味合いで安いガラケーを買ってもらったのだ。
 それでたっくんもその頃からケータイを持ち始めていたから、特に理由もなく連絡先を交換したのだ。
 買ってもらったばかりの頃は、毎日メールして遊んでたっけ。いったいいつから連絡が途絶えたんだろう。懐かしいなあ。たっくんはまだおぼえているのかな。
「よし、じゃあそういうことで。どう? ヒナ、いけそうかな」とナナ。
「ちょっと怖いけど……うん、大丈夫。ありがとう、ナナ」
怯えてこそいたが、ヒナの返事はどこか力強かった。
きっと心はもう決めていたんだ、と私は思う。すごいなぁ、恋って。ここまで女の子を大胆にさせるんだ。
 しかしヒナの妙に澄み渡った表情を見て、私は自分の気持ちのどこかに違和感を覚える。
私はぶるぶると頭を振るい、急いでその違和感を掻き消してやる。いけない。恋を知らない私なんかが、恋する乙女の心を分析できるわけがないのだ。
「頑張ってね、ヒナ! 私も応援するよ!」と私は言う。
「ありがとう、アオ。私、頑張るね!」とヒナ。
「うん!」
私とヒナは両手を合わせる。ヒナの手は冷たい。それは私たちにとってはいつものことだった。だから私は昔から積極的にヒナと触れ合って、体温を分けてあげることにしているのだから(たまに変な勘違いをされちゃうこともあったけど……)。
「あーずるい! 私も!」ナナはヒナの片方の手を私から奪い取り、両手でしっかりと包み込む。それから願いを込めるように目をつぶった。「頑張ってね、ヒナ。もし傷ついちゃっても、私たちがいるからね」
「ナナもありがとう。でも大丈夫。私、フラれても傷つかないよ」とヒナは言う。
 ナナの真剣な表情につられ、私も目をつぶって祈りを込める。
 私たちがいるからね。

「おい、小野寺」
 まぶたの向こう側から男の子の声が聞こえる。
「うわあ! 吉野? なにっ? どうしたの?」
 目を開けると、そこではポッケに両手を突っ込んだ吉野(よしの)にナナが驚いているようだった。
 吉野は野球部だから、髪は短くスポーツ刈りにしている。顔はまあまあカッコいいはずなんだけど、ご覧の通りのぶっきらぼうだから、女子からの人気はあまりないのだ。
「どうしたの、じゃねえよ。そこは俺の席だろうが」吉野はナナを小馬鹿にするように、声真似を交えてそう言った。
 態度は最悪だけど、しかし吉野の言う通り。私の前の席は、実はナナのものじゃない。吉野が席を外す休み時間の間だけ、ナナはいつもそこを間借りさせてもらっているのだ。
「そ、そうだけどっ、いつもこの時間にはいないじゃん! 今日は体育館で遊ばないの?」
 ナナの言葉に吉野は目を細める。「は? 何言ってんの。もう授業の五分前だぞ」
「え?」ナナは慌てて振り向き、教室の時計を見る。時計の針は、たしかに吉野の言った通りの時刻を指していた。「ほんとだ……」
 私も気がつかなかった。いつチャイムが鳴ったんだろう。ヒナは気づいてたのかな。
 吉野は手をはらはらとほうきのようにして振るう。「ほら、さっさとどけろ」
「きー! 生意気! 言われなくてもどけますよ!」
 ナナはすぐにスマホをブレザーのポケットにしまうと、ご機嫌ナナメのままぷりぷりと自分の席へと戻っていった。
 私やヒナとは正反対で、ナナの席は黒板に近いのだ。
 後ろ姿からでも怒っていることがわかる。ナナはほんとにかわいい。
「なあ、三人でユーフォーでも呼び出してたのかよ?」
 吉野は席に座ると、背もたれに腕を掛けて私に意地悪を言う。
 三人の友情が馬鹿にされてるみたいで、なんだかすっごく悔しい。
「次、国語だよ。漢字テストの予習しなよ」と私はわざと冷たく言う。
 気まずい沈黙がそこに降りてしまう。私の態度から何かを感じ取ったのか、吉野は黙って椅子に正しく座り直し、だらだらと漢字の予習を始める。
 ちょっと言い方、キツくなっちゃったかな……いやいや、今のはどう考えても吉野が悪いし。
 私は居心地の悪さから意味もなくヒナの方を見てみる。見ると、ヒナもまた私のことは知らんぷりで、もう漢字テストの予習を始めていた。
 もうすぐ授業が始まってしまう。
 
 ともかくその年のクリスマスイブはそんな感じで、私の一番近くにあった物事たちがそれぞれに歪な形を取り、私はそれらから弾き出されたのだ。
 その日の放課後の僅かな時間だけでは、とても修復できないほどのゆがみ。どうすれば元に戻るかなんて、このときの私にはとても見当がつかなかった。
 
 少なくとも、明日にならなくちゃ。

 私は勉強を始める。突然そこに現れた、いくつかの空白を埋めるように。

          ※

 クリスマスプレゼントには最新型の音楽プレーヤーを買ってもらった。
 私はブレザーの上から茶色のダッフルコートを羽織って、新型のプレーヤーで大好きな音楽を聴きながら、今年最後の登校をする。
 最新の機器が奏でる重厚な音たちが、いつもの通学路に溢れる一切の雑音を掻き消して、美しいメロディーと力強い歌詞だけを私の中へと届けてくれる。
 新しい雪の鋭い匂いがツンと鼻を突く。汚れのない真っ白な通学路。早めに家を出ちゃったから、太陽はいつもと比べてまだ低い。私は薄暗い白のなかを一人でてくてくと歩いていく。
 太陽の光が弱くたって、私には毛糸の手袋だってある。完全防備だから寒くなんかない。
 雪を踏むときの独特な感触が、一歩ごとにムートンブーツの裏から伝わる。
 むぎゅ……むぎゅ……。
 音楽が時間と空間を弾ませるから、私も思わず早足になっちゃう。
 高台にある学校を目指し、上り坂ばかりの通学路をシロウサギみたいに跳ねていく。
 私の町は田舎だから、通学路に女子中学生の目を引くようなお店はない。あるのはいくつかの古ぼけた民家と、生命維持装置のようなコンビニと、永遠を思わせるような頑なな坂道だけ。そのくせ街路樹は規則正しく並べられているのだ。
 いくつもの真っ白な坂道を軽々と越えて、いつの間にか学校に到着した私は、昇降口に入り、靴を上履きに替え、イヤホンを外すことなく教室までの道を歩いていく。
 私たちの教室は二階にある。階段を上がり、廊下を歩く。教室の扉を開けると、そこにはいつも通りに小説を読むヒナの姿がある。私はイヤホンを耳から外し、おしゃべりの準備を整える。

「ヒナ、おはよー」私は手をはらはらと振りながら、ヒナの方へと近づいていく。
 ヒナは難しそうな小説から目を離し、同じくはらはらとこちらに手を振り返す。
 目の下にはやはりくまがあった。
「あぁ、アオ。おはよー」とヒナ。
 私は自分の席に腰を掛け、それからヒナのくまに向かって手を伸ばしてみる。
「昨日は緊張して眠れなかった?」
「緊張?」ヒナは虚ろな目のまま、呆気に取られたようにきょとんとする。
それは私にとって、あまりにも予想外な反応だった。
「あれ、告白するの、今日だよね」
「え? ああ、そっか。告白するんだった」ヒナはとぼけた声でそう言う。
 忘れてたの? 告白なんだよ?
 小説のページにしおりを挟むと、ヒナは一度ぎゅーっと目をつぶる。
 日焼けのない真っ白なヒナの体は、いまにも眠気に押しつぶされそうだった。
「ねえ、ちゃんとたっくんに連絡した?」と私は尋ねる。
「うん、したよ。放課後は予定ないから大丈夫だって」
 今朝のヒナの声には芯がなくってふわふわとおまぬけさんに聞こえる。なんだか彼女らしくない。まるでお酒を飲んだときのママみたいだ。
「……寝といたほうがいいんじゃない?」と私は言う。
「んー、じゃあホームルームまでちょっと寝ようかな」
「うん、時間になったら起こすからね」
「ありがとー、アオ」ヒナはそう言って机に突っ伏すと、一分と経たずにくーくーと寝息を立て始める。私はヒナの頭を優しく撫でて、頬っぺたにそっと指を這わせてみる。
 どうしてこんなに極限状態なんだろう。ヒナは小説に限らず物語ならなんでも好きだから、毎晩夜更かししてテレビドラマでも見てるのかな。ヒナの好きそうな、私には難しくてよくわからない物語を。
 でもくまをつくり始めたのは今年の夏ごろからだしな……。

 私、わからなくなってきてるのかな、ヒナのこと。幼馴染なのに。
 私は小四の頃を思い出す。ある日たっくんがサッカークラブの試合で大活躍して、エースになって、みんなのヒーローになった頃のこと。たっくんが私のことを知らんぷりするようになった頃のこと。
「ヒナも、遠くへ行っちゃうのかな」 
 空っぽの教室で私は小さくそう呟く。そのとき暖房がごうごうと音を立てた。
 時間が経つにつれて教室は賑やかになっていく。日差しから十分な温もりが感じられるようになった頃には、いつものようにナナが登校してくる。
 ナナに音楽プレーヤーを自慢したら、なんでスマホにしなかったのって言われちゃった。
 なんでって言われたって、欲しくないんだからしょうがないんだけど。
 時間になると先生が教室に入ってきて、今年最後のホームルームを始める。先生は冬休みの過ごし方についての注意事項をきちきちと私たちに伝えていく。それから私の前の空いている席に目をやり、吉野の病欠のことを伝えた。

 午前中にいくつかの授業と大掃除を、午後に終業式を済ませれば、いよいよ放課後がやってくる。私たちは教室の隅で昨日と同じ席に座り、約束の時間を待っていた。
 ヒナが指定した時刻はホームルームが終わってからだいたい三十分後くらいである。
 まだ十分ほどしか経っていないはずなのに、教室内は不自然なまでに閑散としていた。
 掃除当番は? この時間はいつもならもう少し人がいたはずだけれど。
 私はわざとらしいくらいにキラキラと輝く教室の床を見る。そして気がつく。
 あ、そっか、教室掃除は大掃除で済ませてしまったから。
 ナナはヒナの頭を撫で、彼女の緊張を和らげようとしていた。
「よしよし、大丈夫大丈夫」
 いざ告白を目前にすると、朝のぼんやりはどこへやら、ヒナの緊張は目に見えて明らかなものとなった。顔はずうっと真っ赤だし、言葉もいちいちおぼつかない。放っておいたら頭がパンクしちゃいそうだ。
「もう少し早い時間にすればよかった。焦らされたらそれだけ、いろんな想像が膨らんで、おかしくなっちゃいそう」とヒナは言う。
 ヒナの頬っぺたが汗でしっとりと濡れている。呼吸が乱れているのがわかる。
ナナはブレザーのポケットからハンカチを取り出し、ヒナの顔に滲んだ汗を拭いてあげる。「大丈夫。怖くないからね」
 私はその様子を隣の席から眺めている。
 ナナはなんて気の利く子なんだろう。それに比べて私はというと……ヒナにしてあげられることがわからなくて、こうしてただ手をこまねいているだけ。
 私ってばいつもこうだ。これじゃあどっちが幼馴染なんだか。
 教室の時計を見て、「もうあと二十分だね」と私は言う。
 するとヒナは一度深呼吸をして緊張を抑え、その目の奥にぼうっと決意の火を灯す。
「ねえ、アオとナナにお願いがあるんだ」ヒナの声はまだ少しだけ揺らめいていた。
「なあに?」とナナ。
「私ね、告白してるとこ、二人に見られたくないんだ。恥ずかしいのはもちろんなんだけど、なにより二人に気を遣わせるのがイヤなの。そんなの誰も得しないと思うし、それにこの告白は、私にとってはただの身支度みたいなものだから」
 私はそれでいいと思った。というか、もとより覗き見なんてするつもりはなかった。あるいはその段階まで想像を巡らせていなかっただけなのかもしれない。
 冷たいのかな、私。
 心配そうな眼差しでヒナを見つめるナナ。やがて彼女は目を閉じて、細く息を吐く。きっと考えるべきことがいろいろあったのだろう。私には想像もつかないようなことが。
「うん、いいよ」ナナはヒナの頭から手を離す。「でも、もし壊れちゃいそうになったら、遠慮しないで電話ちょうだいね」
「そうするよ」とヒナは言う。
「じゃあ、ナナたちはもう帰った方がいいのかな」
「うん。私はもう大丈夫。ちょっと浮足立っちゃっただけだから」
 真っ赤な顔はそのままだけど、ヒナの声はさっきまでより随分と落ち着いて聞こえた。
「オッケー、わかったよ」そう言ってナナは優しく微笑んだ。彼女はおもむろに吉野の席から立ち上がると、そのまま自分の席に戻って、机に掛けられた黒のスクールバッグを肩にかける。「ほらっ、アオアオ、帰るよ」
 振り向くだけで、ナナはもうこちらには戻ってきそうになかった。
 私も机の荷物掛けからスクールバッグを取り上げ、席を立つ。
「これでいいんだよね、ヒナ」私は改めて彼女に確認をとる。
「うん。これでいいんだよ」
 ヒナはナナがそうしたように、柔らかい微笑みを私に見せてくれた。
 それはどこに向けられているのかわからないような、不思議な種類の微笑みだった。
 いったい、二人には何が見えているんだろう。
「じゃあ……じゃあね」スクールバッグを肩に掛け、私はぎこちなくヒナに手を振る。
ヒナはすぐに手を振り返す。「じゃあね」
 ナナのところまで歩きながら、私はなにか間違いがないだろうかと考える。しかし、私が何かを思いつくことはない。物事や要素が散らばり過ぎてしまっていて、取り付く島がないのである。整理整頓して、誰かに説明してもらいたい気分だ。
「それじゃあね」そう言ってナナが手を振るから、私ももう一度ヒナに手を振った。
「ばいばい」鋭く紅い日差しが差し込む教室で、ヒナは私たちに手を振り返した。

     ※

 冬休み三日目。時刻は午前八時。
真っ暗な部屋には一筋、カーテンの隙間から糸のようにして太陽の光が差し込んでいる。

「それで、アオイはそのままバカ正直に帰ったわけかにゃ」
 カーテンの閉め切られたアオイの部屋。黒猫のクロは闇のなかをのそのそと徘徊しながら、白猫のシロの長い噂話に相槌を打つ。二匹の首元で桃色の鈴がちりんと音を立てた。
 クロの体はどこをとってもしなやかだが、シロの体にはたっぷりと贅肉がついている。
 その部屋のなかには二匹の控えめな鳴き声と、アオイの細い寝息だけが断続的に流れていた。
 アオイの部屋はいつも適温に保たれているから、二匹にとってそこはまさしく楽土だった。
「そうだ」
 アオイの眠るベッドの上でシロは丸くなり、ぬらぬらと話を続ける。クロのそれとは違い、彼の話し方からは猫らしい癖はまったく感じられない。だから彼はニンゲンとうまく付き合うことができるのだ。
「それで、それからはヒナもナナも音沙汰なしというわけだ」とシロは続ける。
「アオイは嫌われたのかにゃ?」
 シロはクロの考えを鼻で笑い、低く落ち着いたトーンで話し始める。
「なあクロ、お前はニンゲンの感情をもう少し理解してやることだ。そんなんだから、お前はいつまで経ってもおひねりを上手にもらえないんだよ」
 突然の挑発にクロは無言のままに腹を立てる。
「そう睨みつけるなよ。怒ってばかりじゃ何も変わらないぜ。これからの猫は反省というものを覚えるべきなんだ。孤立より共存。どうせ一匹狼じゃ生き残れない時代なんだからよ」そう言ってシロは冷たく笑う。「まあ、俺らは猫なんだけどな」
「そう思うにゃら、早くニンゲンの感情を俺にも教えてくれよ」
「とぼけやがってよ」とシロは吐き捨てる。「いいか? これは『気まずい』って感情なんだ。そして今回の場合はそれが一人分じゃなく三人分という寸法――いや、二人分だな。これはおそらく」
「『気まずい』なら俺も知ってる。テレビのニンゲンが言ってたにゃ」
「言葉だけ知ってても仕方ないんだよ」
 クロはむっとする。「じゃあなんで、三人分じゃなく、二人分なのにゃ?」
「月並みで良い質問だな」シロは鼻を鳴らす。「アオイの話から俺が推測するに、おそらくヒナは『気まずい』じゃない。多分、別のどこかを見ているだけだ」
「どこかって、どこにゃ?」
「野暮なこと聞くんじゃねえよ」
 クロはまたむっとする。「じゃあ、ナナとヒナはどう違うのにゃ。お前の話を俺がちゃんと理解していたのにゃら、ナナだって別のどこかを見ていたはずにゃ」
「へえ、今朝はキレてるな、クロ」シロは満足そうに口元に笑みを浮かべる。「ナナの見ている方角は、いわゆるニンゲンとしての普通のルートなんだよ。あるいは集団としての、な。だから時間さえあれば、アオイにも理解することのできる種類のものなんだ。でもヒナの方は違う。いまの彼女は――きっと何かを信じている。そこには頑なで、強いエネルギーがあるんだ。アオイが理解するためには、なにか決定的なきっかけがいる」
 クロにはシロの言っていることが上手く理解できない。しかしクロには、シロがまるで本当にニンゲンのことを理解しているかのように思えてならなかった。
 彼がいまそうしたように、ニンゲンはときどき、共有や共感を無視した未知の言葉を並べ立てる生き物なのだ。だから「ニンゲンの領域」を見せるシロを、クロは恐怖した。
「まあ、これはわからなくてもいいことだよ」とシロは言う。その瞳に失望の色はない。「それより、ここから先の展開を考えるなら、お前はアイツのことをおぼえておいた方がいいかもしれないな」
「アイツって誰かにゃ?」とクロは問い掛ける。
「とぼけやがって」とシロは吐き捨てた。

     ※

 暗がりのなかでまぶたを開く。
 少しの時間と意思をかけて、私は冬休みの三日目が始まったことを理解する。
 寝ぼけ眼でぼんやりと部屋のなかを見渡すと、カーテンの隙間から強い光が差し込んでいるのがわかる。
 そっか、今日は晴れてくれたんだ。
 日差しで気分が上がったのも束の間、記憶の再構築とともに、私は心に作ってしまったささくれのようなものの存在に気がついてしまう。
 ささくれが吐き気と頭痛を引き起こすから、私は胸をさすり、体の緊張を鎮める。
「怖くない……怖くない……」
 冷や汗が滝のように体のなかから噴き出し、それがスカイブルーのパジャマを一瞬のうちにぐっしょりと黒く濡らした。
 起きた途端にこのありさま。私は何を怖がっているんだろう。このささくれの原因は?
「にゃあ」とシロがひと声鳴いた。
 ベッドの空きスペースで丸くなっているシロを見つけると、私は反射的に彼の体を抱き寄せる。それからまるで何かを求めるように、彼の体をぎゅうっと強く抱いた。
「シロ、助けて……」
 彼の体に顔を埋める。温かい。彼のもふもふの体毛が、心の奥底を優しく撫でてくれる。
「んにゃあ」と不機嫌そうな声でシロが鳴いたから、それで私はやっと自分が力を入れ過ぎていたことに気がついた。
 私は急いで力を緩める。「ごめんね?」
 いいんだよ、と言わんばかりにシロが小さく鳴いた。
 吐き気も頭痛も少しだけ和らいだから、私はささくれの正体を思い出そうとする。
 彼の真っ白な体毛を肌で感じる。そしていつもみたいに、私はシロに話しかける。
「ねえシロ。私ね、どうしていいのかわかんないんだ」そこまで話して、私は自分の声と、ミステリアスに揺れるシロの毛にデジャヴを感じる。「これ、昨日も話したっけ?」
「にゃあ」とシロが鳴く。
「何日もこのままじゃ駄目だよね」
 私は身をよじらせて、枕元で充電されている空色のケータイを手に取る。開くと、時刻はもう午前九時を回ってしまっているようだった。
「九時、か」
 ケータイには着信も新着メールもない。
 二日間にわたって作り上げた想像の箱庭を、私は慎重に組み立て直す。
 やっぱり二人とも、こんなにも不安定に見える状況に納得してるんだ。
 何も見えてないのは私だけ。だから私が見えているフリをしてさえいれば、きっと状況はこのまま安定し続けるんだ。
 わざわざ二人を私と同じ場所まで引きずり戻さなくても……。
 私はそうして自分に嘘をついて、ささくれの存在を再確認する。
 胸の辺りがむかむかする。おなかの奥で、真っ黒な何かが動いているのがわかる。
 なんてね。私はそんなの許さないんだ。だって私の気分が悪いだもん。
 できることならこれ以上、こんな気持ちのままでいたくない。
 駆け引きはもう十分だ。今日で全部終わらせる。
 ヒナのこともナナのことも、隅々まで教えてもらうんだから。
 私はケータイを操作する。連絡先のページを開いて、ヒナの電話番号を画面に映す。
 無機質な数字の羅列を前に、私の決意がぐにゃりと揺らいだ。
 指先が震える。これは本当に私たちにとって必要なこと……?
 それでも私は明日を思って苦しくなる。
 友達なのに、なんでこんなに距離が生まれちゃったんだろう。
「ねえシロ、勇気をちょうだい」
 私はシロのもふもふの毛並みに、もう一度深く顔を埋めた。
 今度は彼は鳴かなかった。彼の厳かなその様子は、本当に私に勇気をくれているのかもしれなかった。
 そうだ。私がいまなんとかしたいのは、ただひたすらに明日なんだ。
 指先の震えは止まらないけれど、私にはもう選択肢なんてないんだから。
 私は発信キーを押す。電子音が細切れに鳴り、やがて発信音が流れた。
「にゃあ」とシロが満足そうに鳴いた。

 やがてケータイの発信音が鳴り止む。
「どうしたの、アオ」とヒナ。まるで喉の奥に石でも詰まっていそうな声だった。
 カラカラしてて、なんだかとっても苦しそう。
「なにその声、大丈夫? 風邪でもひいた?」
 ヒナは何度か咳込む。「何でもないよ。いま起きたところだったの」
「そう?」
「うん。それで、どうしたの?」
「あぁ……あのね、三人で遊びたいなーって思って。カラオケとかさ!」
 気分が晴れるような遊びを連想しようとすれば、想像力の貧困な私にはカラオケくらいしか思いつくことができなかった。
 私はナナの人懐っこさを意識して必要以上に明るく振る舞ってみたけれど、しかし結果的に電話の向こうでヒナは戸惑うばかりだった。
「えっと、それはいつの予定なの?」
 ヒナの返事は見事に私の虚を突いた。
 予定、か。そんな言い方、いままでしたことなかったのにな。
「今日じゃダメなの?」と私は言う。
「今日はダメ。用事があるの。忙しいんだ」
「そっか」私はヒナの目の下のくまを想像する。「ねえ、いつまで忙しいのかな」
「いつまで?」彼女の声が真剣なものになる。「アオ、もしかして何か知ってるの?」
「知らないよ」私はなんにも知らないんだよ? ヒナが教えてくれないから。
 短い時間には不釣り合いなひどく分厚い沈黙がそこに降りた。
「……とにかく今日はダメなの」静寂を破ったのはヒナの方だった。
 私は息を吐く。「もうそれはわかったよ。じゃあ、いつなら空いてるの?」
「そんな急に言われても……」
「一番近い日だよ? 私は遊びたくてうずうずしてるんだから」私は挑戦的にそう言う。
「なんだかワガママだね、アオ」ヒナはふふっと笑う。「らしくない」
 誰のせいでこんなになってると思っているのか。「いいから早くして」
「じゃあさ、お正月は? 去年みたいに三人で初日の出を見るの」
「そんなに会えないの?」
「えぇ? そんなにって言うほどじゃないよ。あと四日だし……あっ、そうだ! お正月までに、宿題全部終わらせちゃうっていうのはどう?」
 げっ……。「ヒナ先生、宿題見せてくれないんですか?」
 電話の向こうでヒナがくすくすと笑う。
「アオもナナも地頭はいいんだからさ、たまには宿題も自分の力にしてあげないとね。ちゃんと私を見習った方がいいよ? 多分だけどね」
 いまその提案はずるい。だってこれ以上離れたくないんだ、私は。
「でもそれってさ、一月になったら三人でいっぱい遊べるってこと?」
「それは無理かな。私、また忙しくなっちゃうし……」
「そうなんだ」また離れるんだ。「それじゃあ急いで宿題する意味ないじゃんさ」
「取引がしたかったわけじゃないよ。アオ、田舎者なのに考え方が世間ずれしてる。アオのこともナナのことも、私は真剣に考えてるんだよ?」
「ねえ、それ本気で言ってるの?」
「本気だよ?」
「嘘だよ」声が上擦ったのを咳でごまかす。「だってヒナ、隠し事してるもん」
「それとこれとは関係ないよ」
「関係あるんだよ。だって私のことを本気で考えてるなら……」
 ダメ。これ以上は独りよがりだ。私を心配させないようにしろ、だなんて。
「考えてるなら?」とヒナは尋ねる。
「ねえ教えてよ。何でくまなんて作っちゃってるのさ」
「くま」私の言葉を繰り返すと、ヒナは黙る。
 そのとき電話の向こうでヒナは、指先でくまを確認しているのかもしれなかった。
「そっか、気づいてたんだね」とヒナは言う。
「気づくよ、友達なんだから」
 静寂が降り、やがてヒナが口を開く。「お願い。これの答えはもう少し待って欲しいんだ。お正月までには話せるようにしておくからさ」
 話せるようにしておく……? 予想外のヒナの返事に、私はよくわからないまま心のなかで小さくガッツポーズをする。
 ヒナがやっと――少しだけだけど――私に心を開いてくれた。
「じゃあ、お正月には話してくれるんだね?」私の声は自然と弾む。
「……いいよ、話してあげる」
「約束だからね?」
「うん、約束」ヒナの声は、まるでママのように優しかった。

 ヒナとの通話を終えると、私はすぐにナナにも電話をかけた。
 お正月に会えないかと私が尋ねると、ナナはもちろん会えると快く承諾してくれた。
 それから私は二つのことをナナに話した。
 ヒナを喜ばせるために、できる限り宿題は年末までに終わらせること。お正月になれば、ヒナが隠し事を打ち明けてくれるらしいということ。
 ナナは一つ目の話にはぐったりしたような声で、そして二つ目の話には明るい声でオーケーと返事をしてくれた。
 私はナナにヒナの告白の件について一生懸命に問いただされた。
 告白の結果はどうだったのか。ヒナは天野先輩になんて言われたのか。ヒナがショックを受けていたかどうか。
 でも、私は告白の件についてヒナと言葉を交わしていないから、当然それらの質問には答えることができなかった(三つ目の質問には、いつも通りだったと答えた)。
 なぜ告白のことを聞かなかったのかとナナは私を責めたけど、私は正直に、自分のことで精いっぱいだったと答えた。
 しかし、これはたしかにナナの言った通りだなと思ったから、私はナナとの通話を終えた後、シロをもふもふしながらそのことについてよく考えてみた。
 私がヒナの告白に少しも心を動かされていなかったかといえば、もちろんそんなわけはないのだ。友達が好きな人に告白するという事実に(きっとイベントという不誠実な捉え方ではあったけれど)少なからず私の心は揺れ動かされていたはずだった。
 なのになんで、事の顛末がここまで気にならないんだろう。
 ヒナに詮索するなと言われたから? それは違う気がする。衝動を外側からむりやり抑えつけられているような息苦しい感覚はない。
 私は告白する直前のヒナの様子を思い出してみる。
 そしてそのなかにはナナの言葉も含まれていた。
「前に進むための告白……」悩ましくも細い吐息がシロの毛並みを濡らす。
 そして暗い部屋のなかに、私は一筋の光を見る。
 カーテンの隙間から光が差し込んでいる。私はカーテンを開けなければならない。
「にゃあ」とひと声シロが鳴いた。

 それから大晦日までの三日間、私は朝から晩までの時間を毎日机にかじりついて冬休みの宿題を片付け続けた(机といっても、ほとんど部屋の勉強机じゃなくて、リビングのテーブルだったけど……)。
 そして努力の甲斐あって、私は今日この大晦日までに、冬休みの宿題をほとんど終わらせることができたのだ!
 でも、あくまでほとんど。全部じゃない。
 残っているのはわずかとなった数学の課題と、読書感想文が丸ごと。
 時刻は既に午後の三時を回っている。待ち合わせは明日の朝五時だから、とても読書感想文まで手が回りそうにない(というか、まだ本すら用意していない)。
「読書感想文はさ、『勉強』って感じの宿題じゃないと思うの。だからさ、きっとヒナも大目に見てくれると思うんだ」
 リビングのテーブルの下、ベージュのカーペットの上を私は寝転がり、そこに偶然いたクロの喉元を指先で撫でた。
 今日のクロは珍しく大人しくて、ごろごろと私の指先を素直に受け入れてくれた。
 クロはシロとは違って不愛想で、何を考えているのかよく分からないけれど、スタイルだけはシロよりもしなやかで美しい。気高い、って言葉がきっとよく似合うと思う。
「だいたい、はじめから無理があったんだよ。こんなの三日で終わる量じゃないもん。むしろ私は頑張ったほうなの。だから褒めてよ、クロ」
 クロは目を細め、気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らす。
 彼の満足そうな表情に魅入られて、鳴き声が聞きたいなあ、と私は思う。
「二人は全部終わったのかな」と私は呟く。
「大晦日まで勉強することないんじゃないの?」ママの甘い誘惑が私を襲う。
 リビングには二人掛けのソファがふたつある。家の大掃除を終わらせて疲れたママは、片方のソファで横になり、おせんべいをかじりながら、いつもより賑やかな年末のテレビを眺めている。
 親子そろって、とても人様には見せられない格好だ。
 私は芸能人のわざとらしい笑い声から逃げるようにして、クロの喉を撫で続けた。
「パパはー?」
「夕飯の買い出しだって。豪勢にする気なんでしょう?」
「お鍋がいいなぁ、私」
「ママもお鍋がいいなぁ」
「お寿司はちょっとなぁ」
 パパが食卓を豪勢にしようとするときは、お寿司かピザが割合的に多かった。私は冷蔵庫のなかで冷たくなった二日目のそれらを想像する。
 お鍋だったら、温めればいつでも美味しいんだけどな。
「お寿司はちょっとねぇ」とママ。
 きっと私たちは同じことを考えているような気がした。
 二人の想像だけが部屋のなかを満たしていく。クロは私の指先を受け入れている。
 やがて私とママの想像を遮るように、芸能人たちが一同にわっと笑った。
 それらの声から私は耳を塞いでしまいたかった。年の終わりを感じたくなかったのかもしれない。それがたとえ、お祝いするべき終わりであっても。
「お散歩でも行こうかな」と私は呟く。
「大晦日に? 変わった子だね」
「気分転換。外の空気が吸いたいの。宿題だってもう一時間もあれば終わりそうだし」
「そっか、気分転換は大事だ。車に気を付けてね」
「うん」
 クロを撫でるのをやめ、私は立ち上がる。部屋の隅のハンガーラックからダッフルコートを手に取る。部屋着の上からそれを羽織って、私はリビングを出て行く。
「じゃ、いってくるね」
「はーい」ママはせんべいをはためかせて私を見送る。
 その日の晩御飯はお鍋だった。

 雪は降っていなかった。風が不自然なまでにキンキン冷たくて、空気のにおいからは、まるで昨日までの記憶が奪い去られているみたいだった。
 昨晩は大雪だったから、街を染める雪の色もさらさらと真新しい。
 ひと足早く年が明けてしまったみたいで、私は地に足が付いていないような、ふわふわとした不思議な気分になる。私はいま、どこにいるんだろう。
 ケータイと財布は持った。音楽プレーヤーは持たなかった。
 音楽を聴く必要はなかった。というか、いまはどんな種類のものでも、繕われた音を頭に入れたくはなかったのだ。
 町をあてもなく歩きながら、私は最近身の回りで起こった出来事を思い出していた。
 ヒナの告白。吉野の病欠。目に見える出来事はそれくらい。それくらいのはずなのに……その裏側には何かどす黒い大きな生き物が隠れていて、私にだけその正体が読み取れていないような気がしてならなかった。
 それらの問題たちが、私の心を必要以上にギュウギュウと締め付けているような……そんな感覚があるのだ。
 ヒナのしていること。吉野が学校を休んだ理由。ナナに見えているもの。
 いや、吉野が学校を休んだ理由は……。
 住宅街を抜けて、CDショップの角を曲がる。
 お弁当屋さんの前を通り過ぎて、それから小さな橋を渡り始める。
 川岸に沿って植えられた雑木林は、皆それぞれがこんもりと雪化粧をしていた。
 橋の下を流れる小川は、雪に縁どられながらもまだキラキラと輝いている。
 高い場所を流れる風に包まれると、次第に体が軽くなっていくのがわかった。
 私は両手を広げて風を感じてみる。
 何かひとつでも間違えれば、体が宙に浮いてしまいそうな気がした。
 ムートンブーツでも構わず私は走る。
 風が私を中心にして渦を巻き、体をみるみる軽くしていく。
 それはとても懐かしい感覚であり、その瞬間の私は、無邪気で幼かった頃の私にまで戻っていたのだと思う。
 まるで世界が私だけのものになってしまったみたいだ。あの頃は疑いもなくそう思えていたような気がする。
 このままどこか、なにもかもが素敵な場所へ飛んでいきたいと、心からそう思った。
 しかしやがて、橋は終わる。
 明確な地面を踏み始めると、私の体は途端に何かから縛りを受けはじめる。
 きっと自由はもう遠い昔のこと。私はどこへも逃げられないのだ。
 体のなかから何かが込み上げてくる。ささくれが音を立てて私の心を切り裂いていく。
 それは未来に対しての恐怖だった。
「いやああああああああああああああああああああああ!」
 私はその場でうずくまり、これ以上自由を逃すまいと両肩を強く抱いて叫んだ。
 しかし自由はみるみるうちに私の体のあらゆる隙間から漏れ出していき、やがて私のなかには決してほどけないとさえ思えるほどの固い結び目だけが残った。
 空っぽになった自分自身を見つめ、私は底知れない無力感を覚える。
 それが涙の粒となって、目の奥からじんわりと溢れ出す。
 きっと私に力がないから、私は自由を守り続けることができないのだ。
 これは誰も教えてくれなかったことだ。
 だからそれを急に理解できたところで、現時点で私がそれに抗う力を持ち合わせているはずがないのだ。望んで手に入るものなのかもわからない。
 私は混乱に乗じて、心のなかで複雑に絡み合った結び目が解消されるのを祈った。
 感情的になることで、いまの状況を打開できるのではないかと考えたのだ。
 しかし、それがもう私一人ではどうにもならないレベルのものであることは明白だった。
 だから私は自分自身に言い聞かせる。落ち着かないとダメだ、と。
 かりそめの自由に心を許してしまっただけだ。
 明日になれば、初日の出とともに問題の一部は解消されるじゃないか。
 若干の過呼吸になりながらも、私は徐々に心を落ち着かせていく。
 大丈夫。まだ何も壊れちゃいないんだから。
 力は、いますぐにじゃなくたって……。

「葵か?」背後で低い声が私の名前を呼んだ。
 私はうずくまったまま急いで振り返り、声の主を探す。
 そこには、たったいま河川敷から上がってきたばかりらしい彼の姿があった。
 火照った頬の表面が、汗でしっとりと濡れている。それでも息は切れてない。
 いろんな種類の風にさらされてぼろぼろになった黒髪。上下紺色のウインドブレーカーを着込んだ彼からは、当時のような無邪気な光を感じることはできなかった。
 くすんだ光だ。きっと何かが終わり、何かを諦め、何かを決断したのだろう。
 そんな荒々しくも空虚な空気がそこにはあった。
 そして私は、不思議とそこにヒナの面影を見るのだった。
「たっくん、なの?」あまりに予想外のできごとに、私の声は上擦ってしまう。
 そこに立っていたのは、ヒナの想い人である天野健先輩――たっくんだった。
 
 たっくんのななめ後ろをキープしながら、私は小川の河川敷を歩いていく。
 左手に小川の流れを置き、川上へと進んでいく。
 河川敷は小川と同様に狭く、なんとなく息苦しい。
 両脇は堤防としてかいくらか高台になっており、そこにはまばらに民家が並んでいる。
 混乱から解放されたばかりで、私の意識はふわふわと宙に浮いたままになっている。
 なんであの状況から私は散歩に誘われてしまったのだろう。
 なんだかいま一番会いたくない人に会ってしまったような気がする。
「なあ、大丈夫なのかよ」軽くこちらを振り向きながら、たっくんは言う。
「なにが?」
「なにがって……」たっくんはめんどくさそうに頭をぽりぽりと掻く。「さっきのだよ」
「……あぁ、さっきのね」
 自分の異常な行動を醒めた頭で客観的に思い出すと、なんだか恥ずかしくなってくる。
 私は情けないような照れ笑いを浮かべた。一人きりだと思い詰めちゃってダメだな。
 ましてや、それを知り合いに見られちゃうなんて。
「最近難しいことが多くってさ。ちょっとパニックになっちゃったっていうか、ね」
「難しいこと? 勉強とかか?」
「馬鹿にしてるでしょ」
「してねえよ。勉強だって立派な悩みの種になる」彼はあくまで真剣に答える。
「さすが、受験生だね」
「だろ? ま、俺はスポーツ推薦なんだけどな」
「え? たっくんってそんなにスゴかったの?」
 彼はふふんと得意げに笑う。
「そんなにスゴかったんだよ。お前が入学した頃なら、もう学内ではかなり有名になってたはずだぜ。一年でも告白してきたヤツ、結構いたしな。まあでも、そんなに急に告白されても、まずお前はいったい誰で、どんなヤツなんだよって話なんだけど」
「いや、そんな子もたしかにいたけどさ……」
 でもそんなの中学から始まったことじゃない。だってたっくんは小四の頃からずっと、女の子たちの話題には必ず上がるようなヒーローだったんだ。
 だから中学に上がったところで、それまでの印象と何かが変わるということはなかった。やっぱりモテるんだなあって、私はずっとそれくらいにしか思ってなかったんだ。
 そうか、そうだったんだ。
 いつの間にか、ほんとうに手の届かない人になってたんだね。
 たっくんはしばらく私の反応を待つと、やがて諦めたように前を向いた。
「あんまり興味なかったか、俺のこと」
 彼の投げやりな言い方に、私は少し寂しくなる。
 まるで二人の間にできてしまった果てしない距離を再確認させられているみたいだった。
「いや、興味ないとかじゃなくってさ。ほらっ、たっくんってずっとスゴかったでしょ?だから、なんというか……ずっとスゴかったんだよ。スゴくて、スゴ過ぎたから」
 小さくなる視界のなか、焦燥に背中を押され、私は褒め言葉だけを羅列させる。
 言いわけは言葉にはならなかった。
 言葉にしてしまえば、また少し離れてしまう気がしたから。
「スゴ過ぎたから、離れ過ぎたから、もう自分には関係ないと思ってた?」
 私は考える。そして自分の知らない記憶を意識し始める。
 離れていたのは、私のほうだったの?
「そうかもしれない」と私は言う。
「そうだろ?」たっくんは得意げに、そしてどこか儚げに微笑んだ。
 舗装道路が小川から離れ、木々に包まれた奥まった空間へと続いているのが見える。
 彼は何のためらいもなくそちらへと進んでいくけれど、私はその先にどんな場所が待っているのかを知らなかった。
 日はもうかなり落ちてきている。空を見れば、そこにぼんやりと浮かび上がる月や、いくつかの強く光る星々を見つけることができる。
 木々を覆う雪化粧が、ある瞬間から夕闇のなかでミステリアスにきらめき出す。
 それでも暗闇が本来連れてくるような独特な恐怖は感じなかった。冬の夜は明るいのだ。
「どこに行くの?」と私は問い掛ける。
 たっくんは寂しそうな顔で私の表情を確認すると、すぐに前を向いた。
「そんなに遠くじゃないさ」
 小川を離れ、そのまま奥まった空間へと入っていく。
 木々が私達を覆い始め、すぐに民家は見えなくなった。
 いったいこの道はどこに続いてるんだろう。
 彼の背中と舗装道路に不安を預けて、私は雪景色の間をずんずんと進む。
 木々のトンネルの下をしばらく歩くと、やがてそこには開けた空間が現れる。
 円形にくり抜かれた自然のなかに、小さな木製の東屋がぽつりと点在している。
 雪のなかで夕闇に照らされたそれは、幻想的な雰囲気を纏いながらも、どこかこの世のものではないような静かさを醸し出していた。
 空間の入り口で彼はいったん立ち止まり、それからおもむろに東屋へと近付く。
 東屋のなかには木製の長いテーブルと、同じ長さの二基のベンチがテーブルを挟むようにして設置されてある。
 たっくんはテーブルに背を向けて、一方のベンチに腰掛ける。
 話をするとなると向かいのベンチに座るわけにもいかないから、私は仕方なく彼の隣に同じようにして腰を下ろした。
 長いベンチだから、二人の距離は人一人分くらい空いている。
 夜空を眺めようと見上げてみると、屋根と木々とが私の視界を遮った。
 あまり素敵な場所ではないように思えた。
「なぁ、悩んでること、話してみろよ」
 私がなにか変わったものはないかと周囲をキョロキョロと見回していると、たっくんが急に真剣なトーンで話を切り出す。
 悩んでること。私はいま抱えている問題の性格について考えてみる。
「いや、いいよ。たっくんには関係のないことだし」足元を見つめながらそう答える。
「たっくんに告白した子のことで悩んでる」だなんて……。そんなことを話したら、余計に心の結び目が絡まって、もう二度とほどけなくなってしまうような気がした。
 彼の返事はすぐには返ってこなかった。
 様子が気になって彼の方を見ると、彼もまた自分の足元を眺め、何かを真剣に考えているようだった。その表情には、またも寂しさの影が掛かっているように見えた。
 たっくんの心が一人ぼっちになってしまっているような気がした。
 こんなに近くに私がいるのに……悔しい。近づいて、寄り添ってあげなきゃ。
 私は意を決して、思いの丈を彼に話してみることにした。
 どうせ明日にはいくらか解消されるはずの悩みごとだもん。
 話してみたって、これ以上事態が悪い方向に転がることはないだろう。
「あっ、あのね、友達が好きな人に告白したんだ」
 いったん想いを口にしてしまえば、それは次から次へと溢れ出すものかと思っていた。
 でも実際は全然違って、結び目は早くも喉元で詰まってしまう。
「そっか。じゃあそいつは多分、俺がよく知ってるヤツだ」
 申し訳なさそうに、けど少し嬉しそうに彼は笑った。
「で、お前が悩んでるってことは、そいつはきっとフラれちまったわけだ。それで気まずくなって、上手に話しかけられない?」
「ワオ、名推理だね、たっくん。まるで見てきたみたい」言葉に気分が乗らない。
 やっぱりフったんだ、ヒナのこと。
「だろ? そんでもって、そういう恋愛系の悩みなら俺は慣れてる。だから二つの意味で先輩の俺から言わせてもらえば、それは時間が解決してくれるな」
「そうなの? 知らないうちにどうにかなっちゃうの?」
「知らないうちに……って言うと嘘だな。知ってるうちにどうにかなるんだ。お前は気まずいからっていう理由で、そいつと上辺だけの関係を続けて、それでいつも通りの日常生活が送れるのか?」
 私は彼の言う状況を想像してみた。
 ヒナのことを気遣って、何も聞かないで、上辺だけの関係を続ける私……。
 それは勇気を出してヒナに電話を掛ける前の私そのものだった。
 私はその状況に我慢できなかったんだ。
 胸に手を当てて、あの朝のことを思い出す。
 心のささくれが、限界にまで私に影響を及ぼしたあの朝のことだ。
 思い出しただけでも頭が痛くなって、胸の奥から吐き気が込み上げてくる。
「そんなのできないよ。心がひりひりして、私の方が壊れちゃうから」
「心がひりひり、か」
 彼が私の言葉を繰り返したおかげで、変な言葉が口を突いてしまっていたことに私は気がつく。馬鹿にされるかと思って私は頬っぺたを火照らせながら身構えたけれど、よくよく考えたらたっくんはそんな意地悪なことをする人じゃなかった。
 ていうかそもそも、意地悪なことをする男子なんて吉野くらいなんだ。
 吉野に馬鹿にされたことを思い出して、私はちょっとムカッとする。
 でもその感情は、私の吉野への罪悪感によってすぐに相殺される。
 そうだ。終業式、吉野はきっと私のせいで学校をズル休みしたんだ。
 私が冷たい態度をとったから……。
 いったい吉野は、いまどれだけのショックを受けているのだろうか。
 私はたっくんの様子をちらりと横目で確認する。
 こちらの悩みも、人生の先輩に話してみるべきだろうか。
 私がそんなことを考えていると、たっくんはなにか思い立ったのか、「なあ」と言って突然こちらに視線を向ける。
 目と目が合って、何秒間かの不自然な沈黙がそこに降りた。
 何を喋ろうとしたか忘れてしまったのか、彼はとろけるような瞳でこちらを見つめる。
 催眠術にでも掛けられたみたいな、不気味な雰囲気がそこにはあった。
「な、なぁに?」
 感じた恐怖とは裏腹に、催眠術は私の言葉であっさりと解ける。
瞳の奥に力が戻り、彼はハッと我に返る。
「あぁ、悪い……」そう言って彼はこめかみを押さえて、ぎゅうっと目をつぶった。
 少し早めの呼吸をして、それからゆっくりと目を開ける。
「実はさ、俺もひりひりしてるんだよ」そう言って、さっき私がそうしたように、たっくんは自分の胸に手をあてがう。「心がさ、ずっとひりひりしてたんだ」
 冷笑混じりにそう言うと、何かに耐えきれなくなったのか、彼はやがて俯いた。
「何かあったの?」と私は尋ねる。
「なあ葵。ヒナのこと、なんかおかしいと思わなかったか?」
 急に勿体ぶった話し方をやめ、彼はヒナの名前を口にする。
 そして私は思う。あれは私の錯覚なんかじゃなかったんだ、と。きっとたっくんも感じたんだ。ヒナの異常さ――不自然さを。
「恋してないみたいだった。それに、何か違うものを見てるみたいだった」
「ああ、そうだ。アイツは俺のとこにまでわざわざフラれにきたんだ」
「前に進むための告白」と私は呟く。それはナナの言葉だ。
「カッコよかったよ。きっと何かを見つけたんだろ、アイツは」
「ヒナは何を見つけたんだろう」
「知るもんか。でも、友情や片想いをほっぽり出しちまうくらいに夢中になれるようなことだ。きっとメチャクチャ楽しいことなんだろうな。大変なことかもしれない」
「ヒナさ、目の下にくまがあるんだよ。結構前から」
「俺も気づいたよ。ありゃあ相当お熱だよな」たっくんは嬉しそうに鼻で笑う。「羨ましいよ。俺もあんな顔がしたいんだ。楽しそうで、でもちょっと苦しそうで、そんでもってトクベツ清々しい顔」
「たっくんはできてたよ」私は昔のたっくんを思い出す。
「お前が俺と距離を置くようになってから、もう随分と時間が経ったんだよ」
「距離を置いたのはたっくんだよ」
 たっくんは息を飲む。「そっか、それじゃあお互い様だな」
 流れた沈黙のなかで、私はどちらから先に距離を置くようになったかを懸命に思い出そうとする。思い出は断片的にちらりちらりと蘇った。でも、記憶をいくつか集めたところで、それは結局雲のように不確かなものでしかなかった。
 問題はもっと根本的なもの。お互いの心に生まれた距離。どちらが先だったとか、きっとそんなことじゃないんだ。距離を置いた方も、距離を埋めようとしなかった方も、それでいいと思っていた。だから彼の言う通り、お互い様なんだ。
「昔話は嫌いなんだ」と彼は言う。「それは現実で足を引っ張るし、歴史ほど使えるものでもない。ほとんどゴミと一緒なんだ」
「思い出はゴミなんかじゃないよ」
 あの頃のことを思い出していたせいか、私の声は上擦ってしまう。
「そんな泣きそうな声を出すなよ。毒づきたかったわけじゃない。『意味がない』って言いたかっただけなんだ。それ以上でもそれ以下でもない」
 そう言ってから、たっくんは深呼吸をする。
「なあ葵。俺はお前に思い出から解き放って欲しいんだ」
 たっくんは真剣な顔つきでこちらを見つめる。
 何かを望まれていることはわかったけれど、彼の言葉の意味はわからなかった。
 でもその代わりに、彼の声色と表情が、それが重大で決定的な物事であることを雄弁に物語ってくれていた。
「私にそれができたら、たっくんのひりひりはなくなるのかな」
 私は目を逸らさずに、真っ向からたっくんと見つめあう。
 この不思議な場所では、私と彼の声以外、何も聞こえないということに気がついた。
「お前を苦しめることになるかもしれない」
 彼は目をぎゅっとつぶって、私を一度視界から消し去った。
 私には、彼がささくれの痛みと戦っているように見えた。
 そして私はその痛みを知っている。だから私はここにいるんだ。
 もしもこちらからアプローチを掛けられるのだとしたら、私は。
「言ってみて。できる限り協力するから」私は手を伸ばして、彼の頬を撫でる。
 たっくんは少し驚くと、それから私の手をお守りみたいに大切に握った。
 やがて私の手を離して、彼は強い瞳でこちらを見据える。
 その瞳はヒナと同じ色の輝きを放っていた。
 こちらを見ているようで、もっと遠くを見ているような不思議な瞳。
 それだけで、私は彼が何を求めているのかがわかってしまう。
「俺は、ヒナが俺にしたのと同じことを、お前にしたい」
 雪が作り出した固く分厚い静寂を、彼の力強い言葉が引き裂いた。
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