二匹の猫は考える

もっちり羊

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もやもやな三学期

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 ほとんど静止してしまった時間のなかで、シロはかはぁと欠伸をした。
 彼はベッドの上でうずくまったまま澄んだ瞳を薄く開き、部屋の一点を見つめている。
 カーテンの開かれた窓からは太陽の光がいっぱいに差し込んでおり、そのせいで部屋のいたるところに浮遊するほこりをはっきりと目視することができる。
 リビングの方からはテレビの音が聞こえ、遥か彼方からは鳥の鳴き声が聞こえた。
 部屋にアオイの姿はない。従ってそこでは極めて純度の高い猫の時間が流れている。
 この頃の昼間はいつもそうだった。
 シロは長くまぶたを閉じる。昼下がりのけだるい空気に身を沈めてしまおうと思った。
 しかしそのとき、バチンとドアノブが跳ねる音がした。
 ニンゲンはそんなドアの開け方はしない。それは典型的な猫の開け方だった。
「よう、遅かったじゃねえか」と低い声でシロは言う。
 僅かに開いたドアの隙間から、クロがその細い体を滑りこませる。
 彼の首元で桃色の鈴がチリンと音を立てた。「ママがお昼寝するのを待ってたのにゃ」
「そうか」
 クロは事もなげにもしなやかに体を立たせ、前足で器用に扉を閉めた。
「あれからまただいたいひと月にゃ。アオイの様子はどうかにゃ?」
「今月は相当動いたぜ」
「にゃんと!」
 クロは気分の高揚をそのままに、ベッドの上へと飛び乗った。
 ふわっと部屋にほこりが舞った。シロはぶすっと不機嫌そうな顔をする。
 彼にとって、このベッドの上は自分と彼女だけの空間なのだ。
「なにがあったのにゃ? 早く聞かせるにゃ!」
 シロの傍らでクロは呼吸を荒くし、その瞳を爛々と輝かせる。
 わざわざベッドから下りろと言うのも馬鹿らしいな、とシロは思った。どうせ俺の方が寿命は近いのだ。いずれはここも、こいつのものになる場所だ。
「十二月三十一日。場所は公園。アオイはたっくんからの告白を受け、それを拒絶した」
「にゃっ!」いきなりのメインディッシュ級のネタを前に、クロは垂れかけたよだれを急いですする。「たっくんって、アオイが小学生だった頃の、あのたっくんかにゃ?」
 クロの興奮をシロは無視する。シロにとってのメインディッシュはそちらではなかった。
「一月一日。場所は神社の近くの高台。初日の出に照らされながら、ヒナは二人に自分の夢のことを語った。彼女の夢は、世界中のみんなを優しい気持ちにしてあげられるような、長くて暖かいマフラーを編むこと」
「マフラー?」クロは眉をひそめ、ピンとこないというふうに首を傾げる。
 彼の感性はシロのそれとはまったく異なっている。
 猫だからといって、彼らを一緒くたに考えることはできないのである。
「それは無理にゃ。世界中のみんながマフラーで繋がっちゃったら、みんながお互いに引っ張られて自由に動けなくなっちゃうにゃ」
「皮肉な話だな」シロは鼻で笑う。
「やっぱり、俺にはヒナの考えてることはよくわからないにゃ」
「わかろうとしてやることだな」
 全てを見透かしたような彼のキザな言い方に、クロはむっと顔をしかめる。
 こいつと話しているといつもこうだ、と彼は思った。
「わからない話はわからないから放っておいていいのにゃ」とクロ。
「あんまりスッキリした物の考え方をするんじゃねえよ」
「いいから、アオイが告白された話の方を詳しく聞かせるにゃ」
 シロは呆れてため息をつき、まあそれもいいかと思った。
「アオイがヒナの件で考え過ぎて混乱しているところに、たっくんが偶然現れたらしい。それから二人で見知らぬ東屋に行って話をする。そこでアオイは、たっくんも重大な悩みを抱えていることを知ってしまったんだな」
「いったいそれは、どんな悩みだったのにゃ?」
 目をキラキラと輝かせるクロを横目に、彼の察しの悪さにシロはまたも呆れる。
「ヒナと同じ悩みだよ。賞味期限の切れた片想いさ」
「食えても腹を壊すだけ」とクロは呟く。それは前にシロから教わった言葉だった。
「そうだ」シロは満足そうに微笑んだ。「よく憶えているじゃないか」
「いつまでもお前に小言を言われるのは俺も望むところではないのにゃ」
「いい子だ」
 シロの優しい微笑みを前に、クロは頬のあたりに熱を感じる。
 嫌味を言ったつもりが、予想外の褒め言葉が返ってきてしまった。
 クロは急いで頭のなかで話を整理する。
「と、ということは、アオイとヒナとたっくんは三角関係だったってことだにゃ?」
「酷く冷ややかな三角関係だけどな」
 冷ややかな三角関係。冷ややかな恋。
 クロはそれらの言葉の響きが妙に気に入らなかった。
「なあシロ。恋っていうのはもっとこう熱いものなんじゃないのかにゃ? ママの見てるテレビでは、恋をしたニンゲンはいつもギラギラと怖いくらいに感情を燃やしているにゃ」
「テレビに映るものってのは、だいたいがいくらか脚色されてるんだよ。アオイもママもいつもそれに騙される。缶詰よりかつおぶしの方が旨いだろう? 恋にしたってきっとそういうことなんだ。最近のアオイを見る分には」
「どういう意味にゃ?」
「アオイもテレビの情報から恋のあるべき姿を定義してしまっていたってことだな」
「にゃるほど」
「恋心の処理ってのは、きっともっと打算的で現実的なものなんだ。テレビにリアルなしがらみは必要ないのさ。あくまでエンターテイメントであり、娯楽だからな」
 難しい言葉の応酬にクロは思わず押し黙る。
 シロは横目でクロの苦悶の表情を確認すると、要約に入ってやろうと考えた。
「つまりアオイはお前と同じく、恋をもっと熱いものだと勘違いしていたというわけだな。だけど現実では、ヒナとたっくんが立て続けに恋を過去のものとしてあっさりと処理した。ヒナは夢のため、たっくんはおそらく自由のために」
「自由のためにゃ?」
「自由ってのは、夢や幸せに対処する前の覚悟みたいなもんなんだ。たっくんは賞味期限切れの恋を捨てて、自由でいることにした。夢や幸せの新しい訪れに賭けたのさ」
「アオイのことは諦めたのかにゃ?」
「食えても腹を壊しちまうからな」
 クロは今月分のネタを整理し、やがて完全に自分のなかで消化する。
 ヒナがマフラーを編んで、たっくんが自由になったんだ、と。
 クロはぴょんとベッドから飛び降りると、そのままドアの方へと歩いていく。
「じゃあ、俺はリビングに戻ろうかにゃ。またテレビでも観るにゃ」
「ああ、言い忘れてたけど、ヒナは三学期に入ってからあまり学校に来てないらしいぜ。いままでの流れを考えれば当然のことだけど。まあ参考までにな」
「わかったにゃ。シロもリビングに行くかにゃ?」
「考えとくさ。開けといてくれ」
「にゃ」
 クロはドアの前でちょこんとしゃがみ込み、ドアノブを見上げる。
 目を細め、しばらくそれとの距離を測る。
 やがて彼は後ろ足で軽快にジャンプし、ドアノブに手を掛け、床へと落ちる。
 鈴とドアノブが大きな音を立ててから、そろりとドアが薄く開いた。
「じゃあにゃ」とクロは言った。
「おう」
 前足と頭とで扉を隙間から抉じ開け、クロは部屋を出て行く。
 再び部屋に降りた静寂をシロは迎え入れる。
 静かに目を閉じて、彼は眠りの訪れを待った。
 しかし眠りはいつまで経っても訪れることはなかった。
 彼のなかで正体不明の何かが脈打ち、昂っていたからである。
 それは酷く懐かしい感覚だった。
 クロやアオイたちの若々しい生き様を目の当たりにし、俺はこの歳になって何かしら思うところがあったのかもしれない。
そんなことを考えていると、彼は少しだけ哀しい気持ちになった。
 彼はできることならば時間を呪いたくはなかった。
 
     ※
 
 一時間目の授業が終わると、隣の席からナナが私に話しかけてくる。
「ねえ、ヒナは今日も学校来ないのかな」
 私のすぐ隣にナナがいることに、私はやはり違和感を覚えてしまう。
 私にとってその方向は、やはりヒナのいるべき場所のような気がしてならなかった。
 三学期の始めに席替えをしてからもう何日か経ったはずだけれど、私の記憶はまだあの頃を彷徨い続けているのである。
 ヒナとは席が離れてしまったし、前の席に吉野はいない。窓だってずっと遠くなってしまった。このまま時間を進ませていいものなのだろうか、と私は思う。
「アオアオ聞いてる?」
 彼女の呼びかけに私はハッとする。「あぁ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「んもーっ! ヒナもアオアオも! 今日の主役はナナなのにー!」ナナは駄々っ子のように腕を振り回す。
 今日は二月十日。ナナの誕生日である。
「もー怒った! 意地でもヒナにナナの誕生日を祝わせてやるんだから!」
「どうやって?」
「あっちが来ないんならこっちから行ってやるまで。ヒナの家に押しかけるの!」
「編み物の邪魔になっちゃうかもしれないよ?」
「ダメダメ。そんなの通じないよ。だってそれはヒナの都合でしょ? ヒナに都合があるのと同じように、ナナにだって都合があるの。そして今日はナナの誕生日。ナナの都合が最優先されるべき日。だからヒナの都合なんか知ったこっちゃないの!」
「そんな無茶苦茶な……」
「無茶でも苦茶でも祝わせるんだから!」
 彼女の瞳は、真っ赤な決意の炎でメラメラと燃え盛っていた。

 放課後、私とヒナはケーキ屋さんで小さなケーキを六つほど買い、百均で三角帽子と六個入りのクラッカー、それからジェンガを買った。
 私は百均の袋を、ナナはケーキの入った箱を持ち、真っ白に染め上げられた雪道を歩く。
 その日は春のような陽気で、手袋をする必要がないほどだった。
 パーティー日和だ、と私は空を仰いだ。
 強制的にではあるけれど、これでナナの誕生日をヒナに祝わせる準備は万端。
 あとは彼女の家に向かうだけだ。
「ヒナ、やっぱり忙しいのかな」ヒナの家に向かう道中、ナナは珍しく弱気になる。「きっとまた寝てないよね。目とか充血してるかも。ひょっとしたらお肌だって……」
「じゃあ、それも確認してあげないとだね」
「迷惑だと思う?」
「サプライズなんだから、迷惑なのはしょうがないよ」
「そうだよね」ヒナは目を伏せ、深刻な表情を浮かべる。
 冗談を真に受けてしまったのだろうか、と私は思った。ナナとは二年間の付き合いだけれど、私はここまで弱気な彼女を見るのは初めてかもしれなかった。
 彼女の心に寄り添ってあげたかったけれど、うまく言葉が出てこなかった。
「ヒナはさ、もうナナたちのことどうでもいいと思ってるのかな」とナナは言う。
「そんなことないよ。どうでもよかったら、きっとお正月にも会えてないと思うし」
 ナナは納得がいかないといった顔で、また深く何かを考える。
「ナナはね、アオとヒナと三人でいるの、すごく気に入ってるんだよね」
「うん」
「お別れはイヤなの。まだ早いよ。そんなの許さないんだから」
 ナナの瞳で燃える決意の炎の色が変わる。
 活き活きとした赤の色彩が剥がれ落ち、その下からは、氷を思わせるくらいにひんやり冷たい青い炎がこちらへと顔を覗かせる。
 私はその炎の冷たさに底知れぬ恐怖を覚えた。
「ま、まあまあ。お別れは大袈裟だよ。いくらなんでもそこまでは……」
「本当にそう思う?」ナナは食い気味に話を始める。瞳の色は青のままだ。「だって学校に来る頻度だって日に日に少なくなってるじゃん。ありえない話じゃないよ」
「ありえないよ。そうだ、どうせならその辺もヒナに聞いてみようよ」
「ヒナは何も答えないよ」
「そんなことないって」
「そんなことあるんだよ!」
 ナナの突然の叫びに驚いて、私は買い物袋を落してしまう。
「考え過ぎだって……」
「考えてあげてよ。ヒナの言葉をそのまま受け取っちゃダメなんだから。アオアオだって、まさか本気でヒナがマフラー編んでるなんて、思ってるわけじゃないでしょ?」
「えっ?」
「……えっ?」
 私もナナもお互いに呆気に取られる。
 しかし幸運にも、それでナナの瞳の色は幾分か自然なものになった。
 それからナナは吹き出して、お腹を抱えてひとしきりけらけらと笑った。
 不吉な色の瞳の炎はいつの間にか消えていた。
「なんだか可笑しくなっちゃった。ごめんね。行こう?」
 彼女が歩き出すそぶりを見せたから、私も袋を拾い上げ、彼女の後を追う。
「アオアオってさ、前から思ってたけど、そんな感じでよくヒナとやってこれたよね。別に嫌味とかじゃなくて、純粋にちょっと不思議」
「……私、なんか変かな?」
「変だよ。女の子なのにスッキリし過ぎ。ほら、前にも言ったでしょ? アオアオは男らし過ぎるって」
「私だって、冬休みにヒナのことでいろいろ考え過ぎて、具合悪くなったんだけど」
「でも、アオアオは我慢しなかったでしょ? その違いって、きっととっても決定的なことで、だからこそアオアオはカッコいいんだよね」
「ナナは我慢してるの?」
「ほら、そうやって直球ド真ん中投げちゃうトコとかさ」ヒナは悪戯っぽく笑う。「冬休みのときね、実はナナも具合悪くなってたんだよね。実際ちょっと吐いちゃってた」
「吐いちゃってたんだ」私は苦笑いを浮かべる。
「うん。だからね、あのときアオアオから電話が掛かってきて、ナナほんとに嬉しかったんだ。まるで王子様みたいだった。あぁ、アオアオは助けてくれるんだなあって」
 ナナの気持ちは痛いほどによくわかった。
 ささくれの引き起こす吐き気とは、それだけ実際的なレベルのものなのだ。
「でも、私はただ耐えられなかっただけだし」と私は言う。
「わがままを通せることは素敵なことだよ。アオアオだけじゃなくて、ヒナもそう」
「ナナの優しいトコだって素敵だよ。私じゃ何年一緒にいたってヒナにコクらせることなんてできなかっただろうし……それに、ヒナの微妙な変化にナナはすぐに対応できるもん。そういうの、私にはとても真似できないんだ。サバサバしてる分、優しさがないの」
 ナナは口元に手を添えて、上品にふふふと微笑む。「じゃあ、お互い様だね」
「お互い様だ」ナナにつられて、私も笑った。

 チリンチリン……チリンチリン……。
 静かな街角に鈴の音が響いた。
 それは嫌に耳に馴染むような、とても聞き慣れた音だった。
 空耳かとも思ったけれど、それはまるで心臓の音のように断続的に大気を揺らし続けた。
 隣にいるナナの表情は変わらない。鈴の音が聞こえていないのか、あるいは音にそれだけの価値を感じていないだけなのか。
 しかしどのみち、それは私だけを焦らせる音だ。
 どうしよう。ヒナの家までもう少しなのに……。
「アオアオ、どうかした?」ナナは私の異変を敏感に察知する。
「いや、鈴が――」
 私は町を見渡す。私たちはヒナの家へと続く住宅街に入っていたから、周囲には個性豊かで色鮮やかな一軒家が多数見受けられた。それらは一見オシャレに見えるけれど、その少し遠くには何かの印みたいに畑が広がっていて(雪に埋もれてはいるけれど、土地が空っぽなのに変わりはない)、まるで蜃気楼みたいに不安定な風景だった。
「あぁ、なんかさっきから聞こえるよね」とナナは言う。
「あのねナナ、この音――」
 私がそれについて説明しようとしたまさにそのとき、音の正体が姿を現した。
 細くしなやかな黒い影。それがひとつの家の敷地からのそのそと顔を出す。
 彼は立ち止まり、こちらを見つめる。
 その際にちりんと首元に付けた桃色の鈴が鳴った。それは彼を証明する音だ。
「やっぱりクロだ。何でここにいるの?」と私は言う。
「え、クロちゃんなの? 逃げちゃったってこと?」
「もうっ、ママは何やってるのよ!」私はその場にしゃがみ込み、指先を踊らせてクロをおびき寄せようと試みた。「クロー、おいでー」
 ナナも私と同じ体勢を取る。「クロちゃーん」
 クロはこちらを見つめたまま、まるで彫刻のように微動だにしなかった。
 尻尾が空中を蛇のように泳ぐ。彼の毛の一本一本から緊張が伝わってくるみたいだった。
 駄目だ、と私は思った。シロならまだしも、クロは自由で元気な子なんだ。逃げちゃった時点で、面倒事になるのは当たり前なんだ。
 きっとクロは逃げるだろう。果たして早々に捕まってくれるだろうか。いいや、きっとそれなりの纏まった時間がかかる。どうしよう。ヒナに会えなくなるかもしれない。
 クロの瞳が、太陽の下で不自然な色に輝いていた。
「ナナ」私は買い物袋をナナに差し出す。
「え?」
「クロは言うこと聞かないの。ちょっと時間かかりそうだから」
「ナナだけで会いに行けってこと?」
「こんなことに巻き込むわけにはいかないよ。ほら、今日の主役はナナだしさ」
「またカッコいいアオアオだ」ナナは微笑む。「ほんとに女の子の気持ちがわからないんだね。二人だけでジェンガしろって言うの? それ、絶対楽しくないから。ナナとアオとヒナの三人じゃないと駄目なの。そうじゃないと意味がないの」
「そんなこと言ったって……」
「ナナもクロちゃん捕獲を手伝うよ。ケーキは二人で食べちゃお?」
 私は考える。本当にそれでいいのだろうか。私は彼女の表情や言葉から本心を探ろうと試みる。しかし上手く読み取ることができない。それは私の得意とすることではなかった。
「まあ、ナナがそれでいいんなら」と私は言う。
「よし、じゃあ決定ね!」ナナは体勢をそのままにすり足でクロの方へじりじりと近づいていく。「ほーらクロちゃん、大人しくしてねー」
「クロー、帰ろうねー」近づきながら、私は脚に力を入れて飛び掛かる準備をする。
するとクロは突然目つきを鋭くさせ、前歯を剥き出しにして私たちを威嚇した。
「えっ?」
「なんで?」
 怯える私たちを尻目に、クロは音もなく住宅街の影へと姿を消した。
 クロの残像に目を奪われたまま、私たちはその場で呆然とする。
「恐かった……クロちゃん、ナナのこと忘れちゃったのかな」とナナが言う。
「そんなことないよ」私は言葉だけをそこにぽろぽろと落とす。
「そうかなあ」
「うん。だってあの子、私を見てたもん」

 結局その日、クロは私たちには捕まらなかった。
 やがて陽が落ちて夕飯時になると、ママから心配の電話が掛かってくる。
 焦りぎみに事の顛末をママに話すと、ママが「クロならいまリビングで寝てるわよ」となんでもないように言うから、私たちは腑に落ちないまま大人しく引き上げた。
 家に帰ると、クロはたしかにリビングでくつろいでいた。
 私たちの心配なんかはまるで知らないというような顔で、彼はカーペットの上で自由に寝転び、そして欠伸をした。
 瞳の輝きはいつものままだった。
 
     ※

 私たちの三学期は静かに終わりへと近づいていた。
 ヒナは相変わらず学校を休みがちなままだ。
 三学期の始めには週に二、三回は顔を出していたけれど、最近では週に一回か、それかまったく来ないかのどちらかになってしまっている。
 そして今日は三月十五日――卒業式の日だ。
 季節は晩冬ということで、まだ雪はところどころ残ってはいるけれど、空気にはどことなく春の柔らかさが感じられる。もうすぐ季節だけが変わってしまうのだ。
「卒業式まで休んじゃうんだね」ヒナの席を見つめながら呆れた様にナナは言う。
 ホームルームまでにはもうあまり時間がないけれど、やはりそこにヒナの姿はなかった。
「ヒナはさ、天野先輩にはもう何もないのかな」とナナ。
「何もないんだろうね。だって前に進むための告白だったわけだし」
「それにしても前にずんずん進み過ぎだよ。なんだか男の子みたい」
「私みたいに?」
「アオアオも男の子みたいだけど……なんかヒナの場合は温かみがないんだよね」
 温かみ、かぁ……。「それじゃあ、ヒナはもしかしたらゾンビとか幽霊だったりして!」
「そうなの。ゾンビとか幽霊みたいだよね」
 私は声色を変えてナナをおどかそうとしたのだけれど、彼女の方はいたって真剣だった。
冗談のつもりだったんだけどな……。「いやいや、ヒナはちゃんと生きてるよ。だからこそ、やりたいことを見つけられたわけだし」
「うん」ナナは考える。「まあ、そのままの気持ちなら問題ないんだけどね」
 彼女の言葉からその意図を汲み取ってあげようとしたけれど、やはり不器用な私には押し黙ることしかできなかった。
「あーダメだダメだダメだダメだ……」ナナはそこに現れた奇妙な隙間を掻き消すように、髪の毛をぶんぶんと振り乱す。
「ちょ、ちょっとナナ?」
 ナナを止めようと手を伸ばしても、彼女のおさげが私の手を振り払った。
 私の助けは要らなかった。彼女の混乱はやがてひとりでに落ち着きを見せた。
 ナナは頭に手を添え、息をふーっと吐く。
「きっとまだ、ヒナを疑ってるんだな、私」
 ナナの瞳は冷静な分、なんだか少し哀しかった。
「疑ってる?」
「うん。きっとヒナはいなくなっちゃうんだろうなって、まだ思い込んでる」
「……大丈夫?」私はナナの背中をさする。
「ごめんね、ちょっと……髪型も崩れちゃっただろうし」
 私の手を振り切り、ナナはおもむろに椅子から立ち上がる。
 お手洗いだ、と私は思う。いくら私でもこれくらいは察することができる。
「うん。急がないでいいからね?」
「ありがとう、アオアオ」
 やり切れないような微笑みを残し、ナナは教室を出て行く。
 彼女を心配に思う気持ちは拭い切れなかった。だから私は席を立ち、廊下を歩くナナの背中を見送ることにした。ナナの冴えない背中が遠くなる。
 チリンチリン……チリンチリン……。
 鈴の音が静かに鳴り響き、彼女の脇から真っ白な毛玉が姿を現す。
 毛玉の情報は時間の経過とともに次第に私のなかで整理されていく。
 何度も目を疑ったけれど、それは間違いなくシロだった。桃色の鈴がその証明になる。
 シロはギャングのボスみたいにのしのしとふてぶてしく廊下を歩き、こちらへと近づいてくる。鈴の音が私の耳へと挑発的にとどく。廊下を歩く生徒たちは、誰も彼の存在を気にも留めない。認識の軸とすべきは、もちろん私と同じ人間である彼女たちの方だろうと私は思った。だから私はシロの姿を幻と定義しようと試みた。私は頭のなかの細かなピースをカチカチと入れ替えて、シロの存在をなんとかして認めまいとする。しかし彼はやはりふてぶてしくそこに存在していて、それが当然だというような顔をして、私のすぐ目の前を呑気に通り過ぎていく。
 それから彼はこちらを一瞥さえせず、廊下を曲がり、階段の方へと消えていった。
 視界から彼の姿が消えて初めて、私は自分がここに存在していることに気がついた。

 それがいつであれ、そこがどこであれ、飼い猫の逃亡を看過することは許されない。
 それが飼い主やそれに準ずる人間の負う当然の務めなんだ。
 だから私は卒業式開始五分前にも構わず教室を抜け出し、廊下を歩く生徒たちを追い抜かして、階段へと続く角を曲がっていた。
 そこには上り階段と下り階段。
 どっちに行ったの? 私の目玉はきょろきょろとせわしなく彼の手掛かりを探し、すぐに下り階段の方に真っ白な毛玉の影を見る。
「シロ、待って!」
 私は急いで階段を下りる。下りる途中で毛玉の影は消えたけれど、それでももう明らかに追いつけるほどの距離に私はあった。相手はクロじゃないんだから。
「シロ!」階段の折り返し地点の踊り場で私は毛玉を探す。しかしなぜだかもう近くに彼の姿はなかった。
「あれ?」私は階段をなぞって、その先へと視線を伸ばしていく。
 見ると真っ白の毛玉は、もう既に玄関のところにいるようだった。
「なんで?」
 絶対に追いついたはずだった。想定外の事態に私は困惑する。それはどう考えてもシロにとってはありえないスピードだった。彼はクロとは違うのだ。だってシロはもうおじいちゃんなんだから。
 でもそうやってなんだかんだと考えていると、いつの間にかシロの影は玄関の方へと引っ込んでしまう。
「ちょ、ちょっと!」
 状況の整理を待たずに、私は彼の後を追った。
 しかしそれはとても危険な選択だった。
 最低限の理解をなしにして幻に身を委ねるということは、それだけ向こう側に足を踏み入れてしまうことになるからだ。幻に近い存在になってしまうからだ。
 足場を固めなければいけなかった。でも、私にそれをする時間はなかった。
 一秒でも早くシロを捕まえる必要があった。
 玄関に入れば、彼の姿はもう学校の外にある。
 私は急いで外靴に履き替えて、踏んだかかとを整えながら彼の後を追う。
「待ってってば!」
 シロはこちらを見向きもしない。何もかもが不自然だった。彼の歩くスピードもそうだけど、まさかシロに限って私の言うことを聞かないなんて……。
 玄関を出ると、シロが校庭の方に向かって歩いているのが見えた。
 歩調はいつもの彼のままだった。トロトロといまにも眠ってしまいそうなペース。足腰はまだかろうじて悪くはないけれど、もはや時間の問題であるということがわかる。
 それでもやはり不思議と彼に追いつくことができない。まるで真夏の逃げ水のように。
 彼の後ろ姿はぐにゃりとどこか歪んで見えて、私は吐き気に襲われる。しかし同時にその吐き気は校庭に近付くにつれて解消されていくようでもあった。
 やがて彼は足を止める。
 大きく窪んだ校庭を背に、彼の後ろ姿がくっきりと見えるようになる。
 私は彼と距離を置いたまま足を止めて、まずは息を整えた。心身ともに興奮していたし、途中で吐き気もあったから、普通に走るよりもずっとくたびれてしまったのだ。
「にゃーあ」とシロは普段よりもいくらかねちっこく、冗長に鳴いた。
 シロはクールな子だから、私には彼がこちらに何かを訴えているように思えた。
 やがて彼は思いついたように校庭のなかへと入っていく。校庭は盆地になっているから、彼の姿はすぐに私の視界から消えてしまう。
 呆れながらも、私は彼の後を追う。
 校庭へと続く下り坂では、春を前に芽吹き始めた草花たちが、青々と、でもささやかにその生命の輝きを讃えていた。
 私は美しい緑に目を奪われてしまう。そしてその新たに芽吹いた生命たちのなかに、私はシロと先客の姿を見つけるのだった。
 
「きみ、痩せた方が良いんじゃない?」先客は草むらに寝転んだまま呟く。
 彼女の両腕は天に向かってぴんと伸ばされていて、まるで神様への捧げものであるかのように、その両手でサッカーボールを太陽へと掲げていた。シロはそのサッカーボールの上にへばり付いたまま、太陽の光を受け、知らん顔で気怠そうに鳴き声を上げていた。
「あっ、すいません! その子、私の猫なんです!」
 私は慌てて彼女に話しかける。しまった、他人に迷惑を掛けてしまった……。
 彼女はどこか冷たい瞳でこちらを一瞥すると、体を起こして髪と背中についた土をほろった。サッカーボールは地面に置かれ、シロはボールで遊び始めた。
 彼女は振り向いて私を見る。生糸のように艶やかな彼女の髪が、春を感じさせる優しいそよ風にとかされていった。
「卒業式はいいの?」と彼女は言う。
 真っ先にそれを聞くんだ、と私は思った。同じ学校の制服を着ているのに。
「シロ――じゃなくて、その子が逃げちゃってたんで……」
「そっかー」彼女はボールで遊ぶシロを見つめる。「何年生?」
「あぁえっと、二年生です」
「じゃああんまり関係ないね、卒業式」
「そう、ですかね」愛想笑い。
「名前は?」
「葉月葵です」
「あー、やっぱりそうなんだ」彼女はそう言うと視線を逸らし、シロの背中をぽりぽりと掻き始める。シロは彼女の指先を受け入れ、気持ちよさそうに欠伸をした。
 彼女の背中からはどこか手持ち無沙汰な感じが見て取れた。なんだか居心地の悪そうな感じ。それに、「やっぱり」ってどういうことだろう。私はこの人を知らないのに。
「私のこと、何か知ってるんですか?」と私は言う。
「んー、結構知ってるかも。最近のことなら特に」
「なんでです? 私はあなたのこと知りませんよ」
「私は北条舞だよ。これでも結構有名なつもりなんだけど。知らない?」
「知りませんよ。会ったこと、ないですよね」
「会ったことはないけど、私は知ってるんだよね。結構迷惑だったし」
「迷惑?」私はもう一度頭の中に彼女の名前を探す。北条舞、北条舞、北条舞……しかしやはり見つからない。知らない。きっと適当なことを言っているのだろうと私は思った。
「あのね、北条舞ってのはサッカー部のマネージャーの名前なんだよ。まぁ、もうとっくに引退してるし、今日で学校も卒業だから、いよいよ意味のない肩書ではあるんだけど」
「あの、私、北条先輩に何か迷惑かけましたっけ」
「いや、葵ちゃんに責任はないんだ。私は健のことが好きだったんだけど、でも健は葵ちゃんのことが好きだった。ただそれだけの話だよ」
 あぁそうか、まだたっくんの話は続いているんだ、と私は思う。私とたっくんの間のことはもう終わっているし、今はヒナやナナのことで頭がいっぱいなんだけど……。
「ねえ、ちょっと話そうよ。せっかく最後に会えたんだからさ」
 彼女はそう言って草むらをぽんぽんと叩く。
 私はもごもごと口の中で腑に落ちない感情を吐き出しながらも、結局は北条先輩のお誘いを受けて、彼女の隣に座らせてもらった。お誘いを拒否するだけの決定的な理由を私は持ち合わせてはいなかった。スカートが汚れるのが嫌だったから、私はしゃがむだけにして、草むらにお尻は付けなかった。
「そっか。葵ちゃんはまだ使うんだもんね、制服」と北条先輩は言う。
「北条先輩だって、まだ卒業式で使うでしょう?」私たちは目を合わせずに話し始める。
「そうだね」と彼女は呟く。「ねぇ、『舞先輩』って呼んでよ。みんな私のことはそう呼ぶし、『北条』ってなんだか古くさくて嫌いなんだよね。歴史の人みたいでしょ? 私のことを呼んでいるように聞こえないの。なんなら『舞ちゃん』とかでもいいからさ」
「じゃあ、『舞先輩』って呼びます」
「だよね」舞先輩はくすくすと笑う。「案外普通の子なんだね、葵ちゃん」
「変な子だって聞かされてたんですか? 健先輩に」
「いやいや、葵ちゃんのことについては何も聞かされてないよ。でも健ってモテるでしょ? そのくせ誰とも付き合おうとかってしなかったから。だからさ、きっと葵ちゃんって子は他と比べてよっぽどはみ出した子なんだろうなぁ……とは、結構考えてたんだよね」
 舞先輩の細い指先がシロの喉元をくすぐる。
「健先輩が舞先輩に何も教えてないのに、舞先輩は何で私の名前を知ってるんです?」
 舞先輩の表情は変わらない。彼女は冷ややかな視線で虚ろを見つめ、シロのやわらかな体を撫でるばかりだった。
「今の時代はさ、スマホでなんでもわかっちゃうんだよね。葵ちゃんがホントは健のことを『たっくん』って呼んでることとか、葵ちゃんの友達が健に告白したこととか、健が葵ちゃんに告白したことだって……」そう言って、舞先輩はため息をつく。「まったく、おもしろくないし、最低だよね。こんなのが青春だなんてさ」
「じゃあ、舞先輩はスマホでたっくんや私やヒナのことまで探ってたってことですか」
 私は横目で舞先輩を鋭く睨みつけ、心の中で強く非難する。
 個人の恋心やプライバシーを覗き見して、いったい何が楽しいというのだ。
「悪く思わないでね。今どき私たちのしてることの方が普通なんだからさ」
私は彼女の非常識とも思える言葉に耳を疑う。なぜそういうことを堂々と言えてしまうのだろう、と私は思う。「こんなのが普通なもんですか」
「そんなふうじゃもう駄目なんだよ」舞先輩はうつむき、力なく訴える。「葵ちゃんは『みんな』の怖さを知らないから、そういうことが言えているだけなの」
「『みんな』って……じゃあ具体的には誰なんです?」
「『みんな』はみんなだよ。具体的に誰かひとりが怖いってわけじゃないの。でも、ひとりひとりが集まっちゃうと『みんな』になるでしょ? そしたら、なんでかはわからないけれど途端に怖くなるんだよね。なんていうかね、『みんな』になると止まらなくなっちゃうの。まるで列車が暴走するみたいに、目の前に偶然出てきた人たちを手当たり次第に跳ね飛ばしていっちゃうんだ……。『みんな』はね、そういうことをするの」
 私は頭の中で舞先輩の言葉をなぞっていく。
「あの、それってスマホで繋がっている人たちのことを言ってるんですか?」
 舞先輩は諦めにも似た微笑みを浮かべ、それを見て私は理解する。
 そうか。きっと舞先輩はそのことをもう知っている。
「うん、そうかもしれないね。ガラケーのときはここまでの勢いじゃなかったし」
「きっとそうですよ。やっぱり変なんです。恋愛をグループでするみたいなのって」
「へぇ、知ってるんだ、『告白グループ』。葵ちゃんも入ってるの?」
「入ってませんよ。私、ガラケーですから」
「そっか。じゃあ健とおんなじだ」彼女のシロを撫でる手が止まり、しばらくしてからまた動き始める。「ねえ、秘密の話、いくつかしてもいいかな」
「別に、いいですけど……」私はどこか歯切れ悪くそう答えた。
 なんで私が、今日知り合ったばかりの人と秘密を共有しなくてはならないのだろう。私が知りたいのはヒナやナナの秘密の方なのに。
「あのね、告白グループ、作ったの私なんだ」
 生温い風が舞先輩の言葉の隙間を通り抜ける。
 私は彼女の秘密を理解する。私は告白グループの存在を間違ったものだと思っていて、そしてその創始者が――中心人物が目の前にいる。ならば私はこの人と対話しなくてはならない。なぜこのようなものを作ったのか。その目的を聞かなければならない。
「告白とか、恋とか、そういうのってグループ戦じゃないと思います。ひとりひとりに強い想いがあるから……だから、友達と手と手を繋いでっていうのは、難しいことのように思うし、間違ってると思うんです。だって、例えば友達と同じ人を好きになってしまったら、その恋が叶うのはどちらか一方だけということになりますから」
「うん。そうだね」
 まるで神様からの罰を待つ罪人のように、彼女はゆっくりと目をつぶった。
「いじめが起こってるって聞きましたよ」
 私は追及を続ける。きっとこの話は彼女が拒まない限りにおいては続けるべきだ。間違っているものをそのまま放置するわけにはいかない。
「知ってる。それが『みんな』のしたことだった」
「じゃあ舞先輩は何をしたんですか」
「私はグループを作っただけだよ。スマホが流行り出した頃に、告白で鉢合わせして仲違いしちゃった子たちがいたから、そういうのを未然に防ぐことができればいいなって思って作ったんだ」
「おかしいとは思わなかったんですか?」
「思うわけないよ。私はみんなが大好きだったから、万が一にでもくだらない理由で仲違いして欲しくなかっただけ。それに始めは、ほんとうに仲のいい子だけの小さなグループだったし」
「そうだったんですか?」
「そう。私は学校のみんなを監視しようだなんて夢にも思ってなかった。でもある日、グループの子がクラスの子を一人招待したの。そこまで親密な仲の子じゃなかったけれど、私は友達が増えるのならそれは良いことだと思った。でもそれからは堰を切ったようにメンバーが増え始めて、いつの間にか告白グループは学校の皆のものになってたんだ」
「それで、いつの間にかいじめが起こり始めた」
「私の知らないところでね。噂が回ってきた頃には、いじめはもう注意なんかじゃ止められないほどのものになってた。ねえ、これって私だけの責任なのかな」
「違うと思います」
 きっと舞先輩は軽い気持ちで作っただけだったんだ。ならば悪いのは……『みんな』?
「だよね」と舞先輩は再確認するように言って、シロの体を掻き始める。「葵ちゃんがしっかり物事を考えられる子でよかった。これは私も含めてグループに関わった『みんな』の責任だ。そしてそれはすぐに解消されるものでもない。だから無責任で悪いけど、葵ちゃんたちには告白グループのある学校で過ごしてもらうことになるだろうね」
 私はグループがこれまで歩んできた経緯を何度も何度も考え直す。しかし何度だっていじめに対する怒りの矛先は、何もない空洞を向いたまま宙を浮遊するばかりだった。
「無責任だとは思いますけど、それ以外に方法はなさそうですね」
「ほんとうに悪いと思ってるよ。そんなに責任は感じてないけどね」
「仕方ないですよ。きっとこの責任は誰のもとへも行かないんです」
 舞先輩はそれに微笑みで応える。
「ねえ、告白グループで何をしたらいじめられると思う?」と舞先輩は言う。
「好きな人がかぶったら、ですよね」
「そういうケースも最終的にはあったけど、基本はグループへの報告をせずに告白して、それがバレたときなんだよ、いじめられるの。だってそれは明らかな裏切りだからね」
「報告せずに……」
 たしかに裏切りは良くない、と私は思う。しかしそれについて考えていると、私はヒナの告白の件を思い出さないわけにはいかなかった。ヒナはグループの存在を知りながら、報告をせずにたっくんに告白をした。あれはやはり、バレたらマズいものなのだろうか。
 いや、バレたらって……舞先輩はそのことを知っていなかったっけ?
 いじめられないよね?
 制服のなかでじんわりと冷や汗が滲む。もしいじめられるのなら、やっぱりりヒナが? 未知の恐怖に指先が震えだす。どれくらいの人に、どんなことをされるのだろうか。
 私はドラマで見たいじめのシーンを思い出し、それをまるで現実のことのように知覚してしまう。陰口を言われたり、物を隠されたり、靴に画びょうを入れられたり……。そのときのいじめられた側の感情は? やがて恐怖が私のすべてを覆い尽くす。私はもうこの学校にはいられないような気がした。
「怖いでしょ?」と舞先輩は言う。
 私はその声ではっと我に返ると、舞先輩のどこか含みのある笑顔を見る。
 その不自然な笑顔が私の恐怖を現実へと連れ出した。
「あの」声が上擦る。「舞先輩、ヒナの告白のこと、なんで?」
 舞先輩はしばらく無言で私の瞳を覗き込む。その間、私は恐怖で何も言えなかった。
「ねえ、怖いでしょ? これが『みんな』。わかる?」
「何がですか」
 舞先輩はこちらへと擦り寄ると、何も言わずに私の頬を撫でる。
「私たち、いじめられるんですか?」
「安心して。知ってるのは私だけだから」
「なんで知ってるんですか?」
「二学期の最終日、帰りに健と話したの。それで様子がおかしかったから、ちょっと、ね」
「たっくんの後をつけたんですか?」
 微笑みながら私の頬から手を離し、舞先輩はシロのいるところへと戻る。
「その怖さを忘れないでね。それが『みんな』だよ。きっとほんとうならもっと怖い」
「どうすればいいんですか?」
「どうにもならないよ。葵ちゃんは今まで知らなかった怖さを知っただけ。これは元々この学校を覆い尽くしていたものだから」彼女はまたシロを撫でる。「私はもういろいろとやったから。でも結局、『みんな』はどうにもならなかったし、そうしているうちに、ほんとうに好きだった友達も健も私から離れていったよ」
「なんで友達なのに離れちゃうんですか?」私はヒナを想いながらそう言う。
「きっとそれが、しっかりと未来を見据えて生きているってことの証明なんだろうね。私のほんとうに好きだった友達は夢を見つけたみたいだったし、健も――もやもやしながらだったけど、前に進むことにしてるみたいだった。私だけがまだこの学校に囚われている。私は『みんな』の存在にまだ何も納得してないから卒業したいとも思わないし、未だにずっとその友達や健と一緒にいたいと思ってる。そして何より、この気持ちを誰かにわかって欲しかった。だから、聞いてくれてありがとうね、葵ちゃん。私の気持ちを」
 舞先輩の目は悲しい色を放ちながらも今ではまっすぐに見開かれている。彼女の指はもうシロを追ってはいなかった。その手は芝生に付けられており、彼女はいますぐ立ち上がってどこかへ行ってしまうようにすら思える。
 晴れやかに笑う舞先輩。その横顔を見て、私は彼女のことを羨ましく思う。
 まだ終わるわけにはいかない。こちらにはまだ問題があるのだ。
「あの、私の気持ちも聞いてくれませんか?」
 舞先輩は少し驚いたような表情を見せると、やがて柔らかく微笑んだ。
「朝倉陽菜ちゃんと、小野寺奈々子ちゃんのことかな?」
「どこまで知ってるんですか?」
「最近のことなら知ってるって言ったでしょ? 陽菜ちゃんが最近不登校気味で、奈々子ちゃんはそれのせいで心労を抱えている」
「そうなんです。でもヒナは――想像ですけど、元気にやってると思うんです。だから個人的にはナナの方が心配で……どうしてあげたらいいと思いますか?」
「奈々子ちゃんはね、それこそ告白グループを作った頃の私に似てるの。変わらないものを求めて、現状を変えないように努力してるんだと思う。でもね、これって私も最近になって気がついたんだけど、『現状維持』って言葉はほとんどの場合において過去のことを指す言葉だと思うの。だって、例えば現状をありのままに捉えるなら、陽菜ちゃんが不登校気味になっていることが本当の意味での現状なわけだから」
「つまり、ナナは『現状維持』をしようとして、過去に囚われてしまった?」
「その通りだよ。だから、陽菜ちゃんが単独で動き始めたことを奈々子ちゃんには理解させてあげないといけない。じゃないと、私みたいになっちゃうと思うから」
 舞先輩は情けないといった感じの微笑みを見せる。
「でもね、葵ちゃん。ほんとうに注意しないといけないのは、きっと陽菜ちゃんの方だと私は思うんだよね。奈々子ちゃんが私に似ているように、陽菜ちゃんは私のほんとうに好きだった友達に似てるの」
「それって、何かマズいんですか?」
「うん。その友達ね、急に町からいなくなっちゃったから」
いま一度過去に向かって伸ばされた舞先輩の指先に、もうシロの姿はなかった。
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