【完結】浮気した婚約者を認識できなくなったら、快適な毎日になりました

丸インコ

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ひとつになる日々

[閑話]バーニー

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 沈みゆく船の上で、食事をしている。



 カチャリ、カチャリと、食器の擦れる微かな音がやけに耳に障る。この部屋にはそれ以外の音が無いからだろうか。
 昼下がり。かつての面影を失った屋敷で、僕は妻と二人で昼食をとっていた。

 窓の外はよく晴れていて、それがなんだか滑稽だ。ここにはその空の青を美しいと思う人間は居ないのに。
 部屋の中に光はなく、ただ無駄に広い窓からの白い光がぼんやりと室内を照らす。

「ねえ、バーニー」

 唐突に、妻が口を開く。

「──何? カレン」

 言葉だけは返しながら、もうどれくらい彼女の目を見ていないだろうと考える。

 味のしない肉を噛む口もと。艶を失った髪。サイズの合っていないドレスから覗く、乾燥した首筋と鎖骨。レースがほつれた裾。そこから飛び出た筋の浮く手首が、ナイフを動かして肉を切りとる。

「私は美しいかしら」

 彼女が訊ねる。

「ああ、美しいよ」

 僕は答える。

 かつて愛した人は、モノクロームの世界を生きている。

 この頃ではそれを、少し羨ましいとすら思う。

 カレンにはもう、美しいということがわからない。けれどかつて自分が美しかったことは覚えているから、そう言われることに執着する。

 僕は顔を上げて、妻を見た。

 何を食べてもそれが美味なのかわからない。ただ口に運び腹を満たすだけの作業は放っておけばいつまでも手をつけられることがなく、カレンは随分と痩せた。だから僕は、必ず妻と一緒に食事をとる。

 化粧にはほとんど意味がない。何をどう塗ったら美しくなるのかわからないまま施されたそれはちぐはぐで、やけに赤い口紅が食事の脂に溶けて斑になっている。

 今では名を失ったアンバー家そのもののように、かつてあったものを切り売りしていくだけだ。

 妻の美しさも、贅を凝らした調度品も、一日、一日と失われていく。僕は“家族”と名付けられたこの船が沈むまでのカウントダウンを、日々過ごしている。

 カチャリ。

 ナイフとフォークを置いた。皿にはまだ半分ほど残っている。カレンがちらりと僕を見て、そしてまた手を動かして食事を再開する。彼女は僕に関心がない。

 今思い返せば、それはアンバーが色を失うよりも前からのことであったように思う。カレンが欲しかったのはスプルース家の息子であって、バーニーと名付けられた僕ではなかった。

 時々──本当は毎日、ニーナのことを思い出す。かつて婚約者だった彼女に、これが本当の恋だと高らからに宣言をしたことを思い出し、羞恥で死にたくなる。

 死にたくなるほどの痛みを感じて、自分にはまだ痛みを感じる心があるのだと少し安心して、それに縋って生きる日々を送っている。

 パンの皿を掴んで席を立った。妻は今度はもうこちらを見ることもなく、食事を続ける。

 カレンは幸せだ。

 臭くてとても食べられない肉も、一枚、また一枚と絵画を失ってゆく白い壁も、粗悪な化粧品に荒れた肌も、手入れがされずに薄汚れたカーテンも、庭師を失い枯れた庭も、この家を形作るありとあらゆるすべてを「美しくない」と気付くことはないのだから。

 長いだけの廊下を歩き、行き着いた部屋の扉を開ける。ノックはしない。意味がないからだ。

 部屋に置かれたベッドの上には、痩せた男が半身を起こしていた。その視線は窓の外へと向けられているが、空の色を写すことはない。

「お義父さん」

 呼びかけに反応はない。かつてのチャイロ男爵、義父のホレスは“幸せなカレン”のようには居られなかった。

 美しさも芳しさも豊かさも柔らかさも、またその逆も、この世界の彩のすべてを失ったことに義父の心は耐えきれなかったのだ。

 アンバー商会は瞬く間に傾いていった。当たり前だ。ものの良し悪しも判断できないカレンと素人の僕では、そうならない方がおかしい。優秀な人材はいち早くこの船から降りている。

 自分がまだ幸福な子どもだった頃、転落していく人たちを不思議に思っていた。坂を落ち始めたのなら、そこで足を止めたらいいのにと。そうしたら、そこから更に落ちることはないのにと。

 そうではないのだと今は知っている。止まりようが無いのだ。



 皿からパンを手に取って、義父の座るベッドの上に落とした。生存本能なのか、ゆるゆると義父の手が動き、パンを掴んで口へ運ぶ。

 それを冷ややかに見下ろしながら、自分の所業に、本当に心はまだ残っているのだろうかと疑問に思う。ああ、でも、そうか。どうせもともと僕は人でなしだった。

 僕はきっと、ニーナを捨てたときに人の心も捨てたのだ。



 明日にはこの屋敷を売るために呼んだ商人がやってくる。おそらく買い叩かれ本来の価値はつかないだろう。上り調子のときと落ち目のとき、どちらも群れからはみ出した瞬間に、ハイエナ達はやってくる。



 僕はただ、落下を始めた石ころが、坂を下り切るのを待っている。

 沈みゆくこの船が、水底まで沈み切るのを待っている。









 
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