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バーニー・スプルース【1】
バーニー・スプルース①
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婚約者のニーナは侯爵令嬢らしい気品を備えた、心優しい少女だった。ウィスタリア家を象徴する紫の瞳も、陽に透けて銀色に輝く髪も申し分なく美しく、だから三年前に結ばれた婚約に何の不満も無かったのだ。
──本当の恋を、知るまでは。
バーニー・スプルース。グリン伯爵の長男として生まれた僕は、家の為になる結婚を運命付けられていた。父グリン伯爵は野心が強く、フジーロ侯爵の末娘ニーナ・ウィスタリアと僕の婚約を首尾よくまとめ上げたのだ。
顔合わせの日、僕は緊張していた。
自分が継ぐ爵位よりも格上である侯爵令嬢を妻に迎えるという点で、とんでもなく傲慢な相手だったらどうしようという心配でいっぱいだったのだ。
けれど、引き合わされたニーナは驕りや捻くれたところのない朗らかな女の子だった。貴族令嬢には珍しい素直な気質を見て、僕は自分の幸運を確信した。
確信した、だけだった。
政略結婚で当たりを引いた。それだけのこと。
女性として愛する必要は感じなかった。それが貴族の婚姻なのだと父から学んでいた。
まだ爵位を継いでいない令息の立場でありながら、僕は一端の貴族紳士を気取って、妻を気遣いつつも愛までは捧げないあり方をスマートに感じていたのだ。
それを婚約者となったニーナが寂しく不安に思っていることに、気付いてはいた。
僕はそれを見ない振りをした。
彼女を愛さないことは自分の人生をうまくコントロールしているという証なのだ。自分よりも身分が高く麗しい令嬢に愛を請われることに自尊心を満たされていたし、それに、身持ちの堅いニーナへの少しばかりの当て付けもあった。
美しい少女が婚約者として傍にいれば、人並みの欲も湧く。しかしニーナは些か潔癖で、それとなく寝室に誘えばやんわりと断られた。
キスくらいはと顔を寄せれば「バーニーは私を愛していますか?」と問われる。愛しているとは言いたくない僕は曖昧に誤魔化して引き下がるしかなかった。
カレンと出会ったのはそんな時だった。
うねる艶やかな黒髪にとびいろの瞳、真っ赤な唇。同じ歳とは思えないほどに成熟した肢体。そして男達に混じって議論を交わし、時に言い負かす程の勝気な性格。
チャイロ男爵令嬢、カレン・アンバーの登場はあまりにも鮮烈だった。同じクラスになったことで知り合い、すぐに彼女に惹かれた。そして幸運なことにカレンもまた僕を愛した。
貴族令嬢でありながら娼婦のような色香を漂わせ、革命家のような情熱を持つカレンに僕は夢中になった。
下位貴族とはいえ華やかな存在感を放つカレンはクラスの女王で、数多の男達が彼女を取り巻いていたが、カレンが選んだのは僕だった。
それまで当たりだと思っていた婚約者のニーナのことが、急に色褪せて見えた。銀の髪も菫色の瞳も、カレンの蠱惑的なアンバーの瞳や黒髪、赤い唇に比べたら、どうにもぼんやりとした印象になってしまう。
秘密の逢瀬を重ねるたびに、堂々と愛し合いたいという気持ちが強くなる。人気のあるカレンの周囲をうろつく男どもに、彼女は自分のものだと言ってしまいたい。
そしてついに、その思いは、ニーナと別れカレンと結婚したいと思うまでになった。
貴族の婚姻は恋愛感情では済ませられない。家と国に利益となる政略結婚は義務と言っても良い。伯爵、侯爵ともなれば王族と婚姻を結ぶことも可能になる爵位だ。
さすがに、侯爵令嬢であるニーナと別れ男爵令嬢のカレンを選ぶことなどできないと、僕だって最初はそう理解していた。
だがカレンはそんな割り切りのできる女性ではなかった。
秘密の場所で身を寄せ合って、幾度もキスをした。しかしその先、もっと深い関係を求めた僕をカレンは拒んだのだ。フジーロ侯爵令嬢と別れるまでは体を許すわけにはいかないと。
腕の中で愛を囁くカレンからは、匂い立つような色香が溢れている。
落下寸前の果実のように熟した体が、蜂蜜のようにねっとりと甘い情欲が自分のものにできないという状況は、僕を狂おしいほどの恋に突き落とした。欲しい。どうしても、カレンを自分のものにしたかった。そのためにはニーナと別れなければならない。
穏やかに未来を語り合うニーナとの関係が、不満だったわけでは無い。ただ知ってしまったのだ。本当の恋を。
──本当の恋を、知るまでは。
バーニー・スプルース。グリン伯爵の長男として生まれた僕は、家の為になる結婚を運命付けられていた。父グリン伯爵は野心が強く、フジーロ侯爵の末娘ニーナ・ウィスタリアと僕の婚約を首尾よくまとめ上げたのだ。
顔合わせの日、僕は緊張していた。
自分が継ぐ爵位よりも格上である侯爵令嬢を妻に迎えるという点で、とんでもなく傲慢な相手だったらどうしようという心配でいっぱいだったのだ。
けれど、引き合わされたニーナは驕りや捻くれたところのない朗らかな女の子だった。貴族令嬢には珍しい素直な気質を見て、僕は自分の幸運を確信した。
確信した、だけだった。
政略結婚で当たりを引いた。それだけのこと。
女性として愛する必要は感じなかった。それが貴族の婚姻なのだと父から学んでいた。
まだ爵位を継いでいない令息の立場でありながら、僕は一端の貴族紳士を気取って、妻を気遣いつつも愛までは捧げないあり方をスマートに感じていたのだ。
それを婚約者となったニーナが寂しく不安に思っていることに、気付いてはいた。
僕はそれを見ない振りをした。
彼女を愛さないことは自分の人生をうまくコントロールしているという証なのだ。自分よりも身分が高く麗しい令嬢に愛を請われることに自尊心を満たされていたし、それに、身持ちの堅いニーナへの少しばかりの当て付けもあった。
美しい少女が婚約者として傍にいれば、人並みの欲も湧く。しかしニーナは些か潔癖で、それとなく寝室に誘えばやんわりと断られた。
キスくらいはと顔を寄せれば「バーニーは私を愛していますか?」と問われる。愛しているとは言いたくない僕は曖昧に誤魔化して引き下がるしかなかった。
カレンと出会ったのはそんな時だった。
うねる艶やかな黒髪にとびいろの瞳、真っ赤な唇。同じ歳とは思えないほどに成熟した肢体。そして男達に混じって議論を交わし、時に言い負かす程の勝気な性格。
チャイロ男爵令嬢、カレン・アンバーの登場はあまりにも鮮烈だった。同じクラスになったことで知り合い、すぐに彼女に惹かれた。そして幸運なことにカレンもまた僕を愛した。
貴族令嬢でありながら娼婦のような色香を漂わせ、革命家のような情熱を持つカレンに僕は夢中になった。
下位貴族とはいえ華やかな存在感を放つカレンはクラスの女王で、数多の男達が彼女を取り巻いていたが、カレンが選んだのは僕だった。
それまで当たりだと思っていた婚約者のニーナのことが、急に色褪せて見えた。銀の髪も菫色の瞳も、カレンの蠱惑的なアンバーの瞳や黒髪、赤い唇に比べたら、どうにもぼんやりとした印象になってしまう。
秘密の逢瀬を重ねるたびに、堂々と愛し合いたいという気持ちが強くなる。人気のあるカレンの周囲をうろつく男どもに、彼女は自分のものだと言ってしまいたい。
そしてついに、その思いは、ニーナと別れカレンと結婚したいと思うまでになった。
貴族の婚姻は恋愛感情では済ませられない。家と国に利益となる政略結婚は義務と言っても良い。伯爵、侯爵ともなれば王族と婚姻を結ぶことも可能になる爵位だ。
さすがに、侯爵令嬢であるニーナと別れ男爵令嬢のカレンを選ぶことなどできないと、僕だって最初はそう理解していた。
だがカレンはそんな割り切りのできる女性ではなかった。
秘密の場所で身を寄せ合って、幾度もキスをした。しかしその先、もっと深い関係を求めた僕をカレンは拒んだのだ。フジーロ侯爵令嬢と別れるまでは体を許すわけにはいかないと。
腕の中で愛を囁くカレンからは、匂い立つような色香が溢れている。
落下寸前の果実のように熟した体が、蜂蜜のようにねっとりと甘い情欲が自分のものにできないという状況は、僕を狂おしいほどの恋に突き落とした。欲しい。どうしても、カレンを自分のものにしたかった。そのためにはニーナと別れなければならない。
穏やかに未来を語り合うニーナとの関係が、不満だったわけでは無い。ただ知ってしまったのだ。本当の恋を。
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