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カレン・アンバー【1】
カレン・アンバー②
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「カレン!」
教室に入るなり、バーニーが笑顔でやって来る。あくまで友人としての距離を保ちながら、私を見る瞳には恋焦がれる熱量がある。
「おはよう。会いたかったわ、バーニー」
「き、昨日も会ってるじゃないか……」
含みを持たせたような言い方をすれば、バーニーがサッと頬を赤らめて動揺を見せる。実に単純で、わかりやすい。
「ふふ」
そのかわいらしさに、思わず笑みが溢れてしまう。バーニーが眩しいものを見るように、私を見た。そして何か言葉を発しようと口を開き──
「やあ、おはよう! 我らが女神!」
「あらおはよう、クリス。その女神っていうのやめてくれない? むず痒いわ」
「それは難しいな。今日も女神のように美しいよカレン」
軽薄なクラスメイトの登場によって、バーニーのセリフは音にならなかった。男爵令息のクリスと談笑しながらチラリと目線を向ければ、バーニーは残念そうな、しかしどこかほっとしたような顔をしていた。
うっかり私に好意のあるようなことを告げそうになったが、邪魔が入ったことで婚約者を裏切ることにならずに済んだ。そういう顔。
(なんだか、気に食わないわね)
あんなつまらない女より、もっと私に夢中になってくれなくては面白くない。
「もう、クリスったら!」
笑い声を上げ、軽薄な言葉を連ねる男爵令息の胸を軽く押す。さりげなく、バーニーの前で他の男に触れることで、嫉妬心を焚き付けて、燻る恋心に火をつける。
ムッとする顔を隠しきれないバーニー・スプルースを見て、心の中では笑いが止まらない。なんて簡単な男!
◆
「次の休暇に、皆んなで船上パーティーしない? アンバー家の船を出すわ! 店のシェフを呼んで、楽団も乗せたら楽しいんじゃない」
「素敵! さすがアンバー家は豪華ね!」
「賛成!」
「あ、その日は……」
休暇には、仲の良いグループでの遊びを企画する。たまにバーニーが言い淀むのは、おそらく婚約者との約束が入っているからだ。
「ふーん。都合が悪いなら、またの機会にしましょ? バーニーが居ないとつまらないもの」
あなたは特別。そう解釈もできる言葉に、バーニーが喜色を示す。
「いや、やっぱり行くよ」
周囲の残念そうな空気に、意を決したようにバーニーが宣言した。
勝った!
胸中で手を叩く。ついにバーニーは、ニーナ・ウィスタリアよりも私を選んだ。
お馬鹿なバーニー。一度裏切ってしまえば、それが負い目となってさらに婚約者と顔を合わせ難くなるのに。
そうして。無意識に楽な方に心は流れて、その内に罪悪感に耐えきれなくなって、自分の心に言い訳を始めるのよ。
これは仕方のないことなのだと。『恋する気持ちは止めようがない』のだと。
◆
「スプルースがウィスタリアとの婚約を解消することに決めたそうよ、お父様」
ある日の晩餐で、私はついに父に告げた。バーニーは私の読み通り、あれよあれよと手中に転がり込んできた。
奥手だとばかり思っていたのが、大胆にも私の体を欲しがってきたのは少し意外だったけれど、その程度をかわすのに労はない。
それに、上手にウィスタリアを捨てられたなら、褒美に与えてあげても良いわ。だって、未来の旦那様になるのだもの。
とってもつまらなくて、でも、アンバーの役に立つ、旦那様。
「馬鹿な」
父は私の報告に目を見開いた。
「本当よ。きっと近々、グリン伯爵から婚約の打診が来るはずだわ」
「まさか、ウィスタリアを捨てるはずが……」
「そのまさかよ。バーニーはフジーロ侯爵令嬢ではなく私を選んだの」
ゆったりと微笑んで、血の滴る仔羊の肉を齧り取る。敢えてナイフとフォークを使わず骨を摘んでラムチョップに噛みつくのは、仔羊の一番美味しい食べ方だ。
格式の高いレストランやデートの席でこの食べ方をすると、相手の男性は一瞬ギョッとして、それから実に羨ましそうに見るのだ。もちろん、忙しなくがっつくのではなく、美しく見せる動きでなければならない。
薬指と小指以外の三本の指で骨を持ち上げ、見せつけるように赤い肉に白い歯を立てる。きっちりひとくち分を噛み取って、咀嚼し飲み込んだ後で、唇の脂をペロリと舐めとる。
驚きと、エロティックな刺激と、ほんの少しの不快感がなければ、恋はエンターテイメントに昇華しない。肉に齧り付く私を見て、男が羨望と興奮と、未知なものへの探究心を掻き立てられるのを見るのが、好きだ。
『素敵だわ、カレン!』
母がこの席に居たならば、バーニーの略奪をそう、喜んだであろう。彼女は私が9歳のときに家を出て外国にいる。そこで、もうアンバーではない姓で、自分よりもずっと若い男と暮らしている。
父を裏切り別の男のもとへ走った母親を、私は軽蔑している。でもあの女からも学ぶことはあった。私はそれを、父のために使う。
「ウィスタリアは許さないだろうな」
「うまくやれば良いのでしょう? 令嬢の方に女としての敗北をわからせてあげたら良いのよ。家門の力を使ってやり返すのは惨めだって、教えてあげるの」
「それでことが収まるとは思えんがな。とはいえ、ウィスタリアなど古いばかり名ばかりの侯爵家だ。財力も大したことはないが、社交界での影響力も聞いたことがない」
「お父様はスプルースの鍛冶を使った商品をどう売るか考えておいて頂戴」
肉を食べ尽くした骨を皿に落とす。残っていたワインを飲み干すと、父が給仕にとびきりの銘柄のワインを命じた。驚いてそれを見れば、父は微かに唇を歪ませ微笑む。
「前祝いだ」
すぐに注がれた深い色の赤が、グラスの底に揺蕩う。鼻腔を満たす芳醇な香り。
鳶色の瞳を見合わせて、父と私は小さく杯を掲げた。
教室に入るなり、バーニーが笑顔でやって来る。あくまで友人としての距離を保ちながら、私を見る瞳には恋焦がれる熱量がある。
「おはよう。会いたかったわ、バーニー」
「き、昨日も会ってるじゃないか……」
含みを持たせたような言い方をすれば、バーニーがサッと頬を赤らめて動揺を見せる。実に単純で、わかりやすい。
「ふふ」
そのかわいらしさに、思わず笑みが溢れてしまう。バーニーが眩しいものを見るように、私を見た。そして何か言葉を発しようと口を開き──
「やあ、おはよう! 我らが女神!」
「あらおはよう、クリス。その女神っていうのやめてくれない? むず痒いわ」
「それは難しいな。今日も女神のように美しいよカレン」
軽薄なクラスメイトの登場によって、バーニーのセリフは音にならなかった。男爵令息のクリスと談笑しながらチラリと目線を向ければ、バーニーは残念そうな、しかしどこかほっとしたような顔をしていた。
うっかり私に好意のあるようなことを告げそうになったが、邪魔が入ったことで婚約者を裏切ることにならずに済んだ。そういう顔。
(なんだか、気に食わないわね)
あんなつまらない女より、もっと私に夢中になってくれなくては面白くない。
「もう、クリスったら!」
笑い声を上げ、軽薄な言葉を連ねる男爵令息の胸を軽く押す。さりげなく、バーニーの前で他の男に触れることで、嫉妬心を焚き付けて、燻る恋心に火をつける。
ムッとする顔を隠しきれないバーニー・スプルースを見て、心の中では笑いが止まらない。なんて簡単な男!
◆
「次の休暇に、皆んなで船上パーティーしない? アンバー家の船を出すわ! 店のシェフを呼んで、楽団も乗せたら楽しいんじゃない」
「素敵! さすがアンバー家は豪華ね!」
「賛成!」
「あ、その日は……」
休暇には、仲の良いグループでの遊びを企画する。たまにバーニーが言い淀むのは、おそらく婚約者との約束が入っているからだ。
「ふーん。都合が悪いなら、またの機会にしましょ? バーニーが居ないとつまらないもの」
あなたは特別。そう解釈もできる言葉に、バーニーが喜色を示す。
「いや、やっぱり行くよ」
周囲の残念そうな空気に、意を決したようにバーニーが宣言した。
勝った!
胸中で手を叩く。ついにバーニーは、ニーナ・ウィスタリアよりも私を選んだ。
お馬鹿なバーニー。一度裏切ってしまえば、それが負い目となってさらに婚約者と顔を合わせ難くなるのに。
そうして。無意識に楽な方に心は流れて、その内に罪悪感に耐えきれなくなって、自分の心に言い訳を始めるのよ。
これは仕方のないことなのだと。『恋する気持ちは止めようがない』のだと。
◆
「スプルースがウィスタリアとの婚約を解消することに決めたそうよ、お父様」
ある日の晩餐で、私はついに父に告げた。バーニーは私の読み通り、あれよあれよと手中に転がり込んできた。
奥手だとばかり思っていたのが、大胆にも私の体を欲しがってきたのは少し意外だったけれど、その程度をかわすのに労はない。
それに、上手にウィスタリアを捨てられたなら、褒美に与えてあげても良いわ。だって、未来の旦那様になるのだもの。
とってもつまらなくて、でも、アンバーの役に立つ、旦那様。
「馬鹿な」
父は私の報告に目を見開いた。
「本当よ。きっと近々、グリン伯爵から婚約の打診が来るはずだわ」
「まさか、ウィスタリアを捨てるはずが……」
「そのまさかよ。バーニーはフジーロ侯爵令嬢ではなく私を選んだの」
ゆったりと微笑んで、血の滴る仔羊の肉を齧り取る。敢えてナイフとフォークを使わず骨を摘んでラムチョップに噛みつくのは、仔羊の一番美味しい食べ方だ。
格式の高いレストランやデートの席でこの食べ方をすると、相手の男性は一瞬ギョッとして、それから実に羨ましそうに見るのだ。もちろん、忙しなくがっつくのではなく、美しく見せる動きでなければならない。
薬指と小指以外の三本の指で骨を持ち上げ、見せつけるように赤い肉に白い歯を立てる。きっちりひとくち分を噛み取って、咀嚼し飲み込んだ後で、唇の脂をペロリと舐めとる。
驚きと、エロティックな刺激と、ほんの少しの不快感がなければ、恋はエンターテイメントに昇華しない。肉に齧り付く私を見て、男が羨望と興奮と、未知なものへの探究心を掻き立てられるのを見るのが、好きだ。
『素敵だわ、カレン!』
母がこの席に居たならば、バーニーの略奪をそう、喜んだであろう。彼女は私が9歳のときに家を出て外国にいる。そこで、もうアンバーではない姓で、自分よりもずっと若い男と暮らしている。
父を裏切り別の男のもとへ走った母親を、私は軽蔑している。でもあの女からも学ぶことはあった。私はそれを、父のために使う。
「ウィスタリアは許さないだろうな」
「うまくやれば良いのでしょう? 令嬢の方に女としての敗北をわからせてあげたら良いのよ。家門の力を使ってやり返すのは惨めだって、教えてあげるの」
「それでことが収まるとは思えんがな。とはいえ、ウィスタリアなど古いばかり名ばかりの侯爵家だ。財力も大したことはないが、社交界での影響力も聞いたことがない」
「お父様はスプルースの鍛冶を使った商品をどう売るか考えておいて頂戴」
肉を食べ尽くした骨を皿に落とす。残っていたワインを飲み干すと、父が給仕にとびきりの銘柄のワインを命じた。驚いてそれを見れば、父は微かに唇を歪ませ微笑む。
「前祝いだ」
すぐに注がれた深い色の赤が、グラスの底に揺蕩う。鼻腔を満たす芳醇な香り。
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