紅(くれない)の深染(こそ)めの心、色深く

やしろ

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温泉旅行 弐

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 温泉街だけあって外湯は沢山あるらしい。 
 でもそんな沢山湯に浸かっても湯あたりするだけだから、一つか二つをのんびりと巡ることにして、俺と紅緒様はからころと下駄を鳴らして歩く。 
 一つ目の外湯は露天風呂で、効能は神経痛やら美肌やら。神経痛と美肌に何の共通点があるか分からないが、効くというならそうなんだろう。 
 そう考えて温泉施設に入ったけど、ここで問題が一つ。警備だ。 
 風呂屋の外には勿論警備の人間が立つし、脱衣場の前にも立つ。それは当然なんだけど、浴室に護衛が入るのを紅緒様が珍しく「嫌だ」と仰る。 

「俺が浴室では護衛しようと思ってたんすけど……」 
「お前は一緒に湯に浸かるんだろう?」 
「え?」 
「お前と一緒に風呂に来たのに、何でお前は入らないんだ」 

 ぷすっと唇を尖らせる紅緒様に、俺はちょっと焦る。俺はてっきり先に紅緒様に入っててもらうんだとばっかり思っていたからだ。でもよく考えたら、それだと紅緒様をお待たせすることになる。 
 そんな事を考えていると、紅緒様が耳まで赤くして俯いた。 

「紅緒様?」 
「その……お前以外に肌を晒すのは嫌だ」 
「……っ!」 

 そんな事を言われてしまったら、俺は降参するよりなくて。 
 露天風呂と言っても周りは高い壁に囲まれているし、外は厳しい警備が取り巻いている。脱衣所の前では入室者にはボディチェックをするわけだからと何だかんだ並べて、浴室の警備は俺に任せてもらう事に。 
 警護の責任者に話をすると、生暖かい目で「陛下や青洲様から、紅緒様の望みのままにするよう命じられている」と言われた。 
 するすると来ていた浴衣を脱ぐ衣擦れの音が二人分。 
 すっかり脱いでしまうと、俺は紅緒様に「温度を確かめてきます」と声をかけて浴室へ。 
 掛かり湯をして手を湯船に突っ込むと、良い感じの暖かさ。 
 からりと浴室の扉が開いて、紅緒様が浴室に入って来られるのが見えて、俺の心臓が跳ねた。 
 何と言うか、ドキドキする。 
 湯煙に紅緒様の身体の線が霞んで見えないのが、どういっていいか分からないくらいに心臓を躍らせた。 

「出穂?」 
「は!? あ、良い湯加減っす」 

 こてんと小首を傾げて俺の傍に来る紅緒様をまず洗い場へ。 
 そこで俺ははっとした。 

「紅緒様、温泉初めてっすか?」 
「いや、母上が生きておられた頃に一度だけ」 
「ええっと、じゃあ最初に身体を洗いましょうか?」 
「そうか、そういうものだったな。うん」 

 そんな訳で持ってきた手拭いに石鹸を付けて泡立てると、俺は自分を洗う前に真新しいそれを紅緒様にお見せして。 

「お背中流します」 
「ありがとう。私も後でお前の背を……」 
「いやいや、そんな!」 
「嫌だ。私の休暇でもあるんだから、私のやりたいことをさせろ」 

 ぷすっと紅緒様が膨れる。今日は随分と色んな表情を見せて下さる。 
 きっと紅緒様は今まで言えなかった何かを、俺相手に取り返そうとしているんだろう。俺でその何かが満たされるなら願ってもない。 
 にっかり笑って「じゃあお願いします」と答えれば、上機嫌に紅緒様が頷いてくださった。 

「失礼します」 

 一声かけて、紅緒様の背を流す。 
 滅多に脱がないせいか、紅緒様の背中は白い。だけでなく怪我の痕一つもなく綺麗だ。 
 腕には少しばかり傷があったが、それだってかすり傷程度でもうそろそろなくなりそうなくらい小さなものだけ。 
 良かった。俺はこの方を守れている。 
 そうして紅緒様の背中を洗い終えると、紅緒様が俺をまじまじと見ていることに気付く。 

「紅緒様?」 
「出穂は、傷が多いな」 

 その言葉に俺は自分の身体を見た。 
 たしかに大小さまざまな傷跡があって、見ていて気持ちのいいものじゃない。お気を悪くされてかと慌てると、ポツリと紅緒様が零した。 

「痛かったろう?」 
「へ?」 
「お前の怪我のほとんどは、私を守るために負ったものだ。痛かったろう?」 
「や、その……」 

  痛くなかったと言えば嘘だ。 
 肉を切られたり裂かれたり抉られたりしたんだから、そりゃ当然のことだ。でもそれよりも、俺は—― 

「紅緒様を守れた証です。痛みも傷跡も俺の誉れです」 
「そう、か」 
「はい」 
「なら私の身体に傷がないのはお前のお蔭だ。それも誇っていい」 
「っす。何よりもの勲章っす」 

 俺がそういうと、紅緒様は満足そうに微笑んだ。 
 そうやって俺はと紅緒様は背中を流し合って、髪も洗ってしまうと、湯船にゆったりと浸かる。 
 湯に髪が浸からないように紅緒様は御髪を高いとこで結わえてまとめ上げていたけど、そうすると普段あまり見えないうなじが露わになって、なんとも言えない気分に。 
 それが嫌なのかと言えばそうでなく、どちらかと言えば身体がムズムズするのだ。その気持ちを突き詰めていけば何かが見えそうな気がする。 
 けれど突き詰める前に、「出る」と紅緒様が。 
 そう言えば結構な時間湯船に浸かっていた気がして、紅緒様を追いかければ、そのうなじが赤く染まっているのが見えた。 
 瞬間、ぼたりと鼻から赤いものが落ちる。 

「出穂!?」 
「やべっ! 逆上せたみたいっす!」 

 湯に浸かり過ぎたんだろう。 
 そういう事で、本日の外湯巡りはこの風呂だけで終わってしまった。 
 そうして夜。 
 夕飯は物凄く豪華で、川魚のあらいや、てんぷら、野菜の煮たものや肉を味噌漬けにして焼いたもの。その土地の名物がいくつもあって、贅を凝らしたものだというのがよく解る膳だった。 
 普段は小食の紅緒様も、俺が食うのを見て肉を召し上がっていたし、いつもより確実に食っていらしたように思う。酒もちょっとだけ飲んだ。 
 紅緒様はあまり酒に強くないとご自分でも仰っているだけあって、お猪口に二、三口飲んだだけで、うなじまで桜色に染めておられて、上機嫌でふにゃふにゃと笑られる。あれだ、紅緒様の酒は陽気なやつだ。 
 ゆったりとした時間を過ごして、また少しだけ宿に付けられた風呂に紅緒様と入ると、もう寝る時間で。 
 ほこほこして部屋に戻った俺と紅緒様は、しかし襖を開けて首を捻った。 
 何故か紅緒様のお部屋に二つ、それも並べて物凄く引っ付けて敷いてあったのだ。 

「え? 俺の部屋、隣では……?」 
「うん? 警備の関係、かな?」 
「警備って」 
「だって一つの部屋に固めておいた方が守りやすいだろう? 私たちも要人は固めてたりするじゃないか。私は出穂ならいい」 
「それは光栄っすけども」 

 ふにゃふにゃとまだ酔いの残る紅緒様の言葉に、俺は何となく引っ掛かりながら頷く。 
 だって寝室だし。 
 確かにバラバラでいられるより、一つの部屋に固まっていられる方が、それだけ人員を割かなくていいのは、俺だって解るけども。 
 でも俺も少し酔っていたのか、あまり考えるのも面倒で、紅緒様の布団の横に敷かれたそれに潜り込む。 

「明日は釣りにいこうか?」 
「釣りっすか? いいですね」 
「うん。魚が釣れたら出穂に食べさせてやる」 
「楽しみにしてるっす」 

 楽しそうな紅緒様の声を聞いてるうちに、どうも俺は寝てしまったらしい。気が付けば朝になっていた。 
 布団から起き上がって隣の紅緒様を窺えば、穏やかな顔で眠っておられる。 
 普段の紅緒様は気を張っておられて、眼だって多少吊り上げ気味だけど、今は眉が下がって幼くさえ見えた。 
 良く寝ておられるようで安心すると、俺はそっと布団から抜け出し、着替えて日課の鍛錬へ。 
 すると、警備の責任者がぬっと現れた。 

「おはようございます」 
「はよっす」 
「その……昨夜は、お楽しみで?」 
「うん? ああ、紅緒様、楽しかったみたいっすよ。飯も普段より食ってらしたし」 
「ええっと、飯?」 
「っす。昨夜のみたいな味付けがお好きみたいっす。あと、肉より魚多めにしてもらえたら」 

 声をかけられたので情報交換とばかりに色々報告する。それに応えていた警備責任者が困ったように言う。 

「は、はあ、伝えておきます。あの、それだけ?」 
「へ? あ、布団が並べて敷いてあったっすけど、あれって警備の都合っすか?」 
「ええ、その、はい」 
「そっすか。いや、横に並んで寝るって紅緒様にご無礼かなって思ったんすけど、そういう事なら大丈夫っす。紅緒様は『出穂ならいい』って仰って下さったんすけど、俺が気になって」  

 笑って告げると、警備責任者は微妙な顔で「報告しておきます」とだけ呟いた。
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