紅(くれない)の深染(こそ)めの心、色深く

やしろ

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眼病と惚気

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 一口に捕虜交換式と言ったって、準備は色々時間がかかる。 
 まず敵国の捕虜を収容所から交換式会場まで運ぶ費用や、彼らを養うための費用、警備費や、事務手続きをする文官たちの手配、帰ってくる者たちへの当座の生活費や慰労金、諸々の諸経費の計算から手配まで、全てが紅緒様とその直属の事務方へと回って来た。 
 俺も事務方や警備の方への連絡や書類作成、その他色々に右往左往する日々が続いていた。 
 そんな中、捕虜の中に怪しいのがいるのを掴んだという諜報部からの連絡があって。 
 今度の捕虜交換で帰る捕虜の中に、彼の国と事を構えるもう他の国からのスパイが紛れ込んでいるという。 

「あの国は今、共和制と王制とで少々揉めているらしいからな。軍部がクーデターを企てているらしい」 
「でもそのクーデターこそが敵国の使嗾……ですか」 
「ああ。長年軍部に潜み、少しずつ蝕んでいったようだな。諜報部が見つけた奴も、敵国から放たれた犬だったようだ」 
「なるほど。で、どうなさるんです?」 
「放置だな」 

 書類を捲る手を止めず、紅緒様は仰る。 
 俺も手元の書類を見たまま、紅緒様の次の言葉を待った。 

「クーデターが起こって彼方が弱体化しても、クーデターを未然に阻止しても、特にこちらとしては状況は変わらない。頼って来られたら日和見して、奴らの疲弊を待ってもいい。ただ、帰ってくる捕虜の身辺調査はしないといけないだろうな。他者がされたことを、こちらもされていないとは言い切れない」 
「承知しました、警備部や諜報部に警戒と調査を申し送っておきます」 
「ああ」 

 そんな訳で交換会の前に少し仕事が増えて、てんやわんやしているうちに俺は副官歴八年を迎えていた。 
 そうなると紅緒様の部隊の中でも古参かつ、階級も高いほうになってくる。いい加減副官を誰かに譲って、自分の小隊なりを持てばいいのにと言われるようにもなって来た。 
 でも俺はやっぱり出世には興味がないし、お国でなくて紅緒様を守りたい。そんな人間が出世してどうする? そう言えば大概の人間は黙った。 
 日々は忙しいとすぐに過ぎるもので、俺の副官歴が八年と二か月になった頃、捕虜交換式の日がやって来た。 
 向こうからやって来たのは軍部の二番手で、王族の覚えもめでたい男とその参謀に当たる男だった。 
 二番手の男はでっぷりと肥え太り、思考も遅そうな濁った眼をした男で、これの連れている参謀は痩せぎすだが眼だけはギラギラしていて、一種の始末に負えないような雰囲気がある。 
 今度の捕虜交換会はこの男が、二番手の男を通じて王家にねじ込んだらしい。要は国民の人気取りだ。 
 比べるものではないのだろうが、瑞穂の国の上層部にそんな横紙破りを許す者はいないし、濁った眼をしているものもいなければ、野心にぎらついた目をした男もいない。 
 紅緒様を始めとして、皆理知的で、自分を律している。 
 ただし陛下と青洲様と常盤様は、「近付かんとこ」と思う程度には変人ではあるけれど。 
 捕虜交換式は互いの資料の確認をして、捕虜を交換することに対する同意書面にそれぞれサインをして、その書面の交換をして終了だ。 
 瑞穂の国の代表は紅緒様で、この交換会においてはその身分は国王代理である。 
 そのサインの入ったものと、相手の物を交換した時だった。 
 痩せぎすの男が紅緒様を見て、嫌な笑いを浮かべて俺に聞こえるか聞こえないかの声で「お美しい姫君だ」と言ったのだ。 
 何言ってんだコイツ? 
 俺は眉を一瞬動かしかけたが、聞き間違えだろうと表情を消す。しかし、痩せぎすの男は、今度は俺に向かって「お美しい姫君のお傍に侍れて羨ましい」と言った。 
 俺はまじまじと痩せぎすの男を見ると、ため息を吐いた。 

「もしや御目が悪くていらっしゃるのか?」 
「は?」 
「たしかに我が上官緒の紅緒様はお顔もお美しく、背もすっと伸びていて、足も長くて、神々しくすらありますが、女性ほど細くはありません。もしも貴官には紅緒様が女性のように細く見えておられるのであれば、気を悪くしないでいただきたいのだが、貴官は眼病にかかっておられる。間違いない。今すぐに医師に相談された方がいい。私と貴官は元は敵国人の間柄だが、今はこのように講和がなっているのだから、友人として忠告させていただく。帰国次第、眼科にかかられるように」 

 たまにいるんだよなぁ、至近距離で紅緒様を見てるくせに女性と間違うやつ。 
 そういうやつは大概目の病気にかかっているやつだから、俺は哀れみをもって眼科を薦めている。 
 だって紅緒様は本当に美人だし、神様が一から作ったって言っても俺は納得するぐらい、背丈と足の長さのバランスが人間を超越するくらい素晴らしくていらっしゃるけど、決してか弱く見えないし胸だってなけりゃ、女性特有の丸みもない。寧ろ骨ばっていて、手なんか結構大きいんだ。  
 しかし痩せぎすの男は俺の言葉に真っ赤になったかと思うと、えらくきつい目で睨んできて。 
 戸惑っていると、紅緒様が俺を振り返らずに「出穂、止せ」と仰った。 

「しかし、眼病は命取りです!」 
「ああ、しかしな、その病を隠してこの捕虜交換式を成功させようと無理をしていたとは考えられぬか?」 
「あ……!」 

 そうか、お国の大事だもんな。 
 紅緒様に指摘されて、俺は痩せぎすの男に向き直る。 
 この男は手柄を欲して捕虜交換式を王族にねじ込んだらしいけど、やるのは実際現場で、この男でもあるんだ。失敗は許されない。 
 それに出世競争が厳しいから、男はコネを使ってでも手柄を上げたかった訳で、そんなところで大事な行事があるのに眼病を患ったなんて話したら、それこそ競争相手に足を掬われかねないんだろう。それなのに面と向かって、何も知らん奴に隠していた病を指摘されたら、そりゃ怒るわな。 
 だから俺は男に向かって「余計な事を申しました」と詫びた。 
 すると、濁った眼の男が口をへの字に曲げる。 

「む、いや、こちらこそ申し訳ない。側近の病に気付かなんだとは、我が不明という物よ。ご心配いただき感謝いたします」 
「いえ、お気になさらず」 

 紅緒様は穏やかにそう返された。 
 そして式が終わって二か月後、常盤様が部隊を引き連れ同じ基地に入られた。 
 向こうの国でクーデターが勃発して、大混乱が生じているらしい。その混乱に乗じて、こちらも色々しておこうということだとか。 

「……暇なんすか?」 
「いや?」 
「じゃあ、何で俺んとこにくるんすか?」 
「兄貴が必要以外じゃべってくんねぇんだもん」 
「『だもん』とかマジで可愛くねぇっすわ」 
「うっせ!」 

 書庫で紅緒様に頼まれた資料を探している俺の目の前に、常盤様が現れてうだうだと話しかけてくる。 
 そんな時間がある程度には、まだ前線は平和なんだろう。 
 溜息を深く吐くと、常盤様がにやにやしていたから「なんすか?」と声をかければ。 

「お前、捕虜交換式で敵国の奴に兄貴の惚気聞かせて黙らしたって本当か?」 

 と返してくる。 
 いや、あれは俺が考えなしに口にした言葉を咎められた話のはず? 
 何がどうなってそうなっているか分からないから、俺は常盤様に捕虜交換式であったことを順を追って説明してみた。 
 すると常盤様が腹を抱えて大笑いする。解せぬ。 
 思わずジト目で常盤様を睨むと、ひぃひぃと目に涙をためながら、常盤様は俺の背をバシバシ叩いた。 

「痛ぇっす」 
「いや、お前……! 気持ち悪いくらい兄貴が好きだな!?」 
「は?」 

 常盤様の言葉に俺は訳が解らず首を捻る。 
 って言うか、変人な常盤様に「気持ち悪い」とか心外以外の何物でもなかった。
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