贄の乙女は鬼となった兄の愛に溺れる

深山瀬怜

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18・巽の本心

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 燕明は気配を殺してその家を覗き込んだ。中では髪の長い女と細身の男が睦み合っている。男の瞳が穢れた赤色に染まっていることに気付いた燕明は錫杖を握り締めた。

(こんなことが許されてなるものか……)

 鬼は人間の男に取り憑き、村人たちを惨殺した上で人間の女をいいように抱いているのだ。かつて道賢が必死で封印したという鬼の所業は燕明にはとても認められるものではなかった。

(まずはあの娘から離さなければ)

 娘の安全を確保するのが先だと考えた燕明は経を唱えながら懐の独鈷杵とっこしょを投げた。特別に法力が込められているそれは男の肩に突き刺さった。

「……っ!」
「鬼よ、その娘を離せ!」

 男――巽は肩につきさったものはそのままに、赤い瞳で燕明を睨んだ。独鈷杵を抜かないのは、それを抜けば返って致命傷になるとわかっているからだろう。しかし法力の込められたものをそのままにするのも命取りになる。燕明が印を結ぶと、巽は微かに呻き声を漏らした。

(封印でかなり力を奪われていたようだな……)

 鬼は弱っている。それならば早くカタをつけよう。そう思っていると、巽は今し方まで組み敷いていた娘――深凪に行った。

「……逃げろ」
「でも、お兄様……!」
「いいから早く!」

 まだ人間としての理性があるのか。燕明は驚いた。既に人としての心は失われ、欲のままに娘を貪っているのだと思っていたからだ。娘はその言葉を聞くと、すぐにその場から走り去る。娘の命を取るつもりはない。燕明はそれを見送ってから、再び巽と相対した。

「あの娘は、妹か」
「ああそうだ。――お前は誰だ?」

 鬼が取り憑いているというのに冷静なものだと燕明は思った。しかし、その目は人間のそれではない。しかし怯むことなく燕明は答えた。

「我が名は燕明。海沿いの町の寺の住職だ」
「僧侶か。なら、この鬼を封印した高僧とやらの話も聞いたことがあるんだな」
「ああ。道賢様は立派な僧であったと伝わっている。その封印を解くなど……」

 燕明は錫杖で床を突いた。しゃらん、と音が鳴った瞬間に無数の見えない刃が巽を襲う。巽はそれを避けるが、一つは避けきれずに腕を切り裂いた。

「答えろ! 何故そのようなことをしたのか!」

 鬼の封印が解かれるなどあってはならない。まして鬼が解放された後で老人だけではなく子供達までもが殺されているのだ。しかし巽は燕明の問いにも表情を変えなかった。

「俺には深凪以外何も要らなかった。それを奪われそうになったから、どんな手を使っても取り返したいと思っただけだ」
「深凪とは……あの娘か」
「ああ。お前は知らないかもしれないが、この村の人間は鬼の封印だけでは安心できずに何年かに一度、生贄を捧げていたんだ」
「何と……!」

 この村が山奥にあり、閉鎖的だったこともあり、その話は外には伝わっていなかった。

「いや……道賢様がそのようなことを指示するはずが」
「ああ、それはそうだろうか。あの僧はどうやら本当に鬼を封印しただけらしい。そしてその封印が徐々に鬼を弱らせていくということも織り込み済みだったのだろう」
「ならば、何故……」
「封印されているだけで何もしないというのでは安心できなかったのだろうな。そしてこの村は生贄を指示する術者に騙された。その一族という男も俺が殺したが」

 あっさりと自分のしたことを告白する巽に燕明は驚いた。おそらく彼は自分のしたことを全く悪だとは思っていないのだ。

「……理由には納得できるところもあるようだ。だが……人を殺したのだぞ」
「言っただろう。俺は深凪以外は何も要らないと」
「だが……」
「深凪は俺の全てだ。そんな深凪を生贄の儀式と称して傷つけられた。あんたが言っていた子供達が深凪に何をしたか、聞きたいか?」

 燕明は衝撃を受けた。彼の心は巽の話を聞いて僅かに揺らいでいた。例えば鬼が解き放たれた前、巽が燕明に儀式のことを訴えたのであれば、燕明はその儀式の方を止めることにしただろう。巽の理由自体は理解できるのだ。

「だが……だが、それでも鬼を解き放ち、村人を惨殺したことは許されることではない」
「そうか。まあいい。俺も許されようとは思っていない」

 巽はそう言うと燕明に向かってきた。燕明は再び錫杖で床を突く。今度は刃ではなく無数の鎖が巽を襲った。巽はそれを避けようとしたが、鎖は意思を持っているかのように彼を拘束した。

「お前は鬼をもう一度封印するつもりか?」
「ああ。そしてお前にはきちんと裁きを受けてもらう」

 鬼は巽に取り憑いてはいるが、かつてより遥かに弱っている。今なら引き剥がしてもう一度封印することは可能だ。しかし巽は急に笑い出した。それはまるで壊れたからくりのような声で、燕明は背筋が寒くなるのを感じた。

「馬鹿な男だ。そんな使命感に駆られなければよかったのに」
「な……っ」

 巽は一瞬で燕明の拘束を抜け出した。そして腕から下を鬼の手に変化させて燕明に襲いかかる。燕明は錫杖でそれを防ごうとしたが、鬼の爪はそれを切り裂き、そのまま燕明を切り裂いた。

「っく!」

 寸前で避けた為に傷口はそれほど深くない。すぐに体勢を立て直す燕明に対し、巽は赤い目を向けた。

「何が目的なのだ……既にお前の妹は贄からは解放された。それなのに鬼の封印を拒む理由は何だ?」

 目的が深凪の救出だけなら、既にそれは達成されているのだ。鬼を取り憑かせたままでいることは巽にとってもいいことではない。それがわからないような男ではないと燕明は思った。

「あのとき思ったんだ。『もっと早くこうするべきだった』と」
「何を……」
「深凪は体が弱くて、普段の儀式には耐えられないと思われていた。だから村の人間からは役立たずだと思われていた。俺はそれに怒りを覚えながらも……何も出来なかった」

 巽は再び腕をなぎ払い、燕明を攻撃する。燕明はそれをかろうじて避けながら巽と距離を取った。

「力があれば、もっと早く、深凪を害する人間を全部殺せたんだ。いや違う。これからも、深凪が生きている限り、深凪を害するものは全部この手で殺し尽くす。そのために力が必要だ」

 巽の目には異様な光が宿っている。これまでは冷静だった巽の口調にも熱が籠もっていくのがわかった。燕明は巽の信念が並々ならぬものであると悟り、観念して錫杖を握り直す。

「そのためにこの鬼を利用する。そして俺が与える『穢れ』でこの鬼も少しずつ回復するだろう。誰にも邪魔させない」
「ならば!」

 燕明は懐から五鈷杵を出して気合を込めた。巽の背後に明王の影が現れ、手に持っていた武器を巽の体に突き刺す。それは巽の胸に刺さり、巽は血を吐きながらその場に膝を突いた。

「お前が妹を思う気持ちは本物なのだろう。だが、悪鬼やそれを守る人間を放置することは出来ない」

 鬼は人に害を成すものなのだ。そしてこの先もその力を利用しようとしているなら、このままにしておくことは出来ない。巽ごと鬼を葬るか封印するか。燕明の取る行動はもう決まっていた。

「ぐっ……」
「お前が今すぐ意見を変えると言うのなら、お前の命は助けてやろう」

 これが最後通告だ。しかし巽は口の端から血を流しながらも微笑んだ。

「今更こんなことで心変わりするわけがないだろう」
「そうか……残念だ」

 燕明は錫杖を振り上げる。しかしその瞬間、体に奇妙な熱を感じた。
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