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女
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数ヶ月後、村から二つ街を越えた貧しいスラム街に、一人の娘がおりました。遠い東の国から移り住んだ腕利きの彫り師に、刺青を入れてもらいに来たのです。
彫り師は年端もいかぬ依頼主を帰そうとして、口を閉じました。娘のしぐさや口調こそ、育ちが良くやわらかなものでしたが、その表情、特に目だけは別の生き物のように感じられたからです。海底のように暗い瞳には、殺気だけが宿っていました。ともすれば視線で刺し殺されそうなほど研ぎ澄まされた感情だけがありました。そして彫り師はため息をつきながら、注文を受け入れたのです。
娘は背中一面を突き刺す何百本もの針に耐えた後、色揚げのために湯浴みし、うなされながら湯から上がると、彫り師のいたわる声も手も払いのけて、畳に身を投げ悶え苦しみました。「出てって」と呻く娘に従って二階に上がろうとした彫り師がちらと娘を見ると、暗闇の中のたうつ白い体を、濡れた黒髪がしゃらしゃらと撫でる姿に思わず怖気だちました。
とっぷりと夜が更け、凜と輝く満月がてっぺんまで昇ったころ、彫り師はそっと娘のもとを訪れました。
ゆっくりと障子を開けると、そこには一人の女がおりました。
女はゆったりと振り向き、衣と黒髪とがこすれる音だけが響きました。そして血を塗ったように色づく唇をふるわせて、何を彫ったのかそっと尋ねました。
──血を吸ったかのように咲き乱れるのは椿。鮮やかな色とは裏腹に、匂いも香りも燻らず、その最期にはぼとりと首を落とす──
まあ素敵!そう微笑んだ女は先を促しました。じゃあこの恐ろしい化け物はどんないわくがあるのかしら、と。
──その化け物は般若。強大な力、鮮烈な美しさ、燃え尽きぬ情念を持つ鬼という化け物の女。怒りに打ち震える女鬼は般若と呼ばれ畏れられる──
その言葉にまた嬉しそうに女は頷きました。
もう一度背中を見せてくれと思わず彫り師が頼んでしまうその姿は、どんなに艶やかなものだったでしょう。彫り師の呼びかけに応じた女は肩にかかっていた着物を落とし、長い髪をかきあげて背中を満月の下に曝け出しました。その後ろ姿に、彫り師は思わず息をのみました。
月光に照らされた真っ白な背中には、滴るような椿が首を傾けており、つうっと流れた髪のしずくがまるで夜露のように花弁を濡らしています。中心に息づく般若の金の瞳は、煌々と闇に浮かび上がり、女が深く息をつく度に蠕動し、脈打っています。
言葉を失った彫り師が鏡に映る女の瞳をふと見ると、女は目尻と口の端をゆったりと歪ませて、密やかに囁きました。
──ありがとう。これで私、女になれた。
うっとりと瞳を閉じ、ほうと色のついたため息をついた彼女は、もう一人の美しい女でありました。
朝日の光とともに長い長い戦争の終結の知らせが届いたのは、その数刻後のこと。今の女には知る由もありませんでした。
彫り師は年端もいかぬ依頼主を帰そうとして、口を閉じました。娘のしぐさや口調こそ、育ちが良くやわらかなものでしたが、その表情、特に目だけは別の生き物のように感じられたからです。海底のように暗い瞳には、殺気だけが宿っていました。ともすれば視線で刺し殺されそうなほど研ぎ澄まされた感情だけがありました。そして彫り師はため息をつきながら、注文を受け入れたのです。
娘は背中一面を突き刺す何百本もの針に耐えた後、色揚げのために湯浴みし、うなされながら湯から上がると、彫り師のいたわる声も手も払いのけて、畳に身を投げ悶え苦しみました。「出てって」と呻く娘に従って二階に上がろうとした彫り師がちらと娘を見ると、暗闇の中のたうつ白い体を、濡れた黒髪がしゃらしゃらと撫でる姿に思わず怖気だちました。
とっぷりと夜が更け、凜と輝く満月がてっぺんまで昇ったころ、彫り師はそっと娘のもとを訪れました。
ゆっくりと障子を開けると、そこには一人の女がおりました。
女はゆったりと振り向き、衣と黒髪とがこすれる音だけが響きました。そして血を塗ったように色づく唇をふるわせて、何を彫ったのかそっと尋ねました。
──血を吸ったかのように咲き乱れるのは椿。鮮やかな色とは裏腹に、匂いも香りも燻らず、その最期にはぼとりと首を落とす──
まあ素敵!そう微笑んだ女は先を促しました。じゃあこの恐ろしい化け物はどんないわくがあるのかしら、と。
──その化け物は般若。強大な力、鮮烈な美しさ、燃え尽きぬ情念を持つ鬼という化け物の女。怒りに打ち震える女鬼は般若と呼ばれ畏れられる──
その言葉にまた嬉しそうに女は頷きました。
もう一度背中を見せてくれと思わず彫り師が頼んでしまうその姿は、どんなに艶やかなものだったでしょう。彫り師の呼びかけに応じた女は肩にかかっていた着物を落とし、長い髪をかきあげて背中を満月の下に曝け出しました。その後ろ姿に、彫り師は思わず息をのみました。
月光に照らされた真っ白な背中には、滴るような椿が首を傾けており、つうっと流れた髪のしずくがまるで夜露のように花弁を濡らしています。中心に息づく般若の金の瞳は、煌々と闇に浮かび上がり、女が深く息をつく度に蠕動し、脈打っています。
言葉を失った彫り師が鏡に映る女の瞳をふと見ると、女は目尻と口の端をゆったりと歪ませて、密やかに囁きました。
──ありがとう。これで私、女になれた。
うっとりと瞳を閉じ、ほうと色のついたため息をついた彼女は、もう一人の美しい女でありました。
朝日の光とともに長い長い戦争の終結の知らせが届いたのは、その数刻後のこと。今の女には知る由もありませんでした。
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