深緑の砦

山万里

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第一章

2.電柱の広告

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真子は仕事の帰り、礼は学校の帰りに待ち合わせ、近くのショッピングモールに出かけた。

看護師のパートをしている真子。
ちょうど礼が学校終わりに友だちと遊んで時間を潰した頃に、同じように家路に着く。




こうして時折、真子と礼は近場で待ち合わせて帰りに出かけたりもする。




以前は、フルタイムで看護師をしていたのだが、離婚を機にパートになった。礼との時間を増やすためだ。

フルタイムの看護師は、年齢と共に体力的にも精神的にもキツいことが多かったが、やりがいは感じていた。職場の仲間も好きだった。




今は、パートの給料と優二からの養育費で何とかお腹いっぱいご飯を食べられるような生活は出来ている。


ただ、必要以上に貰わないのは、少しでも自立したかったからだ。

優二が、真子と礼が不自由なく暮らせるほどの金額を振り込める財力がある事は、元妻である真子が1番よく知っていた。


それを、何の惜しみもなく与えてくれるであろう優二の人柄も。
ただ、何のプライドかもわからないが、必要以上に貰う気にはならなかった。


経済的に自立したい気持ちと、パートになって礼との時間を優先したい気持ちの両立を考えれば、今貰っている養育費の金額は、以上でも以下でもない。妥当なところだろう。





それでも何だか真子は、どこか悔しい気持ちが拭えないのであった。







たった一度の、優二の過ちを、許すことが出来なかったのだ。









もう、一年半も前になる。
あの時の苦しさや、惨めさ、やるせなさは、ずいぶんと薄れた気がする。





礼の存在が支えになっているのはもちろん、優二自身が、誠意ある行動を示してくれるからかもしれない。


優しく責任感もある優二。家族も大切にしてくれる、頼り甲斐のある人だと思っていいた。それだけに、どうしても許せなかった。






会社の後輩女性と、たった一度の夜の過ち。優二と共に仕事で切磋琢磨した女性。その辺の事情は、職種も全く違う私は詳しく知らないし、知りたくもなかった。



相手の女性も勢いだったのか、家庭を壊す事が怖くなったのか、心底反省し償っていく誠意を表していた。離婚前に何度か話し合いも持った。


すごく嫌な女性なら、罵って騒いで、いくらでも怒りをぶつけようと思った。

だが、とても素直で素敵な女性だとさえ思ってしまった。





だからこそとてつもなく惨めな気持ちになったし、たった一度の過ちも許せない自分が嫌になり、優二との離婚を決意した。





簡単な決断ではない。
互いに忙しいながらにも、幸せな家庭を築けていると思っていた。しっかりとした絆で繋がっていると思っていた。




本当に、酔った勢いだったんだ。そこに男女の恋愛感情も何もない。優二もあの女性もそう言い続けた。


もう二度と関わらない。彼女は自ら別の支社への移動を希望し、会社を去った。彼女と優二は、もう十分過ぎるほどの制裁を、社内でも受けたであろう。





ストレスで痩せ細るほど、頑なに離婚しなかった優二だったが、もう口も聞かない真子に、とうとう優二も折れ、判を押したのであった。




真子もまた、大切な人に裏切られた心を、どう取り戻したら良いのか、わからなかった。離婚直後は、どのようにしてやり過ごしたのかも、あまり覚えていたない。








びゅうっと強い風が吹いた。
涼しくもない、生温かな風。
地面を這う落ち葉が足に当たり、チクっとした。



 
嫌なことを思い出したな。



深く息を吸って吐き、少し前を歩く礼に目をやった。

新しく買った、人気のキャラクターの靴下が入った袋を、楽しげにグルグルと回している。





私も礼も、今はこうして元気にやっている。



優二も少しは前を向いている。




もう、良いじゃないか。





そんな事を考えながら、家路を歩いていた。







ふと、電柱の張り紙に目がいく。




いつも踊る道。
電柱など気にした事はなかった。





「看護師、求む」
薄汚れた電柱の灰色に、妙に目立つ真っ赤な文字。




ネットで十分過ぎるほどの立派な求人広告ができるこの時代に、今どき電柱に張り紙?誰がこんな物見るのだろうか。





怪しげなその張り紙に、余計に目がついてしまう。
どうやら、大型精神病院の看護師募集の求人のようだ。






真子は、何かとてつもなく違和感を感じた。それが何なのか、すぐにわかった。










遠いのだ。
今ここに存在している、この求人が貼られたこの土地から、とても遠い地なのだ。
飛行機こそ使わないが、新幹線やバスを乗り継いで、何時間もかけていくような土地。



違和感はそれだけではなかった。
異様に給与が高い。普通の看護師の給料として、ギリギリあり得ないような、何か特別な事情があると、あり得るような。そんな額だった。




真子は想像してみた。この給与をもらう生活を。



優二からの養育費もプラスすると、ちょっと贅沢な暮らしができるような程。
何なら、優二からの養育費も要らないようなくらいに。

 









「ママ?早く!ご飯、冷めちゃうよ!」






ふっと我に帰った。
礼と真子がお気に入りのご飯屋さんで、今日の夕飯はデリバリーにした。すっかりお腹が空いていた。




ガサゴソと美味しい香りが立ち込める紙袋を片手に、急いでスマートフォンを取り出し、カメラを起動した。




電柱の広告を写した。






小走で、礼に駆け寄る。








「お腹すいたね!」






「うん、だから早く帰ろうよ!」









礼の新しい靴下が入った袋は、振り回し過ぎたのか、すでにぐしゃっとしわが寄っていた。
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