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第三章 春
Order12. 君の声が聴きたくて
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彼が帰って来た。永い旅を終え、またここ『春秋館』に戻って来た。冬季休業を終え、また店に活気が戻ってきた……。
久しぶりにやって来た店内に、あの子はいた。漆黒のピアノの前に腰を下ろし、僕の知らない曲を優雅な指先から生み出している。
もうすぐ彼が、僕のお決まりメニュー「モカブレンド」を運んで来るだろう。
彼女が彼に惹かれているのは知っている。見ていればわかる。彼女は隠そうとしているけれど、彼女の視線の先にはいつも彼がいる。彼の伏せた瞼。くせのない柔らかな黒髪。お客と歓談する声。彼の淹れるコーヒーの香り。洗い物をする細身の腕。すべて、彼女の視線の先にある。
彼の気持ちはどうしても読めない。いつも飄々としてどこか自信に満ちていて、だけど薄い瞳は誠実で、寡黙で、決してでしゃばらない。それでいてあの存在感はなんだろう。彼の気持ちはどこにあるんだろう。彼女は、彼のどこに惹かれたんだろう……。
でも、ピアノを弾いている時だけは違う。ピアノを弾いている時だけは、彼女は彼女の世界に陶酔している。恐らく、彼の存在もこの店の事も、彼女の頭から飛んでいるに違いない。
そして僕は、彼女のピアノを弾いている姿に惹かれたんだ。
しばらくしてピアノを弾き終えた彼女は、彼がカウンターに乗せたコーヒーを丸いお盆に乗せ、こちらに向かって歩いて来た。彼女がウェイトレスの役をやるのはめずらしい。
彼女は僕の座るテーブルに淹れたてのコーヒーをゆっくりと置くと、まるで音楽のような凛とした声で言った。
「これ、わたしのおごりです」
「え……」
思いもしない言葉が彼女の口から零れた。
「いつかのお礼です」
「お礼……?」
何の事かわからず、僕は彼女の微笑んだ顔を見上げる。細めた瞳は優しくて、僕にはまるで女神のように見えた。だけど、彼女はそれ以上何も言わない。カップに目を落としてみると、それはいつもの「モカブレンド」ではなく、コクのある香りが漂っている。
「キリマンジャロ。たまには違うのもいいですよ」
そう言って彼女は薄い水色の花柄スカートと長い髪を翻し、自分の指定席に戻って行った。
「姉ちゃん、何か元気になれる曲弾いてくれや」
「はい」
カウンターに座ったお客のリクエストを受け、彼女の指先から新たな旋律が生まれていく。やっぱり僕の知らない曲。いや、どこかで聴いたような気もする。昔の映画か何かだったかもしれない。アップテンポで、本当に気持ちがワクワクしてくるような旋律。今の彼女の気持ちをそのまま表しているようにも思える。数ヶ月振りに彼に会えた喜び。そして、彼女に会えた僕の喜びをもきっと。
元予備校生の少年は、銀縁フレームの眼鏡を通して無表情でそんな彼女の横顔に見入っていた。この春無事に大学への進学を果たし、予備校の帰り道に店の前を通る事もなくなった。それでも少年は、一週間に一度ここへ来てこの席に座る習慣を再び取り戻そうとしていた。
コーヒーの味など何もわからない。視線の先には彼女がいる。それがすべてだった。それだけが今の少年を支えているすべてだったのだ。
本当はコーヒーなんてどうでもいいんだ。
だけど僕は、彼の淹れるモカブレンドを飲みにこれからも通うだろう。
君のピアノが聴けるなら。
君の声が聴けるなら。
久しぶりにやって来た店内に、あの子はいた。漆黒のピアノの前に腰を下ろし、僕の知らない曲を優雅な指先から生み出している。
もうすぐ彼が、僕のお決まりメニュー「モカブレンド」を運んで来るだろう。
彼女が彼に惹かれているのは知っている。見ていればわかる。彼女は隠そうとしているけれど、彼女の視線の先にはいつも彼がいる。彼の伏せた瞼。くせのない柔らかな黒髪。お客と歓談する声。彼の淹れるコーヒーの香り。洗い物をする細身の腕。すべて、彼女の視線の先にある。
彼の気持ちはどうしても読めない。いつも飄々としてどこか自信に満ちていて、だけど薄い瞳は誠実で、寡黙で、決してでしゃばらない。それでいてあの存在感はなんだろう。彼の気持ちはどこにあるんだろう。彼女は、彼のどこに惹かれたんだろう……。
でも、ピアノを弾いている時だけは違う。ピアノを弾いている時だけは、彼女は彼女の世界に陶酔している。恐らく、彼の存在もこの店の事も、彼女の頭から飛んでいるに違いない。
そして僕は、彼女のピアノを弾いている姿に惹かれたんだ。
しばらくしてピアノを弾き終えた彼女は、彼がカウンターに乗せたコーヒーを丸いお盆に乗せ、こちらに向かって歩いて来た。彼女がウェイトレスの役をやるのはめずらしい。
彼女は僕の座るテーブルに淹れたてのコーヒーをゆっくりと置くと、まるで音楽のような凛とした声で言った。
「これ、わたしのおごりです」
「え……」
思いもしない言葉が彼女の口から零れた。
「いつかのお礼です」
「お礼……?」
何の事かわからず、僕は彼女の微笑んだ顔を見上げる。細めた瞳は優しくて、僕にはまるで女神のように見えた。だけど、彼女はそれ以上何も言わない。カップに目を落としてみると、それはいつもの「モカブレンド」ではなく、コクのある香りが漂っている。
「キリマンジャロ。たまには違うのもいいですよ」
そう言って彼女は薄い水色の花柄スカートと長い髪を翻し、自分の指定席に戻って行った。
「姉ちゃん、何か元気になれる曲弾いてくれや」
「はい」
カウンターに座ったお客のリクエストを受け、彼女の指先から新たな旋律が生まれていく。やっぱり僕の知らない曲。いや、どこかで聴いたような気もする。昔の映画か何かだったかもしれない。アップテンポで、本当に気持ちがワクワクしてくるような旋律。今の彼女の気持ちをそのまま表しているようにも思える。数ヶ月振りに彼に会えた喜び。そして、彼女に会えた僕の喜びをもきっと。
元予備校生の少年は、銀縁フレームの眼鏡を通して無表情でそんな彼女の横顔に見入っていた。この春無事に大学への進学を果たし、予備校の帰り道に店の前を通る事もなくなった。それでも少年は、一週間に一度ここへ来てこの席に座る習慣を再び取り戻そうとしていた。
コーヒーの味など何もわからない。視線の先には彼女がいる。それがすべてだった。それだけが今の少年を支えているすべてだったのだ。
本当はコーヒーなんてどうでもいいんだ。
だけど僕は、彼の淹れるモカブレンドを飲みにこれからも通うだろう。
君のピアノが聴けるなら。
君の声が聴けるなら。
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