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第三章 春
Order13. 春のきまぐれ
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鈴懸の木……一般にプラタナスと呼ばれる木々が春の訪れを告げている。『春秋館』のガラス窓越しに見えて立ち並ぶその姿は雄々しく、清々しい。幾千にも分かれた枝葉が、永い冬を越えてやっと暖かな季節を迎えた事を喜び、はしゃぐように揺れていた。
彼に会うのも数ヶ月振りになる。こんな風に何ヶ月も会わないのにはもう慣れっこになっているはずなのに、今日という日は何故か未だにドキドキする。彼に会うのが恐いと感じてしまう。
彼が変わってるんじゃないか。自分の知らない目をしているんじゃないか。どこかよそよそしくなっていたらどうしよう。笑顔を向けてくれなかったらどうしよう……。
だけどそんな心配は、いつもあっさりと払拭される。彼と一度でも目を合わすと、それらがすべて無用な心配である事はすぐにわかる。彼がなんにも変わっていない事を知る。いつもの涼しい瞳も、サラリと落とした黒髪も、胸ポケットから煙草を取り出す時の仕草さえも。
臨時休業のポスターは剥がされ、店の扉には「OPEN」の札が下げられた。大学も春休みに入っていたので、少女もしばらくは詰めて店に入る事ができる。
「こんにちは! いつものお願いね」
「やっと冬眠から覚めたのか。まだかまだかって待ってたんだよ」
「あ、お姉さん、お水ちょうだい!」
賑やかだ。
いつもの活気が戻ってきた。
春。春秋館が命を取り戻す季節。
臨時休業が明けると、いつも少女とピアノはふたりぼっち。
常連客はみんな彼の旅の話に夢中になるのだ。そんな光景に、やっぱりちょっぴりジェラシーを感じたが、今回はそれ以上に嬉しかった。春のセイだろうか。自分の存在を無視されても、気に留めて貰えなくても、去年の秋とは違い、今日は平気だった。青年がここにいる。自分もここにいる。そしてお客様がいる。また春がやってきた。それだけで今は満足しよう。
少女は、誰も聴かないであろう曲を、その優雅な指先から生み出していた。
近所の予備校生が入って来る。いや、もしかしてもう予備校生ではないかもしれない。少女は、数ヶ月前彼の存在に救われた事を覚えていた。この店の扉を開けたくて、でも開けられなくて……。自分の居場所を一瞬疑った季節。そんな時、この少年が声を掛け、扉を開けてくれた。そのお陰で少女はいつもの自分に戻る事ができた。
少女はピアノの前から離れ、お客の話し相手に忙しい彼に代わり、ウェイトレス役を引き受けた。
青年は、少年がいつも注文するモカブレンドを淹れようとしたが、少女からのオーダーで「キリマンジャロ」に変更した。カウンターのお客達との歓談の合間、一瞬だけ青年は不思議そうな顔を少女に向けた。
少女が「この間のお礼です」と微笑んでコーヒーを置くと、少年は滅多に発さない低いバリトンで「お礼……?」と不思議顔をした。もちろん、少年が自分を助けた意識などない事は百も承知だった。それでも言わずにはいられなかった。それでいい。それで自分の気持ちは済むのだから。
少女は満足気にピアノの前に戻ると、カウンターにいる年配で白髪頭のお客からリクエストが入った。彼女は頷くと、指先をまるで踊り狂う波のように動かし、テンポの良い曲を弾き始めた。
客足が途絶えると、青年は一息ついてさっきまでお客が座っていたカウンターの席に座り、長袖シャツを腕まくりして言った。
「さっきのお客さんの話、聴いてた? ヤスさん。ほら白髪の……」
「え、ううん。何の話?」
少女はお客の去ったテーブルをバッシングしながら答える。
「近所のK公園、今が見頃なんだって」
「見頃って、桜の事?」
「もしかしてもう見に行った?」
「わざわざは行ってないわ。うちの近所の神社に大きな木がたくさんあるから、通る度に目に入る位で」
「あ、それなら良かった」
「? 何が?」
「永い事海外に行ってたら日本が恋しくなって、桜がすごく見たくなったんだ。これでも予定より早く帰国したんだよ」
「え、そうなの?」
意外であった。青年の頭には、いつか海外永住する事しかないと思っていたから。
「店閉めたら、行ってみる?」
「え! いいの?」
少女は大きな声をあげた。
「夜桜。たまにはいいでしょ」
青年はいたずらっぽい目で笑った。彼が誘ってくれるなんて滅多にない事である。気まぐれだろうが、少女は飛び上がる程嬉しくなった。
「あ、それからいつも来る予備校の男の子、どうかしたの? 君がおごってあげるなんて」
青年は、窓越しに見えるプラタナスの緑を、まるで眩しいものでも見るように目を細めて見つめながら言った。
「あぁ、あれね……ううん、なんでもないの。気まぐれ気まぐれ」
理由を説明する訳にもいかないので、少女は曖昧にごまかした。
「ふーん」
いつもの事だが、青年もそれ以上何も訊かなかった。
少女は軽い足取りで店の外に出ると、両手を広げて暖かな空気を思いっきり吸い込んだ。
春はまだ始まったばかり。束の間の幸せかもしれないけど、今を満喫しよう。
どうか、少しでも永くこんな時間が続きますように……。
例え桜でも構わない。どうか、少しでも彼が日本に執着してくれますように……。
彼に会うのも数ヶ月振りになる。こんな風に何ヶ月も会わないのにはもう慣れっこになっているはずなのに、今日という日は何故か未だにドキドキする。彼に会うのが恐いと感じてしまう。
彼が変わってるんじゃないか。自分の知らない目をしているんじゃないか。どこかよそよそしくなっていたらどうしよう。笑顔を向けてくれなかったらどうしよう……。
だけどそんな心配は、いつもあっさりと払拭される。彼と一度でも目を合わすと、それらがすべて無用な心配である事はすぐにわかる。彼がなんにも変わっていない事を知る。いつもの涼しい瞳も、サラリと落とした黒髪も、胸ポケットから煙草を取り出す時の仕草さえも。
臨時休業のポスターは剥がされ、店の扉には「OPEN」の札が下げられた。大学も春休みに入っていたので、少女もしばらくは詰めて店に入る事ができる。
「こんにちは! いつものお願いね」
「やっと冬眠から覚めたのか。まだかまだかって待ってたんだよ」
「あ、お姉さん、お水ちょうだい!」
賑やかだ。
いつもの活気が戻ってきた。
春。春秋館が命を取り戻す季節。
臨時休業が明けると、いつも少女とピアノはふたりぼっち。
常連客はみんな彼の旅の話に夢中になるのだ。そんな光景に、やっぱりちょっぴりジェラシーを感じたが、今回はそれ以上に嬉しかった。春のセイだろうか。自分の存在を無視されても、気に留めて貰えなくても、去年の秋とは違い、今日は平気だった。青年がここにいる。自分もここにいる。そしてお客様がいる。また春がやってきた。それだけで今は満足しよう。
少女は、誰も聴かないであろう曲を、その優雅な指先から生み出していた。
近所の予備校生が入って来る。いや、もしかしてもう予備校生ではないかもしれない。少女は、数ヶ月前彼の存在に救われた事を覚えていた。この店の扉を開けたくて、でも開けられなくて……。自分の居場所を一瞬疑った季節。そんな時、この少年が声を掛け、扉を開けてくれた。そのお陰で少女はいつもの自分に戻る事ができた。
少女はピアノの前から離れ、お客の話し相手に忙しい彼に代わり、ウェイトレス役を引き受けた。
青年は、少年がいつも注文するモカブレンドを淹れようとしたが、少女からのオーダーで「キリマンジャロ」に変更した。カウンターのお客達との歓談の合間、一瞬だけ青年は不思議そうな顔を少女に向けた。
少女が「この間のお礼です」と微笑んでコーヒーを置くと、少年は滅多に発さない低いバリトンで「お礼……?」と不思議顔をした。もちろん、少年が自分を助けた意識などない事は百も承知だった。それでも言わずにはいられなかった。それでいい。それで自分の気持ちは済むのだから。
少女は満足気にピアノの前に戻ると、カウンターにいる年配で白髪頭のお客からリクエストが入った。彼女は頷くと、指先をまるで踊り狂う波のように動かし、テンポの良い曲を弾き始めた。
客足が途絶えると、青年は一息ついてさっきまでお客が座っていたカウンターの席に座り、長袖シャツを腕まくりして言った。
「さっきのお客さんの話、聴いてた? ヤスさん。ほら白髪の……」
「え、ううん。何の話?」
少女はお客の去ったテーブルをバッシングしながら答える。
「近所のK公園、今が見頃なんだって」
「見頃って、桜の事?」
「もしかしてもう見に行った?」
「わざわざは行ってないわ。うちの近所の神社に大きな木がたくさんあるから、通る度に目に入る位で」
「あ、それなら良かった」
「? 何が?」
「永い事海外に行ってたら日本が恋しくなって、桜がすごく見たくなったんだ。これでも予定より早く帰国したんだよ」
「え、そうなの?」
意外であった。青年の頭には、いつか海外永住する事しかないと思っていたから。
「店閉めたら、行ってみる?」
「え! いいの?」
少女は大きな声をあげた。
「夜桜。たまにはいいでしょ」
青年はいたずらっぽい目で笑った。彼が誘ってくれるなんて滅多にない事である。気まぐれだろうが、少女は飛び上がる程嬉しくなった。
「あ、それからいつも来る予備校の男の子、どうかしたの? 君がおごってあげるなんて」
青年は、窓越しに見えるプラタナスの緑を、まるで眩しいものでも見るように目を細めて見つめながら言った。
「あぁ、あれね……ううん、なんでもないの。気まぐれ気まぐれ」
理由を説明する訳にもいかないので、少女は曖昧にごまかした。
「ふーん」
いつもの事だが、青年もそれ以上何も訊かなかった。
少女は軽い足取りで店の外に出ると、両手を広げて暖かな空気を思いっきり吸い込んだ。
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