春秋館 <一話完結型 連続小説>

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第三章 春

Order17. 面影 《後編》

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参考:《前編》
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/5857937
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 青年が掌を広げ女性に見せたのは、いつかのお客が置いていった、リーフの形をしたガラス細工のストラップだった。

 三十分後、青年と少女は他に誰もいない店内にいた。少女はピアノの椅子に。青年はカウンターの椅子に腰を掛けていた。
「いつから気づいてたの? 彼女のこと」
「はっきりわかったのは、もちろん彼女の反応を見た時だよ。それまでは、可能性だけだった」
「彼女があの男の人の元恋人だって、どうして考えたの?」
「『エレジー』だよ」
「『エレジー』……」
「そう。君は気づかなかった? 彼がリクエストした『エレジー』」
「ラフマニノフ……でも、それだけで?」
「彼女がどうしてラフマニノフばかりリクエストするのか不思議だなって思ってた。彼女にとっても彼にとっても、ラフマニノフの曲は何より大切だったんだと思う。それに、彼がやたら帽子を深く被って出て行ったの覚えてる?」
「そうだったかな? よく覚えてないけど……」
「彼女が以前言ってたんだ。大好きだった人が急にいなくなった。もうこの世にいないかもって。そして彼女は、お父さんの選んだ人と結婚する事になってたんだよ。彼、きっと彼女との交際の事で、誰かに狙われてたか追われてたんだよ。それに、彼はあの日吸わなかったけど、僕と同じ煙草の匂いがしてた」
「すごいわね、それだけでそんな推理ができるなんて。わたしにはちっともわからなかったわ」
「人間観察はお得意だからね。それに、彼女と彼、人間的にどこか同じ匂いを感じたんだ」
 そう言って青年は笑った。少女は、複雑な気持ちでつい三十分程前の出来事を想い起こした。

 あの後……。あの後彼女は少女に支えられながら立ち上がり、何かを青年から受け取って店内に入った。そしてコロンビアブレンドを初めて自分から注文し、『エレジー』をリクエストした。
 次第に落ち着きを取り戻した女性は、黙って少女の奏でるメロディーに耳を傾けていた。その横顔は何かを祈るマリア像のように、どこまでも美しかった。
 訳もわからずにピアノを弾く少女は、ただ不安に駆られていた。いったいふたりの間にどんな会話が交わされたのか。青年はそれを自分に話してくれるのか……。

 『エレジー』の演奏が終わった後、コロンビアブレンドを飲み干し、女性は席を立った。そして去り際、少女に言った。
「ありがとう。ラフマニノフを弾いてくれて。私の一番楽しい記憶の中にはいつもラフマニノフがいたの」
 そして青年を振り向いて言った。
「ありがとう。コロンビアブレンド。めったに来ないのに覚えててくれて。それに、これも……」
 そう言ってキラリと光るストラップを掲げた。少女は「あっ」と小さく叫んだ。
「ありがとう、気づいてくれて。……ここの店長があなたで良かった」
 彼女の深い黒い瞳が一瞬潤んだ。だけどにっこりと微笑むと、ストラップを握り締めたまま背中を向けた。最後に今度は青年がカウンター越しに声を掛ける。
「まだ、六月の花嫁の夢は捨てなくていいんじゃない」
「ふふ、そうね。今年だって、頑張ればまだ間に合うかもしれないわね」
 女性は背中で冗談めかして言うと、ガランと音を立てて木製の扉を押し、出て行った。
「あ、待って!」
 少女は思わず女性を追い掛けた。何を言うつもり? 自分でもわからない。でも、少女は走っていた。通りに出た所で追いついた女性は、少女を振り向いて懐かしそうに目を細める。
「私も昔、ピアノを弾いてたの」
「……そうだったんですか。だからあんなにたくさん曲を知って……」
「彼の仕事がうまくいかない時とか、私が父との事で落ち込んでる時とか、いつもピアノを弾いてた。いつもピアノと一緒にふたりでいたわ」
「…………」
「まるで、今のあなたと彼みたいにね」
「え!?」
 少女は驚いて目を見開いた。女性は優しい笑みを浮かべている。
「あの人、いい人ね。……絶対手放しちゃダメよ」
「…………」
 女性の目には、熱意が込められていた。少女が絶対に見たくなかった程の。
「あんな人に出逢ったの、初めてよ。若いのに、すっかり落ち着いちゃって。人生悟りきってるみたいな顔して。彼には、何もかもお見通しみたいね。人の心が」
「…………」
「でも、ひとつだけ彼に読めなかった心があるわ」
「……?」

〝君の眼の中に、僕はいない。去年店に飛び込んで来た日から変わってない。君は、僕の中に彼の面影を見てるだけだよ〟

 そう。そうだったかもしれない。でも、それだけじゃない。最初はあの人の中に彼を見ていた。寡黙で、同じ匂いのする男。ただそれだけだった。でも、まるで麻薬のように、会いたくなった。会いに来ても会いに来ても会えないあの人に、会いたくて仕方なかった。……あの人には、その心だけは最後まで読めなかった……。

「それとも、それすら彼の計算範囲だったのかしら……」
「……なんの事ですか?」
 少女は不安気に問い返す。
「ううん。何でもないわ。じゃ、さよなら」
 そう言うと、彼女は未練なく少女に背を向けた。

 少女は、相変わらず複雑な気持ちで譜面台に映る自分の顔を見つめながら呟いた。
「彼女、彼と再会できるかしら?」
「さぁね。神のみぞ知る、じゃない?」
「また来てくれるかしら?」
「さぁ、どうだろう」
「冷たい……」
 少女はふくれて青年を睨んだ。その理由は、何も今のことだけじゃない。青年があの男性を見た時に感じたインスピレーション。彼女と彼とのつながり、ラフマニノフやリーフのストラップの事。彼女とすれ違って会えなかった時に悔しそうにしたあの表情。一言話してくれたら、こんなに永い間ヤキモキせずに済んだのに。ひとりで考えてひとりで行動するんだから。そう思うと、むくれずにはいられなかった。
 そして、あの男性に『エレジー』をリクエストされ、弾いた時に何も感じなかった自分も少し恥ずかしかった。彼女の事を想い出していたのに。心の奥で少しだけ「ラフマニノフ」に対する抵抗があった。ただそれだけだった。

〝あの人、いい人ね。……絶対手放しちゃダメよ。
 あんな人に出逢ったの、初めてよ。
 彼には、何もかもお見通しみたいね。人の心が。
 でも、ひとつだけ彼に読めなかった心があるの〟

 女性の言った言葉が甦る。
 彼女は、わたしの知らないどんな彼を見たんだろう。
 わたしにはまだ見せてない彼の姿が、きっとまだまだたくさんあるはず。

 少女は大きな窓ガラスに映る梅雨入り前の景色を眺めた。
 
 いつかふたりで来てくれたらいい。六月の花嫁……そんな夢が彼女にあるのなら、叶えばいいのに。
 彼と彼女。一度も同じ景色に重ならなかったふたりの残像が、今少女の記憶の中で
初めてひとつになった。記憶の中のふたりの背景には『エレジー』が流れている。
 哀しいほどに、絵になる景色だった。

 そして心の中で、「ヤキモチ妬いたりしてごめんなさい」とふたりに謝った。
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