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第四章 秋
Order27. 黄金色の季節
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大通りへと続く細い道に連なるプラタナスは、少しずつ色づき始めている。店の外を走り抜ける風はもうすっかり秋色で、コーヒーの香りによく似合う季節へと移っていた。
「お帰り、店長。無事帰って来れたのね」
「今年の夏は楽しかったわよ。マスターに負けじと、家族でハワイに行って来たの!」
「ふぅん。オレは何とかランドっていうテーマパークに家族サービスで連れて行かれたけど、疲れに行ったようなもんだったよ」
「うちは受験生がいるから大変だったわぁ。ずっと家にいるから気遣って気遣って」
賑やかな午後。再び活気付き始めた店内。若い店長こと青年は、カウンターの中から夏季休業前と変わらぬ笑顔でお客の話を聴いている。
ピアノ弾きの少女はホッとしていた。青年が無事に帰って来た事に、安堵していた。秋の営業は短い。すぐに冬が来る。だけどしばしの安らぎの時間に、少女は浸る事にした。
「オレは先週法事がひと段落してほっとしたとこだよ」
いつもは、入って来るなり青年の向かいを陣取り、他愛ない話で盛り上がっている白髪頭のヤスさんが、めずらしくトーンを落とした声で言った。
「何よ、ヤスさん。暗いじゃない」
「法事って、誰のだい?」
カウンターやテーブル席に座っている常連客が、一斉にヤスさんを振り返る。
「ばばぁだよ。去年七十五で逝ったオレの母親の一周忌だ」
ヤスさんは、コーヒーカップを持て余すように、まるでワイングラスのようにくるくると回している。
「そうか。あれからもう一年も経つんですね」
青年が一年前を想い出すように呟いた。
「あぁ。心臓発作でコロンと逝っちまいやがった。なんの前触れもなく。全く、こっちの心の準備も何もできてないってのに」
ピアノを弾きながら、少女も一年前の事を想い出していた。
そう言えば、そんな事があったっけ。ヤスさん、顔面蒼白でお店に飛び込んで来て……。
偶然にも、少女の手から流れているのは、ショパンのエチュード『別れの曲』だった。
「じゃあね、店長。また来るわ」
「またよろしく」
常連客数人が、一通りの話を終えて席を立って行く。ヤスさんは二杯目のブレンドをお替りすると、大きく息をついた。やっぱりいつになく元気がないようだ。
「なぁ、店長。お前さんはどう思う? 人の死ってもんに対して。オレはこの年になっても未だ受け入れられる死と受け入れられない死とがあるって思ってるんだ。ばかげてるのかな」
青年の父親は、もうとっくに亡くなったと聴いた事がある。親戚付き合いもない彼は、文字通り天涯孤独の身なのだ。そんな彼が、人の死についてどんな考えを持っているのだろう。
「自分の生まれた場所に帰るって事かな……」
青年が、ぼそりと呟く。
「人は地球上での修行を終えたら、仮の姿を返して元の姿……魂ってものに還るとしたら。そして、魂の住む本来の場所に帰って行く。例えばそんな考えはどうですか?」
「何のために地球に下りてくるんだい? 何のための修行なんだい?」
「親が子供を修行に出すのと同じで、いわゆる神ってものが存在するなら、彼らが創造した魂を下界に修行に出してるって感じですかね。人間の親と違って、その代わり一切手出しはしない。どんな人生を歩もうが、彼らはただ観てるだけなんですけどね。ものすごい愛情で」
「大きな目で見たらそうなのかもしんねぇな。でも、実際直面するのは下界に残ってる人間だからな。そんな神の意思なんか何の救いにもならねぇな」
「確かにそうですね。亡くなった後に苦しい想いをするのは、残された人ばかりですから。それもまた修行の一環なのかなって思いますけど」
「突然逝っちまいやがったから、何も言えず仕舞いだよ。五十年以上世話になってきたのに、結局何も礼のひとつも言えないまま、終わっちまった。人生ってそんなもんかよ。映画みたいに、感動的な終わり方を迎えるわけにはいかねぇのかよ」
ヤスさんは自分の運命に対して自嘲気味に言う。
「僕も、昔父を事故で亡くしたんですが、やっぱり同じ事を思いましたよ」
「店長の親父さんがかい?」
「ええ。それこそ突然だったから、何も言えないまま終わってしまいました。僕はまだまだ恩返しできるような年齢じゃなかったですからね。でも、僕が今ここにいて色んな人に出逢えるのは、あの人がいたからだし。言葉で伝えられなくても、ずっと感謝しています。僕の命が終わる時まで」
「そうか……」
ヤスさんは、二杯目のコーヒーを二口喉に流し込む。
「店長の親父さんじゃ、随分若いまま逝っちまって、不憫だったろうなぁ。息子ひとり残して」
「さぁね。酒の好きな人だったんで、今頃上で煽ってるんじゃないかな。誰の注意も受ける事ないし」
青年は笑った。
わかっているはずだ。青年は、「神が」とか「修行だから」とか言ってるけど、ヤスさんの言う通り、残された者の辛さには変わりがない。
だけど、命を終えたらそれで終わりだと思ってしまえば辛いけど、まだ次の世界がある。いつか行くはずの自分を待っている人が住む世界がこの宇宙のどこかにある。そう思えば、ほんの少しでも痛みが和らぐかもしれない。だから、そんな話をしたんだろう。
少女はそう思った。
ヤスさんはカウンターに頬杖をつくと、何もないお店の天井の隅っこをしきりに見つめながら言った。
「ばばぁがさ……オレを呼んでるような気がしてならないんだよ。親父はとっくに逝っちまって、向こうで会えたのかどうか知らないけど、もしか親父がばばぁを待たずに生まれ変わってたら、ばばぁ今頃ひとりでいるのかなと思ったらさ……」
「そんな、縁起でもない……」
思わず少女は手を止め、口を挟んだ。
「……ま、急ぐ必要はないけどな」
ヤスさんはコーヒーを飲み干すと、小銭を置いて席を立った。
「すまんな。つまらない話しちまって。せっかくあんたが帰って来たってのに、湿っぽくなっちまったな」
「いえ。僕もヤスさんに一番に会いたかったですから」
「そっか。それはありがたいな」
ヤスさんは照れたように笑うと、右手を上げて出て行った。
「いくつになっても、男の人にとって母親って特別なのね」
言ってすぐに後悔するのは、少女の長所であり短所である。彼の母親はもう新しい人生を歩んでいて、今じゃどこに住んでいるのかもお互い知らないと聴いた事があった。
「男だけに限らないでしょ。女の人にとってもそうじゃない。母親って。多分だけど」
青年は口を片方持ち上げると、洗い物を始めた。
「ヤスさんて、本当にあなたの事大好きなのね……」
「え、何か言った?」
青年が顔を上げて訊き返してきたが、少女は肩を竦めながら首を振ると、硬い鍵盤に指を置き、『別れの曲』を再び弾き始めた。
ガラス窓の外、プラタナスの葉がまた一枚色づいていく。温かな仲間達の元を離れ、冷たいコンクリートへと舞い降りる日は刻一刻と近づいているのだ。
短い黄金色の季節がやってくる。
「お帰り、店長。無事帰って来れたのね」
「今年の夏は楽しかったわよ。マスターに負けじと、家族でハワイに行って来たの!」
「ふぅん。オレは何とかランドっていうテーマパークに家族サービスで連れて行かれたけど、疲れに行ったようなもんだったよ」
「うちは受験生がいるから大変だったわぁ。ずっと家にいるから気遣って気遣って」
賑やかな午後。再び活気付き始めた店内。若い店長こと青年は、カウンターの中から夏季休業前と変わらぬ笑顔でお客の話を聴いている。
ピアノ弾きの少女はホッとしていた。青年が無事に帰って来た事に、安堵していた。秋の営業は短い。すぐに冬が来る。だけどしばしの安らぎの時間に、少女は浸る事にした。
「オレは先週法事がひと段落してほっとしたとこだよ」
いつもは、入って来るなり青年の向かいを陣取り、他愛ない話で盛り上がっている白髪頭のヤスさんが、めずらしくトーンを落とした声で言った。
「何よ、ヤスさん。暗いじゃない」
「法事って、誰のだい?」
カウンターやテーブル席に座っている常連客が、一斉にヤスさんを振り返る。
「ばばぁだよ。去年七十五で逝ったオレの母親の一周忌だ」
ヤスさんは、コーヒーカップを持て余すように、まるでワイングラスのようにくるくると回している。
「そうか。あれからもう一年も経つんですね」
青年が一年前を想い出すように呟いた。
「あぁ。心臓発作でコロンと逝っちまいやがった。なんの前触れもなく。全く、こっちの心の準備も何もできてないってのに」
ピアノを弾きながら、少女も一年前の事を想い出していた。
そう言えば、そんな事があったっけ。ヤスさん、顔面蒼白でお店に飛び込んで来て……。
偶然にも、少女の手から流れているのは、ショパンのエチュード『別れの曲』だった。
「じゃあね、店長。また来るわ」
「またよろしく」
常連客数人が、一通りの話を終えて席を立って行く。ヤスさんは二杯目のブレンドをお替りすると、大きく息をついた。やっぱりいつになく元気がないようだ。
「なぁ、店長。お前さんはどう思う? 人の死ってもんに対して。オレはこの年になっても未だ受け入れられる死と受け入れられない死とがあるって思ってるんだ。ばかげてるのかな」
青年の父親は、もうとっくに亡くなったと聴いた事がある。親戚付き合いもない彼は、文字通り天涯孤独の身なのだ。そんな彼が、人の死についてどんな考えを持っているのだろう。
「自分の生まれた場所に帰るって事かな……」
青年が、ぼそりと呟く。
「人は地球上での修行を終えたら、仮の姿を返して元の姿……魂ってものに還るとしたら。そして、魂の住む本来の場所に帰って行く。例えばそんな考えはどうですか?」
「何のために地球に下りてくるんだい? 何のための修行なんだい?」
「親が子供を修行に出すのと同じで、いわゆる神ってものが存在するなら、彼らが創造した魂を下界に修行に出してるって感じですかね。人間の親と違って、その代わり一切手出しはしない。どんな人生を歩もうが、彼らはただ観てるだけなんですけどね。ものすごい愛情で」
「大きな目で見たらそうなのかもしんねぇな。でも、実際直面するのは下界に残ってる人間だからな。そんな神の意思なんか何の救いにもならねぇな」
「確かにそうですね。亡くなった後に苦しい想いをするのは、残された人ばかりですから。それもまた修行の一環なのかなって思いますけど」
「突然逝っちまいやがったから、何も言えず仕舞いだよ。五十年以上世話になってきたのに、結局何も礼のひとつも言えないまま、終わっちまった。人生ってそんなもんかよ。映画みたいに、感動的な終わり方を迎えるわけにはいかねぇのかよ」
ヤスさんは自分の運命に対して自嘲気味に言う。
「僕も、昔父を事故で亡くしたんですが、やっぱり同じ事を思いましたよ」
「店長の親父さんがかい?」
「ええ。それこそ突然だったから、何も言えないまま終わってしまいました。僕はまだまだ恩返しできるような年齢じゃなかったですからね。でも、僕が今ここにいて色んな人に出逢えるのは、あの人がいたからだし。言葉で伝えられなくても、ずっと感謝しています。僕の命が終わる時まで」
「そうか……」
ヤスさんは、二杯目のコーヒーを二口喉に流し込む。
「店長の親父さんじゃ、随分若いまま逝っちまって、不憫だったろうなぁ。息子ひとり残して」
「さぁね。酒の好きな人だったんで、今頃上で煽ってるんじゃないかな。誰の注意も受ける事ないし」
青年は笑った。
わかっているはずだ。青年は、「神が」とか「修行だから」とか言ってるけど、ヤスさんの言う通り、残された者の辛さには変わりがない。
だけど、命を終えたらそれで終わりだと思ってしまえば辛いけど、まだ次の世界がある。いつか行くはずの自分を待っている人が住む世界がこの宇宙のどこかにある。そう思えば、ほんの少しでも痛みが和らぐかもしれない。だから、そんな話をしたんだろう。
少女はそう思った。
ヤスさんはカウンターに頬杖をつくと、何もないお店の天井の隅っこをしきりに見つめながら言った。
「ばばぁがさ……オレを呼んでるような気がしてならないんだよ。親父はとっくに逝っちまって、向こうで会えたのかどうか知らないけど、もしか親父がばばぁを待たずに生まれ変わってたら、ばばぁ今頃ひとりでいるのかなと思ったらさ……」
「そんな、縁起でもない……」
思わず少女は手を止め、口を挟んだ。
「……ま、急ぐ必要はないけどな」
ヤスさんはコーヒーを飲み干すと、小銭を置いて席を立った。
「すまんな。つまらない話しちまって。せっかくあんたが帰って来たってのに、湿っぽくなっちまったな」
「いえ。僕もヤスさんに一番に会いたかったですから」
「そっか。それはありがたいな」
ヤスさんは照れたように笑うと、右手を上げて出て行った。
「いくつになっても、男の人にとって母親って特別なのね」
言ってすぐに後悔するのは、少女の長所であり短所である。彼の母親はもう新しい人生を歩んでいて、今じゃどこに住んでいるのかもお互い知らないと聴いた事があった。
「男だけに限らないでしょ。女の人にとってもそうじゃない。母親って。多分だけど」
青年は口を片方持ち上げると、洗い物を始めた。
「ヤスさんて、本当にあなたの事大好きなのね……」
「え、何か言った?」
青年が顔を上げて訊き返してきたが、少女は肩を竦めながら首を振ると、硬い鍵盤に指を置き、『別れの曲』を再び弾き始めた。
ガラス窓の外、プラタナスの葉がまた一枚色づいていく。温かな仲間達の元を離れ、冷たいコンクリートへと舞い降りる日は刻一刻と近づいているのだ。
短い黄金色の季節がやってくる。
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