始まらない物語

siruhi

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始まらないピンチ

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 俺といつきは大自然の中を歩きに歩いた。とはいえ道自体は平坦で、それほど苦労はしなかった。問題は、それでも休みなく歩き続けてると結構疲れるということで。
あつし、がんばれよ。もーちょっとである気がする」
「ねえから……絶対ねえから……」
 何なのこいつ。こいつの体力なんなの。同じように歩いてるはずなのに全然疲れた様子見せないんだけど。
 それが豆腐を入れるための冷蔵庫を求める情熱から来るものなのか、それともただのバカだからなのか、俺には分からなかった。
「あ」
 そんな時だった。樹が間の抜けた声を上げた。
「淳、見てみ」
「何? 冷蔵庫?」
「違うけど、ほら」
 樹が茂みの隙間から指し示したのは、開けた場所に張られたテント群だった。
「おお……? キャンプだ」
「だろ?」
「いや、ドヤ顔すんな。冷蔵庫はねえから」
「何でだよ。ここまで来たらあるだろ」
「どこまで行ってもねえよ」
「ちょっと聞いてくる」
「待て待て待て」
 さすがにちょっと真面目に止めた。ここがどこかも、相手が誰かも分からないのに不用意に近づくのはいくら何でもヤバイ。
「ヘタに声かけて不審者がいたらどうすんだよ。俺やだよ、行方不明のまま新聞載るの」
「家に連絡しとけばいいだろ」
「あっそうか」
 俺は唐突にカバンに放りこんだケータイの存在に気づいた。暇つぶしにゲームでもしようと思って持ってきたけど、本当に連絡手段として使うとは思わなかった。
「ついでにここがどこなのかも調べてもらったら?」
「そっかー! 樹、お前バカかと思ったら意外と賢いな」
「お前オレのことバカだと思ってたの?」
 俺は無視してケータイからのコール音に集中した。家の電話に出るのは百パーセント母親で、真っ先に怒鳴りつけて来るだろうけどこの際仕方ない。
 母親はなかなか出ない。出ろ、出ろ。さっさと出ろ。そして何でもいいから俺を叱ってくれ。
 ――ガチャッ
「! 出た! もしもし母さん?」
「違います!」
 ……はいぃ……?
 聞こえたのは全然知らない若い女の声。予想すらしてなかった事態に全身はフリーズしていた。樹はそんな俺を不思議そうに見つめている。
「聞こえてますか? もしもーし!」
「はあ……」
「いいですか? うろちょろせずに、そこでじっとしてて下さい。迎えに行きますから。いいですね?」
「へえ……?」
「分かったら返事!」
「はいっ!」
「よし!」
 ――ガチャッ
 通話は向こうから切られた。脳みそはまだ現実についていけてない。
 どういうことなんだよ、マジで……。
「……誰?」
 言葉を失ったままの俺に樹が尋ねてくる。
「なんか、若い女……」
「母ちゃん?」
「違う……」
「姉ちゃんいたっけ?」
「弟はいるけど姉ちゃんいねえ」
「そっかー……」
 樹はしばらく考えたようだった。
「お前んち、修羅場なんじゃない?」
「あんだよ修羅場って!」
 のほほんとした雰囲気の樹の口からとんでもない言葉が飛び出したせいで、俺はすっかりテンパった。やめてくれマジで。これ以上めんどくさいことになるのは本当に勘弁してくれ。
「だって知らない若い女が家の電話に出るって状況が想像できない」
「俺だってできんわ! でも違うから! 親父、母さんに頭上がんないから!」
「そこに付け込まれた?」
「違うってえええええ!」
 ダメだ、もうやだ。もー帰りたい。今すぐ帰りたい。
 俺は自宅で母さんと見知らぬ若い女が壮絶なバトルを繰り広げている光景を想像した。母さんなら大抵の相手には勝てるだろうけど、そういう問題じゃない。もはやこれは家族のピンチだ。
「帰ろう樹! 冷蔵庫探してる場合じゃねえ!」
「……あ、うー、えー……」
 樹はぽかんと口を開けて、何やら不鮮明な相槌を打った。
「おい、樹?」
「えー、えー、っと。どちらさま?」
 それは俺に向けられた言葉じゃなかった。樹の視線は俺の背後に向けられていた。つられるように背後を向く。
 そこには、緑色をした――鬼が立っていた。
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