始まらない物語

siruhi

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始まらない救いの手

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 それは、鬼だった。
 緑色のごつごつした肌。どんよりと濁った両眼。歯並びなんて問題外のノコギリみたいな歯。
 両足で立ってはいるが、明らかに俺やいつきと同じ人間には見えなかった。
「……い、樹」
あつし……」
 ああ、分かるんだ。俺も樹もすっかりビビってお互いの名前を呼び合うのが精一杯だった。
 見た目もヤバいけど、それより何よりあの鬼は武装していた。野球のキャッチャーが着てるような――あれよりはだいぶお粗末だが、プロテクターが胴を覆っている。そして、だらりと下げた手にはバット、もとい、殴られたらもっと痛そうな棍棒が握られていた。
 いつの間にか、口の中がからからに乾いていた。が、何とか声を絞り出した。
「な、なあ。襲って、こないよな?」
「さあ……逃げた方がよさそう?」
「……下がろう」
 俺と樹は互いに重なるようにしたまま、じりじりと鬼から後退した。相手は俺より頭ひとつは小さい。全力で走れば追いかけられても逃げ切れるんじゃないか。そんな風に期待していた。
「! 淳っ」
「!」
 樹が何かに気づいた。俺は促されるままそちらを見る。
「……嘘だろ……?」
 鬼との距離は広がるどころか縮まっていた。しかし、それは目の前の鬼との距離じゃない。
 俺たちはとっくに囲まれていたんだ。
 どいつもこいつも似たような姿をした鬼たちは、今度はあっちの方からじりじりと距離を詰めてくる。
 足が震えてもつれそうになった。樹が肩を掴んでくるが、その手も震えていた。
「なあ」
「何?」
「あのキャンプさ、こいつらのだったのかな」
 樹に言われて今さらながら思い出した。茂みの向こうにあったテント群。間違いなくあれにはこいつらが住んでたんだ。
 見つけたときはこれほどの人数がいるようには見えなかったから、多分どこかに出かけて帰ってきたところで俺たちを見つけたんだろう。
「……オレのせいかな」
 突然樹がそんなことを言い出した。
「え?」
「淳は危ないからって言ってたのにさ、オレが近づこうとしたから」
「おい何言ってんだ」
「淳に言われた時点でさっさとここから離れてればよかったのにな」
 掴まれた肩にぎゅっと力が込められた。
「ごめんな」
 やめろよ。そんな泣きそうな顔すんな。
 誰だってこんな山の中にあるキャンプに化け物が住んでるなんて思わねえだろ。
 こんなの、夢だ。だいたい家を飛び出してからこんな見知らぬところに来たこと自体がおかしなことだったんだ。
 ありえないピンチに遭ったことで、俺はようやくこの状況の異様さに気づきかけていた。ここはどこだ。こいつらは何だ。俺はどこに迷いこんだんだ。あの電話の女は誰だ。
 俺はどうして、こんな目に遭ってるんだ?
 考え出したらたまらなくなった。俺は何かを吐き出すようにゆっくり口を開いた。
「うあ、うああ……」
 意味のない呻きが溢れ出る。何事かと樹が俺を見る。でも、かまうもんか。
「うああああ、うああああああ!」
 俺はただ叫んだ。叫ばずにはいられなかった。そうすれば理不尽な現実を吹き飛ばせるというように、俺は叫び続けた。
 鬼たちがざわめく。武器を打ち鳴らし、威嚇めいた動きがさざ波のように広がっていった。
「淳、ヤバいぞ」
 樹が俺を揺さぶる。それでも俺は叫ぶことを止められなかった。
「今すぐ、目を閉じて息を止めなさい!」
 その時だった。一触即発の空気を切り裂くような声が辺りに響いた。
 え? と思う間もなく、軽い破裂音と共に視界が真っ白になった。
 同時に目と喉にツンとした痛みが走り、激しく咳き込む。たまらずしゃがみかけた俺の腕を誰かが掴んだ。
「走ってください、早く!」
 声の主は無茶なことを平気で告げると、力任せに俺の腕を引っ張った。その強さときたら、根元から腕が引っこ抜けるかと思ったくらいだ。
「樹、こっちだ!」
 俺は必死で樹に呼びかけた。
 痛みがひどくて目が開けられない。おそらくこの事態を引き起こした声の主は、俺をどんどん引っ張っていく。
 樹はちゃんとついてきているだろうか。俺は引っ張られている間、何度も樹の名前を呼んだ。
「ここまで来れば安全ですかね。さ、目を洗ってください。喉を潤すのも忘れずに」
 俺は強引に地面に両手をつかされた。手の平に水が流れる感触がしたから、俺は夢中で顔を洗った。目を拭って恐る恐る開くと、そこは川のほとりのようだった。
「大丈夫なようですね?」
 そこでようやく、俺は声の主を見た。そいつは頭からすっぽりと布の袋のようなものを被っていた。目の辺りにはゴーグルが縫い付けられている。一言で言って異様な雰囲気だった。
「あん……ゲホッ、誰……」
「騒乱鎮圧用の催涙煙幕を使いました。人体への後遺症はありませんが、無理すると辛いですよ」
 間違ってもこちらを労わるような言い方じゃなかった。俺は警戒しながらも川の水で数回うがいをした。
「申し遅れましたね。私はイヴェット・イルクス。グラントリー共和国の治安維持部隊に所属している者です」
 そいつは自己紹介しながら、頭の被り物を脱いだ。想像もしていなかった美少女がその正体で、俺は息を飲んだ。
「あなたを、迎えに来ました」
 美少女は俺をまっすぐに見つめながらそう言った。
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