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第1章
第54話:戦場より怖い場所
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暗い路地を抜け、酒精の香りと嬌声が渦巻く一画に足を踏み入れたとき、蒼真の背筋にうっすらと寒気が走った。
「こっちだ、こっち。勝者には慰労ってもんが必要だからなァ」
そう言いながら笑う支配人は、闘技場の地下とは打って変わって軽薄な口調で、馴染みの店へと蒼真を引き入れた。
扉を開けた瞬間、眩い照明と香水、肌の露出が多すぎる服を身にまとった女性たちが一斉に振り向いた。
「きゃーっ、新入りさん?」
「え、見て見て、この子強そう!」
「ねぇ、お名前は?」
歓声と視線が一気に集中する。
蒼真は思わず後ずさる。明らかに場違いだった。
「……ちょっと。ここは……なんですか?」
低く問うた声も、場の喧騒にかき消された。
「なにって……女の園だよ。健闘したおまえさんへのご褒美ってやつだ」
支配人が肩をすくめて言う。
しかし、蒼真の顔は固まったままだった。
「いや……その……僕は、そういうのは……」
目のやり場に困る。
胸元の開いた服。くすくす笑いながら腕を絡めてくる女たち。
肩をすくめながらも、ひそひそと話す声が耳に入る。
「ほらほら、遠慮すんなって。こいつは今日の闘技場の勝者、仮面の剣士ラセツ様だぞ?」
支配人が気軽に紹介すると、店の空気がさらに一段華やいだ。
「えーっ、あの強いって噂の!?」
「すごーい!こんな可愛いのに!」
「い、いや、それは……その……っ」
蒼真はうろたえた。
ぐいぐいと距離を詰めてくる柔らかな笑み。
右肩に手を添えられ、左から腕を絡められ、蒼真の全身に硬直が走る。
「あ、あまり触らないで……こ、こういうのは……」
「ふふ、剣士さんってば、顔真っ赤。かわいい~」
「あっ……!」
頬が焼けるように熱くなる。
視線を逸らしたいのに、どこを見てもきらびやかな肌と、柔らかく笑う目ばかり。
「こういうのは……えっと……その……」
「いいから、ほらこっち来て」
「なっ……ちょ……待って……」
まるで木の葉のように翻弄され、何もかもが経験の外だった。
平然と剣を振るえる戦場より、よほど恐ろしい。
刀すら帯びていない今、彼にできる防御は、ただ、口をもごもごさせることだけだった。
「……し、支配人……」
「ん? どうした。疲れてるならここで癒されてけ。飯も出るぞ」
「ち、違います。あの、僕は……その、こういう場所、初めてで……!」
「うんうん、それ、見ればわかる!」
「ふぇ……っ!?」
後ろから耳元で囁かれた瞬間、蒼真は思わず小さく跳ねた。
耳まで真っ赤に染まり、まるで斬りかかられたときのような反応だ。
「か、かんべんしてください……! こ、こーゆーの、ほんとに、むりで……!」
ようやく振り絞った声は、情けないほど震えていた。
その姿に、女性たちは顔を見合わせて一斉に噴き出した。
「ははっ、かわいすぎる!」
「ピュアすぎる剣士、守ってあげたくなるわ~」
「この反応、ちょっとハマりそうかも……!」
蒼真はというと、顔を真っ赤に染めたまま、ひたすら押し黙っていた。
剣を持たない場で、心の防御だけが限界を迎えようとしていた。
(……なんだこの拷問……!)
彼は内心、そう叫びながら――
この日ほど修行に戻りたいと強く思ったことはなかった。
―――
煌びやかな灯りと華やかな声に満ちた店を、蒼真はふらふらとした足取りで出てきた。
「……やっと帰れる……」
仮面の奥で、心底疲れ果てた溜息をつく。
足元はふらつき、顔はまだ赤い。
あの空間の気配が、肌にも喉にもべったり張りついている気がした。
(あんなの……絶対むりだ……っ)
剣の間合いなら見切れる。殺気なら察知できる。
だが――「あの笑顔」や「甘い声」には、どう対処していいのかわからない。
(ぜったい向いてない……っ)
そんなふうに思いながら、裏通りに足を踏み入れた、そのときだった。
「――やめてっ! だれかっ……!」
ピリ、と空気が張り詰めた。
蒼真の足が止まる。
薄暗い路地の奥――
石壁の隙間、明かりの届かぬ裏道で、複数の気配が交錯していた。
「おい、姉ちゃん。いい声じゃねえか。ちょっと遊んでこうぜ?」
「声上げたって無駄だって言ってんだろ? ここら一帯、見て見ぬふりが相場だぜ」
声を震わせているのは、若い女だった。
相手は二人――いや、三人か。
いずれも剣の気配はなかったが、力の差を盾に、明らかに圧している。
「……さっきまでの苦行を思えば、こっちのほうが、ずっとわかりやすい」
蒼真は、ゆっくりと仮面に手を伸ばした。
蒼白の仮面が、月光に淡く照らされる。
腰の鞘に手をかける。
だが刀を抜くことはなかった。
闇の中に身を溶かし、無音のまま路地に踏み入る。
「おい、なんだてめえ……? さっさと失せろ」
「……その手を離せ」
ひときわ低く、鋭い声が落ちた。
それは、まるで場の空気ごと裂いたかのように。
男たちは思わず肩をすくめ、手を離しかけ――
「な、なんだてめえ……この仮面……!」
「は、ははっ、もしかして……おいおい、これ闘技場の鬼じゃねえのか!?」
仮面の男――ラセツ。
つい数時間前まで、地下で処刑獣を葬り去った本物が、目の前にいる。
「あ、あれは演出だって聞いてたぞ!? やらせだろ……なあ!?」
「じゃあ、試してみるか?」
次の瞬間、蒼真は目の前から消えた。
気づけば、三人のうちの一人が地面に沈んでいた。
鼻血を噴き、白目を剥いて倒れ伏す。
誰も、動きを見ていない。
剣を抜いた音すら聞いていない。
ただ、仮面の男が立っているだけだった。
「次は、どちらだ」
仮面の奥から響く声に、残った二人は泡を食って逃げ出した。
女を放り出し、何度も転びながら影の奥へと消えていく。
路地に残されたのは、蒼真と、地面に座り込んだ女性だけだった。
「大丈夫ですか?」
声をかけながら、彼はそっと距離を取った。
女は目を見開き、震える手で蒼真の姿を見つめたまま、小さく頷いた。
「ありがとう……ございます。あなた……いったい……」
「名乗るほどの者じゃないです。……気をつけてください」
それだけを言い残して、蒼真は再び夜の帳の中へと姿を消した。
仮面の奥――
少し赤みが残る頬に、風が静かに触れていた。
(……やっぱり、こういう方が落ち着く)
ひとりごちて、彼は街の灯を避けるように歩き出した。
「こっちだ、こっち。勝者には慰労ってもんが必要だからなァ」
そう言いながら笑う支配人は、闘技場の地下とは打って変わって軽薄な口調で、馴染みの店へと蒼真を引き入れた。
扉を開けた瞬間、眩い照明と香水、肌の露出が多すぎる服を身にまとった女性たちが一斉に振り向いた。
「きゃーっ、新入りさん?」
「え、見て見て、この子強そう!」
「ねぇ、お名前は?」
歓声と視線が一気に集中する。
蒼真は思わず後ずさる。明らかに場違いだった。
「……ちょっと。ここは……なんですか?」
低く問うた声も、場の喧騒にかき消された。
「なにって……女の園だよ。健闘したおまえさんへのご褒美ってやつだ」
支配人が肩をすくめて言う。
しかし、蒼真の顔は固まったままだった。
「いや……その……僕は、そういうのは……」
目のやり場に困る。
胸元の開いた服。くすくす笑いながら腕を絡めてくる女たち。
肩をすくめながらも、ひそひそと話す声が耳に入る。
「ほらほら、遠慮すんなって。こいつは今日の闘技場の勝者、仮面の剣士ラセツ様だぞ?」
支配人が気軽に紹介すると、店の空気がさらに一段華やいだ。
「えーっ、あの強いって噂の!?」
「すごーい!こんな可愛いのに!」
「い、いや、それは……その……っ」
蒼真はうろたえた。
ぐいぐいと距離を詰めてくる柔らかな笑み。
右肩に手を添えられ、左から腕を絡められ、蒼真の全身に硬直が走る。
「あ、あまり触らないで……こ、こういうのは……」
「ふふ、剣士さんってば、顔真っ赤。かわいい~」
「あっ……!」
頬が焼けるように熱くなる。
視線を逸らしたいのに、どこを見てもきらびやかな肌と、柔らかく笑う目ばかり。
「こういうのは……えっと……その……」
「いいから、ほらこっち来て」
「なっ……ちょ……待って……」
まるで木の葉のように翻弄され、何もかもが経験の外だった。
平然と剣を振るえる戦場より、よほど恐ろしい。
刀すら帯びていない今、彼にできる防御は、ただ、口をもごもごさせることだけだった。
「……し、支配人……」
「ん? どうした。疲れてるならここで癒されてけ。飯も出るぞ」
「ち、違います。あの、僕は……その、こういう場所、初めてで……!」
「うんうん、それ、見ればわかる!」
「ふぇ……っ!?」
後ろから耳元で囁かれた瞬間、蒼真は思わず小さく跳ねた。
耳まで真っ赤に染まり、まるで斬りかかられたときのような反応だ。
「か、かんべんしてください……! こ、こーゆーの、ほんとに、むりで……!」
ようやく振り絞った声は、情けないほど震えていた。
その姿に、女性たちは顔を見合わせて一斉に噴き出した。
「ははっ、かわいすぎる!」
「ピュアすぎる剣士、守ってあげたくなるわ~」
「この反応、ちょっとハマりそうかも……!」
蒼真はというと、顔を真っ赤に染めたまま、ひたすら押し黙っていた。
剣を持たない場で、心の防御だけが限界を迎えようとしていた。
(……なんだこの拷問……!)
彼は内心、そう叫びながら――
この日ほど修行に戻りたいと強く思ったことはなかった。
―――
煌びやかな灯りと華やかな声に満ちた店を、蒼真はふらふらとした足取りで出てきた。
「……やっと帰れる……」
仮面の奥で、心底疲れ果てた溜息をつく。
足元はふらつき、顔はまだ赤い。
あの空間の気配が、肌にも喉にもべったり張りついている気がした。
(あんなの……絶対むりだ……っ)
剣の間合いなら見切れる。殺気なら察知できる。
だが――「あの笑顔」や「甘い声」には、どう対処していいのかわからない。
(ぜったい向いてない……っ)
そんなふうに思いながら、裏通りに足を踏み入れた、そのときだった。
「――やめてっ! だれかっ……!」
ピリ、と空気が張り詰めた。
蒼真の足が止まる。
薄暗い路地の奥――
石壁の隙間、明かりの届かぬ裏道で、複数の気配が交錯していた。
「おい、姉ちゃん。いい声じゃねえか。ちょっと遊んでこうぜ?」
「声上げたって無駄だって言ってんだろ? ここら一帯、見て見ぬふりが相場だぜ」
声を震わせているのは、若い女だった。
相手は二人――いや、三人か。
いずれも剣の気配はなかったが、力の差を盾に、明らかに圧している。
「……さっきまでの苦行を思えば、こっちのほうが、ずっとわかりやすい」
蒼真は、ゆっくりと仮面に手を伸ばした。
蒼白の仮面が、月光に淡く照らされる。
腰の鞘に手をかける。
だが刀を抜くことはなかった。
闇の中に身を溶かし、無音のまま路地に踏み入る。
「おい、なんだてめえ……? さっさと失せろ」
「……その手を離せ」
ひときわ低く、鋭い声が落ちた。
それは、まるで場の空気ごと裂いたかのように。
男たちは思わず肩をすくめ、手を離しかけ――
「な、なんだてめえ……この仮面……!」
「は、ははっ、もしかして……おいおい、これ闘技場の鬼じゃねえのか!?」
仮面の男――ラセツ。
つい数時間前まで、地下で処刑獣を葬り去った本物が、目の前にいる。
「あ、あれは演出だって聞いてたぞ!? やらせだろ……なあ!?」
「じゃあ、試してみるか?」
次の瞬間、蒼真は目の前から消えた。
気づけば、三人のうちの一人が地面に沈んでいた。
鼻血を噴き、白目を剥いて倒れ伏す。
誰も、動きを見ていない。
剣を抜いた音すら聞いていない。
ただ、仮面の男が立っているだけだった。
「次は、どちらだ」
仮面の奥から響く声に、残った二人は泡を食って逃げ出した。
女を放り出し、何度も転びながら影の奥へと消えていく。
路地に残されたのは、蒼真と、地面に座り込んだ女性だけだった。
「大丈夫ですか?」
声をかけながら、彼はそっと距離を取った。
女は目を見開き、震える手で蒼真の姿を見つめたまま、小さく頷いた。
「ありがとう……ございます。あなた……いったい……」
「名乗るほどの者じゃないです。……気をつけてください」
それだけを言い残して、蒼真は再び夜の帳の中へと姿を消した。
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