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三章 後宮編
3-7 紫雲の執着心と恐怖
しおりを挟む◇ ◆
皇后主催の夜宴に出ると決まってから、翠蓮は目の回るような忙しさだった。
曲の練習、礼儀作法の習得、詩歌の勉強。
それに加え、調整してくれたとは言え、楽府の業務もあった。
不意に後ろから声がかかった。太凱が、荷車に乗った楽器に手をかけている。
「翠蓮、これ運んどくからな」
「ありがとう太凱、でもそれ私の仕事で……」
「翠蓮! それくらい太凱に任せちゃいなよ。こっちは私がやっておくから!」
明鈴は、安心させるように笑顔を向ける。
「みんな……ありがとう……」
不安がある中頑張れているのは、仲間が応援してくれているからだった。
◆ ◆
意気込む翠蓮を、じっとりとした視線が追う。
「あの子だけ随分な特別扱いね。
……炎辰殿下も目をかけてるっていうじゃない? 一体どこに魅力があるの?」
琵琶を調律していた紫雲は、にわかに顔を上げた。
「……今、なんて?」
「え……あの子のどこが……」
「そこじゃないわ、炎辰殿下が……?」
紫雲の声はわずかに上ずっているが、話し相手はそれには気づかないようだ。
「あぁ、炎辰殿下の私室に、あの子が入って行ったんですって」
「それっていつの話?」
「えー……いつだったかな。私も聞いた話だから……って、ちょっと紫雲! そんなに締めたら切れちゃうわよ」
――バチンッ
乾いた音と同時に、張り詰めていた弦が弾ける。
「大変だわ血が出てる!」
「大丈夫、痛くないもの。ちっとも……」
怪我を手当するでもなく、紫雲の視線は翠蓮に向かっていた。
◆ ◆
翠蓮がふと気がつくと、稽古場で最後の一人になっていた。帰ろうとしていると、声をかけられる。
「色々と大変ね」
声の主は紫雲だった。
紫雲から直接嫌がらせをされたことはない。だが、周りの話から翠蓮は、彼女が自分の味方ではないと気づいていた。
(紫雲さんの目的は何なの……?)
警戒心をよそに、紫雲はにこやかに話しかけてくる。
「翠蓮、知っていると思うけど私も後宮の夜宴に出るのよ」
「……はい」
「私ね、後宮の歌坊出身なのよ。だから……」
紫雲の手が自分に伸びてくる。
翠蓮は身構えたが、ひやりとした指が頬に触れただけだった。
「分からないことがあれば、なんでも聞いてちょうだい……」
「ありがとうございます」
紫雲は目つきを鋭くする。
「ねぇ、翠蓮。あなた炎辰殿下にお会いしたこと……ある?」
――炎辰
その名を聞くと、あの夜の威圧的な態度が思い出される。
無意識に緊張が走り、声が揺れた。
「はい……あの……少しだけですが」
「翠蓮、あなたって、かわいいのね……食べてしまいたくなるわ……」
紫雲の冷たい指が、するりと頬から首の方までおりてくる。
首筋を伝ってその指が喉仏をかすめた時、翠蓮は冷たい汗が背中を伝うのを感じ、身を引いた。
「いやっ――」
「ふふっ……本当に可愛いのね……少し分かった気がするわ……少し、ね」
紫雲は目を細めて笑顔を作る。
(なんのこと……?)
困惑する翠蓮をよそに、紫雲は「いい夜宴にしましょう」と言い、稽古場を出て行ってしまった。
気づけば鳥肌が立っていた。
「なぜ……炎辰殿下の名前を?」
二人は何か関係があるのだろうか。
もしや、突然決まった後宮での夜宴も、自分の知らないところで何かがあるのだろうか。
よろよろと立ち上がり、翠蓮も稽古場を出た。すでに暗くなった帰り道。誰かに見張られているようで怖かった。
急いで宿舎まで帰り着く。
自分の喉が渇ききっていることに気がついた。
「……早く寝よう」
だけど、眠ればまたあの夢を見てしまう。言いしれぬ不安に心が休まらなかった。
「大丈夫……」
そう呟いて現実から逃げるように布団を頭まで被った。
◇ ◆
翠蓮が目覚めた時、朝だというのに部屋が暗かった。どうやら日が陰っているようだ。
「またあの夢……」
まぶたを手で覆い、夢の詳細を思い出そうとしてみるが、濃い靄に包まれたように思考は止まってしまう。
しばらくぼうっと外を見ると、気合を入れて起き上がる。
洗い終わった顔を上げる。鏡に、夢の中の女の子が映った気がした。
「やっぱりあれは私なんだ……」
一体何を忘れているのだろう。
それともこの夢は、内面の不安を無意識に具体化したものなのか。
重い足取りで稽古場へ向かう。
今日は楽団師の趙霖に歌の指導を受ける日だ。
翠蓮が皇后から指定された曲は、「女帝」という劇の劇中歌――
権力に屈しないユエが、女帝に上り詰めると言う物語だ。
翠蓮が歌い終えると、趙霖はユエの物語の脚本をぱらぱらとめくる。
一度唸り、難しい顔で口を開く。
「翠蓮の歌には心が足りないな」
「心……?」
「そうだ、心が入っていなければどんなに上手い歌も見せかけで終わってしまうのだよ。
ユエは、玉座に座るまでに清濁併せ呑んできたんだ。
彼女にはな、人を陥れても蹴落としてでも、守るべきものがあるんだ」
師匠の一言一句を聞き逃すまいとする翠蓮を見て、趙霖は優しく言った。
「君には難しい感情かもしれない。
だが、自分に理解できない気持ちでも、確かに、他人には存在するんだ」
考え込む翠蓮に、趙霖は手をぽんと叩いて一区切りを告げる。
「さぁ、昼休憩にしよう」
◇ ◆
(自分には理解できない気持ちでも、他人には存在する……)
昼休み中、翠蓮は庭をひたすら歩きながら、趙霖の言葉を反芻する。
朝は陰っていたはずの日は高く上り、じりじりと照りつける。
翠蓮の額には汗が光っていたが、思考を止めないよう、足を動かし続ける。
なんとなく、炎辰や紫雲が思い出された。
(確かに二人とも、私とは違う。
全然理解できないけれど、彼らにも一人一人感情がある……)
「ユエが、"そこまでして欲しかったもの"ってなに……?」
呟やいたとき、眼の前に影が伸びていたことに気づく。
顔を上げると見知らぬ侍女だ。
彼女は神経質そうに眉を寄せ、冷たい声で急かす。
「翠蓮さま、お時間ですので……」
「あの……なんの、でしょうか」
「本日、清苑妃さま主催の茶会でございますが、お聞きになっていませんか?」
まるで咎めるような棘を感じる。
(清苑妃?)
初めて聞く名前だった。
『見知らぬ侍女に注意してくれ――』蒼瑛に忠告されたことが頭をよぎる。
そこへ、紫雲が姿を見せ、ゆったりしな調子で声を挟む。
「ごめんなさいね翠蓮。忙しそうだったので声をかけるのをすっかり失念していたわ。
私も招かれているから、一緒に行きましょう」
「……そうしましたら、留守にすると伝えてきます」
稽古場に戻ろうとする足を止めるように、紫雲は腕をするりと掴む。
「趙霖先生に伝えてあるから大丈夫よ」
紫雲のしなやかな指先は思ったより力が強い。
「さぁ、行きましょう」
その目には有無を言わせないものがあった。
侍女と紫雲二人がかりで両脇を抱えられる。
半ば引きずられるようにして茶会に出席することになってしまった。
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