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番外編

ヘイレン男爵の最愛の女(ひと) 1

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「それにしてもリザのドレス、変わってるわね」

 その日、王太子の成年パーティーの警護にあたっていた騎士のマシュー・ヘイレンは、近くでそんな会話を耳にした。
 
「…………遠目ではちょっと地味……………光沢の…………物凄く豪華…………洗練されて素敵。こんなの、初めて…………」
「ありがとう。今回は…………違う仕立て屋…………逸材をみつけてね」
「まあ! リザにはいつも…………ねえ、わたくしも作って………紹介してくださらない?」
「いいけど…………虫由来の布よ。ヴィヴィ、大丈夫?」
「ムシ?」

 あまりに気にせず、耳に入ってくる声を聞き流していたが、虫、という単語に思わず声を方を見ると、そこには、青い光沢のあるドレス姿の女性が、数人に囲まれて笑っていた。

(……あれは……ザカリー・オニキスか。このような場所には滅多に顔を出さない男が珍しい……)

 輪の中に見知った顔を見つける。

(あとは……皆若いな。ザカリー・オニキスは確か、クリスタル学園で教師をしていたな。他はそこの生徒だろうか)

「先生、シルクをご存じなのですか?」

(ああ、やっぱりそうか……)

 ザカリー・オニキスは自分より2歳年下で、同じクリスタル学園の卒業生である。課も学年も違ったが、彼の秀才ぶりは入学当初から有名で、目立っていたので知っている。

(愛想のなさそうなヤツだったが、教師になってからは生徒に慕われているんだな)

 質問をされて答えている彼は、しっかりと教師の顔をしていて、しかも、学生の時よりちょっと表情が柔らかそうに見える。

(……まあ、そうは言っても、よく知らないんだけどな。それよりも……) 

「そうよね。それで、わたくしもこの生地でドレスを、と思ったのだけれど……虫から作っている生地だというから……」
「これは、カイコという蛾の幼虫がつくる繭から採った糸でつくられていて、軽くて丈夫で光沢がある。綿や麻や羊毛よりも魔力の馴染みが良いが、産国のマーデン王国とはあまり取引がなく、充分な量の確保は難しいと思っていたが……」
「これからは、入手しやすくなると思いますわ。わたくし、今後もドレスはシルクで作るつもりですし」
「素敵ですね。リザ様にとっても似合っています」

 そんな事を言われて優雅に微笑んでいる、リザという女性のドレスには見覚えがあった。

(あれって、色や形は違うが、前に俺が依頼したドレスと同じだよな。虫から作ってるって言ってたし……)

 そう、美しい光沢と滑らかな手触りが気に入り、高価だったが最愛の妻へのプレゼントとして依頼したのだった。
 しかし、いざ出来上がり、受け取りに行った際に、それが虫から出来た布だと知らされた。妻は『綺麗だから気にしない』と言ったが、マシューは激怒し、買い取りを拒否した。

「あの仕立て屋の女、俺達の事を馬鹿にして、あんな布を売りつけたんだろう!」
「いえ、決してそういうわけではございません。あの布は確かに、虫の作り出す糸から出来ていますが、産出国では貴族だけが身に着ける事ができるものなのです」
「そんな話、信用できんな。とにかく、このドレスは要らない。別の仕立て屋に依頼し直す」
「もちろんでございます」

 そんなやり取りがあったのだが、結局その後、新しいドレスは作らずじまいだ。

(せっかくリアンヌが、その気になったのに……)

 マシューの妻、リアンヌは、男爵家の長女だった。
 その男爵家が事業に失敗して多額の負債を抱えたとき、リアンヌは娼館に売られかけた。
 デビュタントの警備に駆り出されたときにリアンヌと言葉を交わし一目惚れしたが、どうすればいいのかわからずそれきりになっていたマシューは、仲介に入っていたゴーディ商会に掛け合ってリアンヌを取り戻し、男爵家には通常より多めの結納金を渡してリアンヌと結婚した。
 それで話は済んだはずだったのだが……。

(社交界は、恐ろしいところだよな。ヘイレン男爵夫人として招かれた茶会や夜会で、リアンヌは貴婦人達に酷い事を言われていたんだから)

「随分久しぶりですね、心配していたんですよ。あんな事があったから、気が進まないのも無理ないですが」
「あら、わたくしその話、存じ上げませんわ。何かトラブルでも?」
「それが、ご実家の為に働いていらっしゃったんですよね」
「まあ、どちらで?」
「それは……ねえ」 
「ちょっと、ここではねぇ……」

 そんな意地悪な事を言われていたのに、リアンヌは男爵夫人としての役目を果たそうと、誰にも相談せず、ひたすら耐えていた。
 その事をマシューが知ったのは、共に出かけた夜会での事。
 化粧室に行くと言ったリアンヌがなかなか戻らないので探しに行くと、彼女は男に絡まれていた。

「やめて下さいっ、大声を出しますよ」

 震える声で抗議するリアンヌの細い手首をつかみ、その男はニヤニヤと笑っていた。

「別に、騒ぎたければ騒げばいい。だが、伯爵家の嫡男である私の言葉とお前の言葉、どちらが正しいとされるかな? 聞いたぞ、お前は娼婦だったのだろう? 運良く男爵家の跡取りに身請けされたらしいが、今更、貞操観念なんてあったもんじゃないだろう? なぁに、悪いようにはしないさ。今宵、互いに楽しむだけ、それだけだ。さあ、そこの部屋に」
「私の妻に何をしているのですか!」

 休憩室に連れ込まれそうになったところにマシューが駆けつけ事なきを得たが、その後リアンヌは、自分のせいでヘイレンの名に傷が付くと言い、離縁を求めた。
 どうにか宥めて結婚生活は続ける事ができたが、心を病んだリアンヌは、屋敷から出る事ができなくなった。

(あの時の伯爵家の息子は、女癖が悪くて、下級貴族の令嬢やメイド達に不埒な行いをしていたのを調べて罪を明らかにしてやった。被害女性の中には王妃殿下の侍女もいて、良い働きをしてくれたと感謝され、出世まで出来た。けれど、リアンヌの心は数年たった今も傷ついたままだ)

 ヘイレン男爵家の領地は王都から離れた田舎だ。マシューとリアンヌが結婚したタイミングで家督をマシューに譲り、さっさと領地に戻った両親は、今は悠々自適な田舎生活を満喫しているらしい。

(第一騎士団の団員にまでなれたのは名誉な事だが、ここがリアンヌにとって暮らしにくい所なら、いっそ領地に行くか……とりあえず、リアンヌだけでも先に……いやしかし、そんな事をしたらまた、リアンヌが俺に愛想を尽かされて田舎に送られたという噂が流れるかもしれないし……本当に、貴族社会は暮らしにくいな)

 どうするのが良いかわからず、マシューは大きなため息をつくのだった。


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