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本編

第二話 運命の糸は紺色だった

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 十分前まで人生終わったと思っていた私が何故こうやって派出所で呑気にお茶を飲んでいられるかというと、それは目の前で調書を書いているちょっと強面のお巡りさんのお蔭。つまり、この人が猛スピードで自転車が横を走り抜けようとした時に私のことを自転車から引き剥がしてくれたってわけ。私なんて絶対にお巡りさん巻き込んで大惨事になると覚悟していたのに、ちょっとした神業よね、お巡りさんって凄い。

 だけど自転車の後ろに乗せられて商店街の中を行くのはかなり勇気が必要だったかな。なんとなく途中でビールケースを運んでいた篠宮のおじさんと目が合ったような気もするけど、私もまだ自転車の暴走事件で動揺していたしきっと気のせいだと思う……ということにしておく。

「とにかく怪我人が出なかったのは不幸中の幸いでしたね。えーと……?」
「松岡芽衣です」
「まつおか、めい、さん……と」

 このお巡りさん、うちのすぐお向かいにある派出所勤務のお巡りさんだった。先月まで勤務していた田辺さんが定年退職になったのでその後任としてやってきたらしい。まさかお向かいさんだったとは。ここにきて既に半年になるらしいのに全然気がつかなかった。

「あの自転車はどうしますか?」
「どうしますかとは?」
「あそこのそのまま置いておくわけにはいかないでしょう」

 何故か最初の時に比べて随分と改まった口調で喋っている。それは多分、あの時はお巡りさんも動揺していて話し方にまで頭が回らなかったからだと思う。

「運ぶにしても電柱にぶつかってかなり酷く曲がってましたから松岡さんでは運ぶのがちょっと難しいでしょうしね。これから自分が取ってきますから届け先を教えてもらうと助かります」
「ああ。そこのお店にお願いします」

 派出所の向かい側にある店の方を指さした。

「花屋さん……?」
「私んちです」
「……ああ、どこかで見たことあるなって思ってたんですが、花屋さんのお嬢さんでしたか。そうか、苗字が同じなのに気がつかなかったな。申し訳ない」
「いえいえ」

 お嬢さんだって。そんな風に呼ぶほど年は離れていないと思うんだけどな、強面だけど若そうな感じでどう見ても三十代前だと思うし。お巡りさんは書いていた調書をパタンと閉じると立ち上がった。

「調書はこれで終わりです。自分はこれから自転車を取りに行ってきますから、もう帰ってもらって大丈夫ですよ」
「あのぅ……」
「はい?」
「これって罰金とかでしょうか? 整備不良とか器物破損とか……」

 私の言葉にお巡りさん ― 後に真田さんと判明 ― は少しだけ首を傾げた。

「ブレーキワイヤーが切れているかどうかなんて女性には分かりにくいことですし、電柱が折れていなければ大丈夫だと思いますよ。電柱に関しては自転車を取りに行くついでに確認してきますから。調書に関しては何かあった時の為なので気にしない下さい」
「そうですか、よかった」
「とにかく、あれだけのスピードで坂道を下ってきたのに途中で転ばなかったのは運が良かったとしか言えないですね。貴女を含めて怪我人がいなくて本当に良かったです」

 派出所を出ようとしたところでお巡りさんの制服の袖が裂けていることに気が付いた。

「ここ、裂けてますよ。もしかして自転車が引っ掛かったんじゃ?!」
「あー、そうかもしれませんね。大丈夫ですよ、この程度なら自分でも何とか修繕できますから」
「……」
「別に器物破損にも過失致傷にもなりませんから安心して下さい」

 私がそのことでも咎められるんじゃないかと心配していると思ったようで、ポンポンと私の肩を軽く叩きながら少しだけ笑みを浮かべた。私が心配したのはそこじゃなくて自分で修繕すると言ったことに対してなんだけどな。

「じゃあせめて応急処置で繕うのやらせて下さい。それなりにお裁縫は得意だし!」
「気にしなくても良いですよ、自分でする時間が無ければ休みの時に業者に頼めば済むことだから」

 それって業者に出すまでそのままで仕事するってことよね。そんな状態の袖でパトロールとかしたら格好悪いって言われちゃうんじゃない?

「お礼です!」
「いやいや、お礼なんて。これも仕事ですから」
「そちらが仕事でも私の気が済みませんから!」
「いやしかし」
「是非とも!!」
「……」
「やらせてください!!」

 お巡りさんは私のことを見下ろしながら……本当に見下ろしているのよ私達の身長差って二十センチはあるんじゃないかな……ちょっと困った顔をしていたけどやがて諦め息をついて頷いた。多分このままだと私が針と糸を手に派出所に毎日のように押し掛けるとでも思ったみたい。

「分かりました。ではお言葉に甘えて繕っていただきます。但し、自転車を回収してからですが」
「はい!! 私、家に戻ってお裁縫道具を持ってきますね!!」

 そう言うと急いで(と言っても直ぐお向かい)家に駆け戻る。後ろでそんなに急がなくても良いですよという声が追いかけてきた。先ずは糸の色がちゃんとあるか確かめないとね。たいていの色の糸は揃っている筈なんだけど万が一ってこともあるし。なければ買いに行かなくちゃ。

「お帰り。歩いてきたみたいだけど自転車はどうしたの?」

 靴を脱ぐのもそこそこに部屋への階段を駆け上がっていく私に気が付いたお母さんが私に声をかけてくる。

「うん、大破した!」
「ええ?!」

 私の言葉に驚いているお母さんを置き去りにしてクローゼットの下にしまっておいたお裁縫箱を引っ張り出す。うーん、紺色の糸、あるにはあるけどちょっと心もとないかな、せっかくだし買ってこよう。急いでお裁縫箱とお財布を持って下に降りるとそこには驚いた顔のお母さんがまだ立っていた。

「ちょっと芽衣ちゃん、大破したってどういうこと?」
「ああ。帰りにブレーキが壊れちゃってね、暴走して電柱にぶつかって大破したの」
「大事故じゃない、怪我は?! 何処か痛くないの?!」
「私は何ともないよ。お向かいのお巡りさんが助けてくれてね。だけどそのせいでお巡りさんの制服が破けちゃったから、せめてものお礼に応急だけど繕ってあげようと思って」

 それでお裁縫箱を取りに来たの、と箱を見せる。

「お向かいのお巡りさんってことは真田さん?」
「そうなの? 背が高くてちょっと目がこんな感じの人だけど」

 そう言って目を細めてちょっと怖い顔をしてみせた。

「そんな顔して失礼よ芽衣ちゃん。……まあ間違ってはいないけど」
「でしょ?」
「それで? 紺色の糸はあるの?」
「残りが心もとないから菊川さんちで買ってくる。それから派出所に行ってくるからお店のお手伝い、ちょっと抜けても良いかな」
「それは構わないけど……自転車は今?」
「真田さん?が取りに行ってくれた。かなり折れ曲がってるみたいで私では運べないだろうからって。ここに届けてくれるって言ってた」
「そうなの。だったらその時にお母さんもお礼を言わないとね」
「じゃあ糸を買ってくるね」

 そう言い残して御近所の手芸用品のお店に急いだ。いつもは自転車で行くから近いと思っていたけど駅の反対側って大通りが横切っているせいもあって意外と距離があるのよね。お店に行くと紺色の糸が何種類かあったので念のために濃い色と薄い色の糸をそれぞれ買う。色を見分ける目はそれなりに持ち合わせているつもりだけど万が一ってこともあるからね。

 お店に戻ると真田さんとお母さんがお店の前で喋っていた。店先に立てかけてある自転車、ものの見事にくの字に折れ曲がって前輪部分がグチャグチャに潰れちゃっている。これ、真田さんが私のことを助けてくれなかったら絶対に今頃は救急車で運ばれちゃってるよね、私。

「ああ、芽衣ちゃん。真田さんが自転車を届けてくれたわよ。こんな大事になっているなんて知らなかったわよ、お母さん」
「電柱にぶつかって大破したって言ったじゃない」
「とにかくお嬢さんは無事だったわけですし」

 真田さんの言葉にお母さんが御迷惑をおかけして~と頭を下げている。あまりにペコペコと頭を下げ続けるものだから、真田さんもどのタイミングで止めたら良いのか困ってしまっているようだ。こめかみ辺りをぽりぽりと掻きながら苦笑いしている。

「お母さん、いつまでも謝っていたら真田さんの制服を繕うことが出来ないじゃない。もういい?」
「芽衣ちゃんたらそんなこと言って。ちゃんとお礼しなさい!」
「芽衣さんにはもうお礼を言ってもらいましたから気にしないでください。これも仕事です」
「じゃあ制服のカケツギをするから行きましょう! んじゃ、派出所に行ってくるね!」

 そう言って店先に置いておいたお裁縫箱を手に取ると真田さんの腕を掴み母親から引き剥がした。そしてヒソヒソと囁く。

「母の気が済むまで付き合っていたら日付が変わっちゃいますよ?」
「……それは困るかな。ところでカケツギってかなりの技術がいると思ったんですが」
「大丈夫です、任せて下さい。自転車整備は出来ないけどお裁縫だけは得意なんです」
「そうですか」
「もちろん気に入らなければ専門のお店に出してもらって構いませんよ。ちゃんとお代金はうちで弁償させてもらいますから」
「いやいや、それは幾らなんでも」

 もしかしてカケツギって意外とお高いの知らないのかな?

「父親のスーツのカケツギもしたことあるから大丈夫です。松岡家のお裁縫担当大臣に任せて下さい♪」
「……よろしくお願いします」

 そういう訳でその日は派出所で一日中お裁縫仕事をすることになったわけ。あ、もちろん奥にある畳の部屋でってことだけど。
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