俺の彼女は中の人

鏡野ゆう

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本編

第二十話 兄貴の結婚

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 カタカタカタカタカタ……

「……兄さん」

 カタ……カタカタカタカタカタ……

「兄さん!!」
「お、おう」
「落ち着きなさいよ」
「落ち着いてるぞ」
「どこが」

 いつもの見慣れた紺色の作業服ではなくなかなか見る機会の少ない正装に身を包んでいるから普段の筋肉お馬鹿なりに格好良く見えるというのに、今の兄貴ってば超がつくほど落ち着かなくてその格好良さも台無し。しかも椅子に座ってから止まらない貧乏揺すりのせいで足の下の床が凹みそう。

 見ている私まで苛々してきちゃうから横に立って膝をガシッと押さえ込んでみる。それでも小刻みな振動は止まらず、なんだかアスファルトを掘り起こす工事のおじさんの気分になってきた。兄貴の膝と一緒になって私が小刻みに揺れているのが面白いのか、横でコーヒーを飲んでいた佐伯さんは笑いをこらえようとしてむせている。面白がっている場合じゃないんだけどなあ。

「杏奈さん、お兄さんが緊張するのも無理はないさ。なにせ人生の最大級のイベントなんだから」
「だからって貧乏揺すり激しすぎ。床に穴でも掘るつもり?」

 あまりに忙しなく控え室をうろつくので見ている私達まで苛々してくるから、じっとしていてと無理やり椅子に座らせたらカタカタカタカタと激しく貧乏ゆすりを始めてこの始末。もう何をしても落ち着けないというお手上げ状態だ。こうなったら最終手段として椅子にグルグル巻きにしてしまおうか。あ、それともマツラー君を連れてきて式が始まるまで中に押し込めてしまうとか。

「そろそろ祥子さんの準備できたかな、私、あっちに行って見てくる」
「まて!」
「なんなのよ」

 立ち上がって行こうとすると手をガシッと掴まれた。

「兄貴より先に祥子の花嫁姿を見るなんぞ許さんぞ、ここにいろ」
「許さんって一体どの時代に生きてる人よ、兄さんてば。ほら、佐伯さんを置いていくから男同士で話してなさいって」
「まままま、待てと言うのに」

 膝に置いていた手を両手でしっかり掴まれて行くに行けない。助けを求めるように佐伯さんの顔を見上げてみるけど“困ったねえ”と呑気な感じで笑っていて助けてくれそうにない。父親は歳をとるとトイレが近いとか何とか言って早々に姿をくらましちゃうし、まったくウチの男連中ときたら。

「あのねえ、何が悲しくて私が兄貴のお守りをしなくちゃならないわけ? 私だって早く祥子さんのウエディングドレス姿が見たいの。礼服を眺めているのも貧乏揺すり男の面倒をみてるのもいい加減に飽きた」
「兄貴に対して何だその言い草は。圭祐、何とか言ってやってくれ」
「ここでお兄さんの味方をしたら俺、二度と杏奈さんに許してもらえなくなるかもしれませんからねえ、どうしたものか……」
「男同士の絆とか無いのか」
「んー……申し訳ないですが今は男同士の絆より杏奈さんとの絆を大事にしたい時期ですね。杏奈さん、健人さんが逃げ出さないように俺が見張っているから新婦さんの方に行ってきても構わないよ」
「なんで逃げ出すんだよ俺が」

 兄貴は顔をしかめているけど本当に今にも逃げ出しそうな雰囲気なのよね。別に祥子さんと結婚することに怖気づいている訳じゃなくて“結婚式を挙げること”に怖気づいちゃっているんだと思う。火災現場では取り残された人を助ける為に炎の中に飛び込んでいく勇ましい兄貴なのに、意外なところで臆病風に吹かれているらしい。

「今の兄さんを見ていたら突然奇声を上げて走り出しそうなんだもの。だから私がこうやって逃げ出さないように見張ってなさいってお母さんに言われたんだからね」
「俺は犯罪者か」
「逃亡したらそれ扱いかも。とにかく私は兄さんのお守りは飽きたから祥子さんのところに行ってくる。佐伯さん、うちのお馬鹿な兄が馬鹿なことをしでかさないようにちゃんと見張ってて下さいね」
「任された、行っておいで」

 佐伯さんはニッコリ笑って頷いてくれたので、憮然とした顔をして椅子に座っている兄貴を部屋に残して控室を出た。やれやれ、やっとこれで祥子さんの花嫁姿をゆっくりと見ることが出来る。確かに兄貴の正装姿もなかなか貴重だとは思うけど、やはりせっかくの結婚式、女の子としては野郎はどうでも良いから綺麗な花嫁さんの姿を堪能したいというのが本音なのだ。少し離れたところに用意された祥子さんがいる筈の控室のドアをノックする。

「どうぞ~」

 中から祥子さんの声がしたのでドアを開けて覗き込んだ。そこにはうちの母親と祥子さんのお母さん、そしてお姉さんがいた。

「わあ、綺麗ですよ、祥子さん」
「ありがとう、皆に馬子にも衣装とか言われて凹んでたのよ」
「杏奈ちゃん、健人君は?」
「うん、佐伯さんに押し付けてきた」
「あらあら」
「だって貧乏揺すりが止まらなくて苛々してきちゃったんだもの。こっちに来ようとしたら自分より先に祥子さんの花嫁姿を見るのはけしからんとか言うのよ、もう訳分かんない」
「うちの旦那さんもそうだったみたいよ?」

 そう言ったのは祥子さんのお姉さん。五年前に結婚していてお相手はやはり消防士さんで今はレスキュー隊にいる人。実のところ兄貴の元上司でその旦那さんを介して兄貴は祥子さんと付き合うことになったのだ。

「そうなんですか? もう貧乏揺すりが酷すぎて床が凹むんじゃないかって」
「まだ大人しく座ってくれたから良いじゃない。うちの旦那さんはずーっと部屋の中をグルグルしていたらしいわ」
「うわあ、それはそれで大変かも」
「向こうのお母さんに靴底が擦り切れるからジッとしてろって叱られたらしいわよ」

 もう男の人って皆そんな感じなの? もしかしてうちの父親も? 母親に尋ねてみると意味深な顔をしてこれも遺伝かしらね、だって。父、貴方もなのか……。トイレを口実に逃げ出した原因が分かったような気がした。


+++++


「……で?」
「はい?」

 彼女を送り出した後も相変わらずの貧乏揺すりをしながら健人さんがこちらを見上げてきた。見上げてきたと言うよりは睨んできたと言った方が正しいかもしれない。

「お前の方は杏奈とウエディングベルやら何やらが鳴りそうなのか?」
「俺がバツイチだってことは知ってますよね?」
「ああ、オフクロから聞いた」
「だったら俺が躊躇う気持ちも分かってもらえるんじゃないかと思うんですが」

 その答えに健人さんの目つきが険しくなった。

「まだ前の嫁に未練があるんだったら止めはしないからさっさと杏奈から離れて消えろ」
「それはありませんよ、息子のことはそれなりに気にはかけてますが。ただ杏奈さんからなかなか“大変よくできました”が貰えないのでどうしたものかと悩んでいる最中です」
「なんだそりゃ」

 健人さんは一瞬だけ貧乏揺すりを止めてこちらを見た。

「お互いにうまく付き合っていけように努力していきましょうということで付き合い始めたんですが、なかなか杏奈さんから“大変よくできました”の評価が貰えないんですよ、俺。そんな状態でウエディングベルが鳴るかどうかなんて話に持っていくのはどうなのかなって」
「お前が努力していないってことじゃないんだよな」
「それは無いと思います。彼女がそう感じたら面と向かって言いますからね、努力不足です頑張りましょうってね」

 たまにちょっと怖い顔で“駄目ですスタンプをおでこに押しますよ”と言われるが、それは努力しないから駄目ですと言われる訳ではなく、俺が杏奈さん的にとんでもない所にキスマークを付けた時などに使われるお決まりのフレーズだった。だから今のところ本当の駄目評価は貰っていない筈だ、多分。

「何をニヤニヤしてるんだ」
「杏奈さんはとてもユニークですからね、一緒にいると楽しいですよ。でも良いんですか、大切な妹さんの相手が俺みたいな不在がちなバツイチ男で」
「俺は杏奈が幸せなら誰でも構わない。たとえバツイチだろうがバツニだろうが……いや、バツニはさすがに考えものか。とにかくだ、妹のことを幸せにしてくれる男なら多少のことには目を瞑る、そういうことだ」
「それは健人さんの考えてですか? それとも立原家の総意?」
「うちの両親も基本的には本人が幸せならそれで良いという人達だ。苦労することも本人が覚悟して受け入れるなら何も言わない。もちろん全力でサポートはするがな」

 聞きようによっては今の言葉は杏奈さんに何かあったら俺達を敵に回すぞという脅しに聞こえなくもないものだ。都庁職員と都内全消防隊員が敵に回ったら厄介そうだなと考えながらも頭に浮かんだのは何故かおどろおどろしい雰囲気を醸し出して俺のことを睨んでいるマツラーだった。


+++++


 そして兄貴が途中で逃亡することもなく結婚式は無事に執り行われた。披露宴にはたくさんの消防士仲間が招待されていたのでちょっとした制服祭な状態で、祥子さんのお友達の中にはそれが堪らなく嬉しがっている人もいたりして一体どっちがメイン?と少し首を傾げてしまったけど、まあ振り返ってみれば突飛な余興もなく全体的には和気藹々とした良い披露宴だった。たまに悪ふざけが過ぎる披露宴ってのがあるって聞いていたから、普段の兄貴達の様子を知っているこちらとしては少し心配していたのだ。

「花嫁さんのブーケトス、参加しなくて良かったのかい?」

 ホテルから駅に向かって二人で歩いている時に佐伯さんが尋ねてきた。

「ああ、あれですか。あれは祥子さんのお友達に譲るって決めていたので」

 最初、祥子さんはブーケを私にくれるつもりだったみたいなのよね。だけどそこはやはり今回の主役である祥子さんのお友達の方が大事なわけで……だってほら、全員が私より年上のお姉様方ですし? ブーケが祥子さんの手を離れてお友達の一人が受け取るまでの一瞬はちょっとした女の闘いみたいになっていたし、あれを見ると後ろで見物を決め込んで良かったかなって思った次第。

「そうなんだ」
「はい。だけど祥子さんが式の前に一輪だけ抜いて渡してくれたんですよ」

 コサージュに一輪だけ挿してある生花。式が始まる直前に祥子さんが内緒ねと言いながらブーケから一本抜いて挿してくれたもの。

「別に私は次の花嫁さんに拘っているわけじゃないので」
「ふーん。お兄さんの考えはちょっと違ったみたいだけど?」
「そうなんですか?」
「うん」

 そう頷くとそのまま黙ってしまった。次に佐伯さんが口を開いたのは駅の改札口の前まで来た時。

「杏奈さん」
「はい?」
「俺の為にウエディングドレスを着てくれる気はある?」
「え?」

 直ぐには言葉の意味が理解できなくて佐伯さんの顔を見上げた。きっと今の私ってかなり間抜けた顔をしているんじゃないかな。

「ああ、もちろん今すぐ返事が欲しいわけじゃない。どちらにしろ暫くはまた会えないから。返事は……そうだな、初めて会った日と同じ海の日にでも聞かせて貰えたら嬉しいかな。それまでは恐らく俺もまともな連絡はとれないと思う。時間あるからゆっくりと考えてくれれば良いから」

 つまりはまた長期の訓練か演習に出るということらしい。

「あの……」
「もっとじっくり付き合ってからって思っていた?」
「そうじゃなくて佐伯さんから言い出すとは思ってなかったから」
「ん? ってことは杏奈さんが俺にプロポーズしてくれるつもりだった? それは申し訳ないことをしたかな」
「そういうわけじゃないけど……」
「本当は杏奈さんから“大変よくできました”を貰ってからにしようと思っていたんだけどね、俺の彼女さんはなかなか厳しいらしくって“大変よくできました”を貰うのは難しそうだから先に言ってみた」
 
 専守防衛がモットーの自衛官なのに先制攻撃するとは何事かってやつだよねって笑っている彼を見上げながら、まだビックリした状態から抜け出せない私。実のところどうやったら佐伯さんがその言葉を言う気になってくれるのかって考えている最中だったから、まさか今日ここでその言葉が飛び出すなんて思いもよらなくて本当に驚いてしまった。

「もしかして……兄に変なプレッシャーかけられました?」
「なにも。……いや、逆にお墨付きを貰った感じかもしれない」
「それってやっぱりプレッシャー……?」
「まさか」

 海の男はそこまで弱くないよ?と佐伯さんは付け加えた。
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