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本編
奥様は中の人 side - 奥様
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「真琴さん、お久し振り!」
ゲート前で見知った顔を見かけたので声をかけると、前を歩いていた相手が立ち止まってこちらに振り返った。
「あ、御無沙汰してます。今日はお子さんはご一緒じゃないんですか?」
「うん。子供達はね、一足先に旦那の実家に向かわせたの。真琴さんは? 今日は平日だけど仕事はお休みなの?」
「はい、今日からお正月休みなんです」
私の横を歩いているのは去年から圭祐さんの下についている藤原君の奥さん。普段は私と同じでこっちに住んでいないから旦那さんが圭祐さんと同じ護衛艦所属になってから顔を合わせる機会がなかなか無かったんだけど、今日は彼女の休みと帰港日が重なったのでお出迎えに来たらしい。もしかして藤原君も今年は早めのお正月の休暇に入るのかな?
「今年は珍しく私のお休みと修ちゃ……主人の休暇が重なったものですから。今日はこっちで一泊して一緒にあっちに帰る予定なんです」
慌てて言い換えるとこが可愛いよね、なんだかラブラブな若夫婦って感じで。
「じゃあ暫くは二人で過ごせるってわけね」
「そうなんです」
嬉しそうに笑う彼女の顔を眺めながら内心ニヤニヤしてしまう。だって圭祐さんから藤原君は嫁が好き男すぎて困るって聞いていたから。まあ困るって言っても何か深刻な実害がある訳じゃなくて、油断していると盛大に惚気が爆発して自分が巻き込まれるから困るってことらしい。そんな時には可愛い部下と一緒に惚気ておけば良いじゃない?って言ったらちょっと複雑な顔をしていたっけ。
「あ、マロロンちゃんだ」
真琴さんが何か見つけて立ち止まった。彼女の視線の先では何やら丸くて可愛らしい着ぐるみ君が台車で運ばれていく姿が。何だかいつか何処かで見た光景な感じがする。
「そっか。今日と明日はここでイベントがあるんだっけ」
普段は海自の装備や器具が置かれているだけの静かな桟橋も今日は色々なお店が並んでいて賑やかなことになっている。何だか地元の海の日イベントを見ているよう。こっちでは海の日ではなくこんな寒い日にイベントをするのね、さすが日本海に面している場所だけあって美味しそうな海産物を売っているお店がたくさん出ている。あ、この匂いはもしかしてイカ焼きかな? お昼ご飯を食べたばかりなのにお腹空いてきちゃったかも。
「あ、転がった……」
着ぐるみ君を運んでいた台車が何かの段差で大きく揺れて、その拍子に乗っていた着ぐるみがコロンと台車から転げ落ちる。まだ中には人が入っていないようだけどこれも何処かで見たような懐かしい光景。
「あ、立原さん!!」
そんな転がった着ぐるみを台車に押し戻していたスタッフさんが私に気付いて嬉しそうに声を掛けくる。何年かぶりに旧姓で呼ばれたものだから最初は分からなくて、誰に声を掛けているんだろうって周囲を見回してしまった。
「真琴さんの旧姓って立原?」
「いえ、違いますよ。あの人、私じゃなくて佐伯さんの方を見ているように思うんですけど」
確かにそのスタッフさんは私の方を見て手を振っている。やっぱり私のことみたい、えっと誰だったかな? 旧姓で呼ばれたってことは結婚する前に会ったことがある人ってことよね?
「お久し振りです!」
「あ? やっぱり私?」
「酷いですね、二号ですけど忘れられているとか? まあ十年近く会ってないから当然といえば当然なのかもしれないですけど初号君に忘れられるなんてショックです」
「二号……ああ、マツラー君二号!!」
「はい!」
私が松平でマツラー君の中の人をしていた時のバイト君の藍川君。考えてみたら活動中の殆どをマツラー君の中で過ごしているから、あれだけお世話になっていたのに素顔を見たことなんて数えるほどしかないのよね。しかもあれから十年経っているとなればお互いにそれだけ年をとっているわけで。
「まさかこんな所で会うなんて。奇遇ね」
「僕もびっくりです。立原さんが海上自衛隊の人と結婚したって話は覚えてましたけど、まさか旦那さんがここで勤務している人だなんて思わなかったですよ」
「私も二号君に会えるとは思ってなかったわ。元気にしてた?」
「ええ、この通り元気モリモリです」
もしかして中の人専門で仕事をしているの?って尋ねたら、さすがにそれは無いですよって笑って首を横に振った。当時は大学生でバイトとして中の人をしてくれていた彼は、卒業してから地元であるこっちに戻ってきて市役所の職員となり、何故かマツラー君の御縁で再びマロロンちゃんの中の人を任されてしまったらしい。今度は性別不明ではなく女の子だってことでなかなか男の自分には立ち振る舞いが難しいですと笑っている。
「ところでマツラー君は元気ですか?」
「元気元気。もう何代目になったのかな。相変らず小さくてコロコロしてるわよ」
ほんと、ここまで長く活躍するとは当初は思ってなかったのよね、マツラー君。安定の人気ぶりに市役所でも広報課ではなくマツラー課を新設しようかなんて話も冗談まじりに話されるぐらいだし。
「立原さんは中の人はもう?」
「今は広報課じゃなくて別の部署にいるからさすがにね」
「佐伯さん、中の人をしてたんですか?」
横でマロロンちゃんをツンツンしていた藤原さんが驚いたように尋ねてきた。
「うん。松平市の公式マスコットの中の人を一年間だけしていたの。彼もその中の人をしていた一人よ」
「私、中の人って専属のバイトさんがしているんだとばかり思ってました」
「当時はまだ町村合併して日が浅くてノウハウもないし人もいなかったからってのもあったの。それに私も中の人をやってみたくてね。で、意外と人気が出たものだから一体から三体に増やして広報活動をしていたってわけ。で、彼がその二号君」
「なるほど」
私も御当地マスコットの特集でマツラー君を見たことありますよ可愛いですよねと真琴さんがニッコリ笑う。あら藍川君、この人は人妻なんだからそんな風にぽーっと見惚れていちゃ駄目よ。そんな顔しているところを真琴さんの旦那さんに見られたら大変だから。圭祐さんだって部下思いだから絶対に止めないだろうし役に立たないから、真冬の海に放り込まれたくなかったらあっちを向いていた方が藍川君の為だと思うの。
「可愛いわね、この子。それにまだ新しいの?」
藍川君の注意をこっちに向けようと話を振る。
「ええ。今年の秋口に決まった子で今回が初イベントですよ」
「ふーん……」
私が興味深げにマロロンちゃんを眺めているとちょっと楽しいことが閃いた。
「ねえ、藍川君。この子、えーっとマロロンちゃんだっけ。少しの間でいいから中の人をさせてくれない?」
「え? 立原さんが中の人を?」
「うん。ほら、護衛艦が帰港する予定でしょ? うちの旦那さんが乗っているから久し振りにお出迎えしてあげようかなって」
「マロロンちゃんで?」
「うん」
藍川君はちょっとだけ考え込むと、ちょっと待って下さいねと言って携帯電話で何処かと連絡を取り始めた。
「真琴さん、もし中の人のOKが出たらエスコートを頼める? 久し振りだし足元が見えなくて怖いから先導してもらった方が安心だと思うの」
マツラー君は圭祐さんと会う時っていつも転がっていた記憶があるから余計にね。
「良いですよ。本当にこれを着て艦長さんのお出迎えをするんですか?」
「駄目かな……?」
真琴さんは少し首を傾げてからニッコリと楽しそうに笑った。ほらほら藍川君、彼女を見てないであっちを向いて電話に集中しなさいって。
「面白そうですね、きっと艦長さんも驚きますよ」
+++++
そんな訳で藍川君が私の無理を聞いてくれて護衛艦が入港する時までという時間制限付きで私にマロロンちゃんの中の人をさせてくれた。しばらくは出店の前で子供達の相手をして愛想を振り撒いていたけれど、護衛艦が接岸作業に入るのを見計らって真琴さんの元へと戻り二人で桟橋の方へと向かった。先に降りてきた藤原君と話していると圭祐さんが艦から出てきてこちらを見てギョッとした顔をする。どうやら直ぐに気が付いたみたいで足早にタラップを降りてきて私達の元にやって来た。
「藤原さん、ここまでのエスコートすまなかった。あとはこちらに任せて旦那さんとの休暇に入ってくれ、この丸いヤツは俺がきちんと保護するから」
圭祐さんはマロロンちゃんのことを早々に建物の方へと連行することにしたらしく、真琴さんへの挨拶もそこそこにマロロンちゃんの頭を掴んできた。もう! この身長差って本当にムカつくのよね。肘掛けにされたりこんな風に頭を掴まれたり。私の身長がもう少し高ければこんなこと絶対にされないのに! 人影のない建物に入るとさっそく圭祐さんがこっちを覗き込んできた。
「まったく……一体どういうつもりだ。こんなものに入って」
「可愛いでしょ? 今日がデビューなんだって♪」
久し振りに楽しい気分だったから御機嫌なままそう答えると圭祐さんはやれやれと溜め息をつく。
「一足先にあっちに顔を出して待ってるんじゃなかったのか?」
「だってこっちでイベントだって聞いたら見たくなったし、これの中の人をする子がうちの後輩だから頼み込んで着せてもらったの。久しぶりにお客さんの相手が出来て楽しかったわ。あ、もちろん子供達はもう佐伯の家に到着しているわよ」
京都駅まで来てしまえばそこからは子供達だけでも迷うことなくお爺ちゃんお婆ちゃんが待つ家へと行くことが出来る。その辺が市バスが隅から隅まで走っている観光都市の素晴らしいところよね。もちろん途中で佐伯のお義母さんには連絡して子供達が無事に到着したことは確認済みだけど。
「藤原の奥さんまで巻き込んで何をしているのやら……」
「真琴さんは似合ってますよって言ってくれたわよ?」
しかもマロロンちゃんとちゃんとお喋りをしてくれたし。私達なかなか良いコンビだと思うんだ。
「そういう問題じゃない。おい、これのファスナーは何処だ?」
圭祐さんが後ろに回って何かゴソゴソしている。どうやらファスナーを探しているみたい。
「ああ、ちょっと待って外からは見えにくいのよ。中から開けられるようになってるから」
後ろ手にファスナーの持ち手についている紐を掴むとそれを引き下げる。よっこらせと半身を出してホッと息をついて顔を上げると、呆れた様子でこちらを見下ろしている圭祐さんの顔。何だか以前よりも色が黒くなった?
「お帰り、圭祐さん。なんか凄く日に焼けた?」
私の問い掛けに圭祐さんは笑いながら溜め息をつく。
「……色々と言いたいこともあったんだがな、顔を見たらもうどうでも良くなった」
「そうなの? じゃあ、お帰りのキスしてあげようか? 真琴さんちもしてるんだって」
「まったく嫁同士でどんな情報交換をしているんだか……」
「それなりに?」
ちょっと期待しながら首を傾げて見上げていると圭祐さんは周囲を素早く見渡した。そして誰もいないことを確かめてから私の顎を摘まんで自分の方へと引き寄せてキスをしてくれた。子供達がいるとなかなかこういうことが出来ないから最近は寂しかったのよね、そういう意味では真琴さんちが凄く羨ましい。藤原君は自宅に戻ってくると必ずただいまのキスをしてきて大変なんですよって真琴さんが恥ずかしそうに教えてくれたっけ。
「お帰りなさい、圭祐さん」
「ただいま」
それから一時間後、ゲートの前で待っていると圭祐さんがやって来た。うんうん、今日はたくさんの制服姿の自衛官さん達を見たけどやっぱり圭祐さんの制服姿が一番素敵。そんなことを考えていると圭祐さんは愉快そうな顔をして私のことを見下ろしてきた。
「何をそんなにニヤニヤしてるんだ?」
「ん? やっぱり一番カッコいいのはうちの旦那様だなって改めて優越感に浸っているところ」
「そりゃどうも」
その顔は満更じゃないって感じよね?
「ねえ、このまま佐伯の家に帰るの?」
「そのつもりだが何で?」
「ほら、久し振りに二人っきりになれるチャンスだから。帰るのは明日でも良いかなって……駄目?」
圭祐さんが笑みを浮かべた。久し振りに見るちょっと黒い成分を含んだ笑み。
「ははーん、それはあれだよな、今夜は眠れなくても良いってことだよな?」
「え? そこまで言ってないけど」
「せっかく中の人で出迎えてくれたんだ、久し振りに精一杯のご奉仕させていただきますよ、奥様」
「いやいや、そんな無理しなくても……」
「まあまあ遠慮なさらずに」
……と、いうわけで十年経っても圭祐さんは相変わらず凄いってことを思い知らされたわけだけど、まあそれはまた別のお話ってことで。
ゲート前で見知った顔を見かけたので声をかけると、前を歩いていた相手が立ち止まってこちらに振り返った。
「あ、御無沙汰してます。今日はお子さんはご一緒じゃないんですか?」
「うん。子供達はね、一足先に旦那の実家に向かわせたの。真琴さんは? 今日は平日だけど仕事はお休みなの?」
「はい、今日からお正月休みなんです」
私の横を歩いているのは去年から圭祐さんの下についている藤原君の奥さん。普段は私と同じでこっちに住んでいないから旦那さんが圭祐さんと同じ護衛艦所属になってから顔を合わせる機会がなかなか無かったんだけど、今日は彼女の休みと帰港日が重なったのでお出迎えに来たらしい。もしかして藤原君も今年は早めのお正月の休暇に入るのかな?
「今年は珍しく私のお休みと修ちゃ……主人の休暇が重なったものですから。今日はこっちで一泊して一緒にあっちに帰る予定なんです」
慌てて言い換えるとこが可愛いよね、なんだかラブラブな若夫婦って感じで。
「じゃあ暫くは二人で過ごせるってわけね」
「そうなんです」
嬉しそうに笑う彼女の顔を眺めながら内心ニヤニヤしてしまう。だって圭祐さんから藤原君は嫁が好き男すぎて困るって聞いていたから。まあ困るって言っても何か深刻な実害がある訳じゃなくて、油断していると盛大に惚気が爆発して自分が巻き込まれるから困るってことらしい。そんな時には可愛い部下と一緒に惚気ておけば良いじゃない?って言ったらちょっと複雑な顔をしていたっけ。
「あ、マロロンちゃんだ」
真琴さんが何か見つけて立ち止まった。彼女の視線の先では何やら丸くて可愛らしい着ぐるみ君が台車で運ばれていく姿が。何だかいつか何処かで見た光景な感じがする。
「そっか。今日と明日はここでイベントがあるんだっけ」
普段は海自の装備や器具が置かれているだけの静かな桟橋も今日は色々なお店が並んでいて賑やかなことになっている。何だか地元の海の日イベントを見ているよう。こっちでは海の日ではなくこんな寒い日にイベントをするのね、さすが日本海に面している場所だけあって美味しそうな海産物を売っているお店がたくさん出ている。あ、この匂いはもしかしてイカ焼きかな? お昼ご飯を食べたばかりなのにお腹空いてきちゃったかも。
「あ、転がった……」
着ぐるみ君を運んでいた台車が何かの段差で大きく揺れて、その拍子に乗っていた着ぐるみがコロンと台車から転げ落ちる。まだ中には人が入っていないようだけどこれも何処かで見たような懐かしい光景。
「あ、立原さん!!」
そんな転がった着ぐるみを台車に押し戻していたスタッフさんが私に気付いて嬉しそうに声を掛けくる。何年かぶりに旧姓で呼ばれたものだから最初は分からなくて、誰に声を掛けているんだろうって周囲を見回してしまった。
「真琴さんの旧姓って立原?」
「いえ、違いますよ。あの人、私じゃなくて佐伯さんの方を見ているように思うんですけど」
確かにそのスタッフさんは私の方を見て手を振っている。やっぱり私のことみたい、えっと誰だったかな? 旧姓で呼ばれたってことは結婚する前に会ったことがある人ってことよね?
「お久し振りです!」
「あ? やっぱり私?」
「酷いですね、二号ですけど忘れられているとか? まあ十年近く会ってないから当然といえば当然なのかもしれないですけど初号君に忘れられるなんてショックです」
「二号……ああ、マツラー君二号!!」
「はい!」
私が松平でマツラー君の中の人をしていた時のバイト君の藍川君。考えてみたら活動中の殆どをマツラー君の中で過ごしているから、あれだけお世話になっていたのに素顔を見たことなんて数えるほどしかないのよね。しかもあれから十年経っているとなればお互いにそれだけ年をとっているわけで。
「まさかこんな所で会うなんて。奇遇ね」
「僕もびっくりです。立原さんが海上自衛隊の人と結婚したって話は覚えてましたけど、まさか旦那さんがここで勤務している人だなんて思わなかったですよ」
「私も二号君に会えるとは思ってなかったわ。元気にしてた?」
「ええ、この通り元気モリモリです」
もしかして中の人専門で仕事をしているの?って尋ねたら、さすがにそれは無いですよって笑って首を横に振った。当時は大学生でバイトとして中の人をしてくれていた彼は、卒業してから地元であるこっちに戻ってきて市役所の職員となり、何故かマツラー君の御縁で再びマロロンちゃんの中の人を任されてしまったらしい。今度は性別不明ではなく女の子だってことでなかなか男の自分には立ち振る舞いが難しいですと笑っている。
「ところでマツラー君は元気ですか?」
「元気元気。もう何代目になったのかな。相変らず小さくてコロコロしてるわよ」
ほんと、ここまで長く活躍するとは当初は思ってなかったのよね、マツラー君。安定の人気ぶりに市役所でも広報課ではなくマツラー課を新設しようかなんて話も冗談まじりに話されるぐらいだし。
「立原さんは中の人はもう?」
「今は広報課じゃなくて別の部署にいるからさすがにね」
「佐伯さん、中の人をしてたんですか?」
横でマロロンちゃんをツンツンしていた藤原さんが驚いたように尋ねてきた。
「うん。松平市の公式マスコットの中の人を一年間だけしていたの。彼もその中の人をしていた一人よ」
「私、中の人って専属のバイトさんがしているんだとばかり思ってました」
「当時はまだ町村合併して日が浅くてノウハウもないし人もいなかったからってのもあったの。それに私も中の人をやってみたくてね。で、意外と人気が出たものだから一体から三体に増やして広報活動をしていたってわけ。で、彼がその二号君」
「なるほど」
私も御当地マスコットの特集でマツラー君を見たことありますよ可愛いですよねと真琴さんがニッコリ笑う。あら藍川君、この人は人妻なんだからそんな風にぽーっと見惚れていちゃ駄目よ。そんな顔しているところを真琴さんの旦那さんに見られたら大変だから。圭祐さんだって部下思いだから絶対に止めないだろうし役に立たないから、真冬の海に放り込まれたくなかったらあっちを向いていた方が藍川君の為だと思うの。
「可愛いわね、この子。それにまだ新しいの?」
藍川君の注意をこっちに向けようと話を振る。
「ええ。今年の秋口に決まった子で今回が初イベントですよ」
「ふーん……」
私が興味深げにマロロンちゃんを眺めているとちょっと楽しいことが閃いた。
「ねえ、藍川君。この子、えーっとマロロンちゃんだっけ。少しの間でいいから中の人をさせてくれない?」
「え? 立原さんが中の人を?」
「うん。ほら、護衛艦が帰港する予定でしょ? うちの旦那さんが乗っているから久し振りにお出迎えしてあげようかなって」
「マロロンちゃんで?」
「うん」
藍川君はちょっとだけ考え込むと、ちょっと待って下さいねと言って携帯電話で何処かと連絡を取り始めた。
「真琴さん、もし中の人のOKが出たらエスコートを頼める? 久し振りだし足元が見えなくて怖いから先導してもらった方が安心だと思うの」
マツラー君は圭祐さんと会う時っていつも転がっていた記憶があるから余計にね。
「良いですよ。本当にこれを着て艦長さんのお出迎えをするんですか?」
「駄目かな……?」
真琴さんは少し首を傾げてからニッコリと楽しそうに笑った。ほらほら藍川君、彼女を見てないであっちを向いて電話に集中しなさいって。
「面白そうですね、きっと艦長さんも驚きますよ」
+++++
そんな訳で藍川君が私の無理を聞いてくれて護衛艦が入港する時までという時間制限付きで私にマロロンちゃんの中の人をさせてくれた。しばらくは出店の前で子供達の相手をして愛想を振り撒いていたけれど、護衛艦が接岸作業に入るのを見計らって真琴さんの元へと戻り二人で桟橋の方へと向かった。先に降りてきた藤原君と話していると圭祐さんが艦から出てきてこちらを見てギョッとした顔をする。どうやら直ぐに気が付いたみたいで足早にタラップを降りてきて私達の元にやって来た。
「藤原さん、ここまでのエスコートすまなかった。あとはこちらに任せて旦那さんとの休暇に入ってくれ、この丸いヤツは俺がきちんと保護するから」
圭祐さんはマロロンちゃんのことを早々に建物の方へと連行することにしたらしく、真琴さんへの挨拶もそこそこにマロロンちゃんの頭を掴んできた。もう! この身長差って本当にムカつくのよね。肘掛けにされたりこんな風に頭を掴まれたり。私の身長がもう少し高ければこんなこと絶対にされないのに! 人影のない建物に入るとさっそく圭祐さんがこっちを覗き込んできた。
「まったく……一体どういうつもりだ。こんなものに入って」
「可愛いでしょ? 今日がデビューなんだって♪」
久し振りに楽しい気分だったから御機嫌なままそう答えると圭祐さんはやれやれと溜め息をつく。
「一足先にあっちに顔を出して待ってるんじゃなかったのか?」
「だってこっちでイベントだって聞いたら見たくなったし、これの中の人をする子がうちの後輩だから頼み込んで着せてもらったの。久しぶりにお客さんの相手が出来て楽しかったわ。あ、もちろん子供達はもう佐伯の家に到着しているわよ」
京都駅まで来てしまえばそこからは子供達だけでも迷うことなくお爺ちゃんお婆ちゃんが待つ家へと行くことが出来る。その辺が市バスが隅から隅まで走っている観光都市の素晴らしいところよね。もちろん途中で佐伯のお義母さんには連絡して子供達が無事に到着したことは確認済みだけど。
「藤原の奥さんまで巻き込んで何をしているのやら……」
「真琴さんは似合ってますよって言ってくれたわよ?」
しかもマロロンちゃんとちゃんとお喋りをしてくれたし。私達なかなか良いコンビだと思うんだ。
「そういう問題じゃない。おい、これのファスナーは何処だ?」
圭祐さんが後ろに回って何かゴソゴソしている。どうやらファスナーを探しているみたい。
「ああ、ちょっと待って外からは見えにくいのよ。中から開けられるようになってるから」
後ろ手にファスナーの持ち手についている紐を掴むとそれを引き下げる。よっこらせと半身を出してホッと息をついて顔を上げると、呆れた様子でこちらを見下ろしている圭祐さんの顔。何だか以前よりも色が黒くなった?
「お帰り、圭祐さん。なんか凄く日に焼けた?」
私の問い掛けに圭祐さんは笑いながら溜め息をつく。
「……色々と言いたいこともあったんだがな、顔を見たらもうどうでも良くなった」
「そうなの? じゃあ、お帰りのキスしてあげようか? 真琴さんちもしてるんだって」
「まったく嫁同士でどんな情報交換をしているんだか……」
「それなりに?」
ちょっと期待しながら首を傾げて見上げていると圭祐さんは周囲を素早く見渡した。そして誰もいないことを確かめてから私の顎を摘まんで自分の方へと引き寄せてキスをしてくれた。子供達がいるとなかなかこういうことが出来ないから最近は寂しかったのよね、そういう意味では真琴さんちが凄く羨ましい。藤原君は自宅に戻ってくると必ずただいまのキスをしてきて大変なんですよって真琴さんが恥ずかしそうに教えてくれたっけ。
「お帰りなさい、圭祐さん」
「ただいま」
それから一時間後、ゲートの前で待っていると圭祐さんがやって来た。うんうん、今日はたくさんの制服姿の自衛官さん達を見たけどやっぱり圭祐さんの制服姿が一番素敵。そんなことを考えていると圭祐さんは愉快そうな顔をして私のことを見下ろしてきた。
「何をそんなにニヤニヤしてるんだ?」
「ん? やっぱり一番カッコいいのはうちの旦那様だなって改めて優越感に浸っているところ」
「そりゃどうも」
その顔は満更じゃないって感じよね?
「ねえ、このまま佐伯の家に帰るの?」
「そのつもりだが何で?」
「ほら、久し振りに二人っきりになれるチャンスだから。帰るのは明日でも良いかなって……駄目?」
圭祐さんが笑みを浮かべた。久し振りに見るちょっと黒い成分を含んだ笑み。
「ははーん、それはあれだよな、今夜は眠れなくても良いってことだよな?」
「え? そこまで言ってないけど」
「せっかく中の人で出迎えてくれたんだ、久し振りに精一杯のご奉仕させていただきますよ、奥様」
「いやいや、そんな無理しなくても……」
「まあまあ遠慮なさらずに」
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