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本編

第三十六話 豆腐クッキーいかがですか?

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「あ、桃香さん?」

 休みの日、交番の真田さんのところに寄ってちょっと話をした後、本屋さんに行ってお目当ての雑誌を買い込んだ。その途中、チリンチリンというベルの音がして森崎さんちの奥さんの声が後ろからした。振り返れば自転車から降りているところ。どうやら私のことを見つけてわざわざ止まってくれたらしい。

「こんにちは、五月さん。お店、繁盛してますね、いつも待ってるお客さんがいるってうちの旦那さんが言ってましたよ」
「お陰さまで旦那も珍しくご機嫌よ。ところで今日は仕事はお休みなの?」
「はい。なので買おうと思っていた雑誌を買いにこっちまで出てきました」

 実のところ本はついででメインの目的は真田さんと話をすることだったんだけど。ああ、それとエスポワールさんにちょっとしたお菓子のお届けと。

「こっちのカゴに入れたら? そんなに買い込んだら重たいでしょ? どうぞ」

 そう言って森崎さん ―― 最近はマンションでたまに顔を合わせた時に立ち話するようになって五月さんって呼ぶようになった ―― はパンが入っていたカゴの横をあけてくれた。

「ありがとうございます。あの、ついでと言っちゃなんですが途中でお茶を買いに寄っても良いですか?」
「オッケーよ。ここだと桜木茶舗さん?」
「はい。お願いしていたカフェインレスの紅茶とコーヒーが入荷したって連絡が入ったので」
「カフェインレス? ああ、そっか、お腹に赤ちゃんいるものね」
「カフェイン無しのコーヒーで頭がすっきりするとは思えないんですけどね、まあ気のもんかなって」

 私、仕事前にはいつもコーヒーを飲んでいるんだけど、赤ちゃんがいるって分かってからはカフェインが入ってないものを飲むようになったんだ。カフェインなんて入ってても入ってなくても大して変わらない同じだと思っていたら大間違いで、カフェインレスのコーヒーって何だか味気ないというか一味足りないっていうか、とにかく“これじゃない”感が半端ない。

 だけど習慣ってのはなかなかやめられないもので、何とか以前のものと少しでも似た味を探していた時に葛木の御隠居さんが探してきてくれたのが今飲んでいるコーヒーなのだ。まあ他のよりマシ?な感じのものではあるんだけど。御隠居さんも暫くの我慢だよって慰めてくれているってことは、御自身も飲んでみて物足りないって感じたんだと思う。カフェインって馬鹿にできないと思う出来事だった。

「で、こんなにたくさん何の雑誌を?」
「えっと、育児関係の雑誌を何冊か。初めてのことで何から何まで分からないことだらけだから」
「お知り合いに経験者はいるでしょ?」
「そうなんですけど、なんていうか……こういうのって人に説明しにくい気持ちってやつで」

 私の言葉に五月さんがなるほどって頷く。

「何を聞いても不安になってくるのね」
「そんなところです。なので雑誌でも読んだら少しはマシかなって。五月さんはどうだったんですか?」
「うち? うちは色々とゴタゴタしている時に妊娠が判明してね、不安とかそんなこと考えている時間なんてなくて、あっという間に臨月だったかな」
「わお」
「ほんと、わおよね」

 詳しくは聞いていないんだけど五月さんちもここに来るまでには色々と大変なことがあったらしい。それも人生の肥やしになったんだからって呑気に笑っているけど、妊娠中に大変なこと ―― 多分、旦那さん絡みじゃないかと踏んでいる ―― なんて私だったら耐えられるかなって思っちゃうよ。

「そんなに心配することないわよ。なるようにしかならないって開き直っちゃったら意外と気が楽になるから」
「そういうもんなんですか……」
「そういうものなの。経験者が言うんだから間違いないからそんなに心配しちゃダメよ。ま、雑誌を読むのは楽しいけどね」

 桜木茶舗さんの前に到着すると、五月さんに待っててもらってお茶とコーヒーを買い込んだ。今日は桜子さんじゃなくて御隠居さんが店番をしていて、この前お裾分けで持ってきた嗣治さんお手製のクッキーのお礼を言ってから店の外で待ってくれている五月さんの姿を見てニッコリと微笑んだ。

「仲良くなれたみたいだね、森崎さんとは」
「はい。もしかしてお知り合いです?」
「直接の知り合いではないよ。彼女の旦那さんの元上司と知り合いなんだ」

 五月さんの御主人の元上司……なんとなく旦那さんが元々なにをしていた人なのか分かった気がする。もちろんここで御隠居さんに問いただした所で答えてはもらえないんだろうけど、おそらく私の想像通りの人。あ、当然のことながら“や”の付く人ではないというはの今の御隠居さんの言葉ではっきりした。

「……御隠居さんって顔が広いですよね」
「まあ長生きしているとね、それなりに人脈も広がっていくものなんだよ、木の根みたいに」
「なんかちょっと怖いです」

 御隠居さんは私の言葉に困ったなって顔をしながら笑う。

「酷いな、桃香ちゃん。桃香ちゃんだってその根っこの一部なのに」
「それはそうなんですけどね。なんだか御隠居さんを見ていると正義の裏組織みたいなやつのボスなんじゃないかって気がしてきます」
「そんなこと桜子さんには言わないでくれよ? 直ぐに本気にしてしまうから」
「分かってますよ~~」

 お金を払ってお礼を言うと店の外に出た。ちょっと大き目の包みに五月さんは目を丸くした。

「こんなに買うの? 私がいなかったらどうするつもりだったのよ、桃香さん」
「え? 普通に持って帰りましたよ、きっと」
「……そろそろ重たいものを持つ時には気をつけないとって自覚を持たなくちゃダメよ?」
「そうなんですか? そういうのって、もっとお腹が大きくなってからの話だと思ってました」

 五月さんはカゴの中にそれを入れられるようにしてくれたので、ありがたく入れさせてもらう。普段は嗣治さんが休みの時に引き取ってきてくれたりするんだけど、最近は例の事件絡みで仕事が忙しくて仕事中にも飲む量が増えたものだから消費量が半端ないんだよ。ああ、もちろん私は週に一度しか残業させてもらえなくて、私てきには非常に不本意というかなんと言うか。そんなことを口に出そうものならまた嗣治さんに叱られるし、最近では職場の皆にも叱られるから黙っているんだけど。

 そんなことを考えていると視界に何となく璃青さんちのお店が目に入った。そう言えば璃青さん、一緒にお好み焼きを食べてからそこそこ時間が経ったけど花言葉のこととかどうなったんだろう。ちゃんと判明したのかな? こっちの生活パターンと璃青さんの生活パターンって違いすぎるから会わない時って本当に顔すら見ないんだよね。メールでそれとなく尋ねてみようかな?と思いつつ、それってすっごいお節介なことかもしれないなと思ってやめておくことにした。ま、きっとそのうち、どこかで噂話を耳にするかもしれないし、それまでのお楽しみってことにしておこう。

 色々と出産前の準備で疑問に思っていたことを聞きながらマンションに到着すると、五月さんは荷物の殆どを持ってくれて一緒に玄関までついてきてくれた。

「なんだかすみません、色々と」
「良いの良いの。せっかくの御近所さんなんだから助け合わないと」
「あ、もし良ければお茶でも? 普通のカフェインの入ったお茶もコーヒーもありますよ。あと豆腐クッキーも」

 豆腐クッキーという言葉に五月さんはすごく残念そうな顔をした。

「これから店の仕込みを手伝わなきゃいけないの。桃香さんの旦那さんが作った美味しいクッキーを食べながらお茶をしたいのはやまやまなんだけどね、それはまた次の機会にってことで」
「あ、じゃあ、少しだけでも持って帰って下さい。何を勘違いしたのか分量を間違えて物凄い量を作っちゃったから」

 そう言って五月さんの返事を待たずに急いでキッチンに行くとクッキーの入った大き目の缶を手に玄関に引き返す。

「どうぞ。今日のお礼代わりと言ってはなんですけど」
「良いの?」
「はい、この缶いっぱいがあと二つも残ってるので」
「ありがとう。うちの旦那、これが凄く気に入ったみたいなの」

 猿も木から落ちるとはよく言ったもので、何をどう間違えちゃったのか嗣治さん、いつもの倍以上のクッキーを作ってしまったのだ。もしかしてワザと?って思わないでもなかったんだけど、クッキーの型抜きをしている嗣治さんの困惑した顔を見ていると本当に間違えちゃったみたいだった。

 実のところ職場にも同じ大きさの缶を持っていったし葛木の御隠居さんのところにもお裾分けした。そして今日は真田さんちにも。このクッキーが職場でコーヒーの消費量が半端無いことになっている原因の一つでもあるんだよね。美味しいからつい食べすぎて口の中の水分が吸い取られちゃうって言うか。

 嗣治さんもこんな失敗をすることがあるんだなってちょっとだ安心したのは私だけの秘密。
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