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攻略対象・親族編

月ヶ瀬穂高 3(喧嘩と無双と家庭の事情)

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 美沙子さんの怒ったような声が部屋に響く。

 僕は、ビクッとした。

 お父さんの声もいつもと違う。

 自分の心臓がドクドクと脈打ち、なぜか心音が耳奥で聞こえた気がした。

 ――あの女は誰だったのよ?
 ――以前も言ったが、本当になんの事を言っているんだ?
 ――そうやって、いつも逃げてばかり! もうたくさんよ!
 ――じゃあ、俺も聞くが、あのホテルにいた若い男は誰だ? 定期的に会っているだろう?
 ――何でそれを知って!? まさか……つけていたの? 信じられない!

 ――ちょっと待て、おいっ 美沙子。若い男とはなんだ?

 今度は、お祖父さまの声が聞こえた。

 僕は何のことか全く分からなくて、少しドアを開けて、隙間から中を覗いた。

「美沙子! お前は誠一君という伴侶がいながら、まさか不貞を働いたのか!?」

「何言ってるの? そんなことしないわよ!」

「じゃあ、誠一君が見たと言う、その若い男とは誰なんだ?!」

「…………っ」

「答えられないのか!?」

 美沙子さんが唇を噛んで、目線を泳がせる。

 ああ、そんなに強く噛んだら血が出てしまう、と心配になる。

「お義父とうさん、申し訳ありません。わたしが不甲斐ないばかりに……」

 お祖父さまと美沙子さんの間に、お父さんが入り込み、頭を下げている。

「ちょっと、止めてよ! それじゃ、わたしだけが悪者みたいじゃない。じゃあ、あの、あなたが連れていた若い女こそ誰なのよ? お義母かあさまを送るついでに出張するって言ってたのに……っ 信じてたのに……っ」

「何度も言っているが、女性を連れて出張に出たことは一度もないんだ。本当に、どうしたら信じてくれるんだ!」

 お父さんと美沙子さんが話をしている。いや、喧嘩……なのかな?

 僕と真珠が喧嘩をすると、いつも木嶋さんに「あらあら、ご兄妹で喧嘩をされるほど仲が良くて、喜ばしいことですね」と言われる。

 本当は、美沙子さんとお父さんの二人は仲が良かったの?

 僕は二人が話をする場面を見たことがないので、仲良しの証の喧嘩をする姿に、とてもとても衝撃を受けた。

 僕のすぐ後ろで、大きな溜め息が聞こえた。お祖母さまだ。

 いつの間に後ろに立っていたのだろう。僕は大人達の言い合いに気を取られていたので全く気がつかなかった。

「穂高、ごめんなさいね。あの子達ったらまったく……。ああ、そうそう、さっき廊下で看護士さんにきいたら、真珠はもう大丈夫だろうって。もうすぐ目を覚ますんじゃないかって。良かったわね」

 お祖母さまは、そう言って僕の頭を撫でてくれた。
 そうか、もう大丈夫なのか。

 僕は少しだけホッとした。

「穂高、ちょっとごめんね。お祖母ちゃま、あの三人を懲らしめてくるわ」

 僕はコクリと頷いて、中扉から身を引く。
 すると、お祖母さまはノックもせずに勢いよく扉を開け放った。

 部屋の中にいた三人の視線が、急に現れたお祖母さまに注がれる。

「まったく……、病室内で何を言い争っているのかと思えば……」

 呆れた声で、三人を見据える。

「美沙子、それはいつなことなの? 誠一さんが女性といたというのは。」

 蛇に睨まれた蛙の如く、美沙子さんはしどろもどろに答える。

「し……真珠がお腹にいた時よ。この人のお義母さまが急にいらした日……たしか、お義母さまの料亭のお得意様が個展を開かれるとかで都内に出てきたって……、突然で申し訳ないけどなかなかご挨拶もできないからと急にお見えになった日……。わたしは妊婦検診があって、途中で失礼してしまったけど。検診の帰りに……偶然見かけたのよ。女連れの……この人を!」

「それで?」

 お祖母さまが、先を促す。

「検診の帰りに、この人から連絡をもらって、お義母さまを送るついでに、気になる案件があるからそのまま泊まりで出張に出るって……っ その日、この人はその女と一緒にいたんだわ!」

 美沙子さんは、悲しさなのか悔しさなのか、その当時のことを思い出したようで、その顔を歪ませる。

 お祖母さまは、大きくて長い溜め息をついた。

「あなた達がおかしくなったのはその頃だったわね。何故、それをわたしに相談しなかったの、まったく……」

 呆れた眼差しで、お祖母さまは美沙子さんを見る。

「……だって、そんなみじめなこと言えるわけないじゃない! この人のお義母さまにだって、そんなこと相談できないわ……っ」 

 今度はお父さんが、うんざりした声で言う。

「君は俺が育った家庭環境がどんなだったか知っているだろう? 母が日陰の身で苦労したことを目の前で見ていた俺が、同じことをすると思っているのか? 母を送ったのは確かだが、若い女性なんて……。本当に身に覚えがないんだ。誰かと俺を見間違えたとしか……」

 お父さんには、兄弟が三人いる。
 それぞれ、お母さんが違うらしい。
 よくわからないけれど、お母さんが三人いるってことなんだと思う。

 だから僕は、「お母さんが三人いて、お父さんが羨ましいです」と言ったことがある。

 お友達の家に遊びに行くと笑顔で迎えてくれる、そんな優しいお母さんが三人いるんだなと想像したら、お父さんが羨ましかった。

 お父さんは「そうだな。お前にはまだ分からないな。複雑な家庭だったからな」と困ったように笑っていた。

 お父さんは、昔から続く名家の跡継ぎ候補の一人だったけれど、美沙子さんとお見合い結婚し、月ヶ瀬に婿入りしたらしい。

 そんな会話をお父さんとしたことがあったな、と思い出していたら、美沙子さんがお父さんに向かってまた怒り始めた。

「そう言えば、許されるとでも!? そんな訳ないじゃない! わたしが貴方を見間違えるなんて、そんなの絶対にあり得ない! わたしはお義母さまに自宅で会っているのよ。あの女はお義母さまじゃなかったわ! それに……それに、服装だって自宅でお会いしたお義母さまと違ったもの!」

 その科白セリフに、お祖母さまがカッと目を見開く。


「美沙子、その女性、滝川さんよ。誠一さんのお母さま。間違いないわ」


 美沙子さんが怪訝な顔で、お祖母さまを見た。

「お母さままで何を言っているの?」

「美沙子、あなた近くで二人を見たの? 何故、その場で確かめないの? 昔っから頑固で、そそっかしい子だとは思ってはいたけど、ここまでとは……」

 お祖母さまは、額に手を当てて、残念な子供を見るような目で美沙子さんを見て、ガッカリしたように頭を振っている。

「新幹線の時間まで、誠一さんと東京観光されると言って、あなたが検診に出かけた後、動きやすいワンピースに着替えて帰られたわよ。お客様の個展での挨拶が済んだから、着物で段差の多い都内を歩き回るのは大変だとおっしゃって。普段は落ち着いた着物をお召しになってお仕事されているでしょう? 着替えられた後、わたしも雰囲気の違いに驚いたもの。おおかた遠目できちんと確認もしないで、慌てて帰ってきてしまった、そういうことなんでしょう?」

「え? え!? まさか……っ」

 美沙子さんは、パニック状態だ。

「そんな……わたしの勘違いだった……? この人は嘘をついていたわけじゃ……ない? でも、遠目にも細身の綺麗な女性で――お義母さまなの? あれが? それじゃあ、わたしのこの苦しかった五年間は、いったい何だったの?」

 お祖母さまが大仰に溜め息をつく。

「それは……無駄な五年間を過ごしたわね。少しは自分一人で抱え込まずに、周りに相談くらいなさい。まったく……とばっちりを受けた孫達が本当に可哀相だわ……」

 お父さんも目を丸くしている。


「本当に? 俺の母さんを若い女だって、そう信じてずっと疑っていたのか? 俺はてっきり、お前があの男と関係を続ける口実だとばかり……」


 気の抜けたように、お父さんはドサッと病室内のソファに座り込んで頭を抱えた。


「そうだ! そうだぞ、美沙子っ 若い男っていうのは誰なんだ?!」


 お祖父さまが、我に返って大声を出す。

 お祖母さまが、はーっと溜め息をついて言う。



「タカシですよ」



 今度は、お祖父さまが呆けたような顔をする。

「……ほゎ? はっ? タカシ!? あ……あいつは生きているのか? まったく消息がつかめ……いや、何でもない。あ……あいつは、てっきり野垂れ死んでいるとばかり……」


「月ヶ瀬を継がないと宣言したからと言って、まだ学生だった貴志を勘当して放逐する馬鹿な父親がどこにいますか? ……ああ、ここにいましたね」


 お祖母さまは目を細めて、蔑むようにお祖父さまを見た。
 お祖父さまはビクリと身体を揺らし、少し反論する。


「あ……あれは、売り言葉に買い言葉だ! 単なる親子喧嘩の言い合いを真に受けて、まさか本当に――あの歳で出奔するとは、普通、思わないだろう!?」


 お祖母さまが溜め息をつく。

「あの子もアナタに似て、相当な頑固者ですからね。いま、タカシは欧州で大学に通っていますよ。年に何度か帰国しているから、おおかたその時に泊まったホテルで美沙子と会っていたんでしょう。わたしも会っていますしね。つい先日も連絡がありましたが、来年あの子の師事する方が日本で教鞭を執られるとのことで、こちらの大学院に進学を決めて帰って来るそうです。月ヶ瀬の敷居は二度と跨がせないと、アナタおっしゃっていたから、わたしの実家の姓を名乗らせていますので、あしからず」

 お祖父さまは、ヘナヘナと座り込んだ。

「そうか……、そうか……無事に生きていたか……良かっ……、ふん! だから、それがどうした!」

 そう虚勢を張りつつも、お祖父さまはホッとしたような表情を見せた。多分、嬉しいのに意地を張って、心にもない事を口にしているのだと思う。


「いい加減、アナタと貴志も仲直りしなさいな。それに、誠一さん、あなたも少し調べればわかることでしょうに……」

 お父さんは、少し言葉に詰まっている。

「いや……疑いだけで……留めたかったんです。もし事実だと分かったら立ち直れない。そう……ですか……あれが美沙子の年の離れた弟……それは……はぁ……良かった……」

 茫然と独り言のように呟く。

「あなた達はお見合い結婚だったけど、はたからでも、二人共に一目惚れだったのは一目瞭然でしたよ。お互いが気になって仕方がなかったから、こんなおかしな状態になっても離婚せずに五年間も過ごしていたんでしょう。
 美沙子も、誠一さんも意地を張らずに仲直りなさい。どう見ても、お互いに大好きだ、大好きだと、大声で言い合っているようにしか見えませんよ」

 美沙子さんとお父さんは、少し気不味きまずそうだ。

 美沙子さんが、こんなに感情をあらわにしたのを見たのは初めてだった。僕はそんないつもと違う美沙子さんに少しだけ親近感を覚えた。

「とりあえず、あなた達は一旦自宅に戻って頭を冷やすなり、腹を割って話をするなりしてきなさい。その間わたしと穂高が真珠の側にいますから」

 美沙子さんとお父さんは、ぎこちなく視線を合わせては逸らすを繰り返した。

 お父さんは帰りがけに僕の頭を撫でた。

「悪かったな。親の喧嘩なんて見たくなかったよな……」

 と、言っていたので、

「美沙子さんとお話されるお父さんをはじめて見ました。喧嘩をするなんて、本当はとても仲が良かったんですね。驚きました」

 と、僕は少し嬉しそうに答えた。

 お父さんは「そ……そうか」と引き攣った笑いを見せて、何故か僕をギュッと抱きしめてくれた。

「うん……、それじゃ、お父さんは一度帰って着替えてくる。会社にも少し顔を出して、午前中には戻るから。もし、しぃちゃんが起きたら、パパは直ぐに来るからと、くれぐれも、くれぐれもよろしく伝えておいてくれ。頼んだぞ。
 お義母さんも、お手数をおかけしますがよろしくお願いします」

 そう伝えると、美沙子さんとお祖父さまと一緒に帰っていった。

 皆がいなくなると、お祖母さまは水筒を取り出して僕に冷たい麦茶を入れてくれた。
 その後、部屋に設置されたテーブルの上に、鞄の中身を並べて整理する。

「皆お腹が空いているかと思って、朝からお弁当を準備したけど、一緒に食べられなかったわね。お昼に戻ってきたら一緒に食べましょうか。その頃には、真珠も目が覚めるでしょう」

 綺麗な布に包まれた重箱をテーブルに置いた。隣に、真珠のピンク色の水筒も置く。

 この時は、お祖母さまも僕も家族も、真珠が直ぐに目を覚ますと信じて疑わなかった。

 僕は真珠のベッドの隣りに椅子を持っていき、そこに座る。

 自分のリュックに詰めてきた絵本を数冊取り出して、眠る真珠に読んであげようと思ったのだ。

(早く目が覚めないかな)

 真珠が起きるのを、今か今かと待っていた。



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