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攻略対象・幼馴染編

【鷹司晴夏】大切な人、想い人、心に決めた人

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「僕の鳴らすバイオリンの音色には心がない――ある人から、そう……言われました。それは僕がずっと気にしていたこと……。
 貴志さんのように――穂高のように、誰かを心に描けば、僕にも、音に心を込めることができるのでしょうか?」

 僕は、この苦しみを初めて人に打ち明けた。

 父にも、母にも、話したことのない気持ちだ。 

 母のピアノも、父のバイオリンも、温かな心が込められた彩豊かな音色で紡がれる。家族で僕だけが、その色を添えることができない。


 須藤新太――僕は彼に謝らなくてはいけない。
 言葉が足らずに、彼を傷つけたことを。

 彼に伝えなくてはいけない。
 彼の心を込めた音色を羨ましいと思ったことを。


 あの時は、気づけなかった。
 だけど、今なら分かる。

 僕は、あの時、まず最初に彼の演奏の良さを伝え「更により良くするために」と前置いてから伝えるべき言葉を、先に告げてしまったのだ。


 僕は、彼に放った言葉を謝るためにも、心が込められた演奏をしたい。

 何も変わらないまま謝罪だけしても、彼の気持ちを余計に傷つけるだけのような気がするのだ。


 今までならば、「間違ったことは言っていない」と謝意を示すことさえ考えなかったと思う。
 自分の心に後悔の念を抱えるだけで、終了したことだろう。


 真珠を傷つけないように――と、思うことで相手を思いやる気持ちを知ったばかり。


 本当は彼女に――どうやって心をのせて弾いているのか訊いてみたかった。

 けれど、彼女の音色は心をのせるというよりは、魂が「わたしの音を聴け」と訴える圧倒的なものだ。

 彼女の普段の演奏を聴いたことがないので、本当のところは分からない。

 少なくともあの映像から伝わった彼女の演奏は、心が震える音色というよりは、他者を凌駕し畏怖させる――そんな高度な技術だった。 

 だから、僕は、涙をこらえることのできなかった音色を奏でた貴志さんと、まずは話をしてみたい――そう思ったのだ。


「あなたの演奏は、なぜ、こんなにも人の心を揺さぶるのでしょう? どんな思いを心に込めて、演奏しているのですか?」


 僕の言葉に、彼は目を見開き、驚いた表情を見せる。


「そんなことを言われたのは……初めてだ。俺の音は……この短期間でそんなに変わったのだろうか」


 彼は不思議そうに首を傾げている。
 最後の言葉は、彼の独り言だったのかもしれない。


「少なくとも母は、あなたの音色を聴いて、全く知らないチェリストの演奏だと言っていました。『今まで聴いたことがない。なんて、心に響く音色なんだ』と」


 貴志さんは組んだ拳を口元にあてて、何事かを考えているようだ。

 彼自身でさえ、その音色の変化に気づいていないのか。
 彼の心に、どんな変化があったのだろう。


「もし、それが本当なのだとしたら――ある人に出会ったから……。それしか……思いつかない」


 ある人――貴志さんは、その人のことを思い浮かべているのだろうか。
 とても優しい表情見せると共に、苦しそうな光を瞳に宿す。


「俺は、彼女に……救われたんだ。かけがえのない――大切な人だ」


 大切な人なら、なぜ――

「なぜ、そんなに苦しそうに笑うんですか? 大切な人なら、その人を思うと、温かな気持ちになるものだと思っていました」


 僕の両親は、お互いを大切に思いあっているのが良くわかる。
 二人の触れ合いは、見ているこちらも優しい気持ちになる――心温まるものだ。


 けれど、貴志さんも、穂高も、その「大切な人」を語る時、心に宿すのは――苦しさ。


 それは、どうしてなのか。


「大切だから――だ。一時の気持ちで動いてはいけないんだ。時が来るまで見守り……いずれ彼女に相応しい人物が現れた時、手放さなくてはいけない人だから」


 手放す?
 何故?

 僕は不思議でたまらなかった。




「大切なら、自分の手で幸せにすればいいのでは? 手放す必要がどこに?」




 ――その言葉に貴志さんが息を呑み、動きが止まったのがわかった。


 暫しの沈黙の後、彼は笑った。
 その微笑みに隠された意味は、僕には分からなかった。

 貴志さんは、僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。


「晴夏、お前は『男』なんだな。お前も穂高と一緒で――かなり有望だ。その言葉に……感謝する――ありがとう。
 もう一度、この自分の心の迷いと向き合ってみるよ」


 どうして感謝されるのか、意味は分からなかった。
 けれど、生まれて初めて、家族以外の誰かに認められたような気がした。

 そのことが無性に嬉しかった。


「お礼を言われるようなことは、何も言っていません。よく分からないけれど、僕の言葉であなたが喜んでくれたのなら……とても嬉しい……」

 人に――他人に、こうやって自分の気持ちを吐露するのも初めてのこと。


 ああ、こうやって人は人と関わり、信頼を築いていくのか――初めて知ることがどんどん増えていく。


 彼女に――真珠の音色に心惹かれてから、僕の世界は息を吹き返したかのように彩られていく。


 彼女は、僕にとってどんな存在なのだろう。


 なぜ彼女は――彼女の周囲でさえ、僕の色を失った世界に、こんなにも沢山の色彩を与えてくれるのだろう。


 真珠はまったく意図せずに、既に僕の心の中心に入り込んでいる。

 乾いた僕の心に潤いを注いでくれたことも、彼女は知らない。

 彼女の存在自体が、僕の心を照らしていることでさえ、まったく気づいていないのだ。



 大切な人、想い人、心に決めた人――それは一体何なのだろう。


「僕は知りたい。音に心をのせるということを――貴志さん、あなたにとって、その大切な人というのは、どんな人なんですか? 音色が変わるほどの想いとは、どんなものなんですか? それを知れば、音に心を宿せるのでしょうか」


 答えてくれるかどうかは分からない。

 ――けれど、僕は彼に問うた。



 僕が『天上の音色』に近づくために、知らなくてはいけないことだと思ったから。



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