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攻略対象・幼馴染編(ファンディスク特別編)

【真珠】翔平と飛鳥の選択

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 右手に晴夏の温もりを感じつつも、紅子と貴志の演奏に心を奪われる。

 晴夏も同じ――わたしのことなど、見てはいない。
 その心は、目の前で繰り広げられる二人の演奏でいっぱいなのだろう。

 感嘆の溜め息が洩れる情感溢れる演奏――紅子のピアノ伴奏とあわせた貴志のチェロの調べが、家の中に広がっていく。


 心の中で息づくヘルティの詩の見も知らぬ男女が、いつの間にか貴志とわたしに姿を変えていたことに気づいた。

 花を摘むわたしを、貴志が優しく見守るような映像が脳裏をよぎり、慕情が鮮明に描かれる。


 ゆったりとした旋律を保ちながら、チェロの音色は徐々に終章へと向かう。
 ――幸せそうに微笑み合う男女の残像を瞼の奥に留め、幸福の余韻を残しながら。



 貴志は目を閉じ――わたしと同じく、その幸せの光景に浸っているのだろうか。
 自らの演奏が終わっても瞼を開けることなく、ピアノの音色に耳を傾けているように映った。


 紅子の伴奏はチェロの残響を包み込みながら、最終小節までたゆまぬ繊細な音色を奏でる。

 詩の中の男女の幸福を祈るような想いが、ピアノの音に見え隠れするのを感じた。


 ああ、これは――紅子からわたしと貴志に贈られた、祝いの音色でもあったのか。


 寿ことほぎを含んだ美しい旋律に心打たれたわたしは、左手で自分の胸元をおさえ、演奏を終えた貴志と紅子を静かに見つめた。


 暫しの時間をあけて、部屋の中に拍手が生まれた――翔平と飛鳥だ。


「すごい……それしか、言葉が出て来ない……」

 飛鳥が呟きを洩らした。

 翔平も興奮気味に、貴志と紅子に向けて語る。

「これが本物の『音楽』ってヤツなのか……スゲー」


 紅子が翔平の言葉を借りて「本物の音楽は、なかなかいいだろう?」と、神林姉弟に笑いかけた。

 翔平がそれに元気よく反応する。

「スッゲー良かった! なんつーか、うちの祖父ちゃんが縁側に座ってスイカを食いながら、俺が剣道の素振りをしているのを見守ってくれているような、懐かしい気分だった」

 紅子が「ほぅ」と感心したような声を洩らした。

 飛鳥も演奏の感想を伝えようと口を開く。

「本当に素敵でした。わたしは……初めてピアノで曲が弾けた時、両親が手放しで喜んでくれた時のことを思い出しました」

 紅子は嬉しそうに頷いた。


「音楽は自由だ。感じ方も、捉え方も人によって異なる。だが今日、二人共に感じた情景は、それぞれの大切な思い出の時間なんだな……それは良かった」


 満足そうに笑う紅子はわたしに視線を向けると、右手の状態に気づき、優しい――母親の微笑を見せた。
 先ほどから、わたしの右手には晴夏の手が重ねられたままなのだ。


「ハル、お前は何を思い出していたんだ?」


 我に返った晴夏が、紅子の顔を視界に入れる。


「僕は『天球』のガゼヴォで、シィと初めてバイオリンの練習をした時のことを……」


 ガゼヴォ――そこは、晴夏自身の意思で、初めて爪弾く音色に心を宿すことのできた場所。

 音で語り合える友を得た、忘れがたい思い出の時間になっていたのだろう。


 ガゼヴォは、わたしにとっても大切な思い出の場所だ。
 晴夏という音楽を愛する友と心を通わせた、謂わば聖域なのだから。


 記憶に刻まれた喜びを呼び覚まし、その嬉しさに晴夏の手を握り返す。

 けれど彼は、今の今迄手を繋いできることに気づいていなかったのか「シィ、すまなかった」と言って、慌ててその手を引っ込めてしまった。


 晴夏はわたしと共に音色を作り上げた、あの時間を懐かしく感じ、無意識のうちに手を重ねてしまったのだろう。


 彼にとって、わたしとの出会いは――わたし自身が思っているよりも、貴重で得難いものだったのかもしれない。


 そう思うと嬉しくて、くすぐったい気持ちになった。



 飛鳥が、紅子と貴志に向かって真面目な表情を見せる。

「高校受験が終わったら、両親に相談して、またピアノを始めてみようと思います。柊さん、貴志さん、貴重な演奏を聴かせていただき、ありがとうございました」

 深々とお辞儀をした飛鳥は紅子と貴志に感謝の言葉を述べると、屈託のない笑顔を見せた。

 飛鳥の様子をみていた翔平が、勢いよく立ち上がる。

「よし! 俺、決めた!」

 飛鳥が首を傾げて「何を?」と翔平に問う。

「来年のクラブ選択だよ。高学年になると放課後のクラブ活動があるじゃん? 剣道がないから、何にしようかなって思ってたんだけどさ、あれで――俺、吹奏楽をやってみる!」

 翔平が拳を握り、元気よく断言した。

 紅子が翔平の宣言に手を叩き、豪快に笑う。


「武士っ子も音楽の良さに目覚めたか? これはいい!」


 その楽しそうな声は音楽ルームに響き渡り、翔平と飛鳥も嬉しそうな表情を見せた。



 隣家から、時折風にのってピアノの音色と、トランペットの音が届くようになるのは、まだもう少し先――来年の春以降のこと。



          …



「じゃあな。夕方、待ってるから絶対に来いよ?」

 翔平が玄関先で、兄と晴夏に向かって確認をとる。

「お誘い、ありがとうございます。後ほど伺います」

 兄が丁寧に答え、晴夏はコクリと首肯した。
 二人のその様子に、翔平が渋い顔を見せる。

「もっと、こう、砕けた喋り方と態度にしようぜ。友達になったんだからさ」

 兄と晴夏の二人が戸惑う様子に、翔平が苦笑した。

「えーと、今は無理しなくていいからさ、そのうち……な」

 その遣り取りを見ていた飛鳥が翔平の頭をグリグリと撫でたあと、わたしに向かって声をかける。

「真珠、早目においでよ。わたしの子供の頃の浴衣があるから着てみない? みんな浴衣とか甚平で来るからさ」

 浴衣か。
 それは、なかなか華やかな集まりになりそうだ。

「飛鳥、ありがとう。でも、浴衣なら持っているから大丈夫。家から着ていくね。みんなの分も準備してもらうから」

 そう言って、貴志と兄、それから晴夏に視線を移す。

「わ~お! 貴志さんも着るの? それは楽しみだ」

 飛鳥が上機嫌な笑顔を見せた後、何かに気づいたようでコソッと耳打ちする。

「でも、真珠、いいの? 貴志さんが浴衣を着たら更に素敵になるだろうから、集まってくる女の子達で争奪戦が始まるよ? なんてったって『チェロ王子』だからさ」

 わたしは飛鳥の内緒話にその光景を想像するも、何故か貴志のゲンナリした表情しか浮かばない。

「大丈夫。その時は、その様子を楽しむから」

 飛鳥が、ふふっと笑い声を洩らした。


「婚約者の余裕ってやつか~。今日は何故か真珠が年上のお姉さんのように感じちゃうのだよ。不思議だ」


 飛鳥はそう言ってから、翔平に「行こっか」と声をかけ帰路につく。

 二人の背中を見送っていたところ、翔平が突然振り返り、大きな声で訊ねてきた――どこか必死さの漂う表情で。


「チビ! 今は、もう……泣いてないんだよな? 本当に幸せなんだよな?」


 わたしは満面の笑みを翔平に向け、しっかりと頷いた。


「うん! 幸せだよ! 今は、前よりも近くにお兄さまがいるの。ハルも友達になってくれた。それにね、貴志が守ってくれるから……だから、もう、前みたいに泣かないよ」

 翔平は、ほんの少しだけ寂しそうな様子を見せたあと、気を取り直したのか口角をニッと上げた。


「良かったな! いつもそうやって笑ってろよ」


 彼は背を向け、飛鳥の肘で脇腹を突かれながら去っていく。
 姉弟で楽しそうにじゃれている様子がうかがえた。

 わたしは、その後ろ姿に向かって声をかける。


「翔平! 心配してくれて、ありがとう! 『約束』はなくなったけど、翔平のことはこれからも、ずっと……ずっと大好きだから!」


 翔平はこちらを振り返らず、手を上げるとその掌をヒラヒラと振って「りょーかい!」と返答してくれた。



 こうして、翔平との久々の再会は、当初の目的――結婚の約束をお断りする――を見事達成し、無事幕をおろした。



          …


 兄と晴夏から翔平と交わした『約束』について、どうしてそんなことになったのか? と尋問されたのは、その後すぐのこと。


 王子さま兼天使の麗しい兄の顔が何故か魔王のように見え、晴夏が絶対零度の深い溜め息をつき、貴志はその様子を遠くから何故か楽しそうに見学していた――とだけ、申し添えておこう。




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