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始まりの檻
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白から黒へと落ちていったはずなのに、落下の感覚はどこにもなかった。
中川和真の視界は、ふっと切り替わる。
真っ白だった世界が一瞬だけ暗転し、次に映った映像は——冷たく整った灰色の空間だった。
胃の奥がひっくり返るような違和感に、思わず膝をつきそうになる。
(……ここが、一層か)
そこは、あまりに無機質で、あまりに人工的で、そして——あまりに静かだった。
天井は巨大なドーム状だ。金属とも石ともつかない、無色透明の素材でできている。
内部から淡い白光を放ち、影という影を潰している。
どこか、巨大な手術室の内部に放り込まれたような、そんな冷たさがあった。
足元は、均一な灰色の床。砂一粒落ちていない。靴底が触れるたび、低く乾いた反響音が返ってくる。
風は吹いていないのに、肌に触れる空気は妙に冷たい。世界から切り離された箱の中に、ただ百人前後の人間だけが詰め込まれている——そんな感覚。
視界に広がる灰色が、ふと別の景色と重なる。
あの日のアスファルト。
雨で濡れた交差点。
ハンドルが軽くなり、視界が横倒しになって——
喉の奥が焼けるように痛み、胸がきゅうっと縮む。
(やめろ)
反射的に顔を伏せかけた、そのときだった。
――ざわっ……!
「どこだここ!?」「なんで身体が動く……痛くない……?」「うそ……腕が治ってる……?」
押し殺されていたざわめきが、一気に爆発する。
怒鳴り声。泣き声。質問。罵声。祈り。
一層は、さっきまでの“静謐”とは程遠い。災害直後の避難所に、説明もなく人間を押し込めたらこんな音になるだろう——そんな騒ぎだった。
考えてみれば当然だ、と和真は思う。
神は言った。ここに集められたのは百人前後。
年齢も、国も、境遇もバラバラな人間が、事情も分からないまま突然この空間に放り込まれた。平常心でいろというほうが無理だ。
ただ一人、和真だけが、その波に飲まれなかった。
——違う。
飲み込まれるほどの気力が、もう残っていないだけだ。
周囲を見渡す。
杖も持たずに立っている老人。
制服姿の少年少女。
筋骨隆々の男。
顔色の悪い若い女。
目の奥に暴力の匂いを宿した男たち。
中には、状況を理解しきれず、あるいは理解したうえで笑っている者すらいる。その笑みは、どう見ても正気のそれではなかった。
誰もが健康的な肌の色をしていた。包帯もギプスもない。病院着の老人ですら、背すじを伸ばして立っている。
「痛く……ない……息が……普通にできる……」
さっきまで「末期がんだ」と泣いていた老人が、震える手で胸を押さえ、呆然と呟いた。
「私、歩けなかったのに……なんで……?」
車椅子に乗っていたのだろう女が、よろよろと自分の足で立ちながら泣き声を上げる。
神の言葉が、和真の頭の中で反芻された。
——身体は、万全の状態にしてやろう。
皮肉なものだ、と和真は思う。
死なせたくなかった二人は、もうどこにもいないのに。
守りたかった家族は戻ってこないのに。
和真だけが、こうして傷ひとつない身体で立っている。
胸の奥で感情の波が暴れ、吐き気にも似たものが込み上げる。喉の奥を声にならない呻きがこすり上がった、そのとき——。
視界の中央に、“異物”が目に入った。
—— 一層中央。
灰色の床のど真ん中に、丸い台座が据えられている。その上に、二つの物が置かれていた。
ひとつは、透明な壺に満たされた水。
もうひとつは、乾パンのような、白くて味気なさそうなパンの山。
それ以外には、何もない。
家具も、壁も、隠れる場所もない。
寝床らしきものは、床に直接置かれた薄いマットが数枚あるだけだ。
(……これが“最低限”ってわけか)
百人前後の人間が一晩を過ごすには、あまりに心許ない水とパン。
全員の視線が、じわじわとそこに吸い寄せられていく。
だが誰も、最初の一歩を踏み出せない。
恐怖と混乱。
ここがどこで、これから何が起こるのか分からない。
「まず水と食料を確保しよう」と考えられるほど、頭が回っていない。
空気が、不安と飢えの予感でじっとりと湿っていく。
「おいッ! 階段があるぞ!」
不意に、背後から怒鳴り声が飛んだ。
振り向くと、ドームの壁に沿うようにして、くの字に折れ曲がった階段があった。
階段はぐるりとドーム内部の壁をなぞりながら上昇し、上方のどこかへと続いている。
人々の視線が、中央のパンと水から、階段と、その付近に集まり始めた数人の男たちへと移っていく。
「ここを登れば、二層ってやつか……?」
「神、言ってたよな。二層からモンスターが出る、とかなんとか」
「はっ、ゲームかよ。上に行きたい奴は勝手に行け。俺はここで様子見るわ」
笑い混じりの声。
乾いた嘲り。
無理やり明るさを装ったような調子。
和真は階段を見上げる。
ドームの上部に向かって、灰色の段が途切れなく続いている。
先は見えない。
ただ、その上に“死ぬための何か”が待っていることだけは分かる。
神が言っていた。
——二層から、モンスターが出る。
つまり、この階段の先には、命を奪いに来る存在が待っている。
身体のどこかが、かすかに震えた。
(怖いか?)
一瞬、自問する。
(……怖いに決まってる)
あの日の感覚が、こびりついている。
死は、痛くて、汚くて、醜い。
神がどれだけ「死んでも蘇らせてやる」と笑っても、その痛みまで軽くしてくれるわけじゃない。
けれど、それでも——。
胸の、もっと奥。
ずっと燻ったまま消えなかった熱がある。
“あの日より前に戻りたい。
妻と息子が死なない未来を選び直したい。”
それだけだ。
神は言った。
——百層を踏破した暁には、望みを一つだけ叶える。
その一言を聞いた瞬間、灰になりかけていた心のどこかで、火がくすぶり始めた。
決して大きな炎ではない。けれど、強引なまでの熱量で胸の奥を焦がすには十分だった。
絵里奈の笑顔。
陽斗の小さな手と、くすぐったい笑い声。
もう二度と触れられないはずのそれを、「取り戻せるかもしれない」と言われた。
(……だったら、行くしかない)
地獄の底だろうと、怪物の腹の中だろうと、構わない。
何度死の痛みを味わうことになっても——。
「……クソが」
誰にも聞こえないように、和真は小さく悪態を吐く。神に向けてか、自分に向けてか、自分でも分からない。
気がつけば、足は自然と階段のほうへ向かっていた。
背後では、まだ喧騒が渦を巻いている。
この百人のうち——
どれだけが十層に到達できるのだろう。
どれだけが、百層に辿り着けるのだろう。
そう考えた瞬間、胸の奥がわずかに波打った。
それが希望なのか、罪悪感なのか、焦燥なのか、自分でも判断がつかない。
階段の手前で立ち止まり、和真は天井を見上げた。
透明なドームの向こう、どこか高みから、あの金の瞳の神がこちらを見下ろしている気がした。
「……見てろよ」
低く呟く。
声は、あっけないほど簡単に空虚へと吸い込まれていく。反響すら返ってこない。それでも構わなかった。
神に聞こえなくてもいい。
自分自身にだけは、はっきりと聞こえていればいい。
——あの日をやり直すために、俺はここを登る。
そう誓った瞬間、胸の奥に、鋭い痛みが走った。
逃げ続けていた自分を、ここで終わらせる。
その決意が、ようやく形を成り始める。
和真は階段を一段、踏みしめた。
硬い床がわずかに震え、低い音がドーム内部に反射する。
背後の喧騒が、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。
もう一段、足を上げる。
また一段。
そのとき、ふと気づく。
——この階段を踏む音が、やけに大きく響く。
まるで、この先に待つ世界が、彼の到来を“待っている”かのように。
やがて、階段の上部に、黒い門のような影が見えてきた。
二層へと続く入口。
神の言った“モンスター”たちが待ち構える領域。
生き物としての本能が、ようやく悲鳴を上げる。恐怖が、ひと筋、脳裏をかすめた。
だが——遅い。
和真は、すでに覚悟を決めていた。
階段の最上段に足をかけ、黒い闇の前に立つ。その闇は、ぽっかりと口を開け、彼を飲み込む瞬間を待っている。
「……行く」
小さくそう呟き、和真は闇の中へ一歩を踏み出した。
こうして、彼の“本当の地獄”が、静かに幕を開けた。
中川和真の視界は、ふっと切り替わる。
真っ白だった世界が一瞬だけ暗転し、次に映った映像は——冷たく整った灰色の空間だった。
胃の奥がひっくり返るような違和感に、思わず膝をつきそうになる。
(……ここが、一層か)
そこは、あまりに無機質で、あまりに人工的で、そして——あまりに静かだった。
天井は巨大なドーム状だ。金属とも石ともつかない、無色透明の素材でできている。
内部から淡い白光を放ち、影という影を潰している。
どこか、巨大な手術室の内部に放り込まれたような、そんな冷たさがあった。
足元は、均一な灰色の床。砂一粒落ちていない。靴底が触れるたび、低く乾いた反響音が返ってくる。
風は吹いていないのに、肌に触れる空気は妙に冷たい。世界から切り離された箱の中に、ただ百人前後の人間だけが詰め込まれている——そんな感覚。
視界に広がる灰色が、ふと別の景色と重なる。
あの日のアスファルト。
雨で濡れた交差点。
ハンドルが軽くなり、視界が横倒しになって——
喉の奥が焼けるように痛み、胸がきゅうっと縮む。
(やめろ)
反射的に顔を伏せかけた、そのときだった。
――ざわっ……!
「どこだここ!?」「なんで身体が動く……痛くない……?」「うそ……腕が治ってる……?」
押し殺されていたざわめきが、一気に爆発する。
怒鳴り声。泣き声。質問。罵声。祈り。
一層は、さっきまでの“静謐”とは程遠い。災害直後の避難所に、説明もなく人間を押し込めたらこんな音になるだろう——そんな騒ぎだった。
考えてみれば当然だ、と和真は思う。
神は言った。ここに集められたのは百人前後。
年齢も、国も、境遇もバラバラな人間が、事情も分からないまま突然この空間に放り込まれた。平常心でいろというほうが無理だ。
ただ一人、和真だけが、その波に飲まれなかった。
——違う。
飲み込まれるほどの気力が、もう残っていないだけだ。
周囲を見渡す。
杖も持たずに立っている老人。
制服姿の少年少女。
筋骨隆々の男。
顔色の悪い若い女。
目の奥に暴力の匂いを宿した男たち。
中には、状況を理解しきれず、あるいは理解したうえで笑っている者すらいる。その笑みは、どう見ても正気のそれではなかった。
誰もが健康的な肌の色をしていた。包帯もギプスもない。病院着の老人ですら、背すじを伸ばして立っている。
「痛く……ない……息が……普通にできる……」
さっきまで「末期がんだ」と泣いていた老人が、震える手で胸を押さえ、呆然と呟いた。
「私、歩けなかったのに……なんで……?」
車椅子に乗っていたのだろう女が、よろよろと自分の足で立ちながら泣き声を上げる。
神の言葉が、和真の頭の中で反芻された。
——身体は、万全の状態にしてやろう。
皮肉なものだ、と和真は思う。
死なせたくなかった二人は、もうどこにもいないのに。
守りたかった家族は戻ってこないのに。
和真だけが、こうして傷ひとつない身体で立っている。
胸の奥で感情の波が暴れ、吐き気にも似たものが込み上げる。喉の奥を声にならない呻きがこすり上がった、そのとき——。
視界の中央に、“異物”が目に入った。
—— 一層中央。
灰色の床のど真ん中に、丸い台座が据えられている。その上に、二つの物が置かれていた。
ひとつは、透明な壺に満たされた水。
もうひとつは、乾パンのような、白くて味気なさそうなパンの山。
それ以外には、何もない。
家具も、壁も、隠れる場所もない。
寝床らしきものは、床に直接置かれた薄いマットが数枚あるだけだ。
(……これが“最低限”ってわけか)
百人前後の人間が一晩を過ごすには、あまりに心許ない水とパン。
全員の視線が、じわじわとそこに吸い寄せられていく。
だが誰も、最初の一歩を踏み出せない。
恐怖と混乱。
ここがどこで、これから何が起こるのか分からない。
「まず水と食料を確保しよう」と考えられるほど、頭が回っていない。
空気が、不安と飢えの予感でじっとりと湿っていく。
「おいッ! 階段があるぞ!」
不意に、背後から怒鳴り声が飛んだ。
振り向くと、ドームの壁に沿うようにして、くの字に折れ曲がった階段があった。
階段はぐるりとドーム内部の壁をなぞりながら上昇し、上方のどこかへと続いている。
人々の視線が、中央のパンと水から、階段と、その付近に集まり始めた数人の男たちへと移っていく。
「ここを登れば、二層ってやつか……?」
「神、言ってたよな。二層からモンスターが出る、とかなんとか」
「はっ、ゲームかよ。上に行きたい奴は勝手に行け。俺はここで様子見るわ」
笑い混じりの声。
乾いた嘲り。
無理やり明るさを装ったような調子。
和真は階段を見上げる。
ドームの上部に向かって、灰色の段が途切れなく続いている。
先は見えない。
ただ、その上に“死ぬための何か”が待っていることだけは分かる。
神が言っていた。
——二層から、モンスターが出る。
つまり、この階段の先には、命を奪いに来る存在が待っている。
身体のどこかが、かすかに震えた。
(怖いか?)
一瞬、自問する。
(……怖いに決まってる)
あの日の感覚が、こびりついている。
死は、痛くて、汚くて、醜い。
神がどれだけ「死んでも蘇らせてやる」と笑っても、その痛みまで軽くしてくれるわけじゃない。
けれど、それでも——。
胸の、もっと奥。
ずっと燻ったまま消えなかった熱がある。
“あの日より前に戻りたい。
妻と息子が死なない未来を選び直したい。”
それだけだ。
神は言った。
——百層を踏破した暁には、望みを一つだけ叶える。
その一言を聞いた瞬間、灰になりかけていた心のどこかで、火がくすぶり始めた。
決して大きな炎ではない。けれど、強引なまでの熱量で胸の奥を焦がすには十分だった。
絵里奈の笑顔。
陽斗の小さな手と、くすぐったい笑い声。
もう二度と触れられないはずのそれを、「取り戻せるかもしれない」と言われた。
(……だったら、行くしかない)
地獄の底だろうと、怪物の腹の中だろうと、構わない。
何度死の痛みを味わうことになっても——。
「……クソが」
誰にも聞こえないように、和真は小さく悪態を吐く。神に向けてか、自分に向けてか、自分でも分からない。
気がつけば、足は自然と階段のほうへ向かっていた。
背後では、まだ喧騒が渦を巻いている。
この百人のうち——
どれだけが十層に到達できるのだろう。
どれだけが、百層に辿り着けるのだろう。
そう考えた瞬間、胸の奥がわずかに波打った。
それが希望なのか、罪悪感なのか、焦燥なのか、自分でも判断がつかない。
階段の手前で立ち止まり、和真は天井を見上げた。
透明なドームの向こう、どこか高みから、あの金の瞳の神がこちらを見下ろしている気がした。
「……見てろよ」
低く呟く。
声は、あっけないほど簡単に空虚へと吸い込まれていく。反響すら返ってこない。それでも構わなかった。
神に聞こえなくてもいい。
自分自身にだけは、はっきりと聞こえていればいい。
——あの日をやり直すために、俺はここを登る。
そう誓った瞬間、胸の奥に、鋭い痛みが走った。
逃げ続けていた自分を、ここで終わらせる。
その決意が、ようやく形を成り始める。
和真は階段を一段、踏みしめた。
硬い床がわずかに震え、低い音がドーム内部に反射する。
背後の喧騒が、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。
もう一段、足を上げる。
また一段。
そのとき、ふと気づく。
——この階段を踏む音が、やけに大きく響く。
まるで、この先に待つ世界が、彼の到来を“待っている”かのように。
やがて、階段の上部に、黒い門のような影が見えてきた。
二層へと続く入口。
神の言った“モンスター”たちが待ち構える領域。
生き物としての本能が、ようやく悲鳴を上げる。恐怖が、ひと筋、脳裏をかすめた。
だが——遅い。
和真は、すでに覚悟を決めていた。
階段の最上段に足をかけ、黒い闇の前に立つ。その闇は、ぽっかりと口を開け、彼を飲み込む瞬間を待っている。
「……行く」
小さくそう呟き、和真は闇の中へ一歩を踏み出した。
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