死に戻りの箱庭ダンジョンで、亡き家族を取り戻すため俺は何度でも死ぬ ──絶望から始まる再生の物語──

タイハクオウム

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 声が、近づいてくる。

 低く荒れた笑い声。誰かを見下すような調子。そこに混じる、小さく震えた声。

 俺は洞窟の壁に背中を預け、浅く息を吐いた。まだ腕は焼けるように痛む。赤黒いスライムに抉られた右腕は、レベルアップである程度は塞がったものの、傷痕は生々しく残っている。動かすたび、肉の奥で鈍い痛みが脈打った。

 それでも、さっきまでとは違っていた。

 足に力が入る。膝が笑わない。レベルが上がったことで、身体そのものが一段、別物になった感覚がある。

 ……だが、今の俺で、あの声の主たちに勝てるとは、とても思えなかった。足音が、複数。岩を踏みしめる音がゆっくり近づく。

 俺は身体を横にずらし、曲がり角の影に身を滑り込ませた。洞窟の壁は汗で湿った掌に冷たく、ざらりとした感触を返す。息を殺しながら、そっと顔だけを角の先へ向けた。

 闇の先に、微かな光が揺れた。

 最初に見えたのは、背の高い男の影だった。肩幅が広く、筋肉で盛り上がった腕。その首筋から腕にかけて、複雑な刺青が走っている。

「ったくよ、暗えなここは。けどまあ、悪くねぇ」

 刺青の男が、口の端を吊り上げた。手には青く光る金属片と、何かを束ねた即席の棍棒。周囲には四人ほどの男たちが続き、その後ろに、肩をすくめた若い男が一人、荷物を抱えてついてくる。

 荷物持ちの男は、二十代後半くらいに見えた。痩せぎみで、眼鏡の跡が鼻筋に残っている。ここに来る前は、俺と同じ普通の会社員だったのだろう。視線は足元に落ち、口元は引き結ばれていた。

「お、おい、本当に……ここ、スライムしか出ないんだよな…?」

 おずおずと漏れた声が、さっき聞こえた震え声の正体だ。

 刺青の男が振り返り、唇の端で笑う。

「知るか。さっきのぬるいスライムでも、力が漲ってきたろ。いわゆる経験値ってやつだ。こっから先はもっと美味ぇのがいるかもしれねぇ」

「でも、死んだら……」

「死んでも一層に戻るだけだろうが。神サマがそう言ってただろ?」

 男は肩をすくめ、大げさに両腕を広げてみせた。

「ほら、“安心・安全のデスゲーム”ってやつだ。死んだところで、こっちの世界じゃ痛いだけ。戻ればまたパンと水。楽な話じゃねぇか」

 楽、だと。

 胸の奥が冷たくなった。こいつは、本気でそう思っている。

「それにさ」

 刺青の男は、にやつきながら続ける。

「レベルとスキルさえ取っちまえば、一層はこっちのもんだ。パンも水も、俺たちが管理する。今だって実質そうなってるが……これからは“守ってやる代わりに、言うことを聞け”って堂々と言える」

「……」

「抵抗する奴? 殴るなり、ちょっと殺すなりすりゃいい。どうせまた戻ってくるんだしよ。あの黒髪の女も、そのうち俺たちのところに転がってくるさ」

「あれは俺の女にする」

 脳裏に、一層で見かけた女の顔がよぎる。短く整えられた黒髪。怯えながらも、誰かを庇うように立っていた背中。

 あのとき、俺はただ、自分のことで精一杯だった。階段に向かうことで頭がいっぱいで、彼女と、彼女が抱いていた少女を、真正面から見ることを避けた。

 ――守れない。

 奥歯を噛みしめた瞬間、右の拳に、奇妙な感覚が走った。骨が軋むような、肉が締め付けられるような、冷たい圧力。

 思わず視線を落とす。

 右手の甲が、うっすらと色を変えていた。皮膚の下で何かが凝縮され、密度を増していくように、感覚が内側へと収束していく。触れてみると、石よりも硬く、金属ほどには冷たくない、奇妙な硬質感があった。

 ――硬質化。

 この拳で殴れば、岩くらいなら砕けるだろう。
 人間の頭蓋骨だって、きっと。

 刺青の男たちとの距離は、十数メートル。背後から一人を倒せる。奇襲をかければ、最初の一撃は通るかもしれない。

 だが、そのあとが続かない。

 俺はまだレベル2で、全身ボロボロだ。スキルの正確な持続時間も、使用回数も知らない。奴らを相手取って、なお立っていられる保証はどこにもない。

 ここで飛び出すのは――

 助けたいからではなく、自分の「やり直したい」を満たすためだけだ。過去の自分を。目をそらし続けていた自分を。

 今度こそ覆したい、という自己満足。

 それでここで死んだところで、俺は一層に戻る。レベルは1に戻り、スキルだけを抱えたまま、無防備にあの広場へ投げ出される。

 そのとき、こいつらが一層を完全に掌握していたら――?

 俺だけじゃない。パンと水にすがるしかない連中が、もっと簡単に蹂躙されることになる。

 喉が渇く。握りしめた拳を、ぎりぎりと爪で押し込んだ。今すぐにでも、誰かをこの連中から引き離したい。

 けれど本当に、一層をどうにかしたいなら。ここで無茶な飛び出しをして死ぬことは、ただの自己満足でしかない。

 ――強くならなければ。

 この世界の理不尽そのものに、殴りかかれるだけの力を持たなければ。

 刺青の男は、荷物持ちの肩を乱暴に叩いた。

「おい、ビビってねぇで足動かせ。さっさとスキルってやつを獲得して、レベル上げんぞ。一層で震えてる連中も、そのうち“俺たちの大事な資源”になるんだからよ」

「……わ、分かった」

 男はうつむいたまま、小さく返事をする。その声を、俺は聞いていることしかできない。

 影が、通り過ぎていく。
 複数の足音が、洞窟の奥へと遠ざかっていく。

 完全に気配が消えるまで、俺は壁に張りついたまま動かなかった。しばらくして、硬質化していた拳の感覚がじわりとほどけ、普通の肉の柔らかさが戻る。遅れて、どっと疲労が押し寄せてきた。スキルを起動していただけで、目の奥が重くなる。

 使いどころを間違えれば、あっさり動けなくなるタイプだ。便利で、危険な力。

「……はぁ」

 息を吐いてから、俺はようやく角の先に顔を出した。男たちが通り過ぎた通路には、床には派手に踏み荒らされた足跡が点々と続き、その合間に、小さな血の滴がいくつか散っていた。

 誰かが、少しだけ傷ついている。だが、ここにはもう誰もいない。俺はしばらく立ち尽くし、そして、壁に視線を向けた。

 今の俺にできることは、何だ。

 直接守れないなら――せめて、いつか守れる力を得るまで、生き延びる。

 ――今はまだ足りない。

 足元に落ちていた薄い石片を拾い上げる。先端が欠けた、簡素な破片だ。強く握りしめると石片はボロボロと砕けていく。

 痛みは感じなかった。

「一層をどうにかする。あの連中も、神も。全部まとめて終わらせる」

 声に出してみると、思ったよりも自分の声がかすれているのが分かった。

「そのためには、まず俺が生き残らないとな」

 妻と息子を取り戻す。
 一層で震えている連中を解放する。

 どちらか片方じゃない。両方だ。

 神が「願いは一つ」と言ったのなら、その枠組みごとへし折る方法を探せばいい。百層の先に何が待っていようと、そこで終わりじゃない世界の形を、俺はこの手でこじ開けてやる。

 今はまだ足りない。拳が鈍く色を変えていく。
 理不尽そのものを殴り砕く。

 胸の奥が、かすかに熱くなった。痛みと疲労の隙間から、細い炎が立ち上るような感覚。

 俺は階段の位置を頭の中で確認し、男たちが進んだのとは逆方向へと足を向けた。今の俺では彼らの後を追っても、自滅するだけだ。別の路を選び、別の戦場で力を積み上げる。

 いつか、一層の夜を終わらせるために。

 まだ死ねない。死ぬとしても、それは全部終わらせた後だ。そう心の中で繰り返しながら、俺は闇の奥へと歩き出した。
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