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第一章 食わず嫌い

第八話~誤解が生んだ事実~

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 志の田のあるN区に入り、翔太郎の元へと急ぐ。途中、腕時計を何度も確認したが時刻は既に十一時を過ぎており、無駄足になるのではないかと気をもみながらも歩みを進めた。
 やっとの事で店の前に到着する。看板は既に片付けられてはいたものの、店の奥の方から微かな光が漏れているのがわかる。それが、まだ誰かがそこにいるのだという事を表していた。

(扉、開いてるかな)

 緊張した面持ちで柚希は店の扉に手を掛ける。思いがけずカラカラカラとなんなく開く扉に、柚希の鼓動が大きく音を立て始めた。

「……こんばんはー。誰かいますか?」

 カウンターのある店内は既に明かりが落とされており真っ暗だ。しかし、調理場の明かりがまだ点いていて、奥の方からトントントンと包丁を扱うリズミカルな音が聞こえた。

「あの、すみません!」

 何度声を掛けてもその音は止まない。カウンターから身を乗り出して調理場をのぞいてみると、柚希が今日どうしても会いたかった翔太郎の背中がチラリと見えた。

「……!」

 カウンターをぐるりと回って調理場へと足を踏み入れると、目の前には白衣姿の翔太郎が背を向けて立っていた。包丁を下ろすたびに上下する肩甲骨、捲りあげた袖からのぞく太くて男らしい腕に柚希はこのまま抱き付きたい衝動に駆られる。が、それはイヤホンをつけて包丁を握りしめた相手にする事では無いと、柚希はぐっと我慢をすることにした。

「発条さん!」
「……」

 音漏れがしている時点でかなりの大音量で聞いているのがわかる。声を掛けても無駄だと思った柚希は、翔太郎の視界にわざと入り込む様にして隣に並んだ。

「……。――? うわっ!?」
「きゃあっ!? ごっ、ごめんなさいっ!」

 翔太郎は二度見した後、身体全体を使って驚いた。そして、すぐさま柚希に向かって包丁を突き付ける。条件反射とはいえ翔太郎に包丁を向けられた柚希は、慌てて両手を上げた。
 相手が強盗とかではなく柚希だと認識した翔太郎は包丁を下ろすと、空いている方の手で引きちぎるようにして耳からイヤホンを取り去った。

「あんたっ、何勝手に……!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! その、とっ、扉が開いてたから入っちゃったんだけど何度声を掛けても気付いて貰えなくて、つい」
「そうか知らねーけど! 俺、もうちょっとであんたをブッ刺すとこだったんだぞ!」
「はい……。ごめんなさい」
「ったく、俺を犯罪者にでもさせるつもりか! ……まぁ、鍵を閉め忘れた俺も悪いんだろうけど」
「そんなつもりじゃ。――あ、表の鍵はちゃんと閉めておきましたんで」

 睨み付ける翔太郎に臆することなく、柚希はヘラヘラと笑っていた。
 翔太郎はイヤホンをポケットにしまい込み、呆れた顔で中断していた作業を再開する。

「で? 何か用? 見ての通り俺は今忙しいし、でもってここは関係者以外立ち入り禁止だからさっさと出て行ってくれ」
「あーっと……。篠田さんは?」
「ちょっと体調崩してて。今日はもう帰った」
「そうなんだ」

 柚希は心配そうに眉尻を下げたが、心の中では少しほっとしていた。今から四季彩の話を聞くのに篠田がいては聞きにくい。丁度良かったとばかりに翔太郎の顔色を窺いながら訊ねた。

「あの。――S区の四季彩から声が掛かってるって本当ですか?」

 柚希のその言葉で翔太郎の手がピタリと止まる。隣に並ぶ柚希を見下ろす翔太郎の表情から、明らかに動揺しているのが良く分かった。

「……どこで聞いた?」
「今日たまたま四季彩に行くことがあって。そこの従業員の方に」

 柚希と視線を切り、舌打ちをした。

「お喋りな奴がいるもんだな」

 否定しない事に、あの話は単なる噂とかではなくやはり事実なのだという事を認識する。

「じゃあ、やっぱり本当……なんだ」

 名の知れた料亭。しかも料理長というポストで行くという事は、翔太郎にとってとても喜ばしい事だろう。おめでとうの一言でも言ってあげればいいものを、柚希はどこか浮かない顔であった。

「確かに来てくれとは言われてるけど、俺は移る気全然ないがな」
「へ? なんで?」
「なんでって。……んだよ、あんたは移って欲しいのかよ」

 翔太郎の横で目を丸くしている柚希に翔太郎はムッとした顔をした。手元に視線を落とし、再びリズミカルな音を刻む。

「違います! 発条さんには志の田でずっと働いてて欲しいです!」
「じゃあいいんじゃねえの? 当の本人が行かないって言ってるんだし」

 こんな夜中に勝手に店に忍び込んできてまでそんな事を聞きたいのか、とでも言いたげなのが翔太郎のその態度から滲み出ていた。

「その。ただ私は、せっかく料理長でってお誘い受けてるのにどうしてなのかなって」
「――は? 料理長?」

 手の動きをピタリと止めると、翔太郎は柚希を見下ろした。

「え? 違うんですか?」
「俺が料理長とかあるわけないだろ。確かにあそこの料理長は辞めるらしいけど、副料理長が料理長になるってだけだ。俺はそれとは別に、良かったらうちでどうかって声がかかっただけ」

 またしても四季彩の従業員に担がれてしまった。
 料理長でとのお誘いなだけに翔太郎が快諾してもなんら不思議はない。そう思って疑わなかった柚希は、四季彩の従業員から聞いた話があまりにも事実とかけ離れた内容であったことに拍子抜けしてしまう。瞬間、一之瀬に励まして貰ったからこそ事実を知る事ができたのだと思うと、彼に感謝してもしきれなかった。
 もしかしたら、室井との話も事実ではないかもしれない。
 柚希は一縷いちるの望みにかける思いで核心に触れた。

「――もう一つ、聞いていいですか?」
「まだ何かあんのかよ」

 翔太郎は小さく溜息を吐くと、また作業を再開する。

「四季彩のコンサルをしている室井さんとは、その……どういう関係なんですか?」
「ムロイ? ――ああ、桜のことか」

 無愛想な翔太郎が女性を下の名前で呼ぶ。その事が二人の間には親密な関係が存在するのだという事を表している。

「……っ」

 不安な気持ちを隠し切れず、柚希の顔が歪み始めた。
 急に喋らなくなった事で様子がおかしいと気付いた翔太郎が再び柚希の方へと顔を向ける。明らかに動揺しているのが見て取れる彼女に、どうしてか翔太郎は冷たい視線を向けた。

「……別に。あんたには関係ないだろ」
「――!」
「用が済んだなら、さっさと帰っ――」
「関係あります!」

 調理場から追い出しにかかろうとする翔太郎の腕を掴み、柚希は抵抗した。

「……関係、ないかも知れないけど。私には凄く重要な事で」
「んだよ、それ」
「室井さんと発条さんがその、こ、恋人同士だって聞いて。私居てもたってもいられなくって」
「――」

 押し黙ったままで柚希を睨み付ける翔太郎。彼が今一体何を考えているのか理解できない柚希は、なんとかして自分の気持ちをわかってもらいたいと言う思いで必死だった。
 だが、

「だからっ――」
「あんた、男だったら誰でもいいの?」
「……はい?」

 翔太郎のその言葉に柚希は間の抜けた返事を返す。今の話のくだりでなぜそんな風に捉えられるのかさっぱりわからないと言った顔をしていた。

「……? ――あっ、ちょ」
「わかんねぇならもういい。ほら、さっさと出てってくれ」

 柚希に掴まれている腕を翔太郎が逆に掴みなおすと、引きずる様にして調理場から店内へと足を進めた。
 掴まれている腕にぶら下げていた柚希のバッグが、カウンターの椅子に何度もぶつかる。

「あっ、まっ、待ってください」
「――」

 バッグが当たった衝撃により椅子が傾く。そのせいで柚希が進行を妨げられているというのに翔太郎はそれに気付く事なく、柚希の腕を力任せに引っ張り続た。



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