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第四章 魚心あれば水心
第五話~準備万端、バッチコイ~
しおりを挟むしんと静まる部屋に箸や食器のぶつかる音が響く。部屋の隅には小さなブラウン管のテレビが置いてあるが、デジタル放送化した今となっては最早レトロ感を味わうためだけの単なるインテリアでしかその役目を果たしていない。この静けさを破る為に何か話をしようと模索するも、考え抜いた末に発せられた言葉は特段気の利いたものではなかった。
「最近めっきり寒くなってきましたね」
「そうだな」
「……」
思いのほか話が膨らまなかったことに狼狽える。切羽詰まった柚希は、焦って次の言葉を探した。
「こっ、今年の冬はどんなコートが流行るんでしょうね」
話しを繋げるためとは言え、特別服に興味など持っていそうにない彼にそんな話を振るのはどうだろうか。言った本人ですらそう思っているのか、しまったとばかりに小さく口を開けた。
「ダウン」
「え?」
何かと聞き間違えただろうか。柚希は問い返す。
「ダウン。これ一択」
「ダウン、ですか?」
「ああ。ダウン最強だろ」
「……」
表情一つ変えずにそう言った翔太郎に、柚希はぽかんと口を開けたままだった。
「……ぷっ」
絶対、切れられるか無視されるんじゃないかと思っていたのが、よもや、まともな返事が返ってくるとは思っておらず、食べる手を止めてまで笑い転げている。むぅっと眉根を寄せる翔太郎に気づき、あわてて言葉を付け足した。
「そう言えば、発条さんの私服姿って今日初めて見たかも。凄く新鮮で何だか別人みたいです。……あっ、それはそうと、この間は――」
先ほどまで緊張していたのが嘘の様に、柚希はいつも通りペラペラとおしゃべりに花を咲かせている。そんな彼女を見て、翔太郎は気付かれない様に微かに笑みを見せた。
「御馳走様でした。洗い物は私がやりますね」
食事を終え、食器類を片づけるために階下へと降りる。洗い物は自分がやると偉そうに言ったものの、実際洗うのは業務用の食洗機。食器についた残飯をさっと洗い流し、食洗機に入れるだけの単純な作業だった。
「よしっ、終了ー」
この後の予定が無くなったお陰で、思いがけず時間に余裕が出来た。洗い終わった食器類を元の場所へと戻し、残りの時間を共に過ごそうと熱いお茶を持って翔太郎の待つ二階へと上がる。部屋の中に入ると、てっきりもう映らないと思っていたテレビに映像が映し出されていて、翔太郎はごろんと横になってそれを見ていた。
「このテレビ、まだ映るんだ」
よく見ると、画面の右端に“デジアナ変換”と言う文字が表示されている。その事に気を取られながら寝ころぶ翔太郎の傍に座り、熱茶をテーブルの上へ置いた。
「?」
左足を立て、右手で頭を支えながら横になっている翔太郎は、柚希が傍に座っても微動だにしない。そっと顔を覗き込むと、その瞼がしっかりと閉じられていたことに気が付いた。
(寝てる?)
昨日はあんな事があったし、今日も病院に行ったと言っていた。真面目な翔太郎の事だ。自分がしっかりしないとと思うがあまり、気疲れでもしているのだろう。
ゆっくり二人で過ごせると思っていた柚希としては非常に残念ではあるが、起こしてしまっては可哀相だと、このままそっとしておくことにした。
「――しかし」
(ほんっとーに夫婦みたい……)
付き合う過程をすっ飛ばし、まさかの疑似夫婦体験に幸せな気分を噛みしめていた。
「……」
テレビのボリュームを絞り、お茶を啜りながら横で眠る翔太郎の寝顔を盗み見る。相手はすっかり眠っているのだしと、ここぞとばかりに観賞していた。
一重瞼かと思っていた涼やかな目元は、瞼の際にうっすらと筋があることで実は奥二重だったのだと知る。今日は休みだったせいか普段の翔太郎では見ることのない男らしい髭が少し生えていた。
男性だから髭が生えるのは当然だし、決して似合ってないというわけではない。眉目秀麗な顔立ちに生える髭は今日は手を抜いたと言う感じがし、そこはかとなく翔太郎の人間味を感じた。
少しだけ開かれている翔太郎の薄い唇。スースーと規則正しい寝息がそこから何度も零れ落ちる。
それが、今は深い眠りに陥っているのだという事を表していた。
――触れてみたい。
どうしようもない衝動に駆られる。そう思った途端、数時間前に自身の身に起きた出来事が頭の中を駆け巡った。
陸の前でしたキスは何の準備もない内にあっさりと行われたが、その事に不満を抱く前にすぐにまたそのチャンスは訪れた。
柚希が店を出ようとした時、息遣いを気にするほどの距離に翔太郎の顔が迫り、バクバクと煩く鳴る胸の音に息苦しくなった。もしかしてと身構えたものの、変に意識し過ぎたせいか残念ながらそれ以上進む事は無かった。
でも、今なら触れられる。
同意こそないが、さっきも突然されたのだしおあいこだと、自分に都合良く言い聞かせる。“ぜん”は急げと言わんばかりに、音をたてて起こしてしまわないよう、そっと湯呑を置いた。
「――」
畳に両手をつき、無防備に眠る翔太郎に顔を近づける。三十センチ、二十センチとその距離を狭めていった。
「――……っ」
「んん……」
あともう少しという所で身体の向きを変え、翔太郎は完全に背中を畳につけた。
起きてしまったのかもと冷や汗が出る。しかし、すぐにまた規則正しい寝息が聞こえ始め、大丈夫だったのだとホッと胸を撫で下ろした。
(勝手にこんな事したってバレたら……)
想像した柚希はぶるっと肩を震わせた。
それでも、と、柚希は尚も顔を寄せる。完全に上向きになった事で、先ほどよりも容易に触れ合う事が出来る、そう思った。
(少しだけ……)
軽く触れるだけのつもりで近づいた。が、その時、短い柚希の髪の毛が一本、タイミング悪く翔太郎の頬の上にひらりと落ちる。その髪を払いのけようとそーっと手を伸ばすと翔太郎の頬がピクリと動いた。
今ここで無駄に動くと目を覚ましてしまうかもしれない。そう思った柚希はそのままの距離を保ち、翔太郎が再び寝入るのを待った。
だが、これも日頃の行いが祟ったのだろうか。そんな柚希の願いは叶う事なく、翔太郎の睫毛がピクリと揺れ動き、瞼がゆっくりと開き始めた。
焦点が合わないのか翔太郎はまだぼんやりとしている。しばらくすると、目の前にあるものが次第に輪郭を現し、それが人の顔であると認識したのか細い目が一気に拡大した。
「……――? ……っ!?」
「あっ、……の。――ゴ、ゴミが! ゴミがついてたので」
頬についた自身の髪を指でつまんでそれを見せ、近づいたのには他意はないのだと必死で説明する。どうにか納得した風の翔太郎を見てほっと胸を撫で下ろすと、二人して共に上体を起こした。
「……」
「……」
テレビはついているがお互い沈黙が続く。何となく気まずくなり、柚希は不自然に咳払いをした。
「あーあの、あれだ」
「はっ、はい!?」
胡坐をかいて座っている翔太郎が、ポリポリと指で頬を引っ掻いた。
「すまん、腹が膨れたらつい寝てしまった」
「いえ! 全然気にしてませんからっ!」
そんな事よりもむしろ、顔を近づけていたことが怪しまれやしないかとハラハラする。ゴミがついていたなどとベタな言い訳でなんとかなったとは思えず、柚希の胸の音は静まる様子が一向に感じられなかった。
「あっ、そういや」
「はい!?」
今度は何を言われるのだろう。
寝起きでボーっとしている翔太郎と相反し、無駄にハキハキとした声で返事をした。
「あんた、まだ仕事あるんじゃ?」
「? あっ、それが実はですね」
仕事があるからと柚希が言っていたのを思い出したのだろう。会社に戻らなくてもよくなったのだと説明すると、翔太郎は少し困惑した表情を浮かべた。
「ああ、……そう」
「はい。なので、別に急いで帰らなくても大丈夫です」
――もしかして、ここにいつまでもいるのは迷惑なのだろうか。
会社に戻らなくてもいいとなった時点でもうなにも縛られるものはない。お風呂も済ませ、丁度いい塩梅に布団も一組ある。翔太郎にその気がなかったとしても、自分から押し倒し既成事実を作り上げてしまえば後はどうにでもなるんじゃないかと、白泉との電話を切った直後から浅ましい欲望がチラチラと顔を出していた。
だがそれも、翔太郎の表情を見てしまった後では、一人相撲であったのだと認めざるを得ない。
陸に見せた牽制とも取れるあの態度。それだけではなく、ネカフェに行こうとした柚希を引き留めたり、こうやっておいしいご飯を作ってくれたりすることで、てっきり翔太郎も自分と同じ気持ちなのだと自然と思い込んでいた。
期待に胸を膨らませ、勝手にドキドキしていたのは自分だけだったのだと知り、少し肩を落とした。
落ち着かない様子で首の後ろを何度も撫でる翔太郎。ここまで気持ちが高まってしまっては、もう後には引けない。覚悟を決めたかのように正座をしている足の上でギュッと両手を握りしめた。
準備は万端、いつでもバッチコイ。女から攻めるのはハシタナイ事だと内心思ってはいるものの、待った所で欲しいものは得られない。
恥を掻くのを覚悟し、思い切って翔太郎ににじり寄ると、殺気を感じたのか翔太郎は急に立ち上がった。
「……。――? どこに行くんですか?」
「いや。じゃあ俺、帰るから」
「は? ……え? ち、ちょ、ちょっと!?」
目も合わさずにそう言うなり、この部屋から出て行こうとする。柚希は座ったままで翔太郎の手首をあわてて掴むと、無理な体勢を強いられるとは予測していなかった身体はバランスを失い、いとも簡単に畳の上に崩れ落ちた。
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