31 / 43
第四章 魚心あれば水心
第四話~「和食はつ条」開店~
しおりを挟む浴室の扉が静かに開き、そこからひょっこりと柚希が顔をのぞかせた。
風呂上がりのその姿はというと、いつもの癖で髪を洗ってしまっただけでなく、化粧もすっかり落としてしまっている。何も手を加えられていないその顔はとても幼く、実年齢よりも随分下に見えた。
対して広くない脱衣場だから一目でそこに誰も居ないというのはわかる。それでも、今日は予測不能な事が何度も起こった事も有り、油断してはならないと無駄に気を張った。
この扉の向こうに翔太郎が居る……なんて事もあるかも知れない。念には念を入れ、扉の向こうで物音がしないか聞き耳を立てた。
「……よし」
洗面台の上に置いてある、翔太郎が用意してくれたバスタオルを手繰り寄せる。浴室の中で一通り水分を拭き取ると、バスタオルを身体に巻き付けた姿でそろりと脱衣場に足を踏み入れた。
「……。――あ」
脱衣場に出た柚希が最初に目にした物。それは脱ぎ散らかされた自分の衣服だった。ジャケットやスカートだけでなく、だらしなく伸び切ったパンストや下着までもが散乱している。
(ぐ、……さ、流石にみられてるか)
まさか、翔太郎が入って来るとは予想していなかったとはいえ、女として流石にこれは酷い。彼女がだらしないのはいつものことだが、それを嘆いた所で今となってはもう後の祭り。風呂上がりで赤くなった頬を更に紅潮させ、恥ずかしいとばかりに散らかった服を急いでかき集めた。
見るからに几帳面な翔太郎は、きっとだらしない人間を嫌うだろう。今後、彼と上手くいったとしても柚希のだらしない所はいずれバレるとわかってはいたが、せっかくいい感じになってきたのが振り出しに――いや、スタート地点ですらもう立てなくなるのではないかと不安に陥った。
「あがりましたぁー……」
脱衣場を出た柚希は、バスタオルで髪の滴を拭き取りながらおそるおそる部屋へと向かう。だが、そこにいるはずの翔太郎の姿はなく、その代わりに小さな折り畳み式テーブルの上には箸置きに置いた箸、そして湯呑が二人分並べられていた。
「これってもしかして」
階下から漂う赤味噌のいい匂い。それに混じって醤油が焦げた香りもした。そう言えば昼も食べそびれたな、と、柚希はぐぅと腹を鳴らした。
「?」
タイミングよくブルブルと携帯電話の振動が聞こえる。柚希はバッグを取り上げると、中から携帯電話を取り出した。
「はい、佐和です」
「佐和ー?」
「編集長? どうかしましたか?」
「『どうかしましたかぁー?』じゃねぇよっ! お前、どこで油売ってんだ!」
「あ」
その白泉の言葉を聞き、「しまった、すっかり忘れてた」と言葉に出しそうになるのを必死で飲み込んだ。
「すっ、すぐ戻ります!」
「ああー、もういい。今日はそのまま直帰しろ」
思いがけない白泉の言葉に、慌てて荷物をまとめだす手がピタリと止まる。
「え?」
「お前、昨日寝ないで仕事してたろ。……なのに、私が頼りない所為でその苦労も水の泡にしちまったからな」
「そんな」
特集が潰れたのは決して白泉の所為ではない。全てトラベル編集部の妨害行為なのだと説明するも、全て自分の所為だと白泉は尚も自分を責めた。
「まっ、取りあえず今日はもういいから。じゃ、お疲れー」
「あ、ちょっ、編集っ――、……切れた」
調子はいつも通りではあったが、どことなく声のトーンが少し落ち込んでいる様に感じられる。
(本当に……いいのかな)
気にはなるものの、アルコールを飲み、お風呂も入ってすっかりお家モードになってしまっていた柚希は、このまま白泉の好意に甘えることにした。
「……。――?」
電話を切った後、階段を上ってくる人の気配を感じる。後ろを振り向くと同時に、ぴょっこりと翔太郎の頭が飛び出た。
「もう上がっ――、……っ」
「あ、はい、有難うございまし――?」
両手で四角盆を持った翔太郎は階段を上りきると、なぜだか言葉を詰まらせる。
「? ……!」
それもそのはず。翔太郎の視線の先を辿ってみれば、それは剥き出しになった柚希の白い太ももに向けられていることがわかった。
翔太郎から借りたTシャツはとても大きく、柚希が着ると袖は五分丈、裾はミニスカート状態。下にはちゃんとキュロットスカートを穿いているものの、Tシャツが大きすぎるせいで図らずとも“今日は急遽彼の家にお泊まりなんです”と言わんばかりの出で立ちになっていた。
「ち! ちゃんと下穿いてますから!」
そう思うと一気に色んなことが恥ずかしく思えてくる。誤解を解く為にTシャツの裾を捲りあげ、ちゃんとキュロットスカートを穿いているのだと翔太郎に見せつけた。
「ああっ! もう、別に見せんでいいから!」
そう言う翔太郎の表情は照れているでもなく、当然デレッと鼻を伸ばしてるでもない。例えるならば、それはまるで汚物でも見るかのような顔をしていた。
翔太郎は気を取り直して部屋の中に入り、畳に膝をついてテーブルの上に四角盆をひっかける。次々に美味しそうな料理が乗った皿をテーブルの上に移し始めた。
「あの」
「飯、まだだろ? あるもので適当に作ったから大したもんじゃないけど」
「でも、お風呂も頂いたのにこれ以上甘えるわけには――」
と言った所で、またもやタイミングよく腹の虫がぐうと鳴る。それを聞いた途端、翔太郎は勢いよく噴出した。
「……ぶっ!」
「す、すみません。節操のない胃袋で……」
「い、いいから座ったら?」
「はい」
丁度味噌汁を持っていた翔太郎の手は、笑うのを堪えている所為でプルプルと震えている。危なっかしいなと思いつつ、腹部をさすりながら柚希は腰を下ろした。
「ビールは?」
「いえ! もう間に合ってます」
全てを並べ終えると、翔太郎は柚希の向かい側に胡坐をかいて座った。箸を持ちながら手を合わせ「いただきます」と呟くように言った。
和食のマナーに則り、きちんと並べられた適当に作ったとは思えない程の料理の数々。あの短時間でこれほどのものを作り上げたのかと、柚希は目を見張った。
ぶりの照り焼きにははじかみが添えられており、どんな時でも決して手を抜かない料理人としての意地の様なものを感じる。と同時に、先ほどのいい匂いの正体はこれだったのかと妙に納得した。
手前に置かれた具沢山の味噌汁。赤味噌の香りがしたものの、色味は赤味噌特有のそれでもなく、白味噌と赤味噌の中間色、いわゆる合わせ味噌で仕上げられている様だった。
他にも、軽くソテーした海老。その横に添えられた赤と黄色のパプリカに、ブロッコリーの緑が良く映える。茄子とほうれん草の煮びたし、香の物までもが準備されていて、ピカピカと光る白米から立ち上る湯気を見た柚希は、この上ない幸福感に浸っていた。
「――」
全然箸をつけようとしない柚希が気にかかり、がつがつと豪快に食べる翔太郎の手がピタリと止まる。
「食わねぇの? あんたの苦手なものは無いと思うんだが」
そう言われてやっと、手放しかけていた意識を取り戻した。
「……。――あっ、いえ。大丈夫です。……いただきます」
「ん」
翔太郎と同じようにして手を合わせる。柚希がやっと箸を持った事がわかると、さっきと同じようにまたがつがつと喉の奥へ食べ物を流し込んだ。
この時の柚希は、並べられた料理に感動して頭がボーっとしていた。その所為で、翔太郎が自分の好みを知ってくれているということに、全く気づいていなかった。
柚希は汁椀を両手で持つと箸先で少しかき混ぜ、ゆっくりとその温かい汁を啜る。
「……美味しい」
「――」
声に出すつもりなどなかったが、あまりの美味しさに自然と言葉に出てしまっていた。
0
あなたにおすすめの小説
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる