運命の人

まる。

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番外編

運命な貴男(ひと)・後編

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 ジャックの家の一室にある、大きな鏡の中。ピッタリと身体にフィットした純白のドレスを身に纏う一人の女性の姿があった。
 そこに映し出されているのが自分なのだと言う事にまだ叶子は馴染めないのか、ずっとその鏡に背を向けている。幾度と無く振り返っては恥ずかしさの余り目を逸らすを繰り返し、付添い人の絵里香や実の母親ですら、そんな叶子にほとほと呆れ果てていた。

「――っ、ト、トイレ!」
「さっき行ったでしょ? 何度もドレスを脱ぐのが大変だから、もう少しだけ我慢しなさい」

 母親にそう窘められるも、緊張のあまり普段では気にならない事まで随分と気になってくる。家のガスはちゃんと止めただろうか? 慌てて出てきたから施錠するのを忘れたかもしれない。何かと理由をつけてでも今すぐここから逃げ出したいのか、さっきから同じような不安ばかりが頭の中に浮んで来る。
 叶子は今のこの現実から目を逸らそうとしていた。
 ガスも施錠も、弟の智樹が代わりに確認しに行ってくれた。当然の様に何も異常が無かったとの報告を受けたのにも関わらず、

「……あ! 今日、報告書の提出締切日だった!」

 と、すぐに新たな問題を思い出してしまうといった始末。慌てて会社に電話をかけようとする叶子の手から、絵里香が携帯電話を奪い取った。

「あ、ちょっと絵里香! せめて今日の提出間に合わないってボスに連絡しておかないと」
「カナ? そのボスは今日の招待者リストに入ってなかったっけ?」
「――あ」

 両手を腰にあてがい、困った様な顔をして絵里香は小さく息を吐いた。

「あんなにも凄い人と結婚するのは物凄く不安なのはわかるけど、ジャックさんはあんたがいいって言ってくれてるんだしさ。それに、あれでしょ? カナが仕事を続けられる様に日本に拠点を置くんだ、って、あのジャックさんが親御さんを説得したんでしょ? そんだけ大切にしてもらってるって事なんだから、もっと自分に自信を持つべきよ」
「そんなの、……一生無理だよ」

 絵里香が言いたい事は叶子自身も良くわかっている。二人で過ごす分には叶子もさほど引け目を感じないでいられるが、これほど大きなイベントとなると一気に不安に押し潰されそうになる。彼がこの結婚式に招待したのは身内だけとは言え……、いや、身内だからこそ向けられる視線に怯え現実から逃れようとしてしまう。早く慣れなくては、もっと自信を持たなくてはと思えば思うほど、それだけが先走り自分の感情が追いついていかない。

「無理、だよ」
「カナ……」

 小刻みに震えだした手を鎮めようと、膝の上に組んだ手をぎゅっと握り締めていた。

「……?」

 控え室の扉をノックする音が聞こえ、母がその扉を開けた。
 扉から顔を出した少しクセのある黄金色の髪をした女の子を見て、叶子は一瞬でそれが誰だかわかった。

「あ、えーっと、マリアちゃん?」

 叶子の問いかけにコクンと頷くと、マリアは部屋の中へと入ってきた。スツールに腰を下ろしていた叶子は立ち上がり、マリアのそばへと近づいていく。
 母親譲りの緑色の瞳。彫りの深いその顔立ちに叶子はついうっとりと見惚れていた。

「――あ、そっか。ええっと、ナイス トゥ ミー チュー、マイネーム イズ……」

 何も言おうとしないマリアはてっきり日本語が話せないのだと思い、叶子は拙い英語で話しかけた。

「バッカじゃない?」
「えっ?」
「なに? その固っ苦しい挨拶。日本の英語教育って一体どうなってんの?」

 目の前の美少女の口から、とげとげしい言葉が吐き出される。ポカンと口を開けた叶子を横目で睨み付けると、馬鹿馬鹿しいとばかりにマリアは腕を組んだ。

「あ、えーっと。マリアちゃん日本語喋れるんだ……」
「当ったり前じゃん、日本に住んでたんだから。パパよりずっと上手いわよ」
「あぁ、……そう」

 絵に描いたような後妻に手厳しいこの少女は、十三歳になるジャックの二番目の子供のマリアだった。
 写真では見た事があったが、今日、この日が実は初対面になる。そもそも、ジャックの子供たちだけではなく彼のご両親や親戚など、まだ誰とも会った事が無いと言うのが、叶子がこれほどまでに不安になっている原因の一つでもあった。皆アメリカに住んでいるからと言った理由だけで、全てを片付けてしまったのはやはり良くなかったのかもしれない。
 度々、ジャックの口からマリアの話を聞くことがあったが、いつも人を振り回す方の彼が、マリアにはかなり手を焼いているといった印象を受けていた。
 その彼女が叶子に何の用だろうか。ツンツンしたこの口振りからして、結婚式を止めろとでも言いにきたのかもしれない。
 そう思った叶子はちゃんと説明をしなければと、マリアに歩み寄った。

「……あのね、一応式は挙げるんだけど籍は入れないから。パパが取られるって思ってるのかも知れないけれど、そんなつもりじゃないから。ね?」

 二人で話し合い、籍はまだ入れたくないという叶子の希望をジャックが受け入れてくれた。まだ年頃のマリアはきっとパパが取られてしまうと思うだろう。そう思って言った言葉だったが、マリアはフンと鼻で笑った。

「わかってるわよ。そんな事くらい」
「え? あ、そう? えーっと、じゃあ何の用かな?」

 叶子と義理の娘とのやりとりを、叶子の母は勿論の事、友人の絵里香ですら固唾を飲んで見守っている。十三歳と言えども身体の大きいマリアは、背丈も叶子と大して変わらない。取っ組み合いの喧嘩にでもなれば、ドレスを着ている分彼女が不利になるのではと、いらぬ気を揉んでいた。

「――そんな嫌みったらしい事しなくても、籍入れたきゃ入れればいいじゃない」
「嫌味とか、そう言うわけじゃ」
「私達のママにはなれないでしょうけど、……パパの奥さんにはなれるんだし、さ」
「え?」

 先程までとんがっていたのが嘘のように、心なしかマリアの勢いが無くなった様に感じられる。視線を逸らし少し頬を膨らませながらほんのりと頬を染めているマリアは、きっと彼女なりに愛するパパとの結婚の許可を叶子へ与えたのだろう。パパが大好きな年頃の女の子だからこそ、素直に言えないのだ。そう思うと、張り詰めていた叶子の緊張の糸がフッと緩んだ。

「――? え、ちょ! ……っと」
「ありがとう、マリアちゃん」

 そんな子供らしい姿を見せたマリアを、叶子は自然と抱き寄せていた。


 ◇◆◇

 祭壇前にジャックが立ち、結婚行進曲が流れだした。それが、いよいよ新婦が入場するのだという事をその場にいる全員に知らせると共に、皆の視線は一箇所へと集中する。
 ジャックの屋敷で開かれた花と緑に囲まれたガーデンウェディングの式では、色とりどりの花のアーチが教会の扉の役目を担っている。緊張の面持ちでそこに立っている叶子の父もまた、浴びせられた視線に気が気でない様子が伺えた。

 やがて、絵里香に付き添われて今回の主役とも言える叶子がその姿を現すと、わっと一際大きな歓声が沸いた。

「ありがとう、絵里、香……、――っ」

 絵里香の手から離れ父へと歩み寄ろうとした時、自分を見つめる目が沢山あるのを意識してしまう。途端に身体が硬直し、足が言う事をきかなくなった。
 元々親戚の少ない彼女は、新郎側の参列者との兼ね合いも有り友人を含めボスや健人にも出席してもらったのだが、それでも明らかに新郎側の親族の方が圧倒的に人数が多い。見知らぬ人達が叶子を見ながら隣の人とヒソヒソと話をしているのが目に入り、立ち止まったままの叶子に会場は一気に騒然となった。
 助けを請うように赤い絨毯の先に目を向けると、メタリックグレーのロングタキシードを着たジャックが心配そうに叶子を見つめていた。

 自分はここに居る殆どの人の事を知らずに、今この人と結婚しようとしている。そう思うと、いくら籍を入れないからとはいえ、計り知れないプレッシャーに押しつぶされそうになった。
 最前列に目をやれば、先程控え室に来てくれたマリアと男の子二人の姿が見える。三人の顔には当然の如く笑顔は一切見られない。それだけでもかなり堪えると言うのに、子供たちの傍らにいる白人とアジア系の老夫婦を見た時、更なる不安が一気に押し寄せて来た。
 ジャックの両親は長時間の移動は厳しいからと不参加の返事を聞いていたのだが、彼とよく似た目元をしている白人男性を見て彼女は確信した。

(彼の、ご両親……)

 笑みを見せている母親に比べ、物々しい顔で見られたかと思うとプイッとそっぽを向くジャックの父親と思しき男性。こうなる事はあらかじめわかってはいたが、やはり受け入れてはもらえないのだという事を今この場で知らされてしまった。

(どうしよう。私、今大変な事をしようとしてるんじゃ? やっぱりちゃんとご挨拶に行って、結婚の承諾を得てからするべきだった)

 ただ、「三度目だから僕の両親への挨拶はいいよ」とジャックが言った時、心の何処かで叶子はホッとしていたのも事実。あの時反論しなかったは、彼の“家”に叶子と言う人間が果たして受け入れて貰えるのかどうかを知るのが怖かった。

「カナ? どうしちゃったの?」
「――っ、」

 絵里香の声で遠のいていた意識が戻ってきた。と、同時にざわつく会場の声が一斉に耳に入り、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。
 新婦側の参列者を見ると、数少ない彼女の親族は勿論の事、ボスや健人も、皆心配そうな表情で叶子を見つめていた。

「……っ」

 新郎の親族側では叶子の理解不能な言語で口々に何かを言っていて、オルガニストはいつまで弾き続けなければいけないのだろうかと呆れている。
 こんな状況ではどうしてもこの赤い絨毯に足を踏み入れる勇気が持てず、叶子は両手でドレスの裾を持ち上げると今来た道を駆け足で戻っていった。




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