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② 義憤
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この青年は末端貴族の三男坊。イザード家のセドリックといった。
イザード家……聞いたことないわ、ここは我が国とは違うのかしら、と彼女は思ったが、続けて彼の語りに耳を傾ける。
彼は優秀な成績をおさめ学院を卒業し枢密院議員の配下に組みしたが、家柄を見られ小間使いにしか使われないようだ。
「この社会は間違っている。己だけ蜜を吸いたがる奴が多すぎる。贅沢な宮殿を一歩出れば、困窮した民草の明日も知れぬ暮らしぶりというのに」
彼の国も圧政が敷かれ、抗う者はたやすく刑に処される。民衆は互いに不信感を抱き本音を閉ざし、殺伐な街の風景ということだ。
どこの国も変わらないのね、そうレヴィーナの心は沈んだが、まだこの時は、自身には縁遠い世界のことのようにも感じていた。
「人のいい生真面目な父は上に利用された挙句、手酷く裏切られた。家族の出世の道を閉ざされ、母は病み寝込んでしまった」
「お気の毒……」
「私は、正直者が馬鹿を見る、こんな国を変えたい。しかし、このような身分の者の進言など鼻で笑われ切り捨てられる」
レヴィーナも多少は男性社会の機微を理解している。このように利発で口巧みの若者はいいように使われ、手に余れば目の上の瘤となるだろう。
「出自に恵まれ袖の下で上っていくボンクラをいつも下から眺めている。今日はそういう輩にうまく生きろと諭された」
こぶしを固く握る彼。
「こんな世の中で、私の誠意も努力も、ろくに認められやしない……」
口惜しさを隠さない彼の傍らで、レヴィーナはふと、少々身を乗り出してその瞳を盗み見た。
「…………!」
彼がその痛々しい瞳を伏せる直前、確かに視えた。
一条の、力強い光がつんざいた。
覗いたその瞬間はまだ、底知れぬ深い暗闇であった。次の刹那、奥のそのまた奥から放たれる、希望の光が。
────この人は……あたたかな光をまとい、歩みの先で国を救う。
レヴィーナは子どもの頃に視えていた、あの感覚を思い出した。
教えてやればよいのだろう。あなたは何らかの偉業を成し遂げる男だと。しかし彼は絶え間なく愚痴を続ける。
「こんなお人好しの家に生まれてきた運命が憎い。地位があれば、資産があれば、それだけで蔑まれずに済むのに。この身分社会で私は他の者よりもっと、もっとずっと尊重されたい。そうでなくては生まれてきた甲斐がない。私は永遠に敗者だ!」
しかし彼女は、彼の野望ではなく、真心に働きかけたくなった。
「地位や金がそんなに大事? それらを持つ者は幸せかしら」
また自身を取り巻く現状を顧みて、彼女はふと伏し目がちになる。
「地位も金も求めれば際限はなく、いつまでも飽くなき欲求に追い立てられて人の一生なんて終わってしまう」
が、次に上向き彼に見せた表情には、慈しみというものをたたえていて。
「愛しく思う人がいて、その人を守るために日々懸命に働き、感謝し合い尊重し合う。それは命が終わっても、永遠に消え去ることのない確かな思い」
そっと彼の肩に、たおやかな手で触れた。
「愛はささやかでも力強いの。そんな愛を生涯で見つけられた人こそ、永遠の勝者よ」
「そんなの……」
自身の怖気を認める彼には、屈託ない彼女の微笑みがあまりにまぶしい。直視に耐えず顔を背けた。
「……無理だ。そんなもので納得できない。何かを成さなくては、何かにならなくては、男に生まれてきた意味がない。こんな虚しい立場では愛しい家族も守れないんだ!」
「…………」
彼のむせび泣くような怒号に、彼女は一時言葉を失ったが。
「やっぱりあなたは、愛しい者を守りたいのね。それなら……」
彼の中には確かに柔らかな思いが存在すると知り、自身の視たものを伝えようとした。
ところが彼は、彼女の手首をぐっと掴み、突して顔から詰め寄るのだ。
「こんな……何も分かってない女は汚してしまいたくなる」
目を細めた彼は許しを請うているようでもあった。
夜の静けさの中、レヴィーナは拒む余地もないが、目をぱちくりとして。
「困るわ……。あ、いえ、困らないわ」
「どっちだ」
「困らない」
彼女は婚約者としてフィリベール王太子に操を捧げるつもりでいたが、つい先ほど気まぐれに捨てられ追放も免れない事実を思い出した。もはやこの身などどうなろうとも。
「それであなたの、一時の安らぎとなれるなら」
レヴィーナは目を閉じた。
その素顔に、虚勢を張ったセドリックは、まるで神々しい、これはやはり神の使いなのだ、と胸を詰まらせ己を恥じた。
手は放された。まぶたをゆっくり開けるレヴィーナに彼は後ろめたく、ごまかすために酒を一口飲み干した。
「呑めば辛いことを忘れられるの? 私も一口欲しいわ」
彼女はたった今のことを気にも留めず、無邪気に顔を覗き込む。すると彼は唐突に、彼女の後ろ頭を大きな手で包み、彼女の口元に己の口を寄せたのだった。
「んっ……??」
彼女は口移された液体を一気に飲み込んだ。
「いや、あの、……たまらなくなった」
彼女の頬に節くれ立った長い指を添え、彼は今も切ない目をしている。それを受けレヴィーナは、酔いとも違わぬ熱がこみ上げた。するとその時。
「あっ……」
「どうかしたか?」
身体に稲妻を受けたような衝撃を覚え、椅子から落ち、うずくまる。
「おい、大丈夫か……」
どこかへ飛ばされる予感が走る。抱き起こそうとした彼の腕を慌てて掴んだ。
「聞いてっ…。見失わないで。あなたはきっと、国を変える……」
そして力を振り絞り食堂の出口へと。そこを曲がった瞬間、彼女は飛び立った。
「レヴィーナ!?」
急いで追ったセドリックが出口を抜け、彼女の曲がった方へ向いた頃には、そこに何の気配も感じられず。
ひとり残された彼は指先で自身の唇に触れ、彼女とのひと時が夢でないことをぼんやり確かめていた。
イザード家……聞いたことないわ、ここは我が国とは違うのかしら、と彼女は思ったが、続けて彼の語りに耳を傾ける。
彼は優秀な成績をおさめ学院を卒業し枢密院議員の配下に組みしたが、家柄を見られ小間使いにしか使われないようだ。
「この社会は間違っている。己だけ蜜を吸いたがる奴が多すぎる。贅沢な宮殿を一歩出れば、困窮した民草の明日も知れぬ暮らしぶりというのに」
彼の国も圧政が敷かれ、抗う者はたやすく刑に処される。民衆は互いに不信感を抱き本音を閉ざし、殺伐な街の風景ということだ。
どこの国も変わらないのね、そうレヴィーナの心は沈んだが、まだこの時は、自身には縁遠い世界のことのようにも感じていた。
「人のいい生真面目な父は上に利用された挙句、手酷く裏切られた。家族の出世の道を閉ざされ、母は病み寝込んでしまった」
「お気の毒……」
「私は、正直者が馬鹿を見る、こんな国を変えたい。しかし、このような身分の者の進言など鼻で笑われ切り捨てられる」
レヴィーナも多少は男性社会の機微を理解している。このように利発で口巧みの若者はいいように使われ、手に余れば目の上の瘤となるだろう。
「出自に恵まれ袖の下で上っていくボンクラをいつも下から眺めている。今日はそういう輩にうまく生きろと諭された」
こぶしを固く握る彼。
「こんな世の中で、私の誠意も努力も、ろくに認められやしない……」
口惜しさを隠さない彼の傍らで、レヴィーナはふと、少々身を乗り出してその瞳を盗み見た。
「…………!」
彼がその痛々しい瞳を伏せる直前、確かに視えた。
一条の、力強い光がつんざいた。
覗いたその瞬間はまだ、底知れぬ深い暗闇であった。次の刹那、奥のそのまた奥から放たれる、希望の光が。
────この人は……あたたかな光をまとい、歩みの先で国を救う。
レヴィーナは子どもの頃に視えていた、あの感覚を思い出した。
教えてやればよいのだろう。あなたは何らかの偉業を成し遂げる男だと。しかし彼は絶え間なく愚痴を続ける。
「こんなお人好しの家に生まれてきた運命が憎い。地位があれば、資産があれば、それだけで蔑まれずに済むのに。この身分社会で私は他の者よりもっと、もっとずっと尊重されたい。そうでなくては生まれてきた甲斐がない。私は永遠に敗者だ!」
しかし彼女は、彼の野望ではなく、真心に働きかけたくなった。
「地位や金がそんなに大事? それらを持つ者は幸せかしら」
また自身を取り巻く現状を顧みて、彼女はふと伏し目がちになる。
「地位も金も求めれば際限はなく、いつまでも飽くなき欲求に追い立てられて人の一生なんて終わってしまう」
が、次に上向き彼に見せた表情には、慈しみというものをたたえていて。
「愛しく思う人がいて、その人を守るために日々懸命に働き、感謝し合い尊重し合う。それは命が終わっても、永遠に消え去ることのない確かな思い」
そっと彼の肩に、たおやかな手で触れた。
「愛はささやかでも力強いの。そんな愛を生涯で見つけられた人こそ、永遠の勝者よ」
「そんなの……」
自身の怖気を認める彼には、屈託ない彼女の微笑みがあまりにまぶしい。直視に耐えず顔を背けた。
「……無理だ。そんなもので納得できない。何かを成さなくては、何かにならなくては、男に生まれてきた意味がない。こんな虚しい立場では愛しい家族も守れないんだ!」
「…………」
彼のむせび泣くような怒号に、彼女は一時言葉を失ったが。
「やっぱりあなたは、愛しい者を守りたいのね。それなら……」
彼の中には確かに柔らかな思いが存在すると知り、自身の視たものを伝えようとした。
ところが彼は、彼女の手首をぐっと掴み、突して顔から詰め寄るのだ。
「こんな……何も分かってない女は汚してしまいたくなる」
目を細めた彼は許しを請うているようでもあった。
夜の静けさの中、レヴィーナは拒む余地もないが、目をぱちくりとして。
「困るわ……。あ、いえ、困らないわ」
「どっちだ」
「困らない」
彼女は婚約者としてフィリベール王太子に操を捧げるつもりでいたが、つい先ほど気まぐれに捨てられ追放も免れない事実を思い出した。もはやこの身などどうなろうとも。
「それであなたの、一時の安らぎとなれるなら」
レヴィーナは目を閉じた。
その素顔に、虚勢を張ったセドリックは、まるで神々しい、これはやはり神の使いなのだ、と胸を詰まらせ己を恥じた。
手は放された。まぶたをゆっくり開けるレヴィーナに彼は後ろめたく、ごまかすために酒を一口飲み干した。
「呑めば辛いことを忘れられるの? 私も一口欲しいわ」
彼女はたった今のことを気にも留めず、無邪気に顔を覗き込む。すると彼は唐突に、彼女の後ろ頭を大きな手で包み、彼女の口元に己の口を寄せたのだった。
「んっ……??」
彼女は口移された液体を一気に飲み込んだ。
「いや、あの、……たまらなくなった」
彼女の頬に節くれ立った長い指を添え、彼は今も切ない目をしている。それを受けレヴィーナは、酔いとも違わぬ熱がこみ上げた。するとその時。
「あっ……」
「どうかしたか?」
身体に稲妻を受けたような衝撃を覚え、椅子から落ち、うずくまる。
「おい、大丈夫か……」
どこかへ飛ばされる予感が走る。抱き起こそうとした彼の腕を慌てて掴んだ。
「聞いてっ…。見失わないで。あなたはきっと、国を変える……」
そして力を振り絞り食堂の出口へと。そこを曲がった瞬間、彼女は飛び立った。
「レヴィーナ!?」
急いで追ったセドリックが出口を抜け、彼女の曲がった方へ向いた頃には、そこに何の気配も感じられず。
ひとり残された彼は指先で自身の唇に触れ、彼女とのひと時が夢でないことをぼんやり確かめていた。
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