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【 終章 】 希望を胸に抱いて
④ この世のほかの思い出に いまひとたびの……
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「んっ……」
とっさに目を閉じたアリアンロッドは、一度瞼を開けかけて、また閉じて、その魂ごと受けとめるように力を抜いた。
優しさのない、余裕もない、これを単純に恋心だと受け取れるわけはなく──
ただ、魂をぶつけてきたのだと感じた。
戦場で命を散らすことになる彼は、せめて今存在するこの魂を押し付けて、彼女に連れて行くように、そう託すようなキスだ。
そんな思いに抗いきれないアリアンロッドは、それを自身のすべてで包み込もうと、両腕を持ち上げ彼を抱きしめようとした、その矢先────
唇と唇のあいだに空間ができた。やっと再び目を見合わせたのも束の間。
「死ぬのが怖くなるようなこと言うのやめろ」
小さな声で呟いた彼は目を逸らし、彼女の頬を押さえる手を離した。
「ヴァルっ……」
アンヴァルが離れていく。
「俺はお前たちより半日早く発つ予定だから、とにかく殿下に、すぐ言いに行け」
いったん立ち止まり背を向けたまま、そう念を押した。続けて、
「俺は今から、俺が開戦の矢を射る準備に取り掛かる。女装でもなんでもしてやるよ。その瞬間ぐらいは誤魔化せるだろ」
こう言う彼に、アリアンロッドは何も言葉を掛けることができない。
「あ、あとさ」
まだ言い忘れたことがあったようで、結局振り向いた。
「お前は負け戦に兵らを巻き込んだと自分を責めてるんだろうけど、兵は兵になった時点で、戦いに身を投じ命を落とす覚悟のある生きものなんだ。だからこの職が存在する。これに就いた時点でとっくに各々の責任だ。それに、敵国に同盟結ぶつもりなんて毛頭なかったよ。お前が、国が、どう対応しようと、交戦への流れが変わることはなかったんだ」
「ヴァル……」
「これが今この国を生きる兵士の運命だ。みな。もちろん、俺も」
そして彼は足早に去ってしまったが、アリアンロッドは「分かったな?」と頭を撫でられた気がした。
それからしばらく物思いに耽って過ごしていた。アンヴァルの言葉をひたすら反芻していた。
────ヴァル、ごめん。あなたの願いには応えられない。私には……私の望む、道がある。
私は、私だけ道を外れるわけにいかない────
ついには心を決めて、ディオニソスの自室に向かう。
彼の部屋の前に着く頃、静まった廊下で眺めた落ちる陽は、美しい橙色をしていた。
帰りたい、と感じるような、広く澄んだ夕空だった。
◇◆
「アリア?」
声もかけずに扉を開けると、ディオニソスは窓から差し込む光の下で書写をしていた。
「そう過ごしてると思った。もう業務はないものね?」
言いながらアリアンロッドは、彼の隣に腰を据える。
「フリカムイたちは無事かしら……」
「力は尽くした。あとは祈るのみだ」
「そう。私も祈るわ……」
ディオニソスは横目で彼女を見た。彼女は今にも何かを言い出しそうになって、そして口をつぐむのだ。こちらから問いかけるのも、と彼は考え、待つ姿勢であった。
そのうち日は沈み、室内は限りある燭台が頼りの暗がりとなった。彼女はきっとそうなるのを待っていたのだろう。薄明かりの中、表情が見たいなら正面から向き合わなくてはならない、そんな空間になるまで。
「ディオ様」
「なんだい」
アリアンロッドは息を呑んだ。今にも胸が弾け飛びそうな、抑えきれない思いを抱いて、これを口にする。
「今すぐここで、私をあなたの妻にして」
「……妻とは」
「女に言わせるの?」
じっと見つめる彼女の瞳が、彼には輝いて見える。涙ぐんでいるのだろうか。
彼は迂闊だった。彼女が死を前にそう言いだすのは、予想の出来た事なのに。
「もう神の力は必要ない。国を救えない、こんな役立たずな私の力なんて必要ない。でも私は最後まで力を持つ大聖女を演じる、それは約束するから。お願い」
アリアンロッドは顔をより近づけた。すると切ない彼の表情が見える。
「この世を生きた思い出に、一度だけでいい。私を抱いて」
その刹那、ふたりはただ見つめ合った。
しかし、いたたまれなくなったのか、ディオニソスは顔を背けた。
「……すまない」
「どうして!?」
「…………」
ひとこと拒絶され、目の前が暗然となる。アリアンロッドは高ぶる心を抑えようと一息つき、説得のためまた口を開いた。
「あなたの妻になって死にたい。そうしたら、生まれてきた意味を感じられるんじゃないかって……。生まれた意味を知れば、きっと死も怖くない。生にも死にも、自分なりに意味が欲しいの」
彼には今まで散々駄々をこねてきたが、これが本当に最後だ。思いの丈をぶつけ、必死で食い下がる。
それでも彼は、目を伏せた。
「私に君を抱くことはできない……」
このような時に彼女を悲しませて終わるのは、当然悔やまれた。彼もできることなら、彼女に優しくささやき、朝まで、ただ大事に撫でていたかった。
「なんで!? もういらないのよこんな力! こんな、国を救えない力……。それとも、私ではだめ? あなたの最後の女に、私は不相応ってこと?」
彼は首を横に振った。
「私には君を守る力がない。戦場で最後に君を守る力があるとすれば、それは神の温情のみ。私は祈り、神に託すしかないのだ。君の命運を」
アリアンロッドは衝撃を受けた。この期に及んで彼はまだ、自分を生かすことを考えているのだ。
「私は生き残るつもりはないわ。そんなことあなただって分かっているでしょう……」
彼の固い意思を、揺り動かす言葉が見つからない。今までだってろくに彼を説得できたことなんてない。それが悔しくて、堪えるつもりだった涙がまた落ちる。
ディオニソスは彼女の涙を拭いながら、その切なる思いを伝える。
「それでも、たとえほんの僅かでも、私はその可能性に縋るしかない。君が神の力を失わない限り、希望は皆無ではない」
しかし彼女のとめどなく零れる涙は仕方なく、次は手にそっと触れた。
「嫌よ。都合のいい夢はみないで。そんなあてのないものに賭けられて、夢も叶わず私は死んでゆくの? 子どもの頃からずっとずっとあなたを想ってた。あなたと出逢えた証に、一夜でいい、抱かれたい。今の私には、それ以外の希望なんてない」
「都合のいい夢だな、まったく。しかし、これが私の信仰なんだ。私のために、君は寿命尽きるまで現世にいて」
「嫌……」
「天寿をまっとうしてほしい」
「無理よ……」
ディオニソスは出会った頃から変わらない、優しい眼差しを彼女に注いでいた。
「君は生きて、なんとしてでも生き延びて、君の夢を叶え、幸せに生きてくれ。それが私の唯一の希望だ」
それがどれほどの優しさであってもアリアンロッドは受け入れられるわけもなく、涙を散らして叫ぶ。
「そんなのとんでもない重荷よ! 私だけ生き延びたって、どんな夢も叶いっこないのに!!」
どれほど対話を続けても平行線だ。
彼は握っていたアリアンロッドの手を離し、立ち上がる。以降は振り返らず、静かに自室を後にした。
そこには向かい合う確かな想いがあるはずなのに、それが譲れぬ深い想いであるほど、本来なら己よりも相手を思いやりたいふたりが、穏やかな着地点に降り立つのは不可能だった。
アリアンロッドはしばらくその場で、拒まれた恥ずかしさと、愛されることを知らずに死にゆく自分への憐憫で、泣きわめいていた。
明け方、彼女はふらふらと邸内を歩いていた。少しは寝入ったはずだが、泣き疲れて目も口も痺れた感覚がある。きっと今の自分は見られたものではなく、すぐにも顔を洗いたくて庭の噴水に向かった。
「アリア?」
顔を洗っている真っ最中に、後ろから声をかけてきたのはアンヴァルだった。どうやら偶然のようだ。彼はここで出くわして少し驚いている。
「!」
また更に驚いた。振り向いたアリアンロッドの目が腫れに腫れて形容し難い面貌になっている。
「ヴァル……」
彼女の身に何があったかは不明だが、彼も時間にそう余裕がない。よってすかさず確認する。
「ちゃんとディオ様に話したな? 今日中に王宮を出られるんだよな?」
アリアンロッドは衣装の袖で顔を拭いながら、彼の問いに答える。
「ディオ様に……拒まれた……」
「は?」
アンヴァルの顔に不審の色が浮かぶ。
「そんなわけないだろう。ディオ様がお前を連れて逃げるのを……」
彼のその物言いを遮り、アリアンロッドは叫んだ。
「抱いてって言ったの!!」
とっさに目を閉じたアリアンロッドは、一度瞼を開けかけて、また閉じて、その魂ごと受けとめるように力を抜いた。
優しさのない、余裕もない、これを単純に恋心だと受け取れるわけはなく──
ただ、魂をぶつけてきたのだと感じた。
戦場で命を散らすことになる彼は、せめて今存在するこの魂を押し付けて、彼女に連れて行くように、そう託すようなキスだ。
そんな思いに抗いきれないアリアンロッドは、それを自身のすべてで包み込もうと、両腕を持ち上げ彼を抱きしめようとした、その矢先────
唇と唇のあいだに空間ができた。やっと再び目を見合わせたのも束の間。
「死ぬのが怖くなるようなこと言うのやめろ」
小さな声で呟いた彼は目を逸らし、彼女の頬を押さえる手を離した。
「ヴァルっ……」
アンヴァルが離れていく。
「俺はお前たちより半日早く発つ予定だから、とにかく殿下に、すぐ言いに行け」
いったん立ち止まり背を向けたまま、そう念を押した。続けて、
「俺は今から、俺が開戦の矢を射る準備に取り掛かる。女装でもなんでもしてやるよ。その瞬間ぐらいは誤魔化せるだろ」
こう言う彼に、アリアンロッドは何も言葉を掛けることができない。
「あ、あとさ」
まだ言い忘れたことがあったようで、結局振り向いた。
「お前は負け戦に兵らを巻き込んだと自分を責めてるんだろうけど、兵は兵になった時点で、戦いに身を投じ命を落とす覚悟のある生きものなんだ。だからこの職が存在する。これに就いた時点でとっくに各々の責任だ。それに、敵国に同盟結ぶつもりなんて毛頭なかったよ。お前が、国が、どう対応しようと、交戦への流れが変わることはなかったんだ」
「ヴァル……」
「これが今この国を生きる兵士の運命だ。みな。もちろん、俺も」
そして彼は足早に去ってしまったが、アリアンロッドは「分かったな?」と頭を撫でられた気がした。
それからしばらく物思いに耽って過ごしていた。アンヴァルの言葉をひたすら反芻していた。
────ヴァル、ごめん。あなたの願いには応えられない。私には……私の望む、道がある。
私は、私だけ道を外れるわけにいかない────
ついには心を決めて、ディオニソスの自室に向かう。
彼の部屋の前に着く頃、静まった廊下で眺めた落ちる陽は、美しい橙色をしていた。
帰りたい、と感じるような、広く澄んだ夕空だった。
◇◆
「アリア?」
声もかけずに扉を開けると、ディオニソスは窓から差し込む光の下で書写をしていた。
「そう過ごしてると思った。もう業務はないものね?」
言いながらアリアンロッドは、彼の隣に腰を据える。
「フリカムイたちは無事かしら……」
「力は尽くした。あとは祈るのみだ」
「そう。私も祈るわ……」
ディオニソスは横目で彼女を見た。彼女は今にも何かを言い出しそうになって、そして口をつぐむのだ。こちらから問いかけるのも、と彼は考え、待つ姿勢であった。
そのうち日は沈み、室内は限りある燭台が頼りの暗がりとなった。彼女はきっとそうなるのを待っていたのだろう。薄明かりの中、表情が見たいなら正面から向き合わなくてはならない、そんな空間になるまで。
「ディオ様」
「なんだい」
アリアンロッドは息を呑んだ。今にも胸が弾け飛びそうな、抑えきれない思いを抱いて、これを口にする。
「今すぐここで、私をあなたの妻にして」
「……妻とは」
「女に言わせるの?」
じっと見つめる彼女の瞳が、彼には輝いて見える。涙ぐんでいるのだろうか。
彼は迂闊だった。彼女が死を前にそう言いだすのは、予想の出来た事なのに。
「もう神の力は必要ない。国を救えない、こんな役立たずな私の力なんて必要ない。でも私は最後まで力を持つ大聖女を演じる、それは約束するから。お願い」
アリアンロッドは顔をより近づけた。すると切ない彼の表情が見える。
「この世を生きた思い出に、一度だけでいい。私を抱いて」
その刹那、ふたりはただ見つめ合った。
しかし、いたたまれなくなったのか、ディオニソスは顔を背けた。
「……すまない」
「どうして!?」
「…………」
ひとこと拒絶され、目の前が暗然となる。アリアンロッドは高ぶる心を抑えようと一息つき、説得のためまた口を開いた。
「あなたの妻になって死にたい。そうしたら、生まれてきた意味を感じられるんじゃないかって……。生まれた意味を知れば、きっと死も怖くない。生にも死にも、自分なりに意味が欲しいの」
彼には今まで散々駄々をこねてきたが、これが本当に最後だ。思いの丈をぶつけ、必死で食い下がる。
それでも彼は、目を伏せた。
「私に君を抱くことはできない……」
このような時に彼女を悲しませて終わるのは、当然悔やまれた。彼もできることなら、彼女に優しくささやき、朝まで、ただ大事に撫でていたかった。
「なんで!? もういらないのよこんな力! こんな、国を救えない力……。それとも、私ではだめ? あなたの最後の女に、私は不相応ってこと?」
彼は首を横に振った。
「私には君を守る力がない。戦場で最後に君を守る力があるとすれば、それは神の温情のみ。私は祈り、神に託すしかないのだ。君の命運を」
アリアンロッドは衝撃を受けた。この期に及んで彼はまだ、自分を生かすことを考えているのだ。
「私は生き残るつもりはないわ。そんなことあなただって分かっているでしょう……」
彼の固い意思を、揺り動かす言葉が見つからない。今までだってろくに彼を説得できたことなんてない。それが悔しくて、堪えるつもりだった涙がまた落ちる。
ディオニソスは彼女の涙を拭いながら、その切なる思いを伝える。
「それでも、たとえほんの僅かでも、私はその可能性に縋るしかない。君が神の力を失わない限り、希望は皆無ではない」
しかし彼女のとめどなく零れる涙は仕方なく、次は手にそっと触れた。
「嫌よ。都合のいい夢はみないで。そんなあてのないものに賭けられて、夢も叶わず私は死んでゆくの? 子どもの頃からずっとずっとあなたを想ってた。あなたと出逢えた証に、一夜でいい、抱かれたい。今の私には、それ以外の希望なんてない」
「都合のいい夢だな、まったく。しかし、これが私の信仰なんだ。私のために、君は寿命尽きるまで現世にいて」
「嫌……」
「天寿をまっとうしてほしい」
「無理よ……」
ディオニソスは出会った頃から変わらない、優しい眼差しを彼女に注いでいた。
「君は生きて、なんとしてでも生き延びて、君の夢を叶え、幸せに生きてくれ。それが私の唯一の希望だ」
それがどれほどの優しさであってもアリアンロッドは受け入れられるわけもなく、涙を散らして叫ぶ。
「そんなのとんでもない重荷よ! 私だけ生き延びたって、どんな夢も叶いっこないのに!!」
どれほど対話を続けても平行線だ。
彼は握っていたアリアンロッドの手を離し、立ち上がる。以降は振り返らず、静かに自室を後にした。
そこには向かい合う確かな想いがあるはずなのに、それが譲れぬ深い想いであるほど、本来なら己よりも相手を思いやりたいふたりが、穏やかな着地点に降り立つのは不可能だった。
アリアンロッドはしばらくその場で、拒まれた恥ずかしさと、愛されることを知らずに死にゆく自分への憐憫で、泣きわめいていた。
明け方、彼女はふらふらと邸内を歩いていた。少しは寝入ったはずだが、泣き疲れて目も口も痺れた感覚がある。きっと今の自分は見られたものではなく、すぐにも顔を洗いたくて庭の噴水に向かった。
「アリア?」
顔を洗っている真っ最中に、後ろから声をかけてきたのはアンヴァルだった。どうやら偶然のようだ。彼はここで出くわして少し驚いている。
「!」
また更に驚いた。振り向いたアリアンロッドの目が腫れに腫れて形容し難い面貌になっている。
「ヴァル……」
彼女の身に何があったかは不明だが、彼も時間にそう余裕がない。よってすかさず確認する。
「ちゃんとディオ様に話したな? 今日中に王宮を出られるんだよな?」
アリアンロッドは衣装の袖で顔を拭いながら、彼の問いに答える。
「ディオ様に……拒まれた……」
「は?」
アンヴァルの顔に不審の色が浮かぶ。
「そんなわけないだろう。ディオ様がお前を連れて逃げるのを……」
彼のその物言いを遮り、アリアンロッドは叫んだ。
「抱いてって言ったの!!」
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