King of the slave

鴻上縞

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四章 赤毛の少年

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 国中の民が悲しみを抱きながらも、盲目的な希望を失わずにいる頃。アルベルトを連れ去った馬車は、未だ止まる事無く山を進んでいた。アルベルトは国を出る前の会話を思い出しながら、一人神経ばかりを研ぎ澄ましている。
 山の向こうの国は、オーラストという国である。フィリアを出た事のないアルベルトは当然どう言う国かは知らないし、名前も一番近い国だからと言う事で知っているに過ぎなかった。ただ男達の態度を見るに、フィリアのように平和な国ではないのだという事は容易に想像がついた。戦争──その言葉を思い出すだけで、アルベルトの身体は震えた。だが今は、無事に帰れる事だけを願うしかない。幾度目か、アルベルトは自身にそう言い聞かせた。
 アルベルトを乗せた二頭の馬が引く馬車は、フィリアでは見た事のないような立派な物で、丸みを帯びた四角い箱の中に、臙脂色の座席が向かい合うように配置されている。その後ろにある狭い荷台にアルベルトは拘束されたまま放り込まれていた。高い座席の背から七つの頭が覗いている。彼等は皆揃って小綺麗な服に身を包み、それでもその中でやはりディラックと呼ばれる男は異彩を放っている。年の頃は二十五、六だろうか。相変わらず偉そうにふんぞり返っていて、周りの人々は召使いか何かみたいに機嫌を取っていた。そんな彼等に、アルベルトは微塵も良い印象を持てずにいた。

 馬車は山道の悪路の為に酷く揺れる。アルベルトはその度、縛られた手首が痛んで何度も小さく身を捩っていた。何より長い間こうして動けないでいる事も今まで無かったから、この終わりの見えぬ時間をどう消化して良いものか、そればかりがアルベルトの神経を蝕んでいる。
「泣かないんだな」
 突然頭上から降る声に、一瞬にして身体は硬直を見せた。それでも気持ちを落ち着かせ、アルベルトがゆっくり見上げると、目つきの鋭い男が一人、座面を越え荷台に乗り込み、舐めるように見下ろしていた。
「おまえ、よく見ると随分綺麗な顔をしているじゃないか。これなら、俺も女じゃなくてもイケるかも」
 何を言っているのだかは分からないが、その男の顔に浮かぶ嫌な笑いに、アルベルトの身体は震えた。次いで頬に伸びた手に当然抵抗し顔を逸らしてはみたが、無情にも横を向いた顔が強引に引き寄せられ、首に走る痛みにまた身体が強張る。顎を押さえるその手は、優しさなど感じさせない。
「私に、触れるな」 
 アルベルトがそう啖呵を切って睨み付けると、男はまた口元だけで笑う。すると何を思ったのか、男は逞しい腕で突然アルベルトを馬車の壁に押さえ付け、呆気に取られた隙を突いて、半開きだった唇を奪った。当然驚いたアルベルトは我を忘れ抵抗し、自由の利かない手の代わりに夢中で動かした足が見事男の脛に命中し、男は顔を苦痛に歪め慌てて身体を離した。鋭く睨み付ける男にも怯む事なく、アルベルトは睨み返した。
「触るな!」
「この野郎!」
 また乱暴に組みしこうとする男を、突然前方に座っていたオーラストの王子が止めた。
「やめておけ。そいつは本当に一国の王だぞ。下手に手を出すな」
 男は悔しそうにアルベルトを睨み、馬車の前へと戻って行った。
「おまえも。ここはもうフィリアではない。おまえの愛する平和ボケした連中はいないんだよ」
 ディラックの冷たい笑みに、アルベルトは心底震えた。なんと恐ろしい。だが、一方でアンナをこんな目に合わせずに済んで本当に良かったと、それだけには安堵出来た。 

 また誰にも構われなくなった荷台で、アルベルトは先の言葉を思い返していた。
 平和ボケ、確かにそうなのかもしれない。この馬車に乗っている人々は、揃って嫌な笑いをその顔に浮かべる。もしや他国の人間は皆そうなのだろうか。だがシンのような人だっているはずである。ふとシンの事を想った瞬間、酷く心細くなった。いつ、どんな時にでも隣にいた人。少しでもアルベルトに危機を感じれば、額に汗し真っ先に飛んで来てくれた人。そしてアルベルトが初めて、抑えきれぬ嫉妬を覚える程に焦がれた人。
 シンを想った途端視界が歪み、アルベルトは慌てて唇を噛み締めた。泣いている場合ではない。何の為に自分はここにいるのだ。そう己を叱責し、それきりシンを想う事は止めた。幸いにも、以来オーラストの王子の命令でアルベルトに手を出す者はいなかった。

 日を跨ぎ休む事なく山道を走った馬車がようやく止まる頃には、空を夕焼けが包み込み、辺りはすっかり深い橙色に染まっていた。足でフィリアに行くにはどの位かかるだろうか。アルベルトがそんな呑気な事を考えていると、一人の男に蹴り出されるように馬車を降ろされた。当たり前だが、蹴られる事は初めてだ。その痛みに歪めた顔を慌てて引き締め辺りを見回したアルベルトの目に飛び込んだ、まるで険しい山脈の一部のように聳え立つ立派な城に、思わず心は奪われた。
 白い城壁に天を突く尖った無数の細い屋根。あまりにも大きなその城は外観こそ美しいものの、各所に見受けられる鋭い切先は、まるで王の権威を余す事なく表しているようで酷く趣味の悪い物に思えた。やはりフィリアの愛らしい城が好きだ。アルベルトは密やかにそう毒吐いた。
 囚人のように縄で引かれその悪趣味な城へと足を踏み入れるが、やはり城の中も息を飲む程に美しい。入った途端先ず目に飛び込む大きな肖像画は、この国の王の物なのだろう。凛々しく結んだ口元に髭を蓄えた絵の中の男は、嫌味なほど酷く立派な人物に見えた。
 王子の帰還にゾロゾロと出て来た召使いの人々は、アルベルトの姿に好奇の目を向けるものの驚きはしていない。もしや、こう言う事はよくあるのだろうか。深々と頭を下げる人々。チラリと盗み見るその瞳。そして相変わらず、偉そうに先頭を歩く王子の後姿を見ても、あまりいい国ではないのかもしれないとアルベルトは感じた。この国の第一印象は結局の所、やはり最低なものであった。
 相変わらず綱に引かれながらも、アルベルトは縛られた手首が痛まないよう、なるべく早足で男達の後ろをついて行く。王に謁見が許されるとは思っていなかったが、期待通り軍団はこの美しい城の中でもとりわけ暗い方へと足を運んでいた。ここは初めて踏み入れる場所だ。それでもこの先に王がいるとは思えない。その予想は残念ながら、完璧に当たる事となる。

 長い事歩いた末に一行は漸く古めかしい木戸の前で一度足を止めた。その扉を開くと、地下へと続く階段が現れた。石造りのカビ臭い階段は、その薄暗さもあいまって底知れぬ井戸のように酷く不気味だ。ここに来る者がどういったものなのか、世間知らずのアルベルトですら分かり、思わず背筋をゾクリと寒気が走った。
 前後を男達に挟まれながらその長い階段を降りきると、少し開けた場所に出た。そこも全て灰色の岩で覆われていて、またしても幾つかの古い木戸があった。そのどれもに小さな覗き穴があり、そんな小さな覗き穴ですら鉄格子が嵌められている。フィリアに牢屋というものはないが、それ位の知識はある。アンナが王子のどこを怪我させたのかは知らないし、見た所何とも無い癖に、権力を振りかざすあまりにも横暴な王子にアルベルトは酷く憤り、やはりこの国はいい国ではないのだと言う確信だけを強めた。
「入れ」
 またぼんやり考え込んでいると一人の男が乱暴に綱を引き、転げるように開かれた一つの牢にぶち込まれた。そこは小さなベッドが一つあるだけの、何処か寂しい部屋だった。アルベルトを牢に入れ男達が離れて行く中、何故かディラックだけが扉の中へと足を踏み入れる。アルベルトはその時、希望すら抱いていた。ここで説得に成功したら、早くフィリアに帰れるかもしれない、と。 
 軋んだ木戸が音を立てて閉まると、アルベルトは素早く立ち上がり王子を真っ直ぐに見据えた。
「貴方に怪我を負わせてしまった事、心から申し訳なく思っています。だからどうか王に謁見する事を許してもらえないだろうか」
 だがアルベルトの言葉にもディラックはまるで興味がないようだ。ジッと見詰められてはいるが話を聞いていないように感じる。何を考えているのかまるで分からない。
「……聞いていますか?」
 恐る恐る尋ねるとディラックは品のいい口元を皮肉に歪めた。
「男に抱かれた事は?」
「え?あ、ありません」
 何なのだろう。変な質問だ。その疑問に答えるかのように、王子は薄ら笑いの唇を開いた。
「俺は王子だから女では遊べない。罷り間違って妊娠なんかさせたら後々争いの種になりかねんからな。言いたい事は分かるな?」
 そうは言われてもアルベルトにはその真意が全く分からず、小さく首を振る。ディラックはその様子を見て嘲笑を漏らし、ゆっくりと一歩踏み出した。その瞬間、如何にアルベルトと言えど身の危険を感じ、本能的に後ずさる。だが少しも行かぬうちに、背中に冷たく硬い岩の感触が伝わった。
「は、話を──」
「無事国に帰りたくば、大人しくしていろ」
 全身の血の気が引いていく感覚を覚え、アルベルトは思わず床にへたり込んでしまった。ディラックは微笑むと、腰を抜かしたアルベルトの金色の髪を優しく撫で上げた。
「怖がらなくていい。直ぐに良くなる」
 何が、良くなると言うのだ。その疑問も、目の前に迫った未知の恐怖故に言葉にはならなかった。
 一回りも小さな身体はいとも簡単に押し倒され、ディラックは細い手首を縛っていた綱を素早くベッドの頼りない枠組みに結び付けた。強制的に手を頭の上に上げられ、これでは最早正気を取り戻したとて抵抗する事すら叶わない。足だけは動くが、間違って傷付けてしまえば今度は打ち首だ。擦り傷を負わせただけで命を奪うとは、なんと恐ろしい国なのか。竦み上がってしまったアルベルトに、最早成す術などない。
 しかしディラックが徐に首元に顔を埋めると、アルベルトはやっとの事で微かな抵抗を試みた。
「なっ、何をする!」
 だが、そんな言葉では蚊に刺されたとも感じない。加えて首筋を湿った唇が這う感触にあまりにも驚いて、アルベルトは半ばパニックに陥っていた。その間もディラックは服の上から探るように身体の線をなぞっている。 
 この男がこれから何をしようとしているのか。いくらアルベルトでも薄々は気が付いてしまった。だがこういう行為は、好きあっている者同士がするものじゃないのだろうか。自分はこの男が好きではないし、この男だって自分の事が好きなはずがない。フィリアで初めて出会い、しかも最悪な状況でお互い印象も最低だったはずだ。ならば何故、こんな事を。
 混乱を来している頭の中で幾ら考えてもそれはまるで意味のない事。抵抗すらも許されず、それでも小さく身を捩りながらかわそうと試みているその間にも、ディラックは淡々と手を進めていく。遂には服の中に滑り込み、肌に直接感じる指の熱に、アルベルトは吐きそうな程の嫌悪感を覚え思わず硬く瞼を閉じた。
「いやだ!いやだ、やめろ!」
 アルベルト自身も驚く程の大きな声で放ったその拒絶が、ディラックを苛立たせて行く。その所為で荒々しくなって行く動きに、アルベルトの心も、身体も、恐怖に支配されていった。
 だが遂にはガタガタと震え出してしまったアルベルトを前に、ディラックは盛大な舌打ちと共に一度身体を離した。
「まだ分からないのか」
 その声も表情もまるで威嚇しているかのようだ。それでもアルベルトには分からない。何故こんな事をするのか。分からないというよりも、まるで理解が出来ない。
「わ、分かりません。貴方は私を好きではない。なのに、何故、こんな事を」
 見下ろす男は酷く驚いたようで、目を見開いたまま暫く止まっていた。何をそんなに驚くのか、やはりアルベルトには分からない。
 暫し驚きにも呆れにも似た表情で見下ろしていたディラックは、徐に小さな嘲笑を漏らした。
「ならばおまえの言う、好きだったら良いのか?」
 そう言う事ではないのだけれど、もうきっと話しは通じないのだろう。とにかく、一国の王としてのプライドと尊厳をこんな所で失う訳にはいかない。自身が王である事を思い起こした瞬間、再び動き出す男を前にしても、もう震えは止まっていた。
「私に触れるな。これ以上の辱めを受けねばならぬのならば、私は今ここで、舌を噛む」
 同じ国を守る者として、この言葉の意味を理解出来るはずだ。それは賭けであった。 

 睨み合ったまま時間だけが過ぎて行く。この時に、この王子が親の威厳を傘にきてただ偉そうにしているだけではないのかもしれないと、アルベルトは呑気にもそんな事を思った。
 その時、静まり返った地下牢の扉が突然開かれた。古い木戸からは一人の少年が顔を出した。だがこの異様な光景に小さく息を飲んだ少年は、直ぐにその場を離れようと頭を下げた。しかしディラックは無情にもそれを許さず、剰え少年を呼び寄せる。
「ジャック。丁度いい、こっちへ来い」
 ジャックと呼ばれた赤毛の少年は猫背を更に丸め、酷く怯えて見えた。
「この城での一切の世話はこのジャックがする。こんな醜態を晒してはいるが、一応隣国の王だ。失礼のないようにしろ」
 そういいながらも一番失礼なのは依然その王の上に跨ったままの王子だ。そう心の中で呟きながらアルベルトが視線を少年に向けると、やはり怯えた瞳をアルベルトと王子の間で彷徨わせていた。何をそんなにも怯える事があるのか、その答えは、直後に取ったディラックの行動でわかる事になった。
 突然立ち上がったディラックは、思い切り少年の頬を叩いたのだ。
「やめろ!」
 あまりにも唐突で理不尽な暴力を前に、思わずアルベルトは立場も忘れ叫んでいた。しかしディラックはまるで聞いてはいない。
「返事はどうした」
「……はい、分かりました」
 少年が俯いたまま小さく呟くと、ディラックは満足がいったのか、そのまま牢屋を後にした。
 少年は何事も無かったかのように手際良くベッドに継接ぎだらけのシーツを張っていく。その下で、アルベルトは縛られたままだ。
「あの、すまないがこれを外してくれないかな」
 一瞬こちらを見た少年は直ぐに視線をそらし、無言のままに縄を外してくれた。細い手首には、縛られた縄の痕がくっきりと浮かんでいた。
「ありがとう」
 それでも痛みを隠し感謝の意を込めて笑いかけてはみたが、やはりジャックは目すら合わせてはくれなかった。年はアルベルトと同じか、少し下ぐらいだ。こんな絶望的な状況でも仲良くなれたらと思い、アルベルトはなるべく優しく話しかけてみた。
「私は隣国のアルベルト・フィリア。ジャックといったね。どうだろう、仲良く──」
 しかし言い終わらぬうちに、古い木戸は音を立てて閉められた。一人残された小さな牢獄で、初めて他者に無視をされた衝撃に、アルベルトは暫く呆然と扉を見詰めていた。

 無意味な時間をしばらく過ごし漸く我に帰ると、アルベルトは力無くベッドによじ登り、昨日からの出来事を思い出してみた。
 国を出た途端に今迄経験して来なかった事が沢山起こった。縛られる事、乱暴に扱われる事、無視される事、そして、同じ男に身体を求められる事。これが一番衝撃的であり、また酷く恐ろしい事のように思えた。アルベルト自身、他人に触れられる事がこんなにも苦痛だとは思ってもいなかった。他人──ふとその言葉に、シンを思い出す。
 シンだけは違う。手が離れるだけで寂しさが胸を締め付けるのに、シンはいつでもまるで必死に避けるよう、この身に触れる事を拒んで見えた。それが更に切なくさせ、この想いを育てて行った。シンは、自分の事が嫌いだったのだろうか。触れる事さえ拒絶する程に、嫌だったのだろうか。胸が押し潰されるような感覚。それもまた、初めてであった。会いたいのは自分だけなのだろうか。たった一日顔を見ないだけでこんなにも不安で心細いのも、自分だけなのだろうか。人を想う事の苦しみも、その時に初めて知った気がした。
 アルベルトは一人、薄暗い牢屋の中、声を殺して泣いた。

 こうして始まった地下牢での生活は、酷く退屈なものだった。肩口で雑に切り揃えられた赤毛の少年、ジャックがこの牢を訪れるのは朝昼晩の食事を運ぶ時だけで、毎回話しかけはするものの全て一方通行で終わっていた。返事をしなかっただけで頬が赤くなる程強く叩かれて、そのあまりにも無礼で自分勝手な行動に憤っているのだろうか。そうは思っても、アルベルトが考えた所で何も分かるはずがない。しかしやはり、目も合わせようとせず、常に俯いてここに来る少年を思うと、なんともやりきれない気持ちに駆られる。
 そして気付けば愛する自国を離れ既に十日経っていた。日の光の入らない地下牢では、ジャックの訪れだけで日を数えるしかない。三度食事が運ばれて来る毎に、アルベルトは石の壁に傷を残していった。何もする事のないアルベルトにとっては、この作業と、ジャックの顔を見る事が唯一の楽しみとなっていた。その他の時間は目を閉じてひたすらにフィリアを想う。アンナは無事だろうか。皆は元気に畑仕事をしているだろうか。弟のエルバントは、兄恋しさに泣いてはいないだろうか。そして何よりシンは、今何を思っているだろう。心配しているだろうか。その顔を思い出すだけで、胸の奥が痛む。
 隠し通す事も出来た芽生えたばかりのシンへの恋情は、フィリアを離れた事により更に大きく膨れ上がっていた。国に帰り着いた時に、この想いを隠す事は出来るのか、アルベルトにとってはそれが酷く不安であった。自分は一国の王だ。だからこそ、この想いを隠さなくては。頭で分かってはいるのに、シンを想えば自然と涙ばかりが溢れた。

 今日もアルベルトが一人、故郷と愛する男に想いを馳せ涙を呑んでいた時。
「……どこか、痛むのですか?」
 突然声をかけられ顔を上げると、丁度食事を運んで来たジャックが心配そうにこちらを見ていた。慌てて涙を拭い、下手なりに笑いかけるとジャックは直ぐに視線を逸らした。しかしせっかく話しかけてくれたのだから、これをきっかけに何か。そう考え、アルベルトはなるべくにも優しく話しかけてみた。
「この辺に葦は生えているかな?生えていたら葉を六枚程欲しいのだけど」
「葦、ですか。分かりました」
 深く頭を下げるとジャックは牢を後にした。アルベルトはジャックの怯えたような様子を思い起こしながら、一つ決意を固めた。彼は、悪い子では無いはずだ。それなのにあんなにも萎縮している。フィリアにいたら、きっとエルバントの様に笑っただろうに。ここを出る時がきたら、必ず一緒に連れて行こう。暴力とは縁遠い優しくて暖かい、我が国に。
 ジャックの持って来てくれた粗末な食事を残さず食べ、壁の傷をまた一つ増やす。これで目が覚めれば十一日目となる。早く太陽を拝みたい。そう思いながら、アルベルトは浅い眠りについた。

 そして次の日、ジャックは約束通り葦の葉を六枚持って地下牢に現れた。いつものように無言で去る背中を見送って、アルベルトは葦の葉である物を作りはじめた。まだ幼い日に父が教えてくれた、草の葉で作る飛蝗バッタの人形だ。久しぶりだから上手くできるか不安だったけれど、出来栄えは上々だった。
 こんな物で気が引けるかは分からないが、そもそも何もせず過ごす事も限界だった。アルベルト自身も薄々は感じていたが、段々と精神的に不安定になって来ていて、このまま帰れなかったらとか、ここで死んでしまったらとか、そんな恐ろしい予感がよく胸を過るようになっていた。
 そして二度目の食事は丁度三匹目を作っている時に運ばれて来た。何をしているのか気になるようで、ジャックは遠慮がちにアルベルトの手元に視線を運ぶ。それでも声は掛けてこない。こちらから話しかけてもいいのだけれど、必死で気にしていない風を装うジャックを見ていたら、何だかそれももったいない気がした。
 結局ジャックはそのまま牢屋を出て行った。少し寂しい気もしたが、焦っても仕方がない。気長にやっていけばいい。アルベルトはそう気合いを入れ、残りを作り上げた。
 作り終えるとまた暇になり、どこに置いたら一番あの少年の気が引けるのかを考えた。鉄格子の隙間、扉の目の前、ベッドの上。色んな所に置いてみたけれど、どこもいまいちだ。ぐるりと狭い牢内を見回し、ふと床に目を向けると、昼に食べた食器の乗ったトレーが目に飛び込む。
「よし、ここだな」
 そう呟くと、トレーに飛蝗を三匹並べ、アルベルトは一人ほくそ笑んだ。

 そして待ちに待った三度目の食事。木戸を開け入って来たジャックに、ベッドに座ったまま微笑みかけてみる。チラリとアルベルトを見て何もしていない事を確認すると、ジャックは持って来たトレーを置いて空になった昼の物を手に持った。そして、じっと一点を見詰める少年の瞳に、アルベルトの心は踊る。トレーに釘付けになったジャックの瞳が、微かに輝いて見えたのだ。
 木戸が閉まった瞬間。悦びを抑えきれず、アルベルトの顔はほころんだ。光の無いジャックの瞳に少しでも輝きを与えた。それが心から嬉しかったのだ。そして更に嬉しい事に、次の日の朝食を運んで来たジャックの手には、沢山の葦の葉が握られていた。驚いているアルベルトに向けて、ジャックはその日初めて、少し照れたように微笑みかけてくれた。

 初めて国を出て、全く知らない土地で心細かったアルベルトの希望。それはフィリアでは誰もが出来る、草人形の小さな飛蝗に瞳を輝かせる、暗い影を背負った少年であった。一方的な思いかもしれないけれど、アルベルトはその時確かに、ジャックと友達になれた気がした。共にフィリアの地を踏む日を夢見て、アルベルトは唯々この地下牢を出る日を心の底から待ち望んでいた。 
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