King of the slave

鴻上縞

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五章 逡巡

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 残酷に月日だけは流れ、国を離れて早くも四ヶ月が経った。相変わらずアルベルトは薄暗い牢屋の中。この四ヶ月、何一つも変わる事はなかった。
 太陽の光を浴びたい。気が狂いそうになる。壁の傷は百を越えた頃からもはやどうでもよくなっていた。それでも習慣のようなもので、とりあえず手が石の壁へと伸びてしまう。一体いつ、フィリアに帰れるのだろう。
 段々と一人になるたびに涙が止まらなくなり、まるで狂ったように叫びたくなる日が増えた。それでも何とか正気でいられるのは、部屋の隅で一生懸命に破れた服を縫っているジャックのお陰だった。相変わらず遠慮はしているが、こうして自室かなにかでしていた作業をアルベルトの側でする事も増えていて、まるで心を寄せてくれているようで、それは確実にアルベルトの心を癒してくれていた。

 その日はどうにも落ち着かず、窶れた心を必死で勇気付けようと、アルベルトはずっと胸にしまっておいた提案を遂にジャックへと投げた。
「私が国に帰れる日が来たら、ジャックも一緒に来ないか?」
 突然の言葉に手を止めた少年は、驚いた顔を向けた。
「僕が、アルベルト様のお国に?」
 アルベルトが歓迎の意を込め微笑んでみせると、ジャックも答えるように優しく微笑んだ。だがその優しい笑みは、どこかに微かな悲しみのようなものを含んで見えた。
「貴方のお国はきっと、貴方のように美しく、優しく、そしてとても、平和な国なのでしょうね。僕もご一緒出来たら、どんなに幸せな事でしょう」
 そう言って再び手を進めるジャックの横顔は全てを諦めているような、そんな寂しさが滲んで見えた。
「オーラストの王には私からも──」
 その先の言葉を遮るように赤毛の少年は小さく首を振り、どこか遠い瞳を遥かへと投げた。
「僕の父は、この城の近衛兵長でした。僕の憧れで、目標でもありました。だけど、三年前に、侵入者を許してしまったのです。幸い城内に被害者は出ず、それまでの働きから大事にはならなかったのです。だけど、父は狼藉者を城内に進入させた事、それ自体に責任を感じ──自害したんです。不器用な人だったから、責任の取り方が分からなかったのでしょう。だから、父の犯した罪を償う為にも、僕はこの城から出る事は許されないのです」
 ジャックはそれが当然とでも言うように淡々と語った。誰かが責めたのだろうか。否、多分ジャックは自らこの道を選んだのだ。まるで呪縛のようなその思いから、出来る事なら救ってやりたい。そうは思っても、その時のアルベルトにはそれ以上言葉を掛ける事が出来なかった。
 やがて服の修繕が終わるとジャックは頭を下げ、地下牢を出て行った。石の壁に傷を付ける。この作業をあと何度繰り返せば良いのだろうか。ぼんやりと自分で刻んで来た傷を眺め、アルベルトはそんな事を思う。国を出て四ヶ月。アルベルトは頬を伝う涙すらもう、拭う気力を失っていた。

 それから更に三ヶ月が経った。牢生活も七ヶ月を過ぎたが、慣れるどころかさらに不安定な日が増えてきていた。常にフィリアの陽だまりや谷間を吹く風、土の匂いを思い出しては、帰りたいという言葉が自然と口をつくようになっていた。
 アルベルトを幽閉した張本人、この国の王子は、どう言う訳かあれ以来顔すらも見せない。まさか忘れられているのかと思うと、これ程に恐ろしい事はない。
「ディラック王子は、私の存在を忘れてしまったのだろうか」
 ポツリと呟くと少し困った顔を一瞬向け、ジャックは直ぐに手元に視線を戻した。夕食を運んできてから肩に届く赤毛を耳に掛け、ジャックはいつものようにベッドの下で服の修繕作業に没頭している。アルベルトはその様子をぼんやりと眺めていた。
 服の修繕はこの少年の内職なのだろう。毎日毎日大量の服を持ってきては無心で穴を塞いでいる。薄暗くて良くは見えないけれど、どれもあまり綺麗とは言えず、黒いシミが所々についているものやシミが大きな湖のように広がっているものもある。一度手伝おうかと言った所、ジャックは必死でそれを拒否した。針が刺さりでもしてアルベルトが怪我をする事をどうやら恐れているらしい。王族に傷を負わせたものは打ち首というこの国の掟があるからなのだろう。
 それ以来アルベルトはただ眺める事に決めた。せっかく開きはじめた心を、こんな事で閉ざしてしまいたく無い。そして何よりジャックがいなければ、いよいよ狂ってしまうような気がしていた。
 作業を終えたジャックは慣れた手付きで片付けを始め、深々と頭を下げた。
「それでは、お休みなさいませ」
「うん、いつもありがとう」
 アルベルトの笑顔に答え、ジャックも少し照れたように笑う。これでジャックを見送れば、後は眠りに落ちるだけだ。明日は、帰れるのだろうか。
 扉に向かう小さな背中を見詰めながら、アルベルトがそんな事を考えていた時だった。
「随分と仲が良さそうだな」
 その声と共に突然扉を開いた者は、待ち望んでいたディラックであった。もしかしたらこれは釈放の知らせかもしれないと、心のどこかで気持ちが昂ぶる。
 しかしジャックはその姿に酷く慌て、足早に牢を出ようとしていたが、それをいとも簡単に阻まれ今にも泣き出しそうな顔をしている。気にはなったが、その時はアルベルトも早く帰りたい一心であった。
「お久しぶりです、ディラック王子。私は一体いつ──」
 帰れるかと言いかけて、目の前で突然始められた行為にその言葉を思わず飲み込んだ。
「ディラック様、他国の王の眼前です……!どうかお赦し下さい!」
 顔を真っ赤にして抵抗を見せるジャックの首筋に、ディラックは緩く唇を這わせている。
「……何を、しているのですか?」
 何にしても止めなくては。そう思って一歩踏み出したアルベルトを、ディラックの鋭い瞳が捉えた。
「これはおまえの知らぬ、欲望の姿だ」
 そう言って不敵に微笑む男を前に、背筋が凍る。 
 目の前の男の言っている事が、よく分からない。何の為にこんな事を。どんなに考えたってやはり全く理解が出来ないし、何よりジャックだって嫌がっている。必死で崩れ落ちないよう扉に掛けた手は酷く震えているし、硬く閉じた瞳からは涙が溢れている。
 しかしその一方で、拭えない違和感も胸を過る。ディラックの手で露わになって行く肌は、薄暗い牢内でも分かるほど、薄らと上気していて、漏れる息遣いも荒くなる一方。何より時折上がる短い悲鳴は、ただ嫌がっているだけには聞こえない。この異質な状況に興奮すら覚えている。そんな風に感じさせた。
 アルベルトはそんなジャックの姿を前に、動く事が出来なくなってしまった。止めて良いのだろうか。一体どうする事が正しいのか、途端に全く分からなくなってしまう。
「おい、ジャック。何時もより随分と素直じゃないか。他国の王に見られて興奮しているのか」
 満足そうに呟く横顔に、アルベルトはまた小さく震えた。
「いやっ……だめ、です……」
 遂に薄汚れた麻のズボンに手がかかると、ジャックは本格的な抵抗を再開した。
 この時に、アルベルトは止めるべきだった。頭では分かっていたのにそれをする事ができなかったのは、彼が欲望の意味が知りたかったからだろうか。それは多分違う。アルベルト自身も認めたくはないが、小さな少年が男に犯され嫌だと口では言っているものの、その快楽に段々と堕ちて行く様をみて、怒りや苦しさと共に、悦びというものの存在を知ったのだ。
 一際高く啼き果てるジャックが酷く、美しく見えた。

 ディラックのいなくなった牢で力無く衣服を整えるジャックを見ながら、アルベルトは波のように次々と押し寄せる罪悪感に苛まれた。何てことをしたのだ。止めもせず、あまつさえジャックが悦びを感じているなどと感じてしまうなんて、と。
「驚きましたよね」
 いつもよりも小さく微かに震える声に、またしても胸が痛んだ。
「いつも、こんな事を?」
 アルベルトの問い掛けに、ジャックは小さく頷く。堪らなくなって、アルベルトは思わず膝をつき、震える両の肩を掴んだ。
「一緒に行こう。私の国にくればもう、こんな思いをしなくても済むんだ」
 その言葉はこの罪悪感を消す為の物だったのかもしれない。そう言いつつもつい俯いてしまい、視線を合わせることも出来ないのだから。だがそれでも、ジャックを救いたかった。瞳に涙を貯め俯くアルベルトの頭上、ジャックは静かに口を開いた。
「貴方はこの国が、悪い国だと……そう、思いますか?」
 思いもよらぬ言葉に視線を合わせると、真っ直ぐにアルベルトを見据えるジャックの頬を、一筋の涙が伝った。
「アルベルト様。僕は貴方とこの半年を共に過ごし、美しく、純真で、そして僕にまで幸福を感じさせてくれるような、優しい貴方の事がとても好きになりました。でも、貴方は俗世の穢れをまるで知らない。だから、僕を救う事は出来ないのです」
 ゆっくり立ち上がったジャックは、そのまま振り返る事無く牢を後にした。

 一人残された暗い牢屋の中は今迄感じた事の無い程に心細い。年端もいかない少年を欲望の餌食とする王子。少しでも傷付けただけで簡単に命を奪う恐ろしい法律。このカビ臭い地下牢。どれをとっても良い国とは思えない。それでもジャックの暗雲のような言葉が、苛立ちにも似たやるせなさを与えた。
 この思いは間違っているのだろうか。遠慮がちにしか笑う事の出来ない少年は、フィリアに行けばきっと、その心の闇さえ拭う事が出来ると思っている。それなのにジャックは何故あんな事を言ったのだ。何故ジャックを救う事が出来ない。王として未熟な事は承知だ。だから救う事が出来ないのだろうか。穢れとは何だ?それを知ればジャックの見る景色を、見る事が出来るのだろうか。
 薄い布団にくるまってから、アルベルトはジャックの最後の言葉を思いながら、眠る事も出来ず頭を巡らせた。
 確かにこの時、アルベルトは人としても酷く未熟であった。だがジャックのその言葉の意味を全く理解出来るようになるのは、もっと先の話となる。

 それからまたジャックはただ食事を運んでくるだけとなった。言葉も交わさず俯いたまま牢を後にする背中に、アルベルトももう声を掛ける気力は無かった。
 食欲も如実に落ちて行き、身体が怠くて堪らない。そんな中気を紛らわせる為にも、壁に小さな石でフィリアの風景を書くようになっていた。春先の風に靡く草原、色とりどりの花々、雲ひとつない澄んだ空や、春の嵐、そして、月光虫の舞う夜更けの川辺。そのどれもシンの顔を思い出させる。風に揺れる黒髪と、少し寂し気な黒い瞳の男。
「シン、助けてくれ。もうここにはいたくない。目には見えない闇に飲み込まれ、心が蝕まれてゆく。何の為にここにいるのか、もう分からないのだ──」
 アルベルトは叫ぶように、只々シンを想った。

 気付けば壁の傷もとうに二百を越え、幽閉され間も無く一年となり、日に日に弱っていく事を自分でも感じる。壁も書く所がもうない程に、望郷の思いで埋め尽くされていた。この国に来てから二度しか顔をみていないこの国の王子が全ての元凶のように思ってしまう。暇さえあればアルベルトは壁の中の川辺を見て涙を流した。
「帰りたい……帰りたい……!」
 この壁を崩したら、自由になれる、故郷に帰り着く事が出来るのではないか。アルベルトはその思いに囚われ、必死で岩壁を叩き続けた。
 望郷の願いを叫びながら無心で壁を叩いていると、不意にその手の自由が奪われた。
「アルベルト様!こんなに、血が……!」
 必死で止めるジャックのその言葉に腕を見ると、強く握った拳が真っ赤に染まっていた。途端に身体が痛みを思い出し、アルベルトは思わず小さく呻いた。
 一体何をしていたのだろう。この壁をどんなに叩いたって、外に出られる筈が無いのに。もう、この心は壊れてしまったのだろうか。ベッドに座らされ、再び血の滲む己の手を見ていたら、アルベルトの翡翠色の瞳からは次々と涙が溢れた。
「もう、嫌だ……帰りたい……フィリアに、帰りたい」
 こんな事を口に出すなど、やはり王として未熟すぎると自覚もしているし、何より傷付いた手を優しく手当てしてくれるジャックにとても申し訳ない気がして、だが、流れる涙が止まる事は無かった。それでもジャックはアルベルトが落ち着くまでただ側にいてくれた。こんなにも心優しい少年に、あまりにも惨い仕打ちをするディラック。アルベルトはその男に憎しみすら抱き始めていた。

 それからというものジャックはまた服の修繕作業を地下牢でするようになった。アルベルトはその傍らでただ壁の絵を眺める。言葉を交わす事は殆どないけれど、誰かが側にいるだけで心が落ち着いた。実に情けない王だ。だがもうそれでもいいと、アルベルトは狂ってしまうよりも正気を保つ為に必死になっていた。そして情けなくたって、どんなに未熟であったって、自身は一国の王だというその自尊心だけは絶えず持ち続けていた。

 それからまたしばらく経った。ジャックのお陰で少しずつ食べ物も喉を通るようになり、相変わらず身体は怠いけれど幾分か元気になった。今日も牢の隅で無心に服を縫う赤毛の少年。その膝下には、沢山の汚れた服が散乱している。
「ねえ、ジャック。そんなに沢山の服、一人では大変じゃないか?」
 それは本当に何でも無い疑問であった。誰かに手伝ってもらえないものか。三度の食事の度に持ってくるのに服の量は減る事はなく、逆に最近になって増えている気もした。そんなアルベルトの問い掛けに手を止め、ジャックは顔を上げる。
「もう、隠せそうにないですね。それに本来ならば貴方にもお教えしなければならない。……間も無く、我が国オーラストと東の大国テバンとの戦が始まるのです。今は国のはずれでの攻防で済んでおりますが、機は近いと……王が申しておりました。今は皆手が離せないのです」
 曇りの無い瞳にまるで射抜くかのように見詰められ、アルベルトはその力強さに一瞬呑まれそうになるほどであった。
「……戦?」
「よくある、領地争いです」
 よくあると言われても、生まれてこのかた戦を知らぬアルベルトにとっては、それが酷く恐ろしい事のように思えた。
 テバンとは一体どんな国なのだろう。オーラストはどうなるのだろう。ジャックは、そして、この国に囚われた自身の身は、一体どうなるのだろう。絶望的な未来に震えるアルベルトに、ジャックは優しい言葉を吐いた。
「もうお休み下さい。心配しなくても、貴方は戦には駆り出されません。だから今のうちに、しっかりお体をお休め下さい」
 深く頭を下げて牢を後にする背中は、どこか寂し気で、悲壮感さえ感じる程だった。それはシンの出す雰囲気と、とても似通って見えた。
 どれ程心が懐柔して来たとて、やはりあの男は外から来たのだと思い知らされる。フィリアに生まれた人々はあのような雰囲気を出す事は出来ない。アルベルトにもやはりその心は分からなかった。知らない事は罪ではない。だが他人の痛みを知りもせずに、ただ口先だけで救いたいと訴える事は、とても大きな恥のように思えた。
 戦が始まればジャックはこの国に残るのだろうか。あんなに優しい少年すら、戦は殺してしまうのだろうか。そう思うとどんなに恥をかいてでも逃がしてやりたい。アルベルトの中で、その願いだけが強くなっていった。

 そして〝その時〟は、刻一刻と迫っていた。 

 壁の傷が四百を超え、自国を離れもう一年以上経っていた。一週間程前からジャックは地下牢に姿を見せなくなり、アルベルトはジャックの置いて行ってくれた乾燥物を食べなんとか飢えを凌いでいた。時折遠くで聞こえる砲撃音が、遂に戦が始まった事を知らせている。アルベルトはただただ、ジャックの無事を祈った。それと同時に忘れ去られたような心細さと、死という恐怖を初めて身近に感じた。
 そして日を追う毎に砲撃音は近づき、やがてこの地下牢すら微かに揺れを感じるようになっていた。このままでは本当にフィリアを見る事もなくこの命はここで尽きる。そう思うといてもたってもいられずに、アルベルトは硬く閉ざされた木戸を何度も叩いた。
「誰か……!シン、助けてくれ!まだ死にたくない、皆に、会いたい──」
 その願いが届いたのは、砲撃音が更に近付いた時だった。アルベルトも最早恐怖で眠る事もままならず、部屋の隅で蹲っていると突然木戸が開かれたのだ。
「アルベルト様!城が陥落します!こちらへ、お急ぎください!」
「ジャック!」
 酷く慌てて入って来たジャックは、アルベルトの手を取ると勢いよく走り出す。あまりにも突然な事にフラつきながらも、アルベルトは必死で弱った足を動かした。
 ジャックは城が陥落すると言っていた。逃がしてくれるのだろうか。やっと帰れるかもしれないという希望が、もつれる足に力を与える。
 牢の対面にあった鉄の扉を入り、ジャックはひたすら薄暗い地下を走り続ける。暫く行くと、二人は地下を走る用水路へと出た。
「このまま用水路を辿って行けば、国境の山の麓まで出る事が出来ます。さあ、お急ぎ下さい」
 この道を行けばやっと帰れる。アルベルトがそのまま進もうとすると、ジャックはきつく握った手を、ゆっくりと離した。
「ジャック、君も一緒に──」
 振り向いたアルベルトの瞳に映る少年は少し俯いていて、暗がりで表情を伺う事は出来ないが、その雰囲気に胸騒ぎすら覚えた。
「僕は、行けません」
「何を言っているんだ、ここにいたら死んでしまう!」
 アルベルトが思わず声を荒げると、ジャックはそれを制すように穏やかな笑みを浮かべた。
「我が主君の愚行、僕の言葉などでは到底足りませんが、どうか、どうかお赦し下さい」
「そんな事、もう良い!行くんだジャック!」
 一歩も引かぬアルベルト。だがジャックのちいさなその胸に秘めた覚悟は、微塵も揺らぎはしなかった。
「この国は貴方にとって、憎むべき国であったのでしょう。それでも、僕にとっては愛すべき故郷……そして、命を賭してでも守るべき場所なのです」
 深く、頭を下げる少年。あれ程屈辱で、惨い仕打ちを受けそれでもなお守りたいと思うのか。だが真っ直ぐに自身を見据えるジャックの瞳に宿る力強さに、アルベルトは思わず言葉に詰まった。そんなアルベルトを見て、ジャックはいつものように、少し遠慮がちに笑った。
「いつか必ず、貴方のお国に伺います。約束ですよ、その時はまた、僕の為に葦の葉の飛蝗を、沢山作って下さいね」
 その笑顔の裏に秘めた思いに、涙だけが溢れ出す。一緒に行こう。その言葉はもう、言ってはいけないものだと、本能が告げた。
「どうぞ、振り返らずに行って下さい」
「ありがとう、ジャック。ありがとう」
 アルベルトはもつれる足で必死に出口を目指し走り出した。
 胸が押し潰されるほどに苦しい。息が詰まり、何度も何度も振り返ろうと足を止め、それでも必死でその思いを振り切った。

 戦をする事は悪い事だ。ジャックに、自身にこんな仕打ちをしたディラックは憎むべき奴だ。アルベルトはそう思っていた。しかし死を覚悟してでも陥落するこの国に残る事を決めたジャック。自国を愛するアルベルトのように、あの少年もこの国を愛していた。アルベルトはその時、何もかもが分からなくなってしまった。いい国とは何だ、悪い国とは一体、何なんだ。それすらも分からないのに、心はただ悲痛を叫ぶ。
 涙を拭う事もなくひたすらに走った。この悲しみを越えて、生き延びねば。生きて再び、フィリアに帰り着くのだ。この身の帰りを待ち、自身の国を愛してくれる人々の為に。

 これがアルベルトと心優しかった赤毛の少年との永遠の別れだった。
 アルベルトは自問する。無理矢理にでも連れて行っていたら、ジャックを救う事が出来て、この先の未来すら違うものだっただろうか。それは愚問なのかもしれない。己は救う事が出来た命を前に、逃げ出したのだ。
 ジャックの最後の笑顔が、いつまでもアルベルトの胸に残っていた。

 少し小高い山の麓に立ち、燃え上がるかつて美しかった城を呆然と眺める。空を夕焼けが包み込み、一面に広がる鰯雲が淋し気に群れをなす。一年ぶりの地上はもう、少し青臭い初夏の匂いがした。
 この山を越えれば愛する故郷に帰れる。それが分かっていても、アルベルトはオーラストという一つの国が滅びる様から目を離す事が出来なかった。城を丸ごと包み込み天まで届く赤い炎が、酷く哀しい色をしていた。

 一体どれだけそうしていただろう。ふと気付けば夜を越え空はもう薄っすらと白み、業火さえ失せた跡には、朽ち果てた城と黒い大地が只々広がっていた。人の影は見えない。テバンの人々すら、滅びた大地に見当たらなかった。アルベルトはゆっくりと山を降り、かつて栄えていたであろう大地に足を進めた。黒い煤となった人間であったと思わしき山々。少しだけ見て取れる生活の跡。そのどれを見ても涙ばかりが溢れた。
 何故人は争わずにはいられないのだろう。どうして国が違うだけで同じ人間の命をこんな形で奪う事が出来るのだろう。分からない。分かりたくも無い。街の中を歩き続けるアルベルトの心を、怒りにも似た深い悲しみが支配していた。山間から差し込む光の中を、それでもただ歩き続ける。
 この悲しみを忘れない。この怒りを忘れない。アルベルトはそう自身に言い聞かせ、ふとシンも、そうなのだろうかと思い立った。その瞬間、深い悲しみに忘れていた望郷の想いが湧き上がる。もう、フィリアに帰ろうと、アルベルトは国境の山を目指し歩き出した。
 平和な国に生まれたアルベルトには初めて経験する事ばかりで、身体よりも心が酷く疲弊していた。この国での唯一の心の支えだったジャック。生きているとしたら幸せになってほしい。
 そんな事を思いながら、ぼんやりと焼け落ちた街を国境の山に向かい歩いていた時だった。突然、鈍い音と共に後頭部に激しい痛みを感じ、そのまま視界は溶暗していった。

 人生の選択は無数にある物だ。アルベルトはこのオーラストでの一年で二度、その選択に失敗した──失敗、だったのだろうか。それは死の直前までわかる事は無いのかもしれない。それでもこの時はこの二つの選択が、アルベルト自身確実に失敗だったと感じていた。

 地獄のような未来が空を染める朝焼けに導かれるように、静かに幕を開けた──。
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