King of the slave

鴻上縞

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六章 深潭を生きる

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 その知らせがフィリアに届いた頃には、夏ももう終わろうとしていた。この国の王が捕虜として捕まり一年と少し。隣国オーラストはテバンとの戦に敗れ滅びた。そして城にいた者は皆、死んだそうだ。国中を絶望が包み込んでいた。誰もが帰還の知らせを待ち望んでいたのに、もう二度とその願いは叶わない。谷間を吹く風もまるで泣いているかのようだった。
 誰からも愛された、優しく、土いじりが大好きな少し風変わりなアルベルト王の死は、この国にとってあまりにも衝撃的なものだった。そしてシンは、その知らせを幾ら聞いても信じる事が出来なかった。もう会う事は出来ないなんて、そんなのは嘘だ。直ぐにまたいつものように笑って帰って来てくれる。そう思えば思う程に、酷く虚しくなった。どうしてあの時に助けに行かなかったのだ。どうしていつも、一番大切な人を守る事ができないのだ。その自責の念だけが、狂おしく胸を締め上げていった。

 国ではその知らせから三ヶ月に渡りアルベルト王の葬儀が行われた。彼が愛した川辺の側に墓は建てられ、国中の者が日々その墓前で涙を流した。まだ十八歳だった。人生はこれから始まるというのに、その短い生涯が無情にも愛した国ではない場所で幕を閉じた事に嘆いた。新しい王はエルバントとなり、シンはまたその教育係として側についた。誰も皆今は唯、亡き王にこの悲劇を繰り返さぬ事を誓うばかり。眠る事も忘れ泣き続けたエルバントも、三ヶ月経つ頃には落ち着きを取り戻していた。それでも、嘗てのように笑う事は無くなった。だが人知れず誰よりも罪を感じていたのは、あの日助けられたアンナであった。

 王の葬儀が終わった後、アンナは一人、国はずれの大木の下で首を吊った。
 この二人の死をきっかけに、穏やかで笑顔が絶えず、永劫続くと思われていた平和な国フィリアが、深い悲しみに蝕まれ静かに、だが確実に堕ちて行くのであった。 

 そして時が過ぎ、谷間の国にも雪がちらつき始めた。余りにも突然であった先代の王と、そしてアンナの死を乗り越え、人々はそれでも必死に生きようとしていた。
 その日は蒼白い満月が、今尚悲しみに包まれるフィリアを優しく照らしていた。シンは少し書室に篭り、いつもより遅い時間に自室へと戻った。扉を開くと、新たな王となったエルバントが窓辺で外を眺めていた。アルベルトの死を知ってからエルバントはこうしてシンの部屋に寄り、その帰りを待っているようになっていた。北風が掠める窓辺は、吐く息さえ白く濁る程。
 シンは何時ものように、その身を気遣う言葉を掛けた。
「エル様、もう随分と冷え込んで参りました。お身体に触りますから、どうぞお部屋にお戻り下さい」
 エルバントがゆっくりと振り返る。その顔を目にした瞬間、ぐっと胸が圧される心地がした。
 顔だけはアルベルトに瓜二つ。年ももう十六歳となり、アルベルトがこの国を発った時と殆ど変わらない。しかし、やはりアルベルトに比べるとその心は酷く脆い。今迄甘えるだけ甘えられて、わがままを言っているだけであったのだから、それは仕方がない事ではある。分かっているからこそ、シンは導き方に惑うていた。あの屈託のない笑顔を取り戻す事も未だ出来ていない。最愛の兄の死が、確実にその心を蝕んでいた。
 エルバントはそんなシンの心を知ってかしらずか、寂し気な瞳を投げ掛けた。
「シン、一緒に寝てもいい?」
 寂しい心も分かる、悲しい心も分かる、それでもこの国を背負う者になるのだから、もう甘えさせてはダメだ。シンはそう自分に強く言い聞かせ、首を横に振った。
「お送りしますから、自室でお休み下さい」
 潤んだ翡翠色の瞳は唯シンを見詰める。いつもは渋々戻っていくのだが、その日エルバントは中々帰ろうとはしなかった。仕方がなしに、シンが腰を屈めてその手を取ると、すっかり冷え切った指先は小さく震えていた。
「ほら、こんなにも震えていますよ。早くお休み下さい」
 そう言って微笑みかけてみたけれど、エルバントは尚も真っ直ぐにシンを見詰めたまま。だが何時までもこんな事をしていても埒が明かないと、シンはそのまま部屋に連れ戻そうと手を引いた。しかし、エルバントは強くその手を引き返したのだ。驚き振り向いたシンに向けて放たれた言葉は、意外なものであった。
「僕、知っているよ」
「……何をですか?」
 答えの代わりに、エルバントは何かを訴えるようにシンを見詰める。だが、シンには何が言いたいのかまるで察する事が出来ない。エルバントが一体何を知っているのだろう。隠している事などあっただろうか。この国に来る前の事ぐらいしか思い付かないが、それをエルバントが知っているはずが無いし、例え知ったとしてこれ程思い詰めた表情をする事でもない。
 首を捻るシンをしばらく見詰めた後、エルバントは何も言わず一人部屋を出て行った。心配になり後をつけてみたが、真っ直ぐに自室へと入ったのを確認し、シンもまたそのまま眠りへと落ちた。 

 次の日。シンは朝日が昇り始める頃に目覚め、温かい布団を抜け出した。一気に冴える程に今日は冷え込んでいる。急いで着替えを済まし、まだ眠る城を静かに出る。寒い筈だ。灰色の空からは、沢山の雪が舞落ちて来ていた。
「これは積もりそうだな」
 そう一人呟いて、庭の隅に繋いだ馬作を引き雪の降る朝の谷間を散歩する。もう、次の春が来れば馬作も十四歳となる。この勇敢な馬も、随分と年老いた。この身もこの国で、ゆっくりと年をとって死んで行くのだろうか。シンは無意識に、命の終焉を思うようになっていた。
 呆然と歩き続けふと気が付くと、アルベルトの墓の前に着いていた。葬儀までしてしまうと本当に死んでしまったのだと嫌でも受け入れなければならない気がして、シンは柄にも無く声を上げて泣いてしまいそうになった。こんな事になるのなら、あの嵐の日に、やはり抱き締めておけば良かった。もっとしっかりと向き合えば良かった。アルベルトの苦悶を、その胸に秘めた想いを、聞いてあげていれば良かった。後の祭りだと分かっていても、そんな後悔ばかりがシンの胸に溢れた。この胸の隙間は二度と、埋まる事はないのだろう。シンもまた、重いその喪失感に病み始めていたのだった。
 アルベルト墓を離れ城へと戻る道すがら、シンはやはりその死を思っていた。この三ヶ月、アルベルトが最後に過ごした場所であるオーラストを見に行きたいと何度も思った。しかし滅びてからもう随分と経ったし、既にテバンの手が入っているに違いない。迂闊な事はやめておこうと、シンは毎回その思いを断ち切る事で、何処か平静を保とうとしていた。

 そんな出口のない後悔ばかりを撫でる散歩が間も無く終わると言う時、背後からシンを呼ぶものがあった。
「おはよう、シン」
 振り向くと、恰幅の良い白髭の大臣が左手を振って近付いてきた。
「おはようございます。レッドさんは、どうでしたか?」
「あまり思わしくないな。昨日も大分酔って揉めたらしい」
 二人は同時に小さな溜息を吐いた。
 アンナの父、レッドは、早くに妻を亡くし男手一つでアンナを育てて来た。本当に仲の良い親子で、アンナもとても気立ての良い娘に育った。どこに出しても恥ずかしくはないと、レッドはいつも誇らし気に語っていたのだ。その娘が、まさか自ら命を断つなどとは誰が想像しただろう。残されたレッドは、悲しみのあまり酒に溺れるようになっていた。その勢いで他人を傷付ける事も少なくなく、周りの人々も彼の深い悲しみを分かっているからこそ大きな喧嘩は起きていないが、この国の人々の精神状態も決して良いとは言えないものだ。フィリアは初めての不条理を前に酷く混乱している事は手に取るように分かる。今は何か小さなきっかけだけでも全て崩れ落ちて行くような、そんな危うい状態であった。
 それを危惧して大臣のマルフとシンは、レッドの様子を逐一確認していた。せめてこの国の平和だけは守りたい。マルフもシンもその一心であった。新たな王エルバントは、この大きな問題を治めるだけの力はまだない。そして何より、言われた事は滞りなくやるけれど、それ以外はぼんやりと窓の外を眺めていて、最近ではシンでさえ何を考えているのか全く分からなくなってしまっているのだ。 
 その日もエルバントは要望書に目を通しながら隙あらばぼんやりと窓の外を眺めていて、数はかなり少ないとはいえ一向に仕事が終わる気配はない。
「エル様、手が止まっていますよ。昼食に間に合わなくなりますから。とりあえず手を進めて」
 何時もならばシンがそう言えばエルバントは特に返事もせず、嫌な顔もせず、しかし、喜びもせずにその要望書に目を通す。
 だがその日、シンが紙の束を目の前に置いた途端、エルバントは突然それを思いっきり払った。宙を舞う紙がバサバサと音を立て、シンはあまりの驚きに一瞬思考を飛ばした。机に残る紙をいくつか手に取り、エルバントは呆然とするシンを真っ直ぐに見据えた。
「これも、これも、これも……兄様との思い出ばかり。兄様への愛に溢れ、兄様の死を嘆き、悲しむ声ばかり。ねえ、シン。この国は兄様の国で、僕の国ではないんだよ」
 翡翠色の瞳に宿る、深い深い悲しみに、シンは絶句した。
 確かにアルベルトは若さ故未熟な所はあれど、素晴らしい王だった。民の事を一番に考え、いつもその側で心を寄せて声を聞いた。そう言う王は民に好かれる。だが逆にいえば、踏み込み過ぎてしまう危うさもある。王と国民はその間に壁一つ持っていなければ思わぬ間違いが起きやすい事も事実。そして今回のように必要以上に民の混乱を招く。エルバントは不憫ではある。両親を早くに亡くし、たった一人の兄でさえこの若さで失った。そしてあれ程民に愛された王の後を突然継がなくてはならなくなり、誰しもが自分の悲しみに精一杯でその痛んだ心を慰めてももらえない。まだ十六歳と幼い少年は、酷く孤独を感じたのだろう。その心を思うと、シンは言葉をかけることすら出来なかった。ただ王としての自覚か、涙を必死に耐える姿が、痛々しい程に悲しみを呼ぶ。
 エルバントの心を蝕む暗い影は、自身が気付かなければならなかったのにも関わらず、アルベルトを失った悲しみに暮れて見過ごすなど言語道断である。シンは自らをそう叱責し、その心に寄り添ってやらなければと優しく微笑み掛けた。
「今日はもう、休みましょう。明日は少しこの国を見て回りましょうか」
 返事もせず俯くエルバントの肩を抱いて、二人は早々に部屋へと向かった。
 エルバントをベッドに寝かせ布団のシワを伸ばしていると、ふとアルベルトを思い出す。芽生えた想いに困惑し、初めて嫉妬という感情を露わにした日の事だ。あの日も同じように、こうして柔らかい布団のシワを伸ばした。
 目頭が熱くなる感覚を覚え、シンは早くこの部屋を離れようと頭を下げ、足早に扉へと向かった。しかし、その耳に届いた声は、逸るその足を止めた。
「ここにいて、シン」
 一瞬どうしようかと思案もしたが、何処か後ろめたい思いを抱えているが故に、シンは慌てて弱った顔を整え枕元に椅子を引いた。
「貴方が眠るまで、ここにいますよ」
 細い指が縋るようにシンの手を取り、エルバントはそのまま静かに瞼を閉じた。
 柔らかい金髪。長い睫毛の下の翡翠色をした瞳。まるで月夜に浮かび上がる深雪のような白い肌も、背格好もやはりそっくりである。その姿さえ酷く胸を締め付ける。まるで生き写しのように、アルベルトの面影を余す事なく持つエルバント。小さく寝息を立て始めたその少年の髪に緩く指を通すと、それに答えるようにエルバントは握った手に頬を寄せた。
 こんな風にアルベルトに優しく接する事などなかった。厳しい言葉も真摯に受け止め、自ら消化し乗り越えていく強さを彼が持っていたからである。だが、触れる事さえ出来なかったのは──そこまで行き着くと、シンは無理にでもそれ以上考える事をやめた。この国を守ると決めた。余計な感情など、邪魔になるだけだ。そして何よりも、アルベルト王はもうこの世にはいないのだ、と。
 その日、エルバントは部屋からは一歩も出ず、シンもマルフも、そして城中の人々も、アルベルトを失った痛みが分かる故無闇に触れる事はなかった。

 次の日目が覚め窓の外を見ると、あたり一面は銀世界となっていた。深夜に降り続いていた雪はもう降っていないが、やはり酷く冷える。シンは小さく震えながら城を出て馬に餌をやり、何時ものように体に拭いた。
 そうしているうちにエルバントが重い足取りで庭へと現れた。
「おはようございます。どこか行きたい所は御座いますか」
 シンの問い掛けに、エルバントは何かを言ったようだが、余りの声の小ささに聞こえてはこなかった。エルバント自身もそれを察したのか、今度は少し大きな声で呟いた。
「どこでも、いい」
 唇の動きを見るに違う気はしたけれど、何だか聞き返してはいけない気がしてシンは馬の背にエルバントを乗せ、そのまま城を出発した。
 雪が丸ごとフィリアを包み込み、谷間を抜ける風もいつもより澄んだ匂いを運ぶ。太陽の光を受け輝く銀世界は、傷付いた心を優しく包み込んでくれるようだ。
「この国は誰のものだと思いますか?」
「だから、兄様のものだって言っただろう」
 シンの唐突な問い掛けに、俯いたままのエルバントは、少しムッとしたように吐き捨てた。
「そうであって、だがそうではない。この国はここに息衝く全ての命のものです。王はその全てを導き守る為にある。時に助けられる事もあるでしょう。そうして支え合い、国とは作られて行くものです。兄上は、よくよくその事をご理解下さっていたと思いますよ」
 優しく諭すようなシンのその言葉にも、エルバントは終始俯いたままである。だがそれでいい。アルベルトに対抗意識を持つ事は王の自覚が芽生え始めている証拠。どのような王になるかは他者が決める事ではない。家臣はただ、生まれたばかりの王の前に、いくつかの道を用意するだけだと、シンは自身の教育理念を再度胸の内で確かめた。
 その後もゆっくり馬を走らせ、二人は国中を回った。すれ違う人々は皆エルバントの姿に深く頭を下げ優しく微笑みかける。それでもエルバントは俯いたまま、それに応える事は無かった。皆新たな王を認め受け入れている。ただアルベルトの死と言うものが、余りにも深い傷痕を残しているだけなのだ。それさえ分かればきっと、エルバントもこの国の王としてしっかり前を向いてくれるだろう。シンはそれを信じ、重苦しい散歩を終え城へと帰った。
 だがシンはまるで分かっていなかったのだ。エルバントが胸の内で何を思い、そして何と葛藤していたのか。 

 それからしばらく経ったある夜の事だった。その日もシンは少し書室に篭り、日をまたぐ頃に自室へと戻った。いつものようにエルバントはシンの部屋に訪れており、ベッドの隅に腰掛け俯いている。
「エル様、もう日が変わりますよ。さあもうお休み下さい」
 その声は届いている筈なのに、エルバントは全く反応を見せない。
「……エル様?」
 不安に駆られ、シンがその足元に膝を付いて覗き込むと、虚ろな瞳はゆっくりとシンを捉えた。
「僕を、兄様だと思って」
 あまりにも突拍子もない発言に、シンの頭は追いつかず。許す限りその言葉の意味を何度も噛み砕いてはみたが、それでも理解する事は出来ない。
「……どういう、事ですか?」
 慎重な問いかけを受け唇を震わせたエルバントの瞳から、涙が一筋、頬を伝って落ちた。
「兄様の代わりでもいい。僕を、抱いてほしい」
 まるで鈍器で殴られたかのような衝撃がシンを襲った。窓を叩く風の音と、大きく脈打つ心臓の音にまるで耳鳴りを覚えるような感覚。エルバントの心を覆う闇の正体が見えぬ事に、シンは心底震え上がった。それでも何とか心を落ち着け、なるべく優しく笑いかけてやる。
「可笑しな事を言わないで下さい。お疲れのようですし、もう休みましょう」
 急くように手を取るシンを、それでも妙に落ち着いた声が引き止めた。
「僕は知っていたよ。シンが本当は、兄様を愛していた事を」
 再び酷い耳鳴りが襲う。シンは息が上がる程に動揺し、鋭く見詰める瞳から慌てて目を逸らした。荒く吐く息が、元来冷静沈着である男の乱れた心の軌道を描いてゆく。
「私とアルベルト様は、王と、家臣で……そんな、そんな恐ろしい感情は──」
「僕はずっとシンの事が好きだった。兄様が自分の気持ちに気付く、もっと前から」
 シンの必死の弁明など、最早エルバントは聞いてなどいなかった。誰よりも近く二人を見詰めてきたエルバントにとって、今更シンが何を言おうが関係ないのだ。
「でもね、僕は兄様の事も愛していたよ。たった一人の家族だったんだ。だから、だから代わりでもいい。シンのものになりたい」
 突然の告白に、シンはどうしたらいいのか最早頭が働かず、呆然と立ち尽くしていた。エルバントがゆっくりと立ち上がる。首に回された細い腕、見詰める翡翠色の瞳、薄く色付いた頬、熟れた唇、そして、細い金色の髪。目の前の少年は──。
「私はアルベルトだ」
 深い闇夜を閉じ込めた漆黒の瞳から、熱い涙だけが零れ落ちて行った。
 笑顔を失くしたエルバントがこの数ヶ月、いや、自身を恋い慕うようになった頃から育み続けていた、深い闇の獣の姿。シンはゆっくりと瞼を閉じ、たどたどしく唇を辿る熱い激情に、唯々身を委ねた。
 重なり合った唇を離したエルバントが、美しく微笑みながら囁いた。
「シン、私の名を呼んで」 
 余りにも純粋な狂気に、シンは思わず叫んでしまいそうな衝動に駆られ、夢中で一回りも小さな身体を掻き抱いた。エルバントもまた、縋るように細い腕を背に回す。そして再び貪るように唇を重ねたまま、ベッドへと頽れた二人は、冷え切った指先を絡め合い二度と流す事は赦されぬ互いの純粋な悲涙を呑んだ。
 最も愛する者を共に失った二人の心は、まるで融けるように混ざり合う。清いまま果てた兄が愛した男を奪う背徳。自身でも気付かぬほど、密やかに、大切に愛し続けた主君によく似た弟にその姿を重ねる倒錯。許される事のない罪を犯していると自覚したとして、それでも尚、止まる事など出来なかった。
 澄み通る声がシンの名を呼ぶ。汗が滲む薄い皮膚を撫でながら、応えるようにシンは幾度もその名を呼んだ──。 

 窓から差し込む朝日に目を覚ます。腕の中で眠る小さな少年の姿に、シンの心は悲鳴を上げるばかり。拒む事はできた筈だ。いや、拒むべきだった。それでも受け入れてしまったのは、自分でも気付かぬ程に、深くアルベルトを愛していたからなのだろうか。
「……シン?」
 追って目を覚ましたエルバントが、不安気にその名を呼んだ。昨晩起こった泥濘のように重苦しい狂気的な事件は、清々しい朝陽に照射され二人の心を蝕むばかり。それでもシンは何事も無かったかのように微笑んだ。まだ幼いエルバントの心を守る為、無理矢理にでもそうしなければならなかったのだ。
「おはようございます、エル様。何処か、痛みますか?」
 照れ臭そうに首を小さく振ったエルバントの赤く腫れた瞼を見て、シンはエルバントが起きるつい先程まで縋っていた意識を捨て去る事を決めた。例えこの心が壊れてでも守らなければならないものは死んだ者への愛などでは無く、気付かぬうちに傷付け歪んでしまった、エルバントその人だ。シンはそう自身に言い聞かせる事で、アルベルトへの長年秘めてきた想いさえも振り払おうとしていた。

 しかし歪みは二人の間だけで止まる事はなかった。その日の朝、一人の女が国外れにあるヤギ小屋の側で死体となって見つかった。その傍で呆然と立ち尽くしていたレッド・フリートは、この国で初めての死刑囚となった。
 まるで桃源郷のような国フィリア。穢れを知らず、身を割くような悲しみも、灼けるような怒りも、抑えきれない憎しみすらも知らなかった国──それはもう、昔の話しだ。この事件をきっかけに、シンもまたフィリアと同じよう、二度と戻る事は出来ない事を思い知らされた。
 そして重い絶望を抱きながら尚、深く暗いこの深潭を、ひとり生きて行く事を決めた──。
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