King of the slave

鴻上縞

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八章 タグなしの奴隷

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 風が吹いている。木々の合間を縫い、精錬された澄んだ風。前を歩く男の揺れる黒髪にそっと手を伸ばす。振り向いたシンは、アルベルトに優しく微笑みかけ、その身体を抱き締めた。シンの腕の中、アルベルトは悦びに打ち震えた。
 ようやくフィリアに帰って来たのだ。そしてやっと、この想いが届いたのだ──。

 だが余りにも突然、頬に鋭い痛みが走りアルベルトは慌てて飛び起きた。しかし途端に先程の痛みなど瞬時に吹き飛ぶ程の激痛が身体中を走り、思わずまた硬い床に蹲る。
「あーあ、酷い顔」
 頭上から降ったその声に顔を上げると、緩いウェーブのかかった茶髪の少年が、半ば呆れたように溜息をついていた。ミトと呼ばれていた少年である。そこでようやくアルベルトは先程の景色が全て夢であった事を実感し、全身の力を抜いた。ミトはそんなアルベルトの一挙手一投足を注意深く観察しながら、細い眉を寄せている。彼は容姿から察するにまだ十二歳程度である。その若さで人買いである事に、アルベルトは同情を禁じ得なかった。
 ミトはしばらくアルベルトを観察していたが、意を決するようにしゃがみ込み、項垂れるアルベルトの顔を覗き込んだ。
「……ねえ、本当にあんた王様なの?」
 アルベルトが小さく頷くと、ミトは途端申し訳なさそうに俯いた。
「そうなんだ……てっきり首輪の外れたホワイトタグかと思って。金髪は高く売れるって言われてたし……ごめんな」
 ホワイトタグとは何なのか分からないが、アルベルトは出来るだけ優しく微笑んでみせた。
「君が気にする事じゃない。少し帰るのが遅くなっただけだ」
 それは自分に言い聞かせた言葉でもある。必ず、フィリアに帰る。人買いに犯された事実など死ぬまで隠し通せばいい。そう決意を固め、アルベルトは酷く痛む身体で必死に上体だけを起こした。
「ところで、そのタグというのはどう言う意味を持つ物なのか教えてもらえないか」
 アルベルトのその言葉に、ミトは大げさな程に驚いた。
「タグ制度はこの世界の常識でしょ!」
 そうは言われても、本当にアルベルトには馴染みのないものであった。
 その時、不意に扉が開き、細目の野蛮人が酷く苛立った様子で部屋へと踏み込んできた。
「いつまで油売ってんだ!兄貴が呼んでるぞ!そこの糞ガキもな!」
 糞ガキとか糞犬とか、一体何だと思っているのだ。そう心の中で毒吐いても、アルベルトがそれを口にする事は最早なかった。

 相変わらず両手を縛られ、アルベルトはミトに引かれて部屋を出た。身体中が鈍く痛み、その度に嫌でもあの屈辱を、そしてあの男、フェイを思い出す。ミトはそんなアルベルトを気遣ってか、綱を引く手は昨日より乱暴ではない。それが救いだ。
 はっきりとした記憶はないが、昨日激痛の中で気を失ったらしかった。扉を出るとそこは二階建ての家の一階部分であった。無駄に広い入り口の広間を通り過ぎ、ルーイは一つの扉を開いた。左の壁一面に小さな引き出しがずらりと並び、右の壁には本や紙の束が所狭しと収めれている。その脇で机と向き合い、書類に筆を走らせていた丸眼鏡の男、ラフターは、アルベルトを目にした途端に顔を顰めた。
「これは酷いな。傷が残ったらどうするつもりだこのバカ」
 自分では見えないが、そう言われるとなんだか痛みが増した気がした。バカと吐き捨てられたフェイは、その対面で器用に巻き煙草を作っている。
「こいつが噛み付くからだろ。煙草が滲みてこっちだって腹立ってんだ」
 アルベルトはなるべくにもその顔を見ないように、フェイの手先だけを見詰めた。
「兄貴、こいつのタグどうします?」
 そんなミトの質問に、遂にフェイは酷く苛立ったようで、机を強く叩く音が部屋に轟いた。
「ブラックタグだって言ってんだろ。何の為に俺がこんな糞犬抱いたと思ってんだ。とっととタグつけとけよ」
 一蹴されたミトの表情が心なしか曇った気がし、ブラックタグ、その言葉にアルベルトは胸騒ぎすら覚えた。
 一瞬の沈黙の後、ルーイが恐る恐る呟く。
「仕込み上がってないのにタグ付けちゃっていいんですか?」
「どうでもいい」
 フェイは至極興味のない様子で吐き捨てる。アルベルトは仕込みとは何だろうと首を傾げながらも、そもそもこれは自分の話しのはずだ。何故当人を差し置いて話しが進んでいくんだろうと憤りを感じ始めていた。
「ガキ一人に何をイラついているんだ。どの道この顔じゃ客前には出せない。責任持ってちゃんと仕込み上げろ」
 ラフターが溜息混じりに言い捨てると、フェイはあからさまに不貞腐れた。
 そんな険悪な雰囲気の中、ミトが小さく呟く。
「あの、ブラックタグは今切らしてて」
「ミト、タグは切らすなって何時も言ってんだろ!」
 次いだルーイの怒鳴り声にビクリと肩を振るわせ、ミトは俯いてしまった。
「ああ、もういい分かった。取り敢えず、その糞犬は小屋にぶち込んどけ」
 そのフェイの一言で不思議な面談のようなものが終わった。アルベルトは余りの横暴さに、胸の内で何度もフェイを罵った。この街は野蛮人の巣窟だ。まるで同じ人種とは思えない。乱暴で、口が悪くて、そして人を物の様に扱う最低の男。フェイという男を、生まれて初めて心の底から嫌いだと感じた。 

 重苦しい部屋を後にし、縄で引かれ連れていかれた部屋は、先程までいた二階建ての家の隣の小さな小屋の中だった。その中にいた人々は馬車の中にいた人々の他に、知らない顔も混じっている。知らない顔の面々は、馬車にいた人々とは違い随分と小綺麗に思える。服は質素ではあるがキチンとした形を成しており、髪も一応清潔に整えられている。依然目も合わせてくれない人々の首輪を盗み見ると、老人や小さな子供のタグの色は青が多く、女性も青が多いが緑も混じっている。若い男のものは赤が殆どである。そのうち一人の少女だけ、黒いタグを付けていた。年は少女と女性の間ぐらいだろうか。少し濃い栗色の長い髪に白い肌。どこか影を持つ雰囲気さえも、とても美しい少女であった。
 ブラックタグ──それが意味するものは何かを考え、アルベルトはラフターが言った言葉を思い起こす。自身は性格的にそのブラックタグには向いていないらしい。だがそれだけで想像するのは、とても難儀な事だった。 

 それから三日間。アルベルトはその小さな小屋で過ごした。他の奴隷の人々は誰一人口を開こうとはしない。俯いたまま静かに時が過ぎるのを待ち、食事になるとまるで犬のように食い付く。
 そして日に何度もルーイが現れ、何人かの人を連れて出て行く。その日のうちに戻ってくる者、戻って来ない者、その差はよくは分からないが、誰もが皆抗う事もなく、従順にルーイの言う事を聞いている。夜になると必ずミトが五人づつ順番に小屋を連れ出し、隣の家の大きな浴室で奴隷達の身体を念入りに洗った。
 黒いタグの少女は一日中膝を抱えたままであった。ルーイに連れていかれる事もなく、ただこの小屋でまるで息を潜めるかのようにじっとしている。アルベルトも何度か話しかけてはみたが、タグの付いていないアルベルトを人々は見る事も拒んでいるようで、怯え、俯いたまま逃げ回る。タグとはそんなにも大きな意味を持つのだろうか。それとも他に何か、嫌われる事をしたのだろうか。アルベルトは幾度もその理由を考えてみたけれど、やはり何も分からなかった。
 アルベルトが初めて出逢った奴隷の人々。悲しくなる程に疲弊したその姿に、アルベルト自身もまた、段々と飲み込まれていく気がした。

 そして三日目にミトに引かれ、アルベルトは最も行きたくない場所へと連れていかれた。二階の突き当たりの部屋、人買いのボス、フェイの部屋だ。
 ミトが戸を叩き扉を開くと、机に腰掛けていた男は視線だけを投げる。縄を近くに結んだミトは、そんなフェイに軽く笑いかけた。
「兄貴、優しくしてやって下さいね!」
 そう言って部屋を出る少年。優しくなどされたくもない。そう心の内でボヤキながらアルベルトがミトの去った扉を見詰めていると、不意に手に何かが触れ、覚えのあるその感触に全身が粟立つ。
「触るな!」
 アルベルトが思わず飛び退いて振り返ると、縄を外しに来たらしいフェイは、その余りの過剰な反応に驚き、そして直ぐ怒りを露わにした。
「当たっただけだろ!俺だって好きでお前みたいな糞犬と面合わせてる訳じゃねえ!」
「だったら、私を国に帰せ!」
 フェイの瞳を睨み付けた途端、揺れる漆黒の瞳にふとシンの顔が過ぎり、アルベルトの瞳から思わず涙が溢れた。泣かないと決めた筈なのに、最も見られたくないこの男の前で。それが余りにも悔しくて、アルベルトは慌てて縛られた手で涙を拭った。
 微かな沈黙の後、フェイは静かに呟いた。
「国に帰ったところで、お前を待っている者はもういない」
「そんな事はない!皆私の帰りを待っているのだ!」
 噛み付くような態度に苛立ったのか、フェイはアルベルトの首元を力任せに引っ張り上げた。
「お前は死んだ。お前の民は今頃新たな王の下で変わりなく暮らしている。そう言うもんなんだよ!お前の守りたいものは何だ?自分の地位か?」
「ち、違う!私はただ皆の幸せを──」
 何を言っているんだ、人買いの癖に。そう心で罵ったとしても、アルベルトの心に刺さったフェイの牙が、不気味に疼く。
「だったら、帰らない事だな」
 冷たく放たれたその言葉に、目の前が闇に攫われて行く心地がした。呆然と立ち尽くすアルベルトを他所に、フェイはまるで作業をするかの様に服を脱がせて行く。それすらも抵抗する気が起きない程、先のフェイの言葉は衝撃的なものであった。
 自身が守りたいものは、フィリアの民、愛する全ての人々の幸せだ。確かにこの男の言う通り、オーラスト陥落と共に死んだとされていたら、その王が戻って来たとしたら──民を、新たな王となっている筈のエルバントを、少なからず混乱させてしまう事だろう。帰りたいと願ったのは、この悪夢から逃れたいだけなのではないだろうか。この身はもう、帰ることすら許されないのだろうか。
「シン──」
 シンに、会いたい。常に変わる事のないアルベルトの願いは、そうして知らぬ間に唇から漏れ出て行った。

 余りの衝撃に抵抗しなかったからか、痛みはあるもののフェイも淡々とこなし、まるで本当に作業のように行為を終えた。アルベルトにはいまいち何を持ってして終わりなのかは分からなかった。地下牢で直面したジャックの様に、アルベルト自身が快感など感じてはいないし、フェイも特に感じている様子はないのだ。
 アルベルトはそんな事を考えながら、呆然と自身の乱れた衣服を丁寧に整える手先を見詰めていた。
「途中でシンとか言わなかったか?」
 突然フェイの口からシンの名が飛び出し、アルベルトの心臓が小さく跳ねた。
「さあ、覚えていない。お前と同じ、黒い瞳の男だったから。思い出したのかもしれない」
 その返答にフェイはアルベルトから離れ、何時ものように机の端に腰掛けてからゆっくりと煙草に火を付けた。その表情に少し、アルベルトは胸騒ぎを覚えた。
「もしかして、シンを知っているのか?」
 フェイは驚いた顔でアルベルトを見やると、直様喉の奥で小さく笑った。
「俺が知る訳ないだろう。おまえの口から男の名前が出た事に驚いたんだよ。糞犬の癖に色気づきやがって」
 酷くバカにした態度に、アルベルトはまた酷く憤った。
 こうしてその日を終え、アルベルトはまたミトに引かれ小さな小屋へと戻って行った。

 それからフェイは三日おきにアルベルトを抱いた。二人は互いに何の感情もなく、まるで作業のような行為を繰り返す。結果として、仕込みとは、男に抱かれる身体にする為の作業だった事を知った。フェイへの憎しみと共に、その度に汚れて行く自分すら、殺してしまいたくなる程憎かった。
「……ブラックタグとは、こう言う物だったのだな」
 小屋に帰る為ミトに綱を引かれながら、アルベルトは小さく呟いた。足を止めた少年が悲愴な瞳を向ける。
「奴隷タグ制度は、今の世の中常識なんだよ。奴隷は名前を持たないから、色付きのタグに所有者の名前を彫って識別するんだ。赤は力仕事、青は家の中の仕事、緑は農作業。白は特別で、戦争の捨て駒。所有者のない奴隷を意味するの。黒は言う通り、性奴隷を指す。兄貴はね、元々ブラックタグだった奴隷以外、ブラックタグを嫌って扱わないんだけど……おまえ、運が悪かったね」
 運が悪い──その通りだとアルベルトは頷いた。その運の悪さで、こんな所で奴隷となったのだから。

 小屋へと着き、ミトが出て行った途端、息が詰まり思わず声を上げて泣いてしまいたくなった。しかしアルベルトの事など見てはいなくても、ここには沢山の人がいる。誰かの前で泣く事が出来ない癖は、どんなに汚れてしまってもまだ王としてのプライドがあるからなのだろうか。それを感じたアルベルトは、その絶望に再び胸が押し潰されて行く感覚を覚え、胸の内で何度も叫んだ。
 兎に角フィリアへ帰りたい。それすらも許されないのなら、もうなんでもいい、自由になりたい──。

 それから一ヶ月。アルベルトは今日も歯を食いしばり耐え続ける。布の擦れる音と肉のぶつかる音以外、静かな部屋には聞こえない。
 子供のように感情を露わにするどうしようもないフェイと言う男は、この作業の間だけはまるで別人のように感情を持たなかった。全く変な男だ。いつの日かディラックが言った〝欲望〟とも違う。現にフェイは必ず、何やら薬を飲んでから行為に及ぶのだ。この男は本当に作業としか思っていないのだろう。

「いつまでたっても上がらねえな。どこまでプライドが高いんだ、糞犬の癖に」
 その日の作業を終えたフェイが、机の端に腰掛けいつもの憎まれ口を吐き捨てる。プライドなど、全て砕いた癖にと毒吐きながら、アルベルトは強く奥歯を噛み締めた。アルベルトは最早その妙に整った横顔も、酒焼けなのか酷く掠れた低い声すらも、吐き気がする程になっていた。
「私はお前が、死ぬ程に嫌いだと言い切れる」
 硬いベッドの上、事後の痛み故身を横たえながらも噛み付くアルベルトに、煙草を巻きながら視線だけを投げたフェイは、喉の奥で小さく笑う。
「奇遇だな、俺もだ」
 痛みは軽くなったものの、嫌い合う二人のこの行為は、確実にアルベルトの心を傷付け蝕んでいた。そもそもアルベルトは性行為とは愛し合う者同士の間でしか成立する事はないと信じていた聖者のような少年期を過ごしていたのだ、当然である。最近では何も食べたくない、このまま飢えて死んでしまえれば自由になれるのだろうか。そんな事を思うようになっていた。更には首に付けられた、まだタグはついていない皮の首輪。少し動く度に感じるその感触に、もう何も知らなかった日には戻れない事を嫌という程思い知らされる。

 日に日に痩せ細り弱って行くアルベルトをミトは心配してくれているようだったが、それすらも傷んだ心は鬱陶しく思うようになっていた。まだ幼いとはいえ、彼も人買いの仲間だ。自身をこんな目に合わせているフェイの手下なんだと、いつの日かアルベルトは優しくしてくれる少年すら憎しみの対象として見るようになっていた。そして何より、フィリアに帰る望みを断たれてから、最早目を背ける事が出来ない程、アルベルトは毎日を死を望む事に費やした。
 そんな中、転機が訪れたのはそれから一週間程経った日の事だった。

 アルベルトは少し前から運ばれてくる食事に一切手を付けなくなっていた。小屋の中の人々は最初は遠巻きにそれを眺めていたが、一人が恐る恐る食べ物に手を出すと、それに触発され我れ先にと群がるようになった。最初はその狂気にも似た行動にアルベルトは酷く驚いたが、暫くするとそれも慣れた。

 その日もミトが食事を運び、小屋の鍵が閉まる音が響いた瞬間、人々は奪い合うようにアルベルトの食事に群がる。その様子をぼんやりと眺めていた時、扉が突然開かれ弾かれるように人々は散った。
「何してんだよ!」
 扉の前で立ち尽くすミトが、アルベルトを見詰めながら小さく震えている。驚きの中に見える悲しみの意味が、当然アルベルトにはよく分からなかった。アルベルトはそのまま小屋から引きずり出され、フェイ達の住む隣の家へと連れていかれた。
 丸眼鏡の男、ラフターの部屋に着くと、机に向かっていた三人が驚いたようにアルベルトとミトの間で視線を泳がせる。
「ラフターさん診て下さい!お願いします!」
 ラフターはどうやら本当に医者らしい事を知り、アルベルトはこんな所に医者を置くなんてと、呑気に感心していた。
「ミト、どうした?ちょっと落ち着け」
「落ち着いてなんかいられるかよ!こいつ飯を他の奴にやってるんですよ!?このままだと死んじまう!」
 宥めるラフターの腕を振り払ったミトの瞳には薄っすらと涙が浮かんでいる。アルベルトはその表情に首を捻った。自分が死んで困るのだろうか。出来るならこのままそっとしておいてほしいのだけれど、と。
「やっぱりちょっとイかれてたんだな」
 ルーイが呆れたように呟く。最初は怒りを覚えていたアルベルトも、今では何も感じる事はない。誰もが取り合ってくれない事に、ミトは酷く憤り声を荒げるばかり。
「とにかく、本当にこのままだと──」
「死なせとけよ」
 ミトの言葉を遮り放たれたフェイの冷たい声に、騒然としていた部屋の中は一瞬にして静まり返った。ゆっくりとアルベルトに視線を向けた男の黒い瞳は背筋が凍る程の怒りに満ちていて、逸らす事さえ許されない程に強い。
「おい糞犬」
 決して大きな訳ではないのに、フェイの嗄れ声が耳の奥に鈍く響いた。
「ここはな、地を這いつくばってでも、泥水を舐めてでも生きたいと思う人間の辿り着く場所だ。一歩道を踏み外した位でぎゃんぎゃん泣いて、自分が一番不幸だなんて甘えた考えに縋りたいなら勝手に死ねばいい」
 吐き捨てるように言うと、フェイは乱暴に部屋を出た。重苦しい沈黙だけが部屋を支配する。
「二人共、少し外してくれるか」
 その沈黙を破ったものはラフターだった。二人が素直に部屋を出ると、ラフターは自分の前をトントンと指先で指した。アルベルトは先程のフェイの迫力に圧倒されていたが故、言われた通りに席に着く。
「死にたいか?」
 フェイのあまりにも真っ直ぐで重い怒りを思うと何故か、頷く事が出来なかった。ラフターはその心を全く分かっているように微笑んだ。
「俺も死を望んだ事があった。丁度あいつと出会った頃だったな。同じように、死ねばいいと言われたよ」
 懐かしむように呟く顔は、どこか寂しい笑みを浮かべている。
「自ら死を望み、苦しみから解放される事は簡単だ。だがその苦しみの先に何かがあるかもしれない。何もなかったとしても、決して無駄ではなかったと、自分を笑える人生を生きた方が幸せだ。そう言ってくれたのは、フェイだった」
 ラフターはそう言って照れたように笑った。苦しみさえ笑える人生──フェイはそんな人生を生きているのだろうか。アルベルトがはその強さがとても羨ましく思えた。
「あいつは短気で不器用で、頭は回る癖にバカだ。それでも、そんなに悪い奴じゃない」
 それにはいまいち同意しかねたが、アルベルトの中で何かが再び芽生えた瞬間だった。

 奴隷の明日に希望などない。それでも生に縋る人々と短い間共に暮らし、その中でフェイが見出した何かを見落としていたのだろうか。それを知りたいと思った。疲弊し名前すら奪われ、それでも命に縋り足掻く奴隷の人々。その心を知れば少しでも救う事が出来るのだろうか。
 奇しくも憎むべきフェイのお陰でアルベルトは再び前を向く事ができた。生きて必ず愛する故郷を、愛する人々をこの目で見る。一目でもいい。その為に、この苦しみさえ力に変える。アルベルトは人買いの街ラブールで、奴隷としてでも生きる事を決めた。

 それからは運ばれて来たものを必死で胃に詰め込んだ。質素なパンと、皿一杯のスープ。決して豪勢とは言えないけれど、それすら嬉々として食べる奴隷達。何不自由なく生きて来た自分はこの人達と心を通わせる事が出来るのだろうか。その不安はあれど、同じ奴隷として生きる事を決めてからアルベルトの意識も少しだけ変わった気がした。
 相変わらず誰もアルベルトを見てはくれないし、話しかけても反応はない。それもまだタグを付けられてはいないから、そのせいなのかもしれないと思えた。フェイに抱かれる事も物凄く嫌だが、行為自体は大分慣れてきた。痛みも直ぐに引くようになった。だが、いつになったら仕込みと言うものは終わるのか、それだけが分からない。アルベルトが素直に聞けるとすれば──。
「仕込みがいつ終わるのか!?」
 縄に引かれ小屋を出た所で、ミトは眉を顰めて振り向いた。
「それは兄貴次第なんじゃないかな。そもそもブラックタグの仕込みは兄貴も初めてだし。それに、俺はブルータグ上がりだからブラックタグの仕込みはわかんないや」
「ブルータグ、上がり?」
 驚いたアルベルトに、ミトは嬉しそうに笑いかけて見せた。
「俺、元々ブルータグの奴隷だったんだ!」
 だから間違えてここに連れて来てしまった事に責任を感じ、自分の事を気にかけてくれていたのだろうか。そんなミトの事すら疎ましく思ってしまった自分が、アルベルトは酷く恥ずかしくなった。
 しかし奴隷から人買いへ──どう言うことなのだろう。普通ならば憎むべき存在であるフェイを、ミトは兄貴と呼んで何だかんだ慕っている。〝そんなに悪い奴じゃない〟ラフターのその言葉が頭を過ぎり、アルベルトは必死で掻き消した。
 階段を上り突き当たりの部屋。大嫌いな部屋でアルベルトを待つ、大っ嫌いな男。光を宿さない暗い瞳を、それでも真っ直ぐに見据える。一度決めたからにはもう、立ち止まる事は出来ない。
「教えてくれ。ブラックタグとして生きるには、私はどうしたらいい」
 部屋に入り二人きりになるなり投げられたアルベルトの問いに、フェイの顔が一瞬歪み、漆黒の瞳が揺れる。
「死にたいんじゃ、なかったのか」
「お前のように、最後には笑える人生を私も生きてみたいと思っただけだ」
 煙草を揉み消したフェイは、黙ったまま唯アルベルトを見詰める。長く重い沈黙はまるで耳鳴りがする程だった。
 しばらくの後フェイは小さく鼻で笑うと、ゆっくりとアルベルトの前に歩み寄る。
「王としてのプライドを捨てろ。それがある限り、お前に客を取らせる事は出来ない」
「そんな物とっくにお前が──」
「だったら何故堕ちない。お前は心の奥でまだフィリアの民が自分を待っていると思っている。王として、自国に帰り着く日を信じている。だから勃たねえし感じないんだよ」
 最後の下品な言い回しにムッとした瞬間、徐に顎を捉えたフェイの瞳の中で微かに揺れる深い悲しみを前に、アルベルト思わず飲まれてしまいそうになる。
「一週間後、俺は仕事でこの街を発つ。帰りにフィリアに寄ってやるから、その目でしっかり現実を受け止めろ」
「……え?」
 フェイの話しはいつも突拍子もなさすぎて、アルベルトは追い付くのに苦労する。それを察したのか、今度は小さな舌打ちが漏れた。
「お前も連れていってやるって言っているんだよ。各国を回るから、フィリアに着く頃には冬になるが。……お前の国に、雪は降るか?」
 今度は雪の話しかと呆れながらもアルベルトが小さく頷くと、フェイは微かに微笑んだ気がした。

 しばらく仕込みはしないと、その日はそのまま小屋へと帰された。フィリアに帰れる喜びと、フェイと旅をする不安。その両方が入り混じって、その晩アルベルトはなかなか眠る事が出来なかった。
 初めて心の底から嫌いだと感じた人買いのフェイ。その男の胸に秘めた思いが何であるか、その時のアルベルトは当然知らなかったし、何より、考えようともしなかった。
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