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十三章 分かれ道
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半年程前、シンの元に届いた一通の手紙。アルベルトが倒れた。迎えに来てほしい──そう短く書かれた手紙を見て、シンはやはりアルベルトが笑っていなかった事を知る。その手紙が届いてから一日を待たず、シンは誰が止めるのも聞かず、十二年ぶりにフィリアを離れ、夢中で馬を走らせた。
エルバントが王になって以来、国を出る事も、外から人が入る事も禁じられた。極稀に訪れる旅の行商さえ、エルバントは酷く嫌な顔をする程であった。しかし、エルバントは恐れているだけなのだ。大切なものが、全て壊れてしまう事を。だからこそシンはアルベルトを連れ帰り、この国を元の国に戻せるのではないかと考えた。そしてアルベルト自身も再び笑えるのではないかと。
三日三晩休まず走り続け漸く辿り着いた街。ラブールはどの国の支配下にもない、流れ者の街だそうだ。小さなアーチをくぐり街へと馬を進める。決して満ち足りた生活と言う訳ではなさそうなのに、人々の顔には生きる事の喜びが満ちていた。いい街だと、シンは素直に思った。そしてこの街は、まるでフェイが想い描いたような街。この街を見てフェイが何を目指し生きているのか、シンには分かる気がした。
道行く人に訪ねてみれば、その誰もが尊敬と憧れを込めて行き先を教えてくれる。人の上に立つべくして生まれたような、そんなフェイをシンは誇りに思った。
街のほぼ中心に位置した家の敷地に足を踏み入れると、軒先を箒で掃いていた少年がシンを見上げ少し驚いた顔をみせた。
「誰?」
「こんにちは。フェイ様に会わせてもらえるだろうか。シンと言えば分かってもらえる筈だ」
少年はフェイ様、と小さく呟いて慌てて二階建ての家の中へと入って行った。フェイさんぐらいにしておけば良かったかなとシンがぼんやり考えているうちに再び出て来た少年は、シンを家の中へと招き入れてくれた。
そのまま二階に上がり突き当たりの部屋に通される。そこにはフェイの他に二人、細目の男と丸眼鏡を掛けた目付きの鋭い男が何やら重々しい雰囲気を発して佇んでいた。深く下げた頭を上げフェイを見たら、本当に生きている事に今更ながら胸が高鳴る。
「……わんこを連れて行くの?」
少年の細い声が感動に浸っていたシンを現実に引き戻す。わんことは、多分アルベルトの事だが、とんでもないあだ名を付けられていると驚くシンを他所に、フェイが漸く口を開いた。
「ミト、心配しなくてもシンは俺の昔の知り合いだ。この男は誰よりも信頼出来る。こいつが迎えに来た事は、アルにとっても一番嬉しい事なんだ」
そう言って少年を諭すフェイは、その少年よりも酷く寂しそうに見える。
「ミトと言ったね。約束しよう。アル様の事を悲しませるような事はしない」
そう言って微笑みかけてみたが、ミトは不貞腐れたように視線を逸らした。アルベルトはどこへ行っても愛される。不思議な青年である。そしてそれが嬉しくて、思わずシンの顔はほころんだ。しかしこの部屋の誰一人そんな穏やかな感情は持っていなかった。
「俺は反対だ」
そう言ってシンを鋭く睨む丸眼鏡の男。それがアルベルトの事を思って向けられる感情ではない事は、初めて会ったシンにもよく分かった。ここの誰もがフェイを思うが故に、アルベルトが国に帰る事を拒んで見えた。
「余計な事を言うなラフター。それより少し二人で話しがしたい。おまえら皆下がってくれ」
フェイのその言葉で渋々出て行く三人を見送って、シンはフェイに視線を戻す。俯いたまま指先で煙草を巻き続けるその男は、やはり誰よりも苦悩に呑まれているようだ。アルベルトを手放す事がどうしようもなく辛いのだろう。その気持ちは十余年仕えたシンだからこそ良く分かる。そしてだからこそシンも、例え相手がフェイであろうが引く事は出来なかった。
「フェイ様、賭けをしませんか?」
「……賭け?」
驚きに満ちた瞳に微かに光る希望。やはり、フェイは惹かれてしまったのだ。あの青年が持つ不思議な魅力に。思わず何もかもを曝け出したくなるような、縋ってしまいそうになるような、深く暖かい強さに。
「目隠しをし、私の事を醜い者と言って下さい。もしもアル様が私に気付けば連れて帰ります。だが気付かなければ、貴方のものだ」
フェイは少しだけ考え込んだ後に、聞こえるか聞こえないか程の小さな声で呟いた。
「……出来ない」
視線を落とし、言葉は続く。
「あいつは自らブラックタグに身を落とした。俺が、そうさせた。それでも俺を知ろうとする。心から憎んではくれない。いつかそんなあいつに何かを望んでしまいそうなんだ。だからお願いだ、シン。俺の前からあいつを消してくれ。俺は、一人で生きていかなきゃならないんだ」
そう言うフェイは、国が滅びた時のままであった。何もかもを一人で背負うその強さを、シンはずっと尊敬し、そしていつも酷く虚しく感じていた。その心に寄り添う事が出来るものは、やはりアルベルトだけなのかもしれない。
「貴方も知っての通り、私はアル様の弟君に手を出しました。家臣としてあるまじき行為です。この背徳の道に幼い少年を引きずり込んだ。自分でも驚く程にその暗い快楽に溺れた。最早この心は醜く歪み、アル様の顔を見る事すら罪深く感じる。だから賭けたい。こんな私にも気付いてくれるのかを。この賭けは、私の為のものだ」
フェイが生まれた時から国が滅びるまで、シンはずっと側にいた。だからこそこう言えば引けない事ぐらい、承知の上であった。
長い沈黙の後、フェイは漸く小さく頷いた。少し一人にしてほしいと言われ、シンは丸眼鏡の男の部屋へと通された。そこにいた三人はまるで敵でも見るかのような目で押し黙ったままシンを見詰めている。この男達もきっと、アルベルトに賭けているのだろう。目的は違えど求める物は同じ。
いつでもアルベルトは一人一人の人に心を寄せてその痛みを理解する為に傷付く事を選ぶ。だからこそ誰もが、その儚い程に純潔な青年に思わず望んでしまうのだろう。
それから三日、漸くその時が訪れた。一つの部屋に通され、シンは一人ベッドに腰掛けアルベルトを待つ。シンの、アルベルトの、フェイの、そして取り巻く全ての人々の運命は、一体どう転ぶのかを案じながら。
扉が開き部屋へと踏み込んで数歩でよろけたその手を咄嗟に取った瞬間、涙を流しシンの名を呼んだアルベルト。二年前までフィリアの王だったその青年の首に、犬のような皮の首輪が鈍く浮かぶ。そして薄暗い部屋の明かりに光る、漆黒のタグ。予想も、フェイから聞いて覚悟もしていた。それでもやはり、衝撃的な光景である。アルベルトは二度と穢れのないあの笑顔を見せる事はないだろう。そう思うと、叫びたくなる程であった。
国に帰り全てを忘れさせてやりたい。その顔に色濃く浮かぶ悲しみは、きっとフィリアにいれば拭える筈だ。それは何の根拠もない、縋る様な思いだった。
しかしアルベルトはフィリアに帰ってから何故か常に酷く悲しい表情を浮かべていた。この国の異変に気付いたのだろうか。それでもきっと誰もが口を閉ざすだろう。アンナとレッドの事を、そして新たな王、エルバントの事を。知ればどれだけ彼が自分を責めてしまうのかを皆知っている。シンもまたエルバントの側を離れる事が出来なかった。この手で連れ帰りはしたが、その強さに甘え何もする事が出来なかった。無責任な事をした自分を恥じると共に、一体どうしたら良いのか最早分からなくなっていた。
そしてそれは、エルバントも同じだったようだ。皆の前では仲の良い兄弟を装ってはいるが、一度アルベルトが帰還した際にそれを拒絶したとフェイは言っていた。仲の良かった二人を、兄を心から慕っていたエルバントの心を歪めてしまったのは、シン自身でしかないのだ。
シンが書室から戻ると、エルバントは既に布団の中で眠りに落ちていた。その穏やかな寝顔にシンはほっと胸を撫で下ろす。
アルベルトが帰還して以来、エルバントは毎晩のようにシンを求めた。不安で押し潰されそうな顔で訴えられ、それでも、シンは答える事が出来なかった。何故なのか、その時シン自身それが分からなかった。ただ二人共を傷付けてしまいそうで、そして何より、強く想いをぶつけてくるエルバントから目を逸らしたかった。それがエルバントを更に追い詰める事など、容易に想像出来たのに。
眠る君主を残し城を出る。こんな風に一人で散歩をする事も随分と久しぶりである。秋の風はまだ暖かい。優しい風の匂いは、傷んだ胸には酷く染みた。
懐かしい思い出を呼び起こすかのように、シンはアルベルトと歩んで来た道を歩いた。まだ月光虫は飛んでいるだろうか。淡い光に見惚れる横顔が、好きだった。川面に細い指を潜らせる様も──それでももう、二人は二度と交わる事のない道を歩んでいた。
「フェイ──」
川面で小さく震える背中が呼んだものは、シンが救えなかった人の名であった。自分自身もっと衝撃を受けるかと思っていた。だがシンは心のどこかで安堵していた。これで良い。これで、エルバントと向き合う事が出来る。そう思ったシンは、アルベルトへの想いを漸く断ち切る事が出来た気がした。
この国の為に、人の為に心を減らし続けそれでも人と寄り添い傷付きながら生きるアルベルト。国を守れなかった罪を背負い、己への罰として孤独の道を歩むフェイ。シンが仕えた二人を覆う深い闇、それを払う事が出来るものは、やはり二人だけのような気がした。
そして突然訪れたミトのお陰で、アルベルトは遂にこの国に起きた歪みを知ってしまった。やはり崩れ出した物はもう、元には戻らない。シンはそれに背中を押される様に決意を固めた。
この国に起きた全てを知り、それでもフェイの側にいたいと願うのならば、誰にも止める事は出来ない。アルベルトは最早、この国に留まるべきではない。だからどうか、この国に起きた真実を告げ、傷付けてしまう事を許してほしい。抑え切れぬ不安に揺れるエルバントの事を、憎まないでほしい。そして何より、自分の為に生きてほしい。シンの心はアルベルトがこの国を再び己の足で旅立って行く迄、その願いに満ちていた。
夢にまでみたこの国の王の帰還。誰もが待ち望んでいた筈なのに、たった二年の溝はあまりにも深かった。笑う事の出来なくなったアルベルト。歪んでしまったフィリア。あの時直ぐに助けに行けばと自分を責め続けた日々。国が滅びてから後悔に呑み込まれて生きた十三年。だがこの国を去るアルベルトの顔を見たら、その全てが間違いではなかったと思えた。
シンの仕えた二人の青年。まるで違う強さを持った二人は互いに憧れ、そして惹かれあった。これはやはり、運命だったのかもしれない。振り返らずに行けと願いを込めて、シンは遠ざかる背中を見送った。
暫く呆然と二人が消えた方を見詰め、夕日がとっくに顔を隠しまだ冷たい風が頬を掠める頃、シンは漸く城へと戻った。その姿を見付け走り寄るエルバント。
「シン、一体どこへ行っていたんだ!」
その瞳に揺れる怒りにも似た不安が、シンには痛い程に伝わった。
「兄上が、今し方この国を発ちました」
驚きを隠せない様子に、この国の王はまだ子供なのだとシンは実感した。
「部屋へ。今日はもう休みましょう」
エルバントは本当は誰よりもアルベルトを求めていた筈だ。己が壊したその思いを、己以外の誰が治す事が出来るだろう。
部屋へと戻ってもエルバントは呆然としていた。全て兄様がいけない──その言葉が本心でない事位誰でも分かる。だからこそ、余計に傷付いているのだろう。
「僕は……やっぱり王になんかなれない」
「どうして?」
揺れる翡翠の瞳は、失意を色濃く映し出していた。
「僕は、兄様みたいになりたかった。皆に慕われて愛されて、いつもこの国に訪れる春のように美しく笑ってて──」
そう言って、エルバントはまた泣き出してしまった。
「貴方には、貴方の王の姿がある」
シンが諭すようその手を取ると、思いもよらぬ強い力で振り払われた。
「シンだって、本当は、兄様と行きたかった癖に!」
エルバントは本当にどうしようもない位に子供である。痛い程に感情をぶつけ、幼い故に直ぐに決め付け当たり散らす。
シンが宥めようと細い身体を抱き寄せるも、エルバントは腕の中で力任せに暴れ回った。
「今日はいやだっ!」
本当にどうして顔は似ていてもこんなにも性格が違うのだろうか。
「一体どうしたのですか」
シンが優しく問いかけても、エルバントは唯々泣き続けるばかり。シンは胸の内で覚悟を決め、月明かりに輝く細い金色の髪に指を通し、頬にそっと触れる。
「もう、こんな事はやめましょう。互いに傷付け合うだけだ」
驚きに見開かれた瞳がシンを見上げる。
「シンが、兄様の所に行くから、だから、不安だっただけで……!分かってる、兄様が生きてて、こんな事するのシンは辛いのも、だけど──」
エルバントの言葉を遮り、シンは震える唇に深く口付けた。
「貴方に、俺の何が分かる」
わがままで弱くて泣き虫で。今迄見てきた王の中で一番手が掛かる。年は一回りも違うし、その精神はあまりにも幼すぎる。それでも何時からだろうか。このどうしようもない王の事が、誰よりも愛しく思っていたのは。
「俺は貴方だけを見ている。もう自分の事を、兄上の代わりなどと思わないで下さい」
一回りも小さい体を純白のシーツに沈め、再び優しく塞いだ唇から漏れる苦し気な息遣い、首に回された細い腕が縋るように絡みつく事も、今迄は後ろめたいばかりだった。アルベルトを忘れきれない自分と、エルバントに溺れていく自分。その狭間でもがき苦しみながら互いに深い傷をその胸に刻み続けて来た。
愛する兄を突然失い、絶望に酔い痴れた民を率いていかなければならぬ重圧。甘やかされ、守られて生きてきたまだ十六歳の少年の混乱と苦悩は、計り知れぬ物である。そして何より、兄の代わりでも良い、その想いは、自身が兄を忘れる事が出来なかったから。エルバントもアルベルトと同じよう、シンとアルベルトを真に愛していた。その心を一体、誰が責められようか。
腕の中で涙を流し、ひたすらにシンの名を呼ぶ少年。その想いに答えるように、シンは何度もその名を呼んだ。二人はまた、罪を犯したのだ。けれどそれは、涙が滲む程に愛しい罪だ。
人生の分かれ道は、どちらを選んだとしても同じように後悔し、そしていつの日かこちらを選んで良かったと思える日が訪れていたのだろう。それをシンに教えたものは、その心が仕えた、三人の王であった。
エルバントが王になって以来、国を出る事も、外から人が入る事も禁じられた。極稀に訪れる旅の行商さえ、エルバントは酷く嫌な顔をする程であった。しかし、エルバントは恐れているだけなのだ。大切なものが、全て壊れてしまう事を。だからこそシンはアルベルトを連れ帰り、この国を元の国に戻せるのではないかと考えた。そしてアルベルト自身も再び笑えるのではないかと。
三日三晩休まず走り続け漸く辿り着いた街。ラブールはどの国の支配下にもない、流れ者の街だそうだ。小さなアーチをくぐり街へと馬を進める。決して満ち足りた生活と言う訳ではなさそうなのに、人々の顔には生きる事の喜びが満ちていた。いい街だと、シンは素直に思った。そしてこの街は、まるでフェイが想い描いたような街。この街を見てフェイが何を目指し生きているのか、シンには分かる気がした。
道行く人に訪ねてみれば、その誰もが尊敬と憧れを込めて行き先を教えてくれる。人の上に立つべくして生まれたような、そんなフェイをシンは誇りに思った。
街のほぼ中心に位置した家の敷地に足を踏み入れると、軒先を箒で掃いていた少年がシンを見上げ少し驚いた顔をみせた。
「誰?」
「こんにちは。フェイ様に会わせてもらえるだろうか。シンと言えば分かってもらえる筈だ」
少年はフェイ様、と小さく呟いて慌てて二階建ての家の中へと入って行った。フェイさんぐらいにしておけば良かったかなとシンがぼんやり考えているうちに再び出て来た少年は、シンを家の中へと招き入れてくれた。
そのまま二階に上がり突き当たりの部屋に通される。そこにはフェイの他に二人、細目の男と丸眼鏡を掛けた目付きの鋭い男が何やら重々しい雰囲気を発して佇んでいた。深く下げた頭を上げフェイを見たら、本当に生きている事に今更ながら胸が高鳴る。
「……わんこを連れて行くの?」
少年の細い声が感動に浸っていたシンを現実に引き戻す。わんことは、多分アルベルトの事だが、とんでもないあだ名を付けられていると驚くシンを他所に、フェイが漸く口を開いた。
「ミト、心配しなくてもシンは俺の昔の知り合いだ。この男は誰よりも信頼出来る。こいつが迎えに来た事は、アルにとっても一番嬉しい事なんだ」
そう言って少年を諭すフェイは、その少年よりも酷く寂しそうに見える。
「ミトと言ったね。約束しよう。アル様の事を悲しませるような事はしない」
そう言って微笑みかけてみたが、ミトは不貞腐れたように視線を逸らした。アルベルトはどこへ行っても愛される。不思議な青年である。そしてそれが嬉しくて、思わずシンの顔はほころんだ。しかしこの部屋の誰一人そんな穏やかな感情は持っていなかった。
「俺は反対だ」
そう言ってシンを鋭く睨む丸眼鏡の男。それがアルベルトの事を思って向けられる感情ではない事は、初めて会ったシンにもよく分かった。ここの誰もがフェイを思うが故に、アルベルトが国に帰る事を拒んで見えた。
「余計な事を言うなラフター。それより少し二人で話しがしたい。おまえら皆下がってくれ」
フェイのその言葉で渋々出て行く三人を見送って、シンはフェイに視線を戻す。俯いたまま指先で煙草を巻き続けるその男は、やはり誰よりも苦悩に呑まれているようだ。アルベルトを手放す事がどうしようもなく辛いのだろう。その気持ちは十余年仕えたシンだからこそ良く分かる。そしてだからこそシンも、例え相手がフェイであろうが引く事は出来なかった。
「フェイ様、賭けをしませんか?」
「……賭け?」
驚きに満ちた瞳に微かに光る希望。やはり、フェイは惹かれてしまったのだ。あの青年が持つ不思議な魅力に。思わず何もかもを曝け出したくなるような、縋ってしまいそうになるような、深く暖かい強さに。
「目隠しをし、私の事を醜い者と言って下さい。もしもアル様が私に気付けば連れて帰ります。だが気付かなければ、貴方のものだ」
フェイは少しだけ考え込んだ後に、聞こえるか聞こえないか程の小さな声で呟いた。
「……出来ない」
視線を落とし、言葉は続く。
「あいつは自らブラックタグに身を落とした。俺が、そうさせた。それでも俺を知ろうとする。心から憎んではくれない。いつかそんなあいつに何かを望んでしまいそうなんだ。だからお願いだ、シン。俺の前からあいつを消してくれ。俺は、一人で生きていかなきゃならないんだ」
そう言うフェイは、国が滅びた時のままであった。何もかもを一人で背負うその強さを、シンはずっと尊敬し、そしていつも酷く虚しく感じていた。その心に寄り添う事が出来るものは、やはりアルベルトだけなのかもしれない。
「貴方も知っての通り、私はアル様の弟君に手を出しました。家臣としてあるまじき行為です。この背徳の道に幼い少年を引きずり込んだ。自分でも驚く程にその暗い快楽に溺れた。最早この心は醜く歪み、アル様の顔を見る事すら罪深く感じる。だから賭けたい。こんな私にも気付いてくれるのかを。この賭けは、私の為のものだ」
フェイが生まれた時から国が滅びるまで、シンはずっと側にいた。だからこそこう言えば引けない事ぐらい、承知の上であった。
長い沈黙の後、フェイは漸く小さく頷いた。少し一人にしてほしいと言われ、シンは丸眼鏡の男の部屋へと通された。そこにいた三人はまるで敵でも見るかのような目で押し黙ったままシンを見詰めている。この男達もきっと、アルベルトに賭けているのだろう。目的は違えど求める物は同じ。
いつでもアルベルトは一人一人の人に心を寄せてその痛みを理解する為に傷付く事を選ぶ。だからこそ誰もが、その儚い程に純潔な青年に思わず望んでしまうのだろう。
それから三日、漸くその時が訪れた。一つの部屋に通され、シンは一人ベッドに腰掛けアルベルトを待つ。シンの、アルベルトの、フェイの、そして取り巻く全ての人々の運命は、一体どう転ぶのかを案じながら。
扉が開き部屋へと踏み込んで数歩でよろけたその手を咄嗟に取った瞬間、涙を流しシンの名を呼んだアルベルト。二年前までフィリアの王だったその青年の首に、犬のような皮の首輪が鈍く浮かぶ。そして薄暗い部屋の明かりに光る、漆黒のタグ。予想も、フェイから聞いて覚悟もしていた。それでもやはり、衝撃的な光景である。アルベルトは二度と穢れのないあの笑顔を見せる事はないだろう。そう思うと、叫びたくなる程であった。
国に帰り全てを忘れさせてやりたい。その顔に色濃く浮かぶ悲しみは、きっとフィリアにいれば拭える筈だ。それは何の根拠もない、縋る様な思いだった。
しかしアルベルトはフィリアに帰ってから何故か常に酷く悲しい表情を浮かべていた。この国の異変に気付いたのだろうか。それでもきっと誰もが口を閉ざすだろう。アンナとレッドの事を、そして新たな王、エルバントの事を。知ればどれだけ彼が自分を責めてしまうのかを皆知っている。シンもまたエルバントの側を離れる事が出来なかった。この手で連れ帰りはしたが、その強さに甘え何もする事が出来なかった。無責任な事をした自分を恥じると共に、一体どうしたら良いのか最早分からなくなっていた。
そしてそれは、エルバントも同じだったようだ。皆の前では仲の良い兄弟を装ってはいるが、一度アルベルトが帰還した際にそれを拒絶したとフェイは言っていた。仲の良かった二人を、兄を心から慕っていたエルバントの心を歪めてしまったのは、シン自身でしかないのだ。
シンが書室から戻ると、エルバントは既に布団の中で眠りに落ちていた。その穏やかな寝顔にシンはほっと胸を撫で下ろす。
アルベルトが帰還して以来、エルバントは毎晩のようにシンを求めた。不安で押し潰されそうな顔で訴えられ、それでも、シンは答える事が出来なかった。何故なのか、その時シン自身それが分からなかった。ただ二人共を傷付けてしまいそうで、そして何より、強く想いをぶつけてくるエルバントから目を逸らしたかった。それがエルバントを更に追い詰める事など、容易に想像出来たのに。
眠る君主を残し城を出る。こんな風に一人で散歩をする事も随分と久しぶりである。秋の風はまだ暖かい。優しい風の匂いは、傷んだ胸には酷く染みた。
懐かしい思い出を呼び起こすかのように、シンはアルベルトと歩んで来た道を歩いた。まだ月光虫は飛んでいるだろうか。淡い光に見惚れる横顔が、好きだった。川面に細い指を潜らせる様も──それでももう、二人は二度と交わる事のない道を歩んでいた。
「フェイ──」
川面で小さく震える背中が呼んだものは、シンが救えなかった人の名であった。自分自身もっと衝撃を受けるかと思っていた。だがシンは心のどこかで安堵していた。これで良い。これで、エルバントと向き合う事が出来る。そう思ったシンは、アルベルトへの想いを漸く断ち切る事が出来た気がした。
この国の為に、人の為に心を減らし続けそれでも人と寄り添い傷付きながら生きるアルベルト。国を守れなかった罪を背負い、己への罰として孤独の道を歩むフェイ。シンが仕えた二人を覆う深い闇、それを払う事が出来るものは、やはり二人だけのような気がした。
そして突然訪れたミトのお陰で、アルベルトは遂にこの国に起きた歪みを知ってしまった。やはり崩れ出した物はもう、元には戻らない。シンはそれに背中を押される様に決意を固めた。
この国に起きた全てを知り、それでもフェイの側にいたいと願うのならば、誰にも止める事は出来ない。アルベルトは最早、この国に留まるべきではない。だからどうか、この国に起きた真実を告げ、傷付けてしまう事を許してほしい。抑え切れぬ不安に揺れるエルバントの事を、憎まないでほしい。そして何より、自分の為に生きてほしい。シンの心はアルベルトがこの国を再び己の足で旅立って行く迄、その願いに満ちていた。
夢にまでみたこの国の王の帰還。誰もが待ち望んでいた筈なのに、たった二年の溝はあまりにも深かった。笑う事の出来なくなったアルベルト。歪んでしまったフィリア。あの時直ぐに助けに行けばと自分を責め続けた日々。国が滅びてから後悔に呑み込まれて生きた十三年。だがこの国を去るアルベルトの顔を見たら、その全てが間違いではなかったと思えた。
シンの仕えた二人の青年。まるで違う強さを持った二人は互いに憧れ、そして惹かれあった。これはやはり、運命だったのかもしれない。振り返らずに行けと願いを込めて、シンは遠ざかる背中を見送った。
暫く呆然と二人が消えた方を見詰め、夕日がとっくに顔を隠しまだ冷たい風が頬を掠める頃、シンは漸く城へと戻った。その姿を見付け走り寄るエルバント。
「シン、一体どこへ行っていたんだ!」
その瞳に揺れる怒りにも似た不安が、シンには痛い程に伝わった。
「兄上が、今し方この国を発ちました」
驚きを隠せない様子に、この国の王はまだ子供なのだとシンは実感した。
「部屋へ。今日はもう休みましょう」
エルバントは本当は誰よりもアルベルトを求めていた筈だ。己が壊したその思いを、己以外の誰が治す事が出来るだろう。
部屋へと戻ってもエルバントは呆然としていた。全て兄様がいけない──その言葉が本心でない事位誰でも分かる。だからこそ、余計に傷付いているのだろう。
「僕は……やっぱり王になんかなれない」
「どうして?」
揺れる翡翠の瞳は、失意を色濃く映し出していた。
「僕は、兄様みたいになりたかった。皆に慕われて愛されて、いつもこの国に訪れる春のように美しく笑ってて──」
そう言って、エルバントはまた泣き出してしまった。
「貴方には、貴方の王の姿がある」
シンが諭すようその手を取ると、思いもよらぬ強い力で振り払われた。
「シンだって、本当は、兄様と行きたかった癖に!」
エルバントは本当にどうしようもない位に子供である。痛い程に感情をぶつけ、幼い故に直ぐに決め付け当たり散らす。
シンが宥めようと細い身体を抱き寄せるも、エルバントは腕の中で力任せに暴れ回った。
「今日はいやだっ!」
本当にどうして顔は似ていてもこんなにも性格が違うのだろうか。
「一体どうしたのですか」
シンが優しく問いかけても、エルバントは唯々泣き続けるばかり。シンは胸の内で覚悟を決め、月明かりに輝く細い金色の髪に指を通し、頬にそっと触れる。
「もう、こんな事はやめましょう。互いに傷付け合うだけだ」
驚きに見開かれた瞳がシンを見上げる。
「シンが、兄様の所に行くから、だから、不安だっただけで……!分かってる、兄様が生きてて、こんな事するのシンは辛いのも、だけど──」
エルバントの言葉を遮り、シンは震える唇に深く口付けた。
「貴方に、俺の何が分かる」
わがままで弱くて泣き虫で。今迄見てきた王の中で一番手が掛かる。年は一回りも違うし、その精神はあまりにも幼すぎる。それでも何時からだろうか。このどうしようもない王の事が、誰よりも愛しく思っていたのは。
「俺は貴方だけを見ている。もう自分の事を、兄上の代わりなどと思わないで下さい」
一回りも小さい体を純白のシーツに沈め、再び優しく塞いだ唇から漏れる苦し気な息遣い、首に回された細い腕が縋るように絡みつく事も、今迄は後ろめたいばかりだった。アルベルトを忘れきれない自分と、エルバントに溺れていく自分。その狭間でもがき苦しみながら互いに深い傷をその胸に刻み続けて来た。
愛する兄を突然失い、絶望に酔い痴れた民を率いていかなければならぬ重圧。甘やかされ、守られて生きてきたまだ十六歳の少年の混乱と苦悩は、計り知れぬ物である。そして何より、兄の代わりでも良い、その想いは、自身が兄を忘れる事が出来なかったから。エルバントもアルベルトと同じよう、シンとアルベルトを真に愛していた。その心を一体、誰が責められようか。
腕の中で涙を流し、ひたすらにシンの名を呼ぶ少年。その想いに答えるように、シンは何度もその名を呼んだ。二人はまた、罪を犯したのだ。けれどそれは、涙が滲む程に愛しい罪だ。
人生の分かれ道は、どちらを選んだとしても同じように後悔し、そしていつの日かこちらを選んで良かったと思える日が訪れていたのだろう。それをシンに教えたものは、その心が仕えた、三人の王であった。
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桐矢は放置していたが、親友の八田荒政(やたあらまさ)に指摘されてようやく異常さに気づく。それは桐矢に惚れた滅びかけの神が原因だった。
滅びかけの神は、荒政によって祓われた。だが、話はそれだけでは終わらない。
桐矢は己の想いと荒政の想いに向き合い、選択を迫られることになるのだった。
あらすじ終わり。
後ほど、他サイトにも掲載予定です。
僕の、しあわせ辺境暮らし
* ゆるゆ
BL
雪のなか僕を、ひろってくれたのは、やさしい男の子でした。
ふたりの、しあわせな辺境暮らし、はじまります!
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
うちの鬼上司が僕だけに甘い理由(わけ)
藤吉めぐみ
BL
匠が勤める建築デザイン事務所には、洗練された見た目と完璧な仕事で社員誰もが憧れる一流デザイナーの克彦がいる。しかしとにかく仕事に厳しい姿に、陰で『鬼上司』と呼ばれていた。
そんな克彦が家に帰ると甘く変わることを知っているのは、同棲している恋人の匠だけだった。
けれどこの関係の始まりはお互いに惹かれ合って始めたものではない。
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従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
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高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
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居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
悪役令息シャルル様はドSな家から脱出したい
椿
BL
ドSな両親から生まれ、使用人がほぼ全員ドMなせいで、本人に特殊な嗜好はないにも関わらずSの振る舞いが発作のように出てしまう(不本意)シャルル。
その悪癖を正しく自覚し、学園でも息を潜めるように過ごしていた彼だが、ひょんなことからみんなのアイドルことミシェル(ドM)に懐かれてしまい、ついつい出てしまう暴言に周囲からの勘違いは加速。婚約者である王子の二コラにも「甘えるな」と冷たく突き放され、「このままなら婚約を破棄する」と言われてしまって……。
婚約破棄は…それだけは困る!!王子との、ニコラとの結婚だけが、俺があのドSな実家から安全に抜け出すことができる唯一の希望なのに!!
婚約破棄、もとい安全な家出計画の破綻を回避するために、SとかMとかに囲まれてる悪役令息(勘違い)受けが頑張る話。
攻めズ
ノーマルなクール王子
ドMぶりっ子
ドS従者
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Sムーブに悩むツッコミぼっち受け
作者はSMについて無知です。温かい目で見てください。
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