King of the slave

鴻上縞

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十五章 沈みゆく太陽

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 これより先は、見てはならぬ物語。見ずとも進める物語。知れば後悔の道を、知らねば変わらぬ道を。どちらを選ぶかは、己次第。
 滅びの国に生まれ、呪われた生を受け、それでも少年は一人、地獄を生きる──。

 穏やかな春の昼下がり。国中の人々が天に向かい祈りを捧げる中、大きな産声が雲一つない空に響き渡った。西の大国リーハに、待望の王子が誕生したのだ。王子はこの国の古い言葉で『太陽』を意味する『フェイ』と名付けられた。誰もが待ち侘びた王子の誕生に歓喜し、数日に渡り祭りが行われた。しかしその祭りのさなか、王妃が幽閉された事は誰一人知る由もない。
 翌年第二子である王女ファンが産まれ、再び国は歓喜に湧いた。二人の子宝に恵まれ幸せの絶頂とも思われたが、王妃は幽閉された高い塔から身を投げ、自らその短い人生の幕を閉じた。側近の者達はその最期に狂気すら覚えたと言う。
 私は地獄に我が子を落とした。この手で殺せなかった事を、泣き叫ぶその姿から逃げる事を、許さないで欲しい──それが王妃の遺言だった。美しく気高い彼女のそのあまりにも不可解で不吉な死は、その後病死として伝えられた。

 リーハは日々その領地の拡大の為に戦を繰り返す国であった。西のリーハと言えば誰もが恐れる程に強く大きな国。その主柱を担うのが、最強と謳われた王族直属の騎馬隊であり、その隊長を務めていた男の名を、ロン・グンバクと言った。誰よりも勇敢で実直なその男は、リーハの王の唯一信頼を勝ち取った男である。その信頼故に、まだ幼い王女とロンの息子シンは生を受けたその日から許嫁とされた。
 この国の王フェン・リンメイは、力のみを信じ生きる男である。あまりにも警戒心が強く、異常な迄の人間不信。少しでも疑わしい動きをすれば追放や拷問、酷ければ処刑される事もあった。誰もが恐れ、平伏すような王。それがフェイの父であり、リーハの国王であった。不興を買わないようにと人々は二人の子に、特に次の王であるフェイには、何か特別な用がない限り近付く事はしなかった。
 それでも王子は真っ直ぐに、まるでその名の通り太陽のように暖かく優しいに少年に育って行った。 

 月日が流れ、フェイは十歳の誕生日を迎えた。いつからかこの国の王子は、城の裏手に位置する馬屋に入り浸るようになっていた。
「おはよう、皆。今日は俺の誕生日なんだよ」
 その日も大好きな馬の側でその大きな身体を撫でながら、そう言って少し寂しそうに笑いかけている。人々は今日も戦の準備で大忙し。いつでも勉学以外話しかけてくれる人もない。実の父ですらまるで興味がないように、フェイに言葉をかけた事はない。
 母の顔を知らず、父にも愛されず、誰もが恐れ近付かないフェイにとって、頬を寄せてくれる馬だけがその心を支えてくれる唯一の存在であった。
「ああ、フェイ様ここにいましたか」
 不意にそう声を掛けたものは、この国の騎馬隊の隊長、鬼神と字名されたロンである。深い漆黒の髪と瞳。凛々しく結ばれた口元に立派な髭を蓄え、それでも瞳を細めて柔らかく微笑む姿は、まるでそんな恐ろしい男には見えない。その後ろで深く頭を下げた儚い程に美麗な顔立ちの少年が、ロンの愛息子であり、王女の許嫁とされた次期騎馬隊隊長シンである。
「十歳のお誕生日をお祝いしようと随分探したのですよ」
 そう言って膝を付いたロンの瞳は、やはり深い優しさと愛情に満ちている。どの家臣ともこの親子だけは違った。それでもフェイはそんな二人が王の不興を買わないように、いつも避けて過ごしていた。
「フェイ様は本当に馬がお好きですね。そうだ、気に入ったものを一頭差し上げましょう」
「……いいの?」
 それなのにどうして、この二人は優しくしてくれるのだろう。幼いフェイには不思議でたまらなかった。ロンと目を合わせると、シンは何頭かの馬を引いて呆然とするフェイの前に並べて見せる。
「フェイ様、どの馬が良いですか?」
 春の陽射しの中でふわりと笑う少年は、年は四つしか変わらないのに酷く大人びて見えた。
「……この馬」
 フェイが指した馬は、栗毛の小柄な馬であった。
「馬五郎ですね、これは一番勇敢な馬です。やはり見る目が違う」
 そう言うとロンとシンは目を合わせて微笑んだ。
 父を尊敬する息子と、息子を愛する父。それはまるでフェイの理想の親子像であった。父もいつか自分にこんな瞳を向けてくれる日が来るのだろうか。フェイはいつもこの親子を見てそんな事を思う。

 そんなフェイの誕生日の翌々日。リーハは近隣の国と戦を始めた。小国ではあるが深い谷の狭間にある国で、そう簡単に制圧する事は難しそうだと何人かの家臣が話しているのを聞いた。
 朝食を食べながらぼんやりとその方角を眺めていると、だだっ広いテーブルの向かいで食事をしていた妹のファンが思い出したように呟いた。
「お兄様、お馬をもらったのですって?」
「そうだよ、どうして?」
 ファンは薄く色付いた頬を少し膨らませ、軽く拗ねた顔を見せる。
「シンが初陣の日も、お馬をもらったと言っていたわ。お兄様も戦に行ってしまうの?」
 戦──その言葉にフェイは小さく震えた。昨日までいた人が、昨日まであった国が一瞬でこの世から消えてしまう。それを幼心に酷く恐ろしい物に思っていた。
「俺は……父上の子だから」
 それでも初陣を飾れば父は自分の事を見てくれるのではないか。戦を知らないフェイの中には、そんな縋るような思いもあった。

 それから三ヶ月が経った夏の日。フェイは初めて実の父親に呼び出された。浮き立つ気持ちを必死で抑えその眼前に立つと、その光のない瞳に身体の底から震えが起きた。実の父ながら恐ろしい男だと本能が告げる。
「まるで剣術が上達しないと報告が上がっている。馬だけは上手いそうだが、そんな事ではこの国の王子として恥だ。次の戦には連れて行く。私に恥をかかせるような事があれば、迷う事なくこの国からも追放するぞ。覚悟しておく事だ」
 王は低く冷たい声で突き放すように言った。それが脅しでない事はその目をみれば分かる。
「はい……」
 フェイは深く頭を下げて部屋を後にし、そのまま馬屋へと足を進めた。馬屋に辿り着くと夏の鋭い陽射しの中、一心に馬の世話をする背中が目に入る。
「シン……」
 シンはその声に振り向き、いつものように深く頭を下げて優しい微笑みを向ける。
「馬五郎は如何ですか。いい馬でしょう」
 栗毛の馬に目を向けた後フェイは素直に頷いた。その仕草にまた微笑むとシンは再び手を進める。
 まだ十四歳ながら、この少年の評価は誰に聞いても最高の物だ。父ロンすらも軽々越えて行くとすら言われている。自身が父に愛されない理由は、シンのように才もなく、頭も良くないからだろうか。どうしたら愛されるのか。フェイはいつもそんな事を考える。
「……ご気分でも悪いのですか?」
 あまりにも思い詰めた表情に不安を覚え、シンは腰を屈めてその顔を伺った。
「俺も、次の戦に行く事になった」
 そう言って俯いたフェイの顔には、戦に対する怯えの他に、何か言いようの無い寂しさが浮かんで見えた。ロンに聞いてはいたが本当に王は我が子に愛情などないのかと、シンは心の底でそう思った。
 僅か十歳で王子が戦に赴くなど命を落としたとて不思議ではない。ましてや剣術があまり好きではないこの王子が、今戦に出たとて役に立つどころかかえって足手まといである。早くに母を亡くし、父にまで目を向けてもらえず、普段顔には出さずとも、シンはその心の寂しさを感じていた。
「……戦とは、どのような物だ?」
 若き王子の真っ直ぐな質問に、シンは眉を顰めその顔を見詰めた。
「私と貴方では立場が違います。戦に対する向き合い方も、全く違う物なのですよ」
 少し難しいかと思ったが、その言葉にフェイの瞳が僅かに揺れた。
「……そうか」
 そう小さく呟いた王子の瞳を見て、シンは何故かこの少年は良い王になると感じていた。
「私が貴方のお側にいます。どうぞご安心下さい」
 フェイはその言葉の深い意味など分からなくとも、初めて自分を見てくれる存在が心の底から嬉しかった。二人は顔を合わせて微笑み合い互いの心の内でこの笑顔を守ろうと誓った。

 やがてフェイの初陣の時が訪れた。相手はリーハと長年戦を繰り返していた国、西北の大国メガリアである。その時の戦はかなりの激戦になると予想され、国中の兵が神経を逆立てていた。何万の兵が天に向かい思い思いに咆哮する様はあまりにも狂気に満ちていて、そうしなければ戦地に赴く事の恐怖に打ち勝つ事が出来ないのだとフェイは知った。その中で不気味な程に落ち着いているのがロン率いる騎馬隊だった。
「そろそろ出るぞ」
 その王の言葉に騎馬隊が馬を走らせる。
「シン、フェイ様を頼んだぞ」
 青毛の馬に乗ったロンはシンに向かいその強い瞳に力を込めて声を掛けると、騎馬隊に続き王と共に走り去って行った。こんな時でも王は息子に声など掛けはしない。その厳しい背中に頭を下げシンは傍で固まっている小さな王子の背を叩く。
「私達も参りましょう」
 小さく頷いた横顔は、この異様な空気に完全に呑まれていた。その表情に不安を覚えつつ、シンもまた馬を走らせた。

 その時の戦は想像を超える程に苦戦をしいられた。騎馬隊の機動力を殺す為に、メガリアは数々の罠をし掛けていて、その事に短気な王は酷く頭に血が昇り普段より精彩を欠いている事は目に見えて分かる。それでも怯まずその中で的確に進んで行ける理由は、そんな王の性格を知り尽くし、常に冷静に物事を見ているロンがいたからだ。
 そもそも一国の王が最前線で戦うなど前代未聞だと散々非難されてきたが、ロンは必ず守り抜くと言い放ち、その男の放つ圧倒的な力を前に誰一人抗う事は出来なかった。
 だがロンの力で何とか前へと進んではいるものの、前衛の混乱は後続にまで広まっていた。落とし穴のような稚拙な罠でさえ戦を前に殺気立った人々は普段よりも余計に興奮状態に陥る。後続の先頭を行くシンが必死で抑えようとするも、やはりまだ十四歳の彼にこの混乱を抑えるだけの力は無く、罠を一つ一つかわしながら進む程心を落ち着いていられる筈もなかった。戦は更に混迷を極め次々と仲間が倒れて行く。
 小さな王子を気にしながら戦わなくてはならないシンは、思うように立ち回れず自分の腕の未熟さに苛立ち始めていた。フェイはフェイで、初めて見る戦、そして人がゴミのように死んで行く光景を前に止めど無く吐き続けていた。それでも誰もが手を差し伸べる事の出来ない戦場。その恐怖に怯え、瞳からは涙ばかり流し、戦う意思すら感じられない王子。それでも目を逸らさずに惨劇を見詰める瞳には、悲しみと深い罪の意識が浮かんで見えた。

 結局リーハはその戦から一時敗退し、再び両国は停戦状態となった。その数日後呼び出されたフェイは、あまりにも恐ろしい顔を見せる父に心の底から恐怖した。
「この恥晒しが。兵の話しによれば何もしなかったらしいな。何か言ったらどうだ!」
 突然の怒声に俯いてしまったフェイを見て、傍にいたロンが慌てて庇うように止めに入る。
「お言葉ですが、フェイ様はまだ若すぎます。まだ戦とは何かも知らない。機を間違えれば壊れてしまいます」
「それでも構わん」
 それにはさすがのロンすら言葉を失くした。愛情など微塵も感じられない。それどころか王は、いつか我が身を脅かすのではないかと疑心暗鬼に駆られ、まだこんなにも幼い王子を恐れている。そう気付いてしまったからだ。
 フェイは以来、空を見詰めただ呆然とするようになった。勉学も武術もせずに馬屋で座り込み、誰が話し掛けても上の空で、心配したロンも言葉を掛けてはいたが反応は薄いままである。

 そんな日々が二ヶ月経ち、どうにかしなくてはと、シンは馬で散歩に誘い出した。
「秋のリーハは美しいのですよ」
 そう言って微笑み掛けてみても、フェイは馬の上でぼんやりと空を眺めるばかり。しかしシンは気付いていた。その瞳が、光を失ってはいない事を。それどころか何故か、今迄よりも強く揺れてみえた。
 広い国を見下ろす高台に登ると国を見下ろすフェイのその瞳は、一層に強く輝いた。
「……フェイ様、その心は今何を思っておられるのですか」
 おこがましい事とは知りつつ、何故そんなにも強い輝きを宿すのか、シンは単純に知りたかった。そんなシンに視線を向ける事もなく、フェイは小さな声で言葉を紡いだ。
「俺は戦が嫌いだ。戦をする父上が嫌いだ。だから、王になる。争いのない国を作る為に」
 これは聞いてはならない事だと思いつつも、シンはその幼い王子の中に宿った父親との決別というあまりにも悲しい決意から目を逸らす事が出来なかった。
「俺は、あいつの思い通りには生きない」
 一際強く放たれた言葉から滲んだものは、深い憎しみと悲しみだった。それでもその裏でまだ父の愛を信じ、求めている様にも思えた。
「私は先祖より王家に仕える身です。いつか貴方が王になる日には、私がいつもお側におります」
 少し照れたように笑うフェイを見て、王家に生まれたが故に、馬が好きで、争いが嫌いな心優しい少年が、誰にも愛されず戦に傷付き心を窶す姿はあまりにもやるせ無くて、自分だけでもその孤独な心に寄り添おうと、シンは強くそう思った。

 しかしこの国に生まれたが故の悲劇は、そんな生易しいものではなかった。それは僅か二年後。フェイが十二歳となった夏の日に起こった。何故王妃が身を投げたか。そして何故、我が子を殺せなかった事を死の直前まで悔いていたのか。その時迄誰一人知る者はいなかった。

 初陣以来、フェイは頑なに戦に出る事を拒んだ。普段ならば即追放とされるのにも関わらず、王は何故かそれを容認した。誰もがその行動に、本当は息子に対し愛情があるものと勘違いしていた。フェイや、ロンでさえもそう思っていたのだ。しかしその心が何を思っていたのか。気付いた時には既に何もかもが遅すぎた。
 とある晴れた日。フェイは捕虜として、長年争いを続けていたメガリアへ献上されたのだった。

 城の外れに建てられた古い塔。その中でフェイは一人絶望に打ち拉がれていた。大袈裟なまでに手足と首に施された冷たい鉄鎖の感触が、刺すように痛みを与える。
 日に何度も訪れるメガリアの民や兵達。その誰もがリーハを憎み、王家の血筋を持つフェイに唾を吐きかけ、罵倒して行く。その中でフェイは少しでも信じた自分を呪い、暗闇でひたすらに父を憎んだ。そしてそれと共に、リンメイとして生まれた罪を幼いながらに感じていた。
 父を殺されたと言う少年の拳。婚約したばかりの男を奪われたと狂ったように泣き喚く女の掌。妻と子を同時に亡くした男の重い蹴りの痛み。その全て先祖からの罪なのだろうと、ただひたすらに耐える日々が続いていた。
 そんな生活の中でもたった一人、フェイの身辺の世話をしてくれる青年は、いつも傷の手当をし、血に汚れた身体を優しく拭ってくれた。
「痛みますか」
「いや……」
 そう言うと青年は優しく微笑み掛けてくれる。
「バカな人ですね。貴方が犯した罪ではないのに。一人で背負う必要なんか──」
 そう言って、青年は手を止めた。
「……泣いているのですか?」
 この痛みは罰だと言い聞かせてはいたものの、やはり幼い心はもう見るも無残に砕け散っていた。痛んだ心にその青年の優しさはあまりにも染みる物で、フェイはここに来て初めて涙を流した。
「まだ十二歳だと言うのに、強い人だ。その強さが、仇となるのですよ」
 青年が静かに去った部屋の中で訳も分からず泣き続ける。悲しいでもなく悔しいでもなく、それでも泣かずにはいられない程、虚しかった。

 それから暫く経つと、漸くメガリアの民も飽きたのか、徐々に塔に訪れる者は減っていた。二ヶ月も経つ頃には最早青年以外古びた塔には近付かなくなっていた。
「良かったですね。こちらも手が減って楽ですよ」
 そう言って笑う青年につられ、フェイも少しだけ笑って見せた。色々な話しをして二人は少しずつ心を通わせて行った筈だった。
「そういえば、名前は?」
「今更、どうでもいいじゃないですか」
 一瞬手を止めた青年の横顔に、酷く暗い影を感じフェイは思わず息を呑む。確かに二ヶ月世話になって名前も知らないなんて失礼だったか。フェイにしてみれば、それ以外思い付かなかった。
 そんなある真夜中の事。扉の鍵を開ける音に目を開くと、揺れる蝋燭の灯りが目に入る。
「……誰?」
 入口で立ち尽くすその人物にフェイは思わず身体を強張らせた。
「眠る事ができるようになったのですね」
 その声はいつもの青年のものだった。
「ああ、おまえのお陰で──」
 その答えに、青年は楽しそうに笑い声を上げた。笑うような事を言ったつもりはないと、フェイは何か嫌な物を感じていた。蝋燭の揺らめきの中で微かにその表情が明らかになると、その特徴の無い顔を彩っていたものは、色の無い笑みだった。目は笑っていないのに、口元だけで笑顔を作るその青年に恐怖すら覚えてしまう程だった。
「リーハに滅ぼされた国の生き残りは、何になったと思う?」
 一歩、一歩と確かめるように近付く青年を前に、フェイはただ震え、この青年の内に潜むあまりにも深い憎しみを感じていた。目の前まで迫った青年の顔にはもう、作られた笑みすら浮かんではいなかった。
「奴隷だよ」
 温度の無い声が鼓膜を刺し貫く。
「俺は奴隷だ。名前は奪われた。それはおまえの罪ではない。それでも、この憎しみをどこにぶつけたら良い?」
 ここにも一つ、リンメイの生み出した罪の姿があった。その憎しみを全て受ける事がせめても世話をしてくれたこの青年に出来る罪滅ぼしと、フェイは静かに瞳を閉じた。
「気の済むまで、殴ってくれていい」
 しかし青年は大きく鼻で笑い、何故か痩せこけた頬に手を添えた。
「そんなものでは、折れないだろう?」
「……折れない?」
 何の事かと瞼を開き、目の前で暗く揺れる瞳にフェイは思わず息を呑んだ。
「王族としてのプライドだよ」
 その時にフェイは幼いながら気付いてしまった。この青年の憎しみはきっと、例えリーハが滅びたとしても、ここでフェイが自ら命を絶ったとしても、彼自身が死ぬ迄消える事はないのだと。

 月明かりに浮かぶ古びた塔に、僅か十二歳の少年の断末魔の様な叫び声がそれから一週間続いた。誰もがそのあまりにも異常な悲鳴を聞いてはいたが、助ける者などいる筈も無い。自国の引き起こした戦により狂ってしまった青年の憎しみは、あまりにも重い物であった。
 その青年が選んだ復讐。それは、幼い王子の心を折る為、執拗にその小さな身体を犯し続ける事だった。その深い憎しみの下でただひたすらに、フェイは懺悔の言葉を繰り返す。それでも許しを乞う事はなかった。この罪が許されない事など、フェイは誰よりも知っていた。

 青年も暫く経つと飽きたのか今迄のようにただ身の回りの世話をするだけとなった。だがもう偽りの優しささえも一切消え失せた。死を望む事すら許されないそんな地獄の中で、いつしかフェイは父を思い浮かべる様になっていた。
 リーハの街を二人馬を並べて歩き、目が合えば微笑みあって、たまに厳しく言われる事もあるけれど、その後はロンのように、優しく髪を撫でてくれる。本当は自分の事を深く愛してくれていて──そこ迄思い、フェイは声を上げて泣いた。潰れた喉から漏れた酷く掠れたその声に驚いたものの、最早そんな事など一瞬で忘れる程に苦しくて、悲しくて、切なくて、自分を愛してくれぬ父にすら幻想を抱き、会いたいと願ってしまった。

 その僅か一ヶ月後。フェイが捕虜となり三ヶ月程経った頃に、リーハはメガリアに向けて進軍を開始した。王子を人質に取っている事に胡座をかいていた為、あれ程苦戦を強いられていた大国メガリアは、僅か一週間程で陥落した。それも全てが計算だったのだとその時に誰もが知り、王子である息子を生贄にするなど狂気にも似たその行いに震え上がった。

 そしてフェイの無事を信じ戦って来たロンは、古びた塔に投獄され変わり果てたその姿に思わず涙を流した。
「フェイ様……!」
 慌てて駆け寄るロンを制した少年は、まるで縋るようにロンを見上げ小さく呟いた。
「父上は」
 その潰れた声と、そして何より父を求める言葉に一瞬表情を曇らせたものの、ロンは直ぐにいつもの微笑みを浮かべて見せる。
「直ぐにお会い出来ますよ。さあ、もう大丈夫ですからね」
 鉄の鎖を断ち切られフェイは漸くこの地獄から解放された。だが遅れて塔に登って来た王は、その姿に顔を顰め、更なる地獄を少年に突き付ける。
「何だ、生きていたのか出来損ないが」
 ロンですらそのあまりにも惨い言葉に絶句するより他反応が出来なかった。王がその場から立ち去ろうと振り向いた途端、フェイは小さく笑い出す。
「フェイ様、お気を確かに。王は戦で興奮して──」
 言いかけたロンの言葉すら、フェイの耳には入っていない。よろよろと父の後を追うその背中に、ロンはこの小さな王子の覚悟を薄々勘付いていたのかもしれない。それでも止めなかった。止める事が出来なかった。

 塔に続く螺旋状の石の階段。リーハの王フェン・リンメイは、その階段から足を踏み外し命を落とし、リーハはその日帰還したフェイが、僅か十二歳で王となった。だが誰もがその変わり果てた姿と潰れてしまった声に驚き、どれ程に酷い仕打ちを受けて来たかを悟った。それ故にまるで腫れ物のようにやはりフェイに近付く者はいなかった。
 数々の憎しみをその身で受け、戦が生んだ罪の姿をその目で見て、実の父をその手にかけ、それでもフェイは王になる道を選んだ。幼い心に宿った信念。それは頑ななまでに強い物だった。

 フェイが王になって以来、戦を繰り返して来たリーハは、突然に永世和平国を宣言した。その決断に国中の誰もが困惑したものの、今迄先代の影でなりを潜めていた幼い王の姿は、やはりその血を引いていると思わせる程に圧倒的な説得力を持つ物だった。その一方で大国の主君として重圧に怯む事も無く誰にも頼らず弱音すら吐かない少年の背中は、悲しい程に孤独だった。
 だがこれ迄買った恨みの数々、それはあまりにも残酷にこの国に向けられて行く事となった。
 フェイが十三歳の誕生日を迎えた春。運命の日はまるでリーハの滅びを祝うかのような、優しい風が吹き、突き抜けた青空が眩しい日だった。

 一人机に向かっていたフェイの元に突然訪れたロンの持ち込んだ知らせ。それは衝撃的な真実であった。
「フェイ様、三国の連合軍がこの国に向かい進軍を始めました」
「……何だと?」
 他国は恐れていた。リーハがこのままで終わる筈はないと。いつかまた戦を始めるに違いない。王がまだ子供のうちに滅ぼしてしまおう。それが、今迄築いて来たリーハの姿だった。
「如何いたしますか?」
 ロンの問い掛けにフェイは考えた。ここで戦えばこの先同じ事を繰り返す。何の為に自分がここに立ったのか、そう思えば答えは一つであった。
「俺が一人で行く」
 そのあまりにも無謀な答えには、流石にロンも血相を変えて止めに入る。
「それはなりません!」
「戦いたくない!」
 それはフェイの心の叫びにも似た、悲痛な訴えでもあった。ロンは戦により傷付いたその心を想い、胸の内で覚悟を決めた。
「ではこうしましょう。貴方の望む通り、誰一人戦いません。貴方はここで滅び行く国を見届けなさい」
 その言葉に驚きロンを見詰めると、漆黒の瞳に浮かんでいたものは、深い愛情でしかなかった。
 国が滅びてしまう事が分かっていながら、それでも戦う事を恐れ、フェイはどうしても踏み出せずにいた。メガリアで感じた悲しい怒り、先祖が犯して来た罪の重さ、そのどれも、戦が生んだ物だと思っていたから。どうしたらいい。そう思っても一人生きて来たフェイは、やはり誰に助けを乞う事もしなかった。父のように、望めば望むだけ裏切られる気がしたから。呪われているかのような人生。ロンやシンでさえ王でなければこんな自分に心を寄せてくれる筈はない。そう思っていたから。

 そんな中、ロンはシンにある一つの使命を言い渡していた。多分このままフェイは戦う事を拒む。自分が王の命を守るから、どうか民の命を守るように、と。しかし決して剣を抜いてはならない──そんな無茶苦茶な使命だった。しかしシンはその使命を真っ直ぐに受け止め、強く頷いて見せた。我が息子ながら素晴らしい青年に育ったとロンは心の内で誇らしく思った。
「ファン様に挨拶しておきなさい」
 これが最期の別れとなるかもしれない。誰もがそう思っていた。 
 シンが通い慣れた小さな少女の部屋の扉を叩くと、長い黒髪を揺らし、ファンは顔いっぱいの笑顔でシン迎えた。天真爛漫で少し手のかかるこの国の王女。生まれた時から決まっていた結婚だが、お互い何の苦もなかった。
 ベッドの端に腰掛けてお喋りなファンの話しを聞く。それが二人の日課であった。別れの言葉など、この少女を前に言いたくはない。その思いがシンの表情を曇らせる。それに気付いたファンは少し悲し気に微笑んで見せた。
「シン、お兄様の事を恨まないでね」
「恨むだなんて……」
「私はこの国の王女よ。滅び行くならこの国と一緒。けれど貴方は違うわ。生きて、必ず幸せになってね」
 こんなにも幼い少女でさえ、王族の自覚を持って生きている事に驚かされると共に、自身は素晴らしい国に生まれたのだとシンは初めて実感したのだった。
「必ず、守ります」
 ファンはその答えに嬉しそうに笑った。
 十二歳の少女ですらこれが永遠の別れと気付いていた。それは誰よりもフェイの心を知っていたから。孤独の中で自ら道を作り上げて行く背中を、ずっと見詰めていたからかもしれない。

 そして〝その時〟は無情にも、かつて西の大国リーハと恐れられた大地を徐々に食い荒らして行った。その様をまざまざと見せ付けられ、フェイはあまりの自分の愚かさに、気が狂う程に追い詰められていた。戦う事自体を罪だと思っていた。なのにどうして、戦わない事がこんなにも罪深いのか。
「ロン!お願いだ、行かせてくれ!国を守らなければ!」
 縋るように訴えても、ロンは真っ直ぐにフェイを見据え、首を横に振るばかり。
「貴方はこの国の王だ。その王が戦わぬ事を選んだ。何が起ころうと、自らが導いたこの景色を見届ける事が貴方の王としての使命なのですよ」
 そして決まってそう諭した。
 厳しい言葉の裏で、ロンはどうしてもこの幼い王を生かしたかった。必ずいつか世界が必要とする素晴らしい王になる。だがこの国ではダメだ。先祖代々の血に染まったこの国は、戦をするより他に生き残る道はない。フェイが生まれた事も、この呪われた国の最期の為なのだといつしか思うようになっていた。どうかシンと信じて来た騎馬隊がこの国の民を守ってくれると信じて、このあまりにも自分勝手な賭けの代償は己の命を持って払う事を決めていた。
 だが民を守るように言われていた騎馬隊も大分参ってしまっていた。リーハの民は誰一人逃げようとも戦おうともせず、ただ一心に太陽を見上げていた。そのあまりにも異質な光景に、誰もが面食らい怯んでしまう程だった。
「逃げて下さい、お願いだ!間も無くここにも敵が来る!」
 そうシンが叫ぶと、そのうちの一人が困ったように笑った。
「私達はこの国の民です。あんなに寂しい王様を一人残して逃げられる程、薄情にはなれない」
 そう言って皆頷きあい、また太陽を見上げた。
 この国の王は、誰からも愛されなかったのではない。誰もがあまりの強さに近付く事さえ躊躇っていただけなのだと、シンはその時に知った。 

 やがて国が死の街へと変わり果て、城にまでその手が伸びると、漸くロンは重い腰を上げた。
「フェイ様、ここでお別れです。その目で見て来た物を決して無駄にする事のないように、この国全ての人の命を背負い強く生き抜いて下さい」
 そう言って微笑んだその男の想いを前に、一瞬頭の中が真っ白になった瞬間。腹部に襲ったあまりの衝撃にフェイはそのまま意識を手放した。

 大国リーハ──建国以来身勝手な戦を繰り返し続けた国は、皮肉にも最期の時に誰一人として戦おうとはしなかった。民も家臣も、その全てが数日にしてその国と共に消え失せた。あまりの不気味な最期に、人々はその国の名を語る事さえ躊躇うようになった。
 リーハに産み落とされた太陽。その心は重い罪を背負い、暗い暗い闇の中へと身を落として行った。死を望む事も許されず、ただ己への罰として、孤独を生き抜く事を選んだ。

 その姿はまるで、二度と昇る事のない、落陽のようであった。
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俺が歩けば蛇に当たる〜蛇神に娶られた平凡青年〜

花房いちご
BL
明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。 巳年をお祝いすべく書いた人外×人BL。下半身蛇の蛇神×無垢で優しい青年。いちゃいちゃラブラブ溺愛ハッピーエンドです。 以下あらすじ。 これは、心優しい青年が蛇神に娶られるまでの物語。 お人好しで少し世間知らずな大学生、天野坂桐矢(あめのさかきりや)は、外に出るたびに蛇に待ち伏せされていた。 桐矢は放置していたが、親友の八田荒政(やたあらまさ)に指摘されてようやく異常さに気づく。それは桐矢に惚れた滅びかけの神が原因だった。 滅びかけの神は、荒政によって祓われた。だが、話はそれだけでは終わらない。 桐矢は己の想いと荒政の想いに向き合い、選択を迫られることになるのだった。 あらすじ終わり。 後ほど、他サイトにも掲載予定です。

強面若頭は、懐っこいナースの献身に抗えない ―極道、はじめての恋を処方される―

たら昆布
BL
ウブで堅物な極道若頭×明るいわんこ系看護師

僕の、しあわせ辺境暮らし

  *  ゆるゆ
BL
雪のなか僕を、ひろってくれたのは、やさしい男の子でした。 ふたりの、しあわせな辺境暮らし、はじまります! ふたりの動画をつくりました! インスタ @yuruyu0 絵もあがります YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!

うちの鬼上司が僕だけに甘い理由(わけ)

藤吉めぐみ
BL
匠が勤める建築デザイン事務所には、洗練された見た目と完璧な仕事で社員誰もが憧れる一流デザイナーの克彦がいる。しかしとにかく仕事に厳しい姿に、陰で『鬼上司』と呼ばれていた。 そんな克彦が家に帰ると甘く変わることを知っているのは、同棲している恋人の匠だけだった。 けれどこの関係の始まりはお互いに惹かれ合って始めたものではない。 始めは甘やかされることが嬉しかったが、次第に自分の気持ちも克彦の気持ちも分からなくなり、この関係に不安を感じるようになる匠だが――

従僕に溺愛されて逃げられない

大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL! 俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。 その傍らには、当然のようにリンがいる。 荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。 高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。 けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。 当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。 居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。 さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。 主従なのか、恋人なのか。 境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。 従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。

悪役令息シャルル様はドSな家から脱出したい

椿
BL
ドSな両親から生まれ、使用人がほぼ全員ドMなせいで、本人に特殊な嗜好はないにも関わらずSの振る舞いが発作のように出てしまう(不本意)シャルル。 その悪癖を正しく自覚し、学園でも息を潜めるように過ごしていた彼だが、ひょんなことからみんなのアイドルことミシェル(ドM)に懐かれてしまい、ついつい出てしまう暴言に周囲からの勘違いは加速。婚約者である王子の二コラにも「甘えるな」と冷たく突き放され、「このままなら婚約を破棄する」と言われてしまって……。 婚約破棄は…それだけは困る!!王子との、ニコラとの結婚だけが、俺があのドSな実家から安全に抜け出すことができる唯一の希望なのに!! 婚約破棄、もとい安全な家出計画の破綻を回避するために、SとかMとかに囲まれてる悪役令息(勘違い)受けが頑張る話。 攻めズ ノーマルなクール王子 ドMぶりっ子 ドS従者 × Sムーブに悩むツッコミぼっち受け 作者はSMについて無知です。温かい目で見てください。

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