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十六章 芽生え
しおりを挟む「──ル……アル」
その声にふとアルベルトが我に帰ると、心配そうにレスティアが覗き込んでいた。
「……私は?」
「大丈夫か、まるで廃人だぞ」
その言葉に、アルベルトは思い出したように荒く呼吸を繰り返した。
「少しだけ、休ませて下さい」
漸く絞り出した言葉に小さく頷くと、レスティアは部屋を後にした。
ふと気が付けばいつの間にかさっきの客間に戻っている。ここに戻った記憶がまるでない。自分で戻って来たのか、それすらも分からない。アルベルトはぼやける頭でゆっくりと思い出してみた。
あの老婆にどちらの道を選ぶかと聞かれ、アルベルトは知る事を望んだ。だが一体、何を知ったのだろうか。この話しはきっと聞いてはいけないものであった。フェイのその口から聞くまでは、知ってはいけないものであった。知れば後悔の道とはそういう事だったのだろうか。そう考え、アルベルトは小さくかぶりを振った。少しだけ分かった気がするのだ。何故フェイが自身を嫌ったのか。それでも何故、国に還してくれたのか。そして、何故アルベルトに戦を見せ、何を思うか問うたのかを。思い返すと、その全てが涙を誘う。
あの時のフェイが何を思っていたのか、今ならば手に取るように分かる。フェイは似た境遇を生きるアルベルトに、ずっと助けを求めていた。その心を分かってくれるのではないか、心を寄せてくれるのではないか、きっとフェイ自身も気付かぬうちにそう期待していたのだ。アルベルトは何も知らなくて、その全てを無下にしてしまった。
まだ間に合うのだろうか。気付かずに傷付けた事を、許してくれるのだろうか。何よりフェイの真の姿を知った今、この心は怯まずにあの男と向き合う事が出来るのだろうか。フェイを思う度、何の意味もないと分かっていても、アルベルトの瞳からはただ涙だけが溢れた。
どれだけ辛かっただろうか。辛かったなんて言葉では言い表せない程に、傷付き生きて来たのだろう。誰もあの男の心を救う事は出来ない。それでも今はただ、側にいてやりたい。例え嫌われ更に傷付けたとしても、二度と自らへの罰と言う孤独を味わう事のないように──。
その日はもう陽も暮れていた事もあり、二人はレスティアの好意に甘え屋敷に泊まる事にした。皆で夕食を囲んでいると、ミトは終始訝し気にアルベルトを見詰めている。
「……どうした?」
遂に我慢出来ず問い掛けると、ミトは眉間の皺を更に深めた。
「それはこっちの台詞。わんこ、何かこの短時間でげっそりしたよ」
げっそりもするだろう。そうは思っても心配かけまいとアルベルトは軽く笑いかけてやったが、ミトには変な顔と言われてしまった。その子供らしい横顔にふと思い出す。ミトの言った奴隷の王、その言葉はフェイにこそ相応しい物のように思えた。
穏やかな夕食も、アルベルトの心はどこか傷んでいた。早くフェイに会いたい。今もきっと苦しんでいる筈だ。そう思うといても立ってもいられずに、食事を終えミトを寝かせてから、アルベルトは一人広い庭園へと足を進めた。
月明かりの下、この旅の意味を考えてみる。あの春の悲しい旅立ち。それはきっと、フェイと出逢う為のものだったのだ。間違いだと思った分かれ道も、あの男を救う為に選んで来たのだろう。この胸の苦しみも見てきた悲しみも、知らなければ良かった、そう思う事も無くはない。それでもそれ以上に、フェイに会えた喜びの方が大きい。アルベルトはいつの間にか自分でも驚く程、あの男に惹かれていた事に気付かされた。
そんな事をぼんやり考えていると、同じように庭に佇むレスティアの姿が目に止まる。
「眠れないのですか?」
レスティアはアルベルトの声に振り向き、憂気に睫毛を伏せた。
「アルか。リーハの話しを聞いたのだろう?あの話しは私もよく聞かされていた。あまりにも悲しい国の話しだ」
戦う事の意味をレスティアは知っている。アルベルトもまた、戦う事の全てが悪だと思っていた。それが今では恥ずかしく思う。
「私は……愚かでした」
素直に項垂れるアルベルトに、レスティアは優しく微笑みかけてくれた。
「アルはフェイを知っているのだね。私も会ってみたいものだ」
その言葉に一瞬不安が過る。その瞬間、また下らない嫉妬をしているのかと自身を戒め、アルベルトは精一杯笑って見せた。
「ラブールに彼はいます。私もこのままそこで暮らそうと思っているのですよ。いつでもいらして下さい。貴女なら大歓迎です」
「ありがとう、アル」
レスティアは少女のように笑う。蒼白い月明かりにさえ煌めく、本当に美しい女性。フェイがこの人と会ったら、心を奪われてしまうのだろうか。アルベルトはふとそんな事を思った。
自分は男で、女のように柔らかくはないし、可愛気もなければ凛とした美しさもない。それに国を離れ三年、げっそりしたとも言われる程で、貧相さに磨きがかかったような気がした。大体レスティアがいなくとも、フェイがこんな男などを好きになる筈がない。それでも良いとほんのさっきまでは思っていたのに、何故だろう。小さな嫉妬を覚えた途端、フェイの全てが欲しいとさえ思っている自分にアルベルトは心底震えた。それはシンを想っていた時より遥かに暗く、重い欲望のように感じる。いや、救えれば良い。そう言い聞かせ、アルベルトはレスティアを残し庭を後にした。
次の日レスティアに見送られ、二人は再びラブールへの道を進み始めた。気付けばもう、春の風が頬に暖かい。相変わらずのんびり馬車を走らせながら、ミトは小さく欠伸をしている。その横顔に、アルベルトは優しい気持ちになれた。
「長旅になっちゃって皆心配しているかなあ。皆わんこに会ったら喜ぶよ」
思い出したように漏らされたミトの言葉に、先程までの柔らかな気持ちは消え失せ、アルベルトの胸には不安が過る。
「そうだろうか」
フェイも、喜んでくれるのだろうか。
「兄貴も喜ぶよ」
心を見透かしたように笑うミトに勇気付けられ、アルベルトもつられて笑った。
こうして一週間馬車を走らせ、漸くラブールに帰り着いた頃には、既に夜も更け切った真夜中であった。懐かしいその姿。フェイが作り上げたこの街を見て、また視界が歪む。
「わんこ、何か変だよ?」
「何でもないよ」
ミトは眠いのか、珍しくそれ以上追求しては来なかった。
フェイの住む家に到着し、馬を繋いで漸く中へと入ったものの、こんな時間だ。さすがに誰も起きてはいなかった。
「疲れたね、早く寝ようよ」
そう言って手を引くミトをやんわりと制す。アルベルトは朝まで待てる気がしなかったのだ。
「フェイに、会ってから寝るよ」
「ええ、もう兄貴も寝ているよ。寝起き悪いから殴られても知らないよ?」
それでも良いと笑いかけると、ミトは渋々二階に連れて行ってくれた。もう奴隷ではないのだから一人で行けば良いのだけれど、習慣とは恐ろしいもので、フェイの部屋に行くには誰かに連れて行ってもらわなければならないと、アルベルトは無意識にそう思っていた。
扉の前まで来るとミトはアルベルトを見上げ、あんまり刺激しないでね、と小さく呟いた。頷いてはみたものの、アルベルトは中々中に入る勇気が持てずにいた。
「入らないの?俺もう眠いよ」
「うん、ごめん……」
どうしよう、何と言ったらいいのだろう。どんな顔して会ったら──そんな事をいつまでも考え込んでいると、痺れを切らしたミトが徐に扉を開く。
「早く行って来いよ!」
「待って、心の準備が……!」
そんな事を言っている隙に手を引かれ、無理矢理な対面となってしまった。そのまま扉が閉められると、アルベルトも漸く踏ん切りが付き、薄暗い部屋に目を凝らす。部屋の隅のベッドに膨らみを見付け、心臓が一つ大きく鳴った。
薄っすらと唇を開けて眠る少し間の抜けたその顔は、何だか少しだけ痩せたように思う。静かに枕元に腰を下ろし、顔に乱雑に掛かる髪をなるべく起こさないようにどけてみる。そのままゆっくりと頬に手を伸ばした所で、その小さな刺激にフェイは重い瞼を開いた。漆黒の双眸がまだ目が覚めていないかのように緩やかな瞬きを繰り返す。
「……夜這いとはいい度胸だな。それとも、闇討ちか」
懐かしい酷く掠れた声がアルベルトの鼓膜へと響く。酒焼けだと思っていたその声も、今となっては胸を締め付ける程に切ないものであった。
「帰って、きた。ここで暮らしたい」
眉を顰め、未だに頬に添えられていたアルベルトの手を乱暴に払うと、フェイは徐に起き上がり鋭く睨み付ける。その瞳が語るものはやはり、強い拒絶でしかない。
「何を言っている。ここにいて血を吐いた事を忘れ……何で、泣いている」
その拒絶の中でフェイが救いを求めていたかと思うと、あまりにも切なく、そしてどうしようもなく愛しくて、アルベルトは溢れる涙を止める事が出来なかった。全てを知ってしまった事、それだけは伝えてはいけない気がした。その心が二度と開く事は無くとも、ただ側にいたい。それはフェイの為だけではなく、自分の為でもある願い。
「おい、もう良いから落ち着けよ」
あまりにもアルベルトが訳も分からず泣き続けるものだから、終いにはフェイすらも困り果てていた。そして朝日が昇る頃、アルベルトは泣き疲れそのまま眠りに付いた。
微かに香る煙草の匂いと緩く髪を梳く感覚が、深い悲しみに飲み込まれてしまいそうなその心を優しく拾い上げてくれる。ここで、この男と共に生きて行く。例えどれ程傷付いたとしても。優しい微睡みの中で、アルベルトは一人静かに決意を固めた。
次の朝、昨晩の優しい記憶が嘘のように乱暴に叩き起こされ、アルベルトはしっかりと目も覚めぬ内にラフターの部屋へと連れて行かれた。そこにはいつも通りの顔が並んでいる。
「おい、なんだ戻って来たのか?」
「うん、わんこもここで──」
嬉しそうに言ったミトの言葉は、思いきり壁棚を殴り付けたフェイによって阻まれた。壁棚の書類が、音を立てて崩れ落ちる。
「こいつはここでは暮らさせない。今からフィリアに還す」
慌てて書類を拾い集めるラフターが、その言葉に溜息を吐いた。
「おいフェイ、何を苛ついているんだ」
他の二人は苛立つフェイを前に完全に怯え、アルベルトは慌ててフェイに縋る。
「フェイ、私はここで暮らしたいのだ!」
「お前は黙ってろ!」
どうしてそれ程怒る事があるのか、アルベルトは困惑するばかり。
「良いじゃないかフェイ。ラブールでは珍しい黒札がこうして自ら戻って来てくれたんだ。使ってやらない手はない」
そんなラフターの言葉に、フェイの瞳が揺れる。その悲しみも、今のアルベルトにならば分かる。
「それしか方法がないのなら、私はブラックタグに戻ったとしても構わない」
だが同じ道を歩むのではない。これはそれでもフェイの側にいたいと言う、唯のわがままなのだ。アルベルトはその思いから、真っ直ぐフェイに向けて言葉を投げた。その答えに、ラフターだけは優しく笑いかけてくれた。
「ただしおまえの評価は最低だったからな。しっかり仕込み直してもらえ」
そう言いながらもラフターが慣れた様子ですっかり書類を片付けた途端、フェイは再び壁を強く殴り付けた。
「いい加減にしろよラフター。何の為にこいつを追い詰める。こいつは、俺とは違う!」
紙の舞う音だけが、静まり返った部屋に響く。
「……追い詰める?自分を追い詰めているのはどこのどいつだ」
その言葉に、ラフターが確かに何かを知っている事に気が付くも、今はそれどころではない。
睨み合った二人の間に流れる空気は最悪なもので、正に一触即発。いつどちらが拳を振り上げてもおかしくはない状況だ。だがフェイの過去を知ってしまっただけに、どうする事も出来ずアルベルトは狼狽えるばかり。そんな二人を止めに入ったものは、意外にもルーイだった。
「兄貴、ラフターさんの言う通りですよ。そんなに苛立つ事じゃないでしょう。ラフターさんも、どうしたんですか。二人とも少し落ち着きましょう」
ここにいる皆がフェイを慕っていて、だからこそラフターも苦しみ続けるその姿に耐えられないのだろう。その皆が賭けてくれたものが何だったのか、それも、今のアルベルトならば分かる。
「……すまん、つい」
ラフターはそう言ってバツが悪そうにしながらも素直に元いた椅子に腰を下ろしたものの、フェイは未だ床に視線を落としたまま、小さく震えていた。
どうする事が正しいのだろう。この気持ちを素直に伝え、だからこそここにいたい事を──アルベルトはそこまで思い及び、静かに首を振った。今のフェイを前に、そんな事はとても言えない。
そんな重苦しい長い沈黙を締めくくるように、ラフターは静かに言い放った。
「とにかく誰が何と言おうがこれはアルの意思だ。フェイはこいつが客を取れるよう、しっかりと仕込み直せ。分かっていると思うが、この間のようにはいかないぞ。二度と失態は許されない。お前の為にもだ」
手厳しいラフターの言葉を受け不機嫌そうに俯くフェイの横顔を見て、アルベルトは少しだけ不安になった。また傷付けてしまうのだろうか、と。
フェイにとって人を抱く事は、罪の意識を増長する行為でしかないのだろうから。それでもアルベルトの中に芽生えた不思議な感情、フェイに触れ、触れられたいと願うかつてない胸の高鳴り。それを信じて見たくなった。
それからアルベルトには、再びタグのない首輪が嵌められた。久しぶりに会う小屋の中の奴隷達、その誰もがぎこちない笑顔でアルベルトを迎え入れてくれた。その様子を驚愕の表情で見ていた者は、アルベルトが出て行ってから新しく連れて来られた者達のようだ。その中から一歩進み出た黒札の少女が、アルベルトの袖を引いて頭を下げた。
「わんこさん、私──」
わんこさんにやや違和感を覚えたものの、その首に光るタグの色を見て、アルベルトの胸に、思わず泣いてしまいたくなる程の歓喜が満ちた。
「私、自分で、グリーンタグを申し出たの。全部あなたのお陰です、ありがとう」
瞳に涙を溜める少女を抱き締め、アルベルトは何度も首を振った。
「それは全て、君の力だよ」
出て行く前にここにいた人達の中でも見当たらない人々は、皆自から奴隷をやめるとフェイに宣言し、この街で暮らしているそうだ。それはアルベルトにとって、何よりも、どんな知らせよりも、嬉しく、そして眩いものであった。
泣いたり笑ったり苦しんだり、ラブールでの生活は忙しいものだった。タグのないアルベルトは一日中ぼんやりと小屋で過ごしたが、今迄とは違い話しかけてくれる人が出来たお陰で寂しくはなかった。それでも二ヶ月、フェイは会ってさえくれなくて、近くにいる筈なのに会えない切なさに想いは募る一方であった。
そんなある日。奴隷達が仕事に出掛け、残された者達が微睡んでいる頃、突然小屋に入って来たミトは、何故か嬉しそうにアルベルトの手を引いた。
「レスティアさんが来たよ、わんこに会いたいって!」
「レスティアが?」
その言葉にアルベルトの顔にも華が咲く。
手を引くミトに慌ててついて行くと、小屋の外ではあの美しい女王が微笑んでいた。共もおらず、先日よりは随分と質素な格好ではあるが、それでもやはり息を呑む程だ。
「アル、何だそれは。君は本当に不思議な男だね」
アルベルトの首輪を見てレスティアは楽しそうに笑った。初夏の日差しに輝くその笑顔はあまりにも眩しくて、思わずミトと二人ぼんやりと見惚れてしまう。
「そうだ、兄貴にも紹介しよう!」
思い出した途端、そう言って嬉しそうに家へと入るミトを、二人は微笑し気に見送る。
「兄貴とは?」
「フェイの事です」
それは楽しみだと言って笑う横顔に、少しだけアルベルトの胸は痛んだ。
ミトが戻るまでの暇を持て余した二人は、外に繋がれている馬を見に向かった。アルベルトはあまり詳しくは分からないけれど、レスティアが見詰めている馬は、いつもフェイが乗っている栗毛の馬である。まだ若い、美しい馬だ。
「それはフェイの馬です」
「やはりそうか。とても良い馬だ」
アルベルトにはどれも良い馬に見えるが、やはり分かる人間には分かるようで、馬がレスティアを見詰める瞳も、優しいもののように感じた。アルベルトはフィリアで馬作に鼻を鳴らされた事を思い出し、何だか情けなくなってしまう。
そんな事をしているうちに、ミトとフェイは漸く軒先に姿を現した。
「待たせたな。あんたか、テバンの女王の噂は聞いていたが、これは想像以上だな」
フェイは本当に感心しているようで、アルベルトも心の内で同意した。これ程までに若くて美しい人が大国の君主などとは、驚き以外の何物でも無い。
「会いたかったよ。ラブールのフェイ」
「俺の事を知っているのか。光栄だな」
レスティアはあくまで王であった事を知らないフリをするつもりらしい。それが分かり、アルベルトは胸をなで下ろす。
大国テバンの女王を炎天下の中立ち話させる訳にもいかないと、フェイはレスティアを連れ、性急に家へと戻って行く。その後ろ姿を見送り、アルベルトは胸の奥がきりきりと痛み出す感覚に苦悶した。
二ヶ月ぶりに会ったのにも関わらず、フェイは一度もアルベルトに視線を向けなかったのだ。そんな小さな事でも打ち拉がれてしまう自分の弱さにも、また酷く落ち込む。
「わんこも一緒に行く?」
そんなミトの言葉にアルベルトは弱々しく首を振った。今はどう頑張ったとしても笑える気がしない。感情を隠しきれない程に誰かを想うと、こんなにも心が醜くなってしまうのだろうか。エルの気持ちも、今ならば分かるのかもしれない。そう思いながら、アルベルトはミトに連れられ奴隷小屋へと戻った。
小屋に帰り、暫く不貞腐れていると、仕事を終えた奴隷達が疲れた顔で次々と帰還した。その全員を小屋に入れると、何故かルーイが声を潜め転がるアルベルトに問いかける。
「おい、わんこ。えらい美人来てるけど兄貴の新しい女か?」
「……何故私に聞くのだ。二ヶ月顔も合わせていない私が、そんな事知る訳もないだろう」
思わず八つ当たりをしてしまった事を心底悔いながらも、訳の分からない苛立ちは収まらなかった。
フェイは性格に少々難はあるが、レスティアとつり合うだけの容姿も、スタイルだって持っている。何より隠してはいるがフェイも王家の血筋。有り得なくはないのだし、皆がそう感じる事も不思議はない。それ位の事は分かってはいるのに、どうしようもなく悔しいと感じてしまう。
「拗ねるなよ」
「別に、拗ねてない!」
思わず大声を出してしまった事に驚きながら、そんな自分に心底嫌気がさして俯くアルベルトの頭を軽く叩くと、ルーイはそれ以上何も言わずに小屋を出て行った。ルーイに慰められるなんて、一体どうしてしまったのだろう。兎に角もう寝よう、寝ればきっと何もかも治まっているはずだ。そう信じて、アルベルトはいつもより早めに瞼を閉じた。
次の日はラフターの診察の日である。週に二、三度、ラフターは仕事前に小屋の奴隷達を診て回るのだ。慣れ親しんだその様子をぼんやりと眺めていると、漸くアルベルトの順番が回って来た。いつものように気怠げな触診をするラフターに、アルベルトは思い切って気になっていた事を聞いて見る事にした。
「……ラフターは、知っているのか?」
「だったら」
手を止める事もなく放たれた冷たい言葉に、何だか聞いてはいけない事だったのかと思わず不安になってしまう。ラフターはその心を察したのか、視線を合わせることもなく言葉を続けた。
「俺に何かを期待するならやめときな。俺はミトと違ってフェイを救ってくれるのなら相手は誰でも良いと思っている。お前に賭けるとは言ったが、別の誰かが現れたのならそいつに賭ける」
そのラフターの答えに、アルベルトは何となく納得してしまった。
「それと、今日から仕込み再開だ。夜ミトに迎えに来させる」
すっかり項垂れるアルベルトに向かってそう言い捨てると、ラフターはそのまま残りの奴隷達の診察へと移って行った。よりにもよって、何故今日なのかと心の中で不服を唱えながらも、アルベルトはそれから夜までひたすら思考を巡らせた。
あの男の事が好きだと気付いてから、どこかで怯えている自分がいる。フェイの全てを知った、それでも二人の距離は何も変わらない。ここを発つ前に少しだけ開いた扉も、再び硬く閉ざされた気がした。そうやってフェイは何度、救いを望んだ自分を戒めて来たのだろう。それを思うとアルベルトはどう言葉をかけたらいいものか全く分からなくなっていた。フェイの過去を知った事でやはりしっかり向き合う事が出来なくなっていて、こうして落ち着いて考えるまではまるで自覚すらない事に気付く。アルベルトは誰に対しても真っ正面からぶつかってきた。知らないと言う事はそんな恐ろしい事すら平気で出来てしまう。自らに今の自分は出来るかと問いかけ、アルベルトは静かに首を横に振った。
そんな事を考えているうちに時は流れ、アルベルトはミトと共にフェイの部屋へと向かう。珍しくその道中ミトは一言も喋ろうとはしない。不思議に思いながら部屋に通されると、新聞を読んでいたフェイは眉を顰め、酷く驚いているようだ。不思議に思っているうちに、ミトは慌てて部屋を出た。
「何のつもりだ」
その言葉に何の事かと振り返ると、フェイは鋭くアルベルトを睨み付けた。
「お前じゃねえ、ミト!」
そう吐き棄てるや、フェイはミトが消えた扉へと乱暴に歩を進めた。何故かフェイは酷く怒り、扉を開けようと必死になっているが、その向こうでミトは小さな身体でそれを阻止しているようだった。訳のわからない状況に、アルベルトはただ呆然とするばかり。
「開けろこの糞ガキ、誰の差し金だ!」
その言葉にアルベルトを新たな驚きが襲う。どうやら仕込み再開とは嘘のようだ。一体何の為に──。
「兄貴はバカだ、わんこの気持ちも考えてやれよ!」
ミトの悲痛な叫びに、フェイの手も、そしてアルベルトの思考も一瞬停止する。
「帰る事を心から願って、ずっと想っていたその国で、わんこ、国が壊れたのはわんこの所為だって凄く責められたんだよ。下げなくてもいい頭下げて、言わなくても良い言葉言わされて、自分の事だけを責めていっぱい泣いて、その罪全部背負って、国に残るって一度は言ったんだ。それでも、ここに戻って来たのはきっと、兄貴の為なんだよ?」
扉の向こうで震える声が、酷く胸を締め付ける。アルベルトはゆっくりと扉に近付き、そっと頬を寄せた。この扉の向こうで小さく震える姿を思うと、自然と溢れた涙が頬を伝う。
「ミト、私は大丈夫だから。だから、どうかもう泣かないでくれ」
また大切な人を知らない所で傷付けてしまったのかもしれない。いつでもミトに甘えてばかりの自分が情けなく、アルベルトはそれ以上言葉に出す事が出来ず、胸の内で謝罪の言葉を繰り返した。
ふと何時迄も扉に張り付くアルベルトの髪にフェイの指先が触れた。
「迎えはいい、下がれ」
その声に滲む物は、隠し切れない苛立ちだった。そのままアルベルトは引きずられるようにしてベッドに押し倒され、あまりにも突然の事に一瞬息を付く事さえも忘れた。
「余計な事をするな、俺に構うなと言った筈だ!」
そう怒鳴ったかと思えば、フェイは突然アルベルトの服を剥ぎ取ろうと襟元に手を掛けた。怒りに任せたかのようなその行動に、アルベルトは何が何だか分からず、ただ恐怖に支配されていく頭で必死に拒絶を試みる。
「フェイ、待て!こんなのは嫌だ!」
混乱で暴れ回るアルベルトの右頬に、鈍い痛みが走る。
「嫌だろ、怖いだろ!俺はこう言う男なんだよ!お願いだから、憎んでくれよ!」
そう叫んだフェイの瞳から、涙が溢れた。胸が押し潰される程に苦しくて、あまりにも切なくて、アルベルトの瞳からも一瞬の恐怖で止まった筈の涙が溢れていった。
「許してくれ、フェイ」
こんなにも追い詰めてしまった事、それでも、側にいたいと願ってしまった事を。そっと抱き寄せたアルベルトの腕の中で声を殺して涙を流すフェイ。その心が何を思うか、今のアルベルトには分かる。それでもやはり、抱き締める以外に何もする事が出来なかった。
どれ程の時間が経ったか、やがてフェイは泣き疲れ穏やかな眠りに落ちた。アルベルトはどうか目を覚まさないようにと願いながら、その安らかな寝顔に唇を寄せた。酷く切なくて、それでも悲しい程に、優しい夜だった。
自身がフェイを想う事、それすらフェイを傷付けてしまう。それが分かっているのに、アルベルトの心はまるでそれに反発するかのようにフェイを求めた。側にいれば触れたくなる。闇色の瞳も、深い色の硬い髪も、少し骨張った優しい指先も、その全てを手に入れたくなる。ただ側にいたい。そんな綺麗事はいつの間にか、何処かへと消えていた。
アルベルトは生まれて初めて、この男に愛されたいと願ってしまった。フェイが欲しがるのならば、この命さえ、差し出したとて悔いはないと思う程に。
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