Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground rabbiT』

地下街の少年達

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 梅雨の始まり、五月の末頃に俺は東京の片隅で産声を上げた。錆の浮いたボロい二階建てアパートの風呂の中。とんでもないベビーベッドだった。母親は当時十六歳。頼る人がいなくても、金がなくても、もっとマシな方法があっただろうと、今の俺ならそう思う。無事に産まれて良かったものの、本当に責任感の無い親だ。
 聞いた話では、響きが良いからと言う理由で俺の名前は『冬弥』と名付けられた。とうやではなく、ふみ。春に産まれたのに。
 父親は当時二十四歳。ヤクザの準構成員と言う、半端でどうしようも無い奴。若い二人が出来ちゃってなし崩し的に結婚したと言う、良くある夫婦だったのだと思う。
 近所の噂話によれば、喧嘩も多かったらしい。らしいと言うのも、母親は四歳位の時に俺を捨てて家を出て行ったから。可笑しいと思うかもしれないが、母親の事はあまり良く覚えてはいない。生まれつきか、この生活がそうしたのか、俺は記憶力が非常に乏しい。お陰で嫌な事も割と寝れば直ぐに忘れられる、我ながらお得な思考回路を持っている。
 けれど、誰もいない部屋で帰らぬ母を待つ時間。それは今でも忘れられない。幼い俺はいつか帰って来ると、ただ信じて待っていた。それが人生で初めて人から裏切られた瞬間。それすら幼すぎて、気付く事が出来なかった。母親の話しをすれば決まって父親はキレた。だから俺はいつからか母親の事は口にしてはいけないのだと、そう思うようになった。
 それから少しもしないうちに父親は新しい女を連れてきた。長い金髪に、濃い化粧。見た目は警戒するに易しかったが、優しい人だった。絵本を読んでくれた。ただ、それだけだったけれど。その人も直ぐに、いつの間にかいなくなった。

 俺の幼少期の思い出は、数えきれない程の母親一色。この人はいつ迄母親でいてくれるのだろう。この人はこのまま帰って来ないのだろうな。そんな事ばかり考えていた。父親は相変わらず何をしているのだか、あまり家に寄りつかない。
 そんな俺が生きてこれたのも、一人の男のお陰だった。父親の知り合いなのか、頻繁に様子を見にきてはご飯を作ってくれる。殆ど会話は交わさなかった。マネキン人形みたいな整い過ぎた顔のお陰で冷たさすら覚えるその男には本能的にいい印象が無かったから。だからしばらく名前も知らなかった。

 そんな月日が八年も過ぎ、その頃の母親はとても綺麗な人だった。父親の好みなのか、相変わらず眩暈がする位に派手。俺の事なんか見えていないのか、昼でも夜でも気が向けば愛し合う二人。お陰様で俺の精通はその頃無事に済んだ。
 その人の名前は咲希さんと言って、気が強く、父親ともよく掴み合いの喧嘩をしていた事をよく覚えている。父親がいない時は決まってその苛立ちの矛先は俺。
 殴る蹴るは日常茶飯事。煙草の火を押し付けられたり、冬に外に出されたり、本当に酷い女だった。しかも更に最悪な事に、その女が子供を産んだ。猿みたいな女の子。名前は美冬。夏に産まれたのに。俺は幼心に、自分と同じ目に合う哀れな妹を見たくなくて、その頃から家出を繰り返していた。とは言っても、狭いアパートの敷地内に隠れる程度の可愛いものだ。けれど誰も探しには来ない。その頃から俺は世界にたった一人だった。
 そんな俺を救ってくれたのが、同じアパートに住むお兄さんだった。短く刈り上げた金髪に、鋭い眼光。一見怖い人だったけれど、俺に笑いかけてくれた顔が優しくて声を掛けられた日からそのお兄さんと常に一緒にいるようになった。
 お兄さんは所謂絵に描いたような不良だった。派手な単車の後ろに乗せてもらって、色んな所に行った。赤いテールランプが国道を埋め尽くし、キラキラと煌めく様に感動した事を覚えている。轟くエンジン音も、ガソリンの匂いも、痛い程の風も、大好きになった。
 毎晩出歩く俺に、父親も、咲希さんも、気に留める様子はない。こっちとしては願ったり叶ったりだ。暴力に怯え、部屋の隅で蹲っていた日々が嘘のよう。初めて笑い合える存在が出来た事が堪らなく嬉しかった。何もいらない。この時間が続けばいい。本気でそう思っていた。

 けれど別れは突然で、お兄さんはある日、アスファルトの藻屑になって帰らぬ人となった。俺はまた、一人になった。ガソリンの匂いも、エンジン音も、大っ嫌いになった。
 俺はその頃たったの十二歳。煙草も吸った、女も知った、一丁前に社会に唾を吐いた。今思えば、クソ餓鬼が粋がってるって鼻で笑える。けれどその頃は、それでも精一杯に生きていた。

 一人になった俺は仕方がなく家に帰る。案の定そこは正しく地獄だった。耳を覆いたくなる怒号と罵声に輪を掛ける幼児の泣き叫ぶ声。地獄だ──思わず耳を塞いだけれど、現実はその程度じゃ逃がしてはくれない。親は揃って家を空ける事も多くて、置き去りにされた妹の面倒を見よう見まねで見る日々。
 その頃、またあの飯炊き男と再会した。俺も成長したからか警戒心は薄れていた。年は父親よりも少し下だろうか。まるでモデルみたいに背が高くて、細身の身体に上品なスーツ。艶のある黒髪を雑に流し、整った冷たい顔で優しく笑う男。
「冬弥君、少し見ないうちに大きくなったね。俺の事覚えてるかな、白井将生しらいまさき
 そう言ってしゃがみ込むと、大きくな手が頭を撫でた。頷いてはみたが、名前を聞いたのはそれが初めてだった。ただ白井将生がいなければきっと、俺も美冬も生きてはいなかっただろう。

 中学に上がってから俺は一層荒れた。荒れたと言えば簡単だけれど。その時の俺は、とにかく誰でも良いから気を引きたかった。
 俺はここにいる、誰か見付けて、寂しい──そう心の中で叫んでいた。もちろん、その頃はそんな事も分かっていなかったけれど。
 昼間は学校なんか行かないで家で寝て、美冬の世話して、夜になれば仲間と遊び回る。周りに集まる連中は、大概親の愛を知らない。楽しいから連んでいるだけだと見せかけて、所詮傷の舐め合いだ。けれどそれが俺達にとっては何よりもかけがえのない物だった。
 兎に角毎日生きる事に苛立ち、何かから解放されたかった。柵なんてないのに、まるで何かに囚われたかのような被害妄想を背負う日々。苦しかった。もがいてももがいても浮き上がれない泥沼に嵌っている感覚が常に纏わり付いていた。
 苛立ちの矛先は当然父親に向く。殴り合いの喧嘩も出来るようになった。それでもその時はまだ、勝てなかった。顔が変形するんじゃないかって位に殴られて、その度にふと頭を過る。どうして母親は俺を連れて行ってはくれなかったのだろう。それに追い打ちをかけるように、咲希さんが美冬を連れて出て行った。

 どうして──どうして俺は捨てられた。それは、今でも分からない。そんな中学時代。

 何となく、美冬がいなくなってからは何もする気が起きなくて、中学を卒業したら大概家にいた。休日の公園で、手を繋いで歩く親子。保育園であった事を嬉しそうに喋る女の子の手を引く、優しい顔の母親。それを見たくなかったのかもしれない。思えば美冬だけは俺を見てくれていた。
 お兄ちゃんお兄ちゃんと呼ぶ声が、今も耳に残る。

 父親とは相変わらず反りが合わなくて、喧嘩も多かった。俺も、父親も、お互いがお互いを嫌いだった。あいつの連れてくる女も嫌いだった。どいつもこいつも糞みたいだ。
 一番最低だったのは、咲希さんの次の女、風俗嬢だった。何が嫌だったって、完全にキメていたから。キメてセックスをする事は覚せい剤への入り口としてはオーソドックスだ。一度その味を知れば、普通のセックスでは満足出来なくなる。その女もそれでヤクザに良いようにカモにされていたのだろう。薬から抜けられなくて、風俗嬢になって、薬の為に金を稼ぐそいつが俺は歴代で一番、吐き気がする程嫌いだった。しかしそんな女の所為で、事件が起きる。
 欲求不満だったのか、薬が残っていたのか、あろう事かその女は俺に迫って来たのだ。俺としては信じられない。抱く気もなければ勃つ気もしない。あまりにもしつこい所為で、運悪く丁度帰宅した父親の目に止まってしまったのが、事の発端であった。
 それはもう今迄で一番でかい喧嘩だった。喧嘩が日常茶飯事だったからか、近所の人に警察を呼ばれなかったのは不幸中の幸い。けれどその時に父親が吐き捨てた一言は、俺を堕とすには十分だった。憎々し気にシワを寄せて。
「こんな生ゴミ置いて行きやがって。何でこんな物を産んだんだ」
 親父は、そう言ったんだ。実の父親が息子に言う言葉じゃない。俺は文字通り、愕然とした。
 この生活を見て、幸せだと思うか。生まれて来て良かった、親父ありがとう。そんな事を、思っているとでも──。俺だって好きで生まれた訳じゃ無い。こんな家ならいっそ、生まれない方がよっぽど幸せだ。そもそもお前の事なんか、父親とも思っていない。
 言いたい事は沢山あった。けれど俺は、ただ泣いたんだ。泣いて泣いて、近くにあった鉄パイプを握りしめて、父親の脳天めがけ振り下ろしてた。
 気付いた時には血だらけの父親が、見た事のないような醜い顔で喚き散らしていて、でも声は聞こえなかった。耳の奥でずっと高い耳鳴りがしていたから。ついでにいつからか分からないけれど、俺は飯炊き男、白井さんに羽交い締めにされていた。そのまま引き取られて、しばらく白井さんの家で過ごした。それが、十六歳の時の話し。

 何故子供は無条件に親を愛すのだろう。親の愛を欲してしまうんだろう。その感情さえなければ、俺は多分、とっくに父親を殺していただろう。

 それから俺は白井さんの家で過ごした。最初の記憶はあまりない。ずっとボーッとしてたらしい。気付いた時はもう、二週間は経っていた。それは後から聞いた話しだけれど。

 ふっと瞼を開くと、高い天井が視界に飛び込む。どう見ても俺の住んでいたボロアパートじゃない。何故か怠い身体を起こしてぐるりと部屋を見回すと、随分広いマンションの一室のようだ。俺を置いてくれた部屋には、さっきまで寝ていたベッドが一つあるだけ。悪いと思いつつ壁のクローゼットを開けてみると、見慣れた俺の服が入っていた。いつの間に持って来たのだろうか。それにまるで俺がここで暮らす事になっているみたいで、不安ばかりが押し寄せる。
 あの家に帰りたい訳じゃない。だが親子喧嘩で他人に迷惑掛けるのは気が引けた。しかも俺は白井さんの名前しか知らない。年も、何の仕事をしているのかも。父親の知り合いなのだろうが、何で幼い頃から飯を作りに来てくれていたのか、それすら知らない。ただこの部屋を見ても、窓から覗く絶景を見ても、随分金回りが良い事だけはわかる。
 磨き上げられた窓を開けて、だだっ広いテラスに足を踏み出すと、まず目に飛び込んだ物は東京タワー。そして眼前に広がる狭い東京にひしめき合うビル群。夜は、夜景が綺麗そうだ。
「具合は良くなった?」
 不意に掛けられたその声に思わずビクリと肩を竦めると、テラスは続きになっていたようで、隣の部屋から白井さんが顔を覗かせていた。人が良さそうで、優しそうで、それでいて妙に整い過ぎているからかやはり冷たい印象を与える。幼い頃、空腹になると現れたその顔は、今の俺にとっては何処かホッとする顔だ。
「……何か、すみません」
 頭を下げると、ふと笑われた。どこか、死んだ不良のお兄さんの笑顔とかぶる、優しい表情だ。
「いいよ。冬弥の面倒なんかもう十六年見ているし。取り敢えず落ち着く迄ここで暮らしなさい」
「いや、でも」
「子供は遠慮しないの」
 子供──確かに俺はまだガキだ。だけど何で俺に優しくしてくれるのだろう。社会の葛みたいな生き方をして、実の両親でさえ、必要ない俺の事なんかを。そんな考えがあったから、厚意を甘んじて受け入れる気にはなれなかった。けれど黙り込んだ俺の肩を軽く叩くと、白井さんは美しく微笑んだ。
「元気になったならご飯を食べようね。元々細いんだから、断食なんかしたら死ぬよ?」
 断食した覚えはないし、腹も減っていない。でも断る理由もないし、もう一度頭を下げて、俺は部屋へと入る背中を追った。

 春の始まり、風はまだ冷たい。

 それからしばらく、俺は白井さんの世話になった。仕事は仲介人と言っていたが、随分と忙しそうだった。結婚相談所みたいなものだろうか。
 帰って来ない日は代わりに部下なのか雇われたのか良くは知らないが、随分と不貞腐れた男と、大柄で人相の悪い男が交代で掃除、洗濯、俺の飯の世話をしてくれた。その男達とは特に会話は交わさないし、なんらならなるべく顔も見ないようにしていた。チンピラ程質は悪くないのだが、彼等のように大きく括ってしまえばそちら側だろう人間を見ると、父親を思い出すから。

 その頃の俺は、ただぼんやりと生きていた。寝て、起きて、テレビを見て、寝る。何もやる気が起きなくて、食欲もない。心は何も感じない。
 白井さんが帰って来た日は少し笑えたし、誰かと一緒に飯を食う事も嬉しかった。不思議なもので、付き合っていた女はいたけれど、微塵も思い出さなかった。最初の方は履歴が埋まる程電話も鳴っていたが、ある日を境にプツリと止んだ。お互い、そんなものだったのだと思う。

 品の無かった金髪も、毛先を残して黒くなった。ピアスの穴も塞がった。俺が十七歳を迎えた頃の事だった。

 その日も相変わらずベッドと、白井さんが買ってくれたテレビしかない部屋で俺はだらだらと過ごしていた。テレビも付けているだけで殆ど見てはいないから、内容なんていつも覚えていない。何を見てたか、何を言っていたか。全く記憶になさ過ぎて自分でも驚く位だ。
 もう陽もどっぷりと暮れて、東京タワーにも明かりが灯った頃、突然部屋の扉が叩かれた。
「冬弥君、ちょっと来てくれる?」
 白井さんに冬弥君と呼ばれる事が久しぶりな気がして、変な違和感があった。それも一瞬の事で、早めの夕飯かと思い呼ばれて暫くしてから俺は部屋を出て無駄に広いリビングに足を運ぶ。白井さんは食卓の洒落た黒い椅子に、既に腰掛けていた。
「座って」
 向かいに座れと言う事だろう、黒い机を指先で軽く叩かれる。大人しく向かいに座ると、白井さんは夕飯の代わりに手元の封筒から書類を取り出し、その中の三枚を俺に差し出した。顔写真と名前、あとは年齢とか身長とか体重が書いてあった。
 一人はキャリアウーマンぽいケバい女。もう一人は金回りの良さそうな中年。そしてもう一人は、白井さんと同じ位だろうか。三十半ば位で、見るからに頭の良さそうな男だった。
「……何?」
 このおっさんとケバいおばさんと男が、一体何だと言うのだ。訝しげな視線を送る俺を気にも留めず、白井さんは相変わらず書類に視線を落としたままだ。
「冬弥君に紹介したい人」
「紹介?」
「そう。額が額だけに、あまり悠長にはしていられないから、最初から三人ね」
 この人は何を言っているんだ。額が額って、何の話しだ。最初から三人って?
「うん、ん、えっと」
 そんなよく分からない言葉でもない言葉しか出なかった。流石に話しが通じてない事を悟ったのか、白井さんは漸く顔を上げた。
「あれ、言ったでしょう。俺の仕事」
「……仲介人?」
 結婚相談所とか、その類ではなかったのだろうか。俺に結婚しろとでも言うのか。まだ法的にも無理な年齢だ。けれど仲介人と言う答えに満足したのか、白井さんはいつものように切れ長の瞳を細め軽く微笑んだ。
「そうそう。はい、名刺。これからはビジネス上のお付き合いをしようね、半沢冬弥君」
 その時に、あの微笑みが営業スマイルである事に気付かされた。完全に騙されていた事に半ば肩を落としながら、手渡された名刺に目を通す。『株式会社 Underground rabbiT 代表取締役 白井将生』白地の名刺には、そう書かれていた。
「うんで……?」
「アンダーグラウンドラビット。冬弥君、勉強しなさい」
 英語は苦手だ。それにしても代表取締役か。どうりで良い所に住んでいる訳だ。
「白井さん、社長なんだ」
 そんな社長が何であんな父親なんかと。ヤクザに弱味でも握られているのだろうか。しかし、若いのにこんな所に住んで、一つの会社を背負う事に素直に感心した。
「これ、どんな会社?」
 会社名だけではまるで想像が付かない。紹介された三人の事も。
「ざっくりといえば表向き人材派遣会社だね。本質は、訳ありの金持ちに愛人を紹介してマージンを頂く会社。大体は借金で首が回らなくなった子を引っ張ってくるんだよ」
「へえ……」
 白井さんの言っている事は分かり易過ぎて、逆に俺の頭は変な混乱を来たした。つまり、どう言う事なのだろう。その俺の考えが纏まる前に白井さんは口を開いた。
「それで、冬弥君。話しを戻すと、君をこの三人の愛人として彼等に紹介するの」
「……俺を?」
「そう。これは契約書と、誓約書。絶対に口外しない事。愛人契約が終われば全てを忘れる事。後は報酬の事とかそんな程度だよ。誓約書は法的な力は持たない。でもこれ、破ればどうなるか、分かるよね?」
 そう言って数枚の紙を差し出し、冷ややかな微笑を浮かべる白井さんを見て、瞬間的に背筋を悪寒が駆け抜けて行った。俺はその時、目の前の男が堅気の人間などではなく、裏社会の住人なのだと初めて気付く。
 考えてみればそれはそうである。酷く中途半端な準構成員である父親の知り合いに、堅気はいない。つまり、Underground rabitTと言う会社は、立派な企業舎弟。今風に言えばフロント企業だ。フロント企業の社長って事は堅気なのかとも思ったけれど、多分、いや確実に、この男は極道者。見た目からは想像も付かないが、絶対にそうだ。
 頭の中で考えが纏まるや、全身から一気に血の気が引いて行った。次いでいつものように、高い耳鳴りが脳を支配する。

 どれ位そうしていたか分からないけれど、ポタポタと滴る汗が、スラックスに随分シミを作っていた。白井さんは長い足を組んで、そんな俺を相変わらず冷ややかに見詰めている。
 何故俺が、何であんな父親の借金を背負わなきゃならないんだ。頭の中はそんな怒りと疑問でいっぱいだった。
 そんな俺の頭の中を覗いたかのように、白井さんはようやく口を開く。
「別に君が拒否するならばそれでも良い。ただ──借金は減らないし、何より俺は武志さんから頼まれたからねえ」
 白井さんは優しい人で、良くしてくれた。人として好きだった。感謝もしているし、恩も感じている。俺が稼ぐようになったら真っ先に奢りたいと思う位。なのに何故だろう。目の前の男はもう、俺の知っている白井さんじゃない気がした。

 それから白井さんは一週間の猶予をくれた。身辺の整理をしろと言われたが、何をしたら良いのだろう。この数ヶ月誰に連絡する気も起きず、向こうからの連絡も途絶えた。元々深い付き合いなんてものを持ってはいない。そもそも逃げるとは思わないのだろうか。十七歳のガキが本職相手に逃げ果せるとは思えないけれど。それに俺には逃げ場なんかない。白井さんも父親もそれが分かっていたのだと思う。
 だがタクシー代を貰って無意識に告げた行き先は、不思議と自分の家だった。俺はまだ父親に愛情があったのだろうか。まだ信じていたのだろうか。そんな自分が情けなくて、また泣けた。

 家に着くと予想外に女も父親もいなかったが、今顔を見たら今度こそ殺してしまいそうで安堵した事は事実。何一つ変わらない狭い家。ぐるりと見回しても、不思議と何も感じなかった。
 泣いたからだろうか。酷く喉が乾いた気がして、俺は家に入って直ぐにカルキ臭い水を一気に煽る。喉に落ちる水の感触が嫌に生々しくて、思わず吐いた。けれど今飲んだ水以外何も出てはこない。そう言えば今日何も食べていなかったかもしれない。一体どこまで記憶力が乏しいのだろう。
 自分に心底失望しながら畳に身体を投げると、天井がぐるぐると回って見えた。気持ちが悪いから目を閉じてみても、相変わらず回る。けれどそんな事もどうでも良かった。酷く疲れて、鉛を呑んだように身体が重くて、動く気力さえ無い。

 愛人契約──立派な人身売買だよな、今時。借金の額は教えてもらえなかったけれど、白井さんがでかいと言うならでかいのだろう。聞きたくもあったが、やはりどうでも良かった。どうせ拒否権もないし、逃げられない。何より、返し終われば自由になれるのだ。それ迄頑張れば良いだけの事。そうどうにか自分を持ち上げてみても、手が震えているのが分かった。

 その一週間はまるで死刑を待つ囚人のように、重い鎖に繋がれている気分だった。結局父親は一度も帰っては来なくて、顔を見る事もなく俺は徒刑場──もとい白井さんのマンションへと向かった。これから待ち受ける未来がどんな物か。知らなかったし、考えられなかった。俺はただ自由になれる日を信じ、縋るようにその日を想像する。

 幼い頃、辛い事があった時は必ず心の中で繰り返した。明日はきっと幸せになれる。その言葉を、胸の奥で抱きしめて。
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