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『Underground caT』
あかね雲
しおりを挟む気付けば秋は過ぎ去り、厳しい冬が訪れた。この辺りの冬は寒い。灰色の壁、狭い雑居房、余計に寒さが身に沁みる。
あれ以来山室隆司とは会っていない。あの時俺は、どう言う顔をしたら良いか分からなかったんだ。俺は人の痛みなんかに目を向けた事がない。例えそれに触れたとしても、気付かなかった。気付いたとしても興味がなかった。だって他人の事なんかどうでも良いから。
奥さんの死と言う過去を俺に穿られた時、山室隆司は傷付いた訳じゃない。過去の悲しみに心を痛めた訳じゃない。もう全てを乗り越え、何もかもを受け入れた男の顔をしていた。それでも俺は自分ではどうしようもない程に、悪い事をした気になった。そう言う人間を見た事が無かったからだろうか。多分違う。あの人はきっとこんな俺にすら、まだ出会って間も無いガキにすら、愛情を持っている。きっと誰にでもそうなのだろう。俺とは真逆の人種だ。だからこそこんなにも、惹かれたのかもしれない。
気付けば何時でもあの男の事を考えて、胸の奥が痛い。将生さんの時とは違う、もっとあったかくて、優しい気持ちだ。こんな気持ちになるなんて初めてだ。
「お前も大変だな」
不意に肩を叩かれ何の事かと顔を上げると、俺のいる房の外には一人の男が立っていた。最近入所した男。どっかの御曹司らしいけれど、俺はどうやら面倒なのに目を付けられたらしい。何時の間にかこいつ専用になったらしくて、他の受刑者に手を出される事は無くなった。
背も高いし顔も品があって整ってはいる。身体つきも嫌いじゃない。ただ、そう言う気分にはなれない。あれだけ溺れて、セックス依存性と迄言われた俺が、だ。自分でも驚いている。どこかおかしくなったのかと思ったけれど、きっとこれが普通なんだ。
「雪」
いつ迄も立ち上がらない俺を男が苛立ちを隠さずに呼び付ける。馴れ馴れしく、名前で呼ぶな。
「悪いけど、そう言う気分じゃない」
「気分?何言ってんだ。お前は俺の物なんだよ。ほら、来いよ」
その言葉に苛立ちもピークを迎えた。俺は誰かに屈服した事も、誰かの所有物になった事もない。例え殴られ、酷く痛めつけられたとしても、それに負ける事も、心の底から平伏すような胸糞悪い真似も一度だってした事はない。他人に支配されるなんて真っ平ごめんだ。
刑務所の中だし手荒な真似はしないと思っていたが、バカな御曹司はズカズカと人様の房に足を踏み入れて来た。
「……バカなの?こんな所見られたら懲罰受けるぞ?」
別に心配した訳じゃない。ただそう言えば引くんじゃないかと思っただけだ。けれど男は引くどころか、俺の腕を掴んで鼻で笑って見せた。
「だから?」
金持ちってバカしかいないんだろうか。そんな減らず口を、心の中で叩く。
引き摺られるように房を連れ出され、向かった先はいつも通り御曹司の独居房だった。狭いけどテレビも独り占めだ。ここの刑務所は雑居房にもテレビが置かれているが、如何せん六人もいるんだから皆気を使う。こんな俺ですらそうなんだから皆もっとそうなんだろう。誰もが独居房に移りたいと思っている。なのにこんな奴が独居房か。親の七光の癖に金持ちだって事を鼻に掛けた嫌な野郎だ。
いつものように強く引き寄せられ端正な顔が近付いた瞬間、俺は思わず御曹司の胸を押し返した。
「嫌だって……!」
御曹司は俺の肩を掴んだまま、鋭く睨み付ける。
「お前、あのおっさんにイカれたのか?やめとけよ。山室組って名前位聞いた事あるだろ?あいつはそこの組長の長男らしいぜ」
山室組と言う名前は確かに聞いた事がある。ニュースとか、新聞とか。日本最大と言われる広域指定暴力団だ。ただ者じゃないとは思っていたけれど、まさかそんな男だったのか。でもだから何だ。関係ない。
「あんたよりはマシだよ」
怯える事もなく吐かれた生意気な言葉に男の瞳が怒りに揺れ、呆気なく俺は何時も通り自分より強い力の前に負けた。
「お前本当、犯し甲斐があるよ」
絶品の獲物を見付けた猛獣が、紅い舌で牙を舐める。寒さを防ぐ為に何枚も着込んだ囚人服の厚みなど、何の意味もない。精一杯暴れてもみたが、それすら男を煽るだけだ。
「や、ん……!」
寒さで既に立ち上がった小ぶりの乳首を捻り上げられ、思いもよらぬ上擦った声が上がった。
「可愛い声上げちゃって。お前本当、どうしようもない淫乱だな」
唾液で濡らす事もなく、乾いた指先で乱暴にこねくり回される度、痛みと共に走る快感にひくひくと腰の筋肉が痙攣を起こす。甘い吐息は白い靄となり、男と俺の間を漂いながら空気を乱した。
指では物足りなくなった猛獣が、尖った牙を小さな急所に食い込ませる。乱暴な愛撫で剥き出しになった神経は、過剰に痛みの電流を流した。
「ひっ……!や、いたいっ!」
しなる身体を押さえ付け、御曹司は殊更高圧的に微笑んだ。
「痛いのが好きな癖に」
「す、きじゃ、ないっ!」
「嘘付け」
引き抜かれたズボンの下、言葉通り、既に反り立ったペニスの先端から溢れ出した先走りが裏筋を伝い、硬く閉ざされていなければならない秘部を濡らしていた。
「こっちは随分と素直だ」
ぐちゅん、と淫猥な音を立て、冷たい指が過去数多の欲望に散々暴かれてきた快楽の門を開く。
「あっ、はっ……!」
震える度唇から漏れ出る、短い嬌声。硬く閉じていた腿も、男の長い指が一点を掻き毟る度に緩々と開いて行く。
「……良い身体してるよ」
心とは裏腹に、蜜の味を知り尽くした身体は、悦んで男を呑み込んだ。
俺の身体はどんな状況でも貪欲に与えられる快楽を貪る。それでもその日は必死で唇を噛み締めて声を抑えた。乱暴に突き上げられ、抉られるような痛みにも似た快感。御曹司は決して下手じゃない。その証拠に俺の身体はちゃんと感じている。その日は何度果てたかもう分からない位、時間一杯滅茶苦茶に犯された。
こう言う乱暴なセックスは何時もだったら何もかも忘れ、頭の中が真っ白になって、快楽を追い求める事しか出来ない、好きなタイプだ。それなのに御曹司の腕の中でも、忘れる事が出来なかった。山室隆司の事を。誰かの事を想いながら他の誰かに抱かれる事がこんなにも苦しいなんて、俺は知らなかった。
「いや、だっ……!」
身体中を駆け巡る快感の波間で、空に向かって手を伸ばす。それでも誰一人この手を取ってくれる筈がない事は、俺が一番良く分かっていた。
十二月。年末カラオケ大会の季節だ。俺の配役されている印刷工場組も出場権を巡って熱い争奪戦が繰り広げられていた。去年は洋裁工場の受刑者が優勝だったらしい。まだ服役しているから、今年もそいつに持っていかれるんじゃないかと噂になっている。俺は興味もないし、素知らぬ顔しておいた。
「おい、六百五十七番、いってみるか?」
「……はあ?」
突然自分の囚人番号を呼ばれ、思わず素っ頓狂な声が上がった。友達もいない俺はカラオケなんか小さい頃行ったっきりで最近の歌なんか知らないし、十年近く歌ってもいない。当然大勢の前で歌うのも嫌だし、自分が上手いとも思わない。
だが嫌だの一点張りの俺を置き去りに、結局トントン拍子で予選を勝ち抜き、印刷工場代表として出る事になってしまった。まあこんな事は一生に一度だろうし、流石に腹を括った。
お楽しみ会の時に収容された広間に集められると、審査員が四人、司会者もいた。こんな俺でも流石に緊張する。他の工場の代表はやはり皆上手い。中でも洋裁工場の代表は噂に違わぬ上手さで、ここを出たら歌手にでもなれば良いんじゃないかと俺は一人感心していた。カラオケ大会は清涼飲料水やオヤツのような物も出るから、それ目当てで参加する者も多いが、皆それなりに一年の締め括りのこの行事を楽しみにしている様だ。
そしてようやく俺の番。司会者が少し面食らった様に、曲名と俺を交互に見た。
「何故この曲を?」
「家族との、思い出の曲なんです」
俺の選んだ曲は母さんが父さんにせがまれてよく歌っていた歌。届かぬ人への想いを重ね、愛は苦しいものだと訴える、そんな今風ではない歌。母さんに片想いをしてた時、こんな気持ちだったと父さんが言っていた。どこ迄も女々しい男だ。けれどそんな父さんは、嫌いじゃなかった。
古い曲だし少年刑務所で知ってる奴はいないだろう。女性の歌だが声は取り分けて低い方じゃないし少しキーを落とせば歌える。
前奏が流れるだけで誰もが驚いた顔を見せた。昭和の歌謡曲を十八の男が歌うなんてそりゃびっくりするだろうな。そんな事を思いながら考えてみた。
片想いとはどんな気持ちなのだろう。初恋の前に暗い闇の底に堕ちた俺には分からない。けれど気付けば無意識に、俺は他の受刑者に紛れる山室隆司の姿を捉えていた。他を寄せ付けない強固な表情の中で、熱く揺れる瞳。その強面に似合わず優しげに微笑みながら、真っ直ぐに俺を見詰めていた。人波の中で絡み合った視線を解く事も出来ず、震える唇から紡がれる悲恋の歌。
愛は素晴らしい物だと言った誰かに向けて皮肉を綴った二番の歌詞が、酷く胸に染みた。
そんなカラオケ大会は無事に幕を下ろし、結局は洋裁工場の受刑者が優勝したけれど、俺は何故かウケが良かったらしく、立て続けにアホみたいな告白をされた。中には軽く涙目になってる奴もいて、思わず笑ってしまった。
友達なんかいらないと思っていたのに、何だか自然と打ち解けたような、変な気分だ。くすぐったくて、それでもそんな感情が不思議と嫌ではなかった。漸く性欲処理のアンコじゃなく、一人の人間として認めてもらえた気がしたからかもしれない。
次の休みに俺は運動場に向かった。ただ何と無く、山室隆司がいる気がして。
彼の一等地、何時もの場所に、その姿はあった。骨張った指先、少し猫背な大きな背中、着込んだ服の上からでも分かる引き締まった身体。いつも俺を見付けると迷惑そうに顔を顰める男が、鋭い瞳を細め優しく微笑んでいる。それだけで胸の奥が熱くなった。自分でも驚く程に嬉しかった。会いたかった。声が聞きたかった。それだけ。けれどそれだけの事が、俺にとっては凄く大きい。
隣に腰を下ろすと、山室隆司は珍しく自分から話し掛けて来た。
「随分古い歌知ってんだな。同房の奴ら皆惚れたってよ」
軽い愛想笑いもいつもみたいに上手く出来なくて、それが更に俺を焦らせる。そんな俺に気付いたのか気付いていないのか、隣の男はふいと空を仰いだ。それだけで何故か深く安堵した。目が合ってないだけでホッとするなんて……可笑しい。
「お袋さんが歌っていたのか?」
空を仰いだまま問い掛けられ、俺は素直に頷いた。
「そう。父さんが好きだった歌。教師と生徒だったから、最初は叶わない恋だと思っていたんじゃない?」
「そうか。親父さんはお袋さんの事愛しているんだな」
胸の奥が酷く痛む。そうだよ。父さんは母さんを愛していた。
「愛しすぎて、壊れてしまった。自殺したんだ」
一瞬俺を横目で見たけれど、隆司さんは何も言わなかった。俺の言葉を待っている訳でもない。同情も、慰めも欲しくない事をこの人は知っているんだ。やはり俺は愛と言う感情が憎い。何で人間はそんな物を求め、崇拝するのか分からない。だから少し、意地悪したくなったんだ。
「ねえ、隆司さん。それでも愛は、素晴らしい物で、かけがえのない物だと思う?」
「思うよ」
返って来たものは、迷いのない言葉だった。どうしてそんなにも真っ直ぐに言い切れるんだ。この人は裏切られた事がないのだろうか。そんな事はない。それはまだ関係の浅い俺でも分かる。この男は絶望の中を生きて、深い悲しみに暮れて、それでも、真っ直ぐに人を愛する事の出来る人なんだ。
「なあ、雪。一度で良いから誰かを心の底から愛してみな。例えそれが歪んじまって、憎んで、恨んで、殺したくなったとしても、それでも最期にはそいつの幸せを願える程に。そうしたらきっと分かる。親父さんの気持ちも、お前が嫌う、愛を信じる奴の気持ちも」
夕暮れに染まり始めた空を泳ぐ雲が、ゆっくりと滲んで行く。もう戻らなきゃいけない時間だ。俺を置いて立ち去る広い背中に抱き着く事が出来たなら、どんなに良かったろうか。
今迄何度も家庭のある男に手を出して来た。時には壊して来た。何の罪悪感もない。何の負い目もない。それなのにあの男にだけは、それをしてはならない気がした。もう妻はいないのに。もう、何一つ後ろめたい事はないのに。それでも悲しみを乗り越えなお亡き妻を想い続ける男の気持ちを、踏み躙りたくはなかった。
例えば、この気持ちを言葉で表すのなら、これこそが叶わない、恋なのかもしれない。
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