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『Underground caT』
失墜
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「よし、一服入れようか」
その声に周囲の作業員がこぞって作業の手を止めた。
「山室さん、はい!」
「おう。悪いな」
この現場で一番若手の少年が人数分のコーヒーを手に年の順から配り歩いている。キツイ上下関係の下で生きて来たのだろう。下っ端業務が板に付いている。
それにしても夏場の外作業で喉が焼けそうだ。受け取った缶コーヒーを躊躇もなく一気に飲み干す。冷たい水分が熱い喉を通り抜けて行く感覚が気持ち良くて、懐かしい。プルタブを起こす音も、煙草を吸った時に舌先がピリと痺れる感覚も。
出所してから早くも九ヶ月。何をするにもシャバに出たのだと実感出来る。十三年ぶりだから当然戸惑う事も多かった。例えば線路がやたらと増えていたり、改札を切符も持たずすり抜る連中を見て度肝を抜いたり、テレビがえらく薄っぺらくなっていたり。掃除機が自分で勝手に掃除をしている様をテレビで見た時には流石に感動した。あとはスカイツリーと言う新しい電波塔が立っていた。俺の借りている安いアパートからも小さく見える。僅か十三年なのに、まるで浦島太郎の気分だ。
当然良い事ばかりではなかった。本当は日雇いではなく定職に付きたかった。しかしやはり三十四歳にもなって定職に付いた事も無い俺は、面接の度に何をしていたか聞かれた。毎回そこで言葉に詰まり当然ダメになる。社会に大分遅れを取っているし、まだまだ世の中を勉強し足りない事は自覚している。新聞を何社も取ったり、支援団体の元に通ってみたり。時間がいくらあったって足りやしねえ。
陽が傾き始め、空がジワリと茜色に染まり始めた頃。俺達は監督の合図で片付けを始めた。最近暑くて夜眠れないとか、疲れが取れないとか、そんな下らない会話を楽しんでいると、見覚えのある顔がこっちに手を降りながら走って来るのが見えた。
「隆司さーん、お疲れ様!今日鍋にしたいんだけど食べれない物ある?」
腰くらいの長い髪を雑に頭の上でまとめ、背中に小さな子供を背負う、化粧をしていないからか女性と言うには少し幼く無邪気で可愛らしい女の子。
「悪いね、実咲ちゃん。好き嫌いはないよ」
「だと思った。あ、焼酎?ビール?」
「慎太郎のついでで良いよ」
「はーい!じゃあ五郎行って直ぐ戻って来るから、一緒に帰ろ!」
俺が軽く手を振ると、実咲ちゃんはでかい団子を揺らして颯爽とスーパー五郎へと消えて行った。
慎太郎と言うのは、俺の弟に恩義を受けたとか言って面会に来ていた若いヤクザ。今は足を洗って解体屋をしている。実咲ちゃんは慎太郎の嫁だ。出所以来、慎太郎は一人もんの俺の飯を心配してこうして平日はほぼ毎日嫁と子供を派遣し、仕事が終われば自分自身も襲撃して来るようになった。俺が呼ばれる時もある。慎太郎の家と俺の家自体そんなに離れてもいないから、半々位だろうか。
そもそも俺と慎太郎は面識がなかった。面会室のアクリル越しに数回会った程度。何より俺は社会的にはムショ帰りで、普通ならばなるべくそんな極悪人と関わりを持ちたくないと思うだろう。慎太郎よりも実咲ちゃんの事が心配で構うなと注意したんだが、これは実咲ちゃんから言い出した事だとか。正直一人の家に帰る事が少し億劫だったりもするから助かってはいる。
何より子供が可愛い。もうすぐ二歳になる女の子なんだが、子猿みたいで慎太郎にそっくりだ。二人共大して知りもしない俺を家族の一員のように扱ってくれている。休日に一緒に海に行ったり、動物園にも行った。今度旅行に行こうなんて話しも出ている。亡くした家族の代わりとかそう言うつもりはないが、俺はこの三人を家族同様に愛している。そう言い切れる自信があった。
上がる時に丁度実咲ちゃんも両手にスーパーの袋を持って戻って来た。現場の皆に挨拶をして二人並んで家路に着く。慎太郎の愚痴を聞いてやったりしている事がどうやら彼女のストレス発散になっているらしい。
赤錆の浮いたアパートに帰りつき、二人で何時ものように夕食の準備をしていると、外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ただいま夢ちゃーん!」
俺の家なのにただいまと言って入って来た慎太郎が娘の夢を抱き上げるよりも早く、実咲ちゃんのビンタが飛んだ。
「パパ、汚いからやめて!お風呂入ってから来いって何時も言ってるでしょ!」
こんなんでも二人は仲が良い。喧嘩も多いが、ちゃんとぶつかり合って解決して行く。本当にこの二人にはずっと一緒にいて欲しい。
そんな風に若い二人を応援していると、つい年を取った気になっていけない。俺もまだ三十四歳だ。なんとか仕事を見付けて、生活を安定させたい。それから少しずつやりたかった事と、罪の償いを一生かけてしていこうと思う。そして天国の妻と息子の分まで、精一杯生きていきたい。
そんな愛おしくて穏やかな日々が音を立てて崩れたのは、それから僅か二ヶ月後の事だった。今年は記録的猛暑だった事もあって、九月も末になるのにまだ汗ばむ日も多い。その日はそんな暑さもひと段落ついて、爽やかな秋の風が心地の良い日だった。
道路工事の仕事を終え帰宅すると、アパートの前で呆然と立ち尽くす実咲ちゃんの姿が飛び込んだ。
「……何があった?」
こう言う顔の連中は五万と見て来た。だからどうしたと聞くよりも、何があったのか聞いてしまったのかもしれない。悲しいヤクザの習性。
「隆司さんっパパが……!」
そこ迄言うと実咲ちゃんはボロボロと泣き出してしまった。
取り敢えず落ち着ける為に家に上げて水を一杯差し出してみたが、飲む筈もない。
「……夢は?」
娘の事を認識した途端、実咲ちゃんは漸く息を整え始める。母は強い。こんな時にそんな事を実感してしまった。
「ママに、預けてある……」
実咲ちゃんが落ち着いたのを見計らい、俺は再び問い掛ける。
「何があった?」
胸騒ぎが止まらないんだ。あまりにも、不吉な。
「慎太郎のお母さんが、借金肩代わりしちゃって……それで、あいつ、あてがあるから裏戻るって……!」
何を、バカな。やっとの思いで足を洗ったんじゃないのか。家族を幸せにする為に、カタギに戻ったんじゃないのか?
「……幾らだ?」
「二千万……闇金だったって……」
それはとてもじゃないが、俺にはどうする事も出来ない。まだ出所して一年も経っていないし、貯金もない。
だがこの家族の幸せを守らなくて良いのだろうか。俺は、こんなにも良くしてくれた人達を見捨てる事が出来るのだろうか。俺にはもう家族はいない。慎太郎には守るべき人がまだいる。そう思えば答えは自ずと出た。
俺は今この時、何もかもを捨てようと決めた。胸の奥底で想い続けた妻の事も、息子の事も。許してくれとは言わない。これは俺のエゴだ。たかだか後四十年程のこの人生。自己満足の罪滅ぼしじゃなく、せめて現世に生きる者の為に使いたい。
「実咲ちゃん。何も心配するな。こんな前科者を家族にしてくれてありがとう」
泣きじゃくる実咲ちゃんを家に送り届け、自分のアパートに戻ると、扉の前で立つ一人の男が目に入った。知らない奴だ。男は俺に気付くと柔らかい笑顔を浮かべた。
「あ、山室隆司さん?」
「……あんたは誰だ」
「白井将生です。お金、必要じゃないです?俺の下で働けば稼げますよ」
そう言って微笑んだ白井将生の第一印象は、タイミングもさることながら不気味な男だと思った。見た目は品の良い若手実業家風。だがその瞳の奥底で確かに底知れぬ何かを飼っている。会った事のないタイプだ。全てを見下し、そしてその全てに諦めているような……刑務所で会った少年と似ているようで、また別の冷たさ。冷たいと言って良いのだろうか。俺ですらゾッとする程の、暗い信念の元に生きている男に見えた。
その勘はあたり、よくよく話しを聞いてみれば白井将生は山室組の直参の一つにいたのだが、最近山室組に鞍替えしたらしい。ヤクザだったのだ。山室組はチンピラ上がりの若造はまず入れないし、この男がどれだけ有能かはそれだけで分かった。こうなってしまっては藁にも縋る思いで俺は二つ返事でこの男の下で働く事にした。立場的には準構成員。これで慎太郎は救えると思っていた。
だがそれは大きな間違いだった。この男は俺の所に来る前に慎太郎と話しを付けていたのだ。何の為に俺が白井将生の下で働くのかもはや分からなくなった。まあ、二人で稼げば倍早くなる。そう言う事にしよう。しかし足を洗った筈が、二人揃って再び裏稼業に身を落とすなんて……絶望的だ。
何故俺達が目を付けられたのか良くは分からない。白井将生と言う男の目的が全く見えないのだ。仕事は免許のない俺は秘書と言うにも憚られる位、ほぼ付き人のような事しかしないし、慎太郎は基本運転手。しかし寄り合いの時には正式な構成員が付くから俺達は本当にお付きみたいなもんだ。
法に触れる事をさせては来ない事が不幸中の幸い。金が出来る迄の辛抱だ。そう思っていたのだが、ある日俺達はこの男にハメられていた事に気付く。
それは俺達があの男の下で働くようになって二ヶ月後。白井将生の引っ越しをしていた時の事だった。
今日は寄り合いだから、俺達は家の片付けを任されていた。東京タワーの見える高層マンションのワンフロア。良い所住んでやがる。会員制の愛人紹介所とはそんなに儲かるのだろうか。確かに相手にしている連中はテレビでも見るような政治家や、時には俳優。どこぞの名のある社長と、金回りの良い奴らばかり。
「俺もこんな所に住んでみたいですよ」
窓の外を眺めながら呟く慎太郎に全くだと返し、ふと手に取った一冊の分厚いファイル。黒い表紙には小さく山室隆司・桐島慎太郎と書かれている。自分の名前だし、何気無く開いた瞬間、血の気が一気に引いた。
「……慎太郎、これ」
俺の声色に察したのか恐る恐る手に取った途端、慎太郎は小さく鼻で笑った。馬鹿にしたわけでもなく、絶望からだ。
「やられましたね」
その言葉通り。まんまとやられた。ファイルには事細かに俺達の身に覚えのない犯罪が記されていた。麻薬の運び屋から始まり、武器の運搬、恐ろしい事に先日起こったヤクザ者の発砲事件の関与に至るまで。
迂闊だった。俺達は知らぬ間に犯罪に加担していたのだ。そして全く身に覚えがないにも関わらず、ご丁寧に言い逃れも出来ぬ程の証拠が揃えられている。そしてこの罠は巧妙で、例えば俺が自首すれば芋づる式に組の上層部が捕まる仕組みになっている。組を窮地に追い込んだとあれば俺達はただでは済まないだろう。消されたとしても不思議はない。
俺は良い。だが慎太郎は違う。まだ幼い娘に嫁がいる。単純だが、守るべき者がある人間にとっては一番効くやり口だ。こんな分かりやすくしてくれた事も全てが計算だろう。これを仕込むに僅か二ヶ月とかからなかったと思うと、成る程うちの親父が気に入る筈だ。白井将生とは全く大した奴だ。しかしだからこそ白井将生と言う男が何故そこまで俺達にこだわるのか、まるで分からない。
だがまあ何にせよ罪を犯した事には変わりない。前科者に元ヤクザ者の言う事など、誰も信じてはくれないだろう。俺達は苦渋の決断を下し、白井将生の下で働く事を決めた。この男は普段スレスレであっても合法の事にしか手を出さない。それにのみ手を貸す事を条件に。情けないが屈したのだ。
何かを守る為、罪を犯す事は間違っている。そう言われたらそこ迄だ。だが忘れちゃ困る。俺達は元々極道だ。人の道に外れ生きて来た人間だ。間違いを犯し、人を苦しめ生きて来たんだ。今更、何とも思わない。そう思わないとやっていく自信がなかった。
それから更に二ヶ月後。俺は思わぬ人物と再会を果たす事となった。会社に登録している愛人を迎えに行く為車を出して欲しいと言われ、俺達は何時ものように車を回した。あまりこう言う事はしないのだが、金持ちの都合だったり打ち合わせの関係で将生さんが迎えに出向く事もある。
高級ホテルの前に車を付け、慎太郎とデカイだ綺麗だと下らない話しに花を咲かせていると、中から将生さんに連れられ一人の青年が出てくるのが見えた。
「あれ、若い男ですよ。借金ですかね。大変ですね」
そんな呑気な慎太郎の言葉も、俺には届いていなかった。これは見間違いだろうか。俺はあの青年に、覚えがある気がする。
車に乗り込んだ青年を助手席から振り返って確認すると、青年は大きな瞳を見開いて酷く驚いていた。
「隆、司さん……?」
「……雪か?」
記憶にある坊主頭から随分髪が伸びていて大分印象が違うから最初は他人の空似かと思ったが、間違いない。こんな綺麗な顔をした男、他探してもまずお目にはかかれないだろう。何故こんな所で──。
「あれ、知り合い?」
将生さんの声でふと我に帰る。
「ええ。ムショの時に……」
「へえ、雪ムショに入っていたの?君がいたらさぞ盛り上がるだろうね」
「そう言う言い方よしてやって下さい。こいつだって好きでアンコやってた訳じゃあねえ」
その言葉に将生さんは酷く驚いた顔を見せた。
「……は?何言ってんの?こいつ毎日自分から男引っ掛けるような奴だよ?」
そんなバカな。確かに元々男色の気はあったものの、俺が刑務所を出る直前はもうアンコでも無かったし、顔付きも大分変わっていた筈。
呆然とする俺を他所に、将生さんが雪の耳元に唇を寄せると、雪は小さく笑った。
「……流石。よく分かってるね」
その瞳の色は、刑務所で最初に会った時の物だ。
一体何があった。何もかも戻ってしまったのだろうか。かと言って俺が何をした訳でもない。ただ話し相手になってやった。こいつにしてやった事はそれだけだ。
細い指を首元に絡め自ら導いて行くその様は、予想以上に慣れた手付きだった。
「ちょっと、勘弁して下さいよ!家直ぐですから続きは二人でお願いしますよ!」
慎太郎の叫びに二人は漸く身体を離した。だが、将生さんは思い立ったようにとんでもない事を言ってのけた。
「いや、山室さ、これ飼わない?今うちに置いているんだけど、ほら、俺も忙しいからさ。生意気だけど可愛い奴だよ。頼めば抱かせてくれるんじゃない?」
「将生さん!」
慌てる雪を制すと、将生さんは嫌な笑みを浮かべた。
「良いよね、山室」
この男、何を考えている。そう警戒しても、その言葉の裏には逆らう事は許さないと言う強い命令が確かにあった。
「良いですよ。知らない仲でもないですし」
慎太郎がびっくりしていたが、そう言うしかないだろ。この男に従わないと痛い目を見るのは俺達だ。その心を汲んだのか、慎太郎も納得した様だった。
アパートの前に俺と雪を下ろすと、少し心配そうな顔をしていたが慎太郎はそのまま夜の街へと消えて行った。
赤錆の浮いた階段を上り一番奥が俺の部屋。家賃四万のボロアパートだ。この辺りは下町で赤提灯のぶら下がる居酒屋が多い。俺には住み心地の良い場所だが、この品の良さそうな青年にはどうだろうか。
「……足洗うんじゃなかったの。あの人ヤクザだって知らない訳じゃないだろ」
玄関に入るやいなや痛い質問だ。
「まあ、色々あってな。……飯食いに行くか」
納得していないようだが話せる事でもない。ボストンバッグ一つだけの少ない荷物を家に置いて、俺達は再び家を出た。
こいつとこんな風に夜道を歩くとは思ってもいなかったな。少し目を伏せて歩く癖は刑務所にいた時と変わっていない。しかし髪が伸びたからか、余計変な色気が増した。
「あ、風呂がねえんだよ」
ふと思い出した事を口にすると、あからさまに嫌そうな顔をされた。
「……風呂ないの?」
「悪いな。帰りに銭湯寄ろうな」
ふいと顔を逸らされてしまった。確かにこいつは銭湯なんか行った事もなさそうだ。だがまあ、刑務所暮らしをしていたのだからそれ位なんともないだろう。
その日は俺が良く行く居酒屋に連れて行った。赤提灯と、店先に置かれたビールケースの椅子に汚いベニヤの机。小汚いし酒も良くないが、こう言う雰囲気が好きで通っている。
暖簾を潜ると見慣れた初老の店主が満面の笑みで迎えてくれた。
「おっ、りゅうちゃんいらっしゃい!あんたの連れかい?興味ないなんて顔してやるねえ。えらい美人さんじゃねえか!」
店主は目も悪く常に酔っ払っているからこう言う絡みはいつもの事だ。それに年寄りには最近のひょろっとした男は女と見分けが付きにくいらしい。
「俺男だけど」
癪に触ったらしい雪を何とか宥めて漸く落ち着いて席についた。
取り敢えずビールで再会を乾杯し、適当に話しを振ってみたが終始ブスッとしたままだ。何か食い付く話題は無いものか──。
「お前さん、出た時何最初に食った?」
これもまた徒労に終わる話題かも知れないが、年も一回り離れているし俺達の共通の話題と言えばムショ関連しかない。だが予想に反して雪は一瞬考えた後ポツリと呟いた。
「立ち食い蕎麦」
これは好感触かも知れないとホッと胸を撫で下ろす。
「俺も蕎麦だったな。危なく泣きそうになったよ」
「俺なんか泣いたよ」
そう言ってやっと、雪は小さく笑ってくれた。人間誰でも笑った顔が一番良い。確かに雪は黙ってりゃ男顔の女と間違えられる位相当な美人だが、こう言うガキ臭い顔の方が俺は好きだ。ふとこんな若造のご機嫌取りなんてするようになった自分に笑える。
軽い夕飯を終えて俺達は銭湯に向かった。しかしいざ店先に来ると、雪は頑なに拒み始め仕方なく俺だけ入る事となってしまった。別にそれも良いんだが、裸の付き合いってもんが人の心を近づける。俺の中にそんな古い考えがある事も確かだ。
銭湯に来る爺さん方とももう顔見知りで、危うく捕まる所だったが、それを何とか振り切って湯船にも浸からず早々に切り上げる。
銭湯の軒先、電柱の影に隠れるようにして膝を抱え律儀に俺を待っていた雪を見た時、何だか変な気持ちになった。強いて言うなら罪悪感に近い。それはこの寒空の下で待たせていた事でもない。弱い街灯に照らされた暗いアスファルトを見詰める横顔が酷く、寂しそうに見えたからだろうか。
「寒かっただろう。悪いな」
雪はそんな俺に小さく首を振っただけだ。気のせいだろうか。一切目を合わせてくれない。何か悩んでいるのだろうか。そんな事を考えていたら帰り道は終始無言になってしまった。
身体が冷え切る前に家に辿り着き、取り敢えず寝床を作ろうと思ったものの、八畳一間の狭い部屋だ。布団だって一組しかない。どうしたもんか。
「良いよ。俺夜は出ていくから」
思案を巡らす俺に気を使ったのか、雪はそんな事を口走った。出ていくったってどこに……と聞こうとも思ったが、大方男の所だろう。不意に最初の疑問が蘇る。
「何でこんな事をしている?」
その問いかけに、雪は長い時を経て漸く俺と視線を絡めた。しかしそれは、あからさまに好戦的なものだった。
「……何で?俺は元々こう言う人間だからだよ。刑務所で少し話した程度で俺の事全て知ったつもり?」
言われてみればそうかもしれない。一年半位の付き合いで余計なお世話と言われたらそこまでだ。
「──隆司さん?」
その声に我に帰った瞬間、首にスルリと細腕が回された。
「抱いてみたら分かるよ。俺がどんな人間か、ね」
耳元を擽る甘い声は堕落へと誘う、悪魔の囁きだ。正直ゾッとした。俺は今迄男にそう言う感情を抱いた事はない。これからも予定はない。それなのにそんな事を凌駕する程、目の前の線の細い青年は恐ろしい色気を放つ。身の危険を感じ思いっきり引き離すと、雪は小さく嗤った。
「相変わらずつまんない男」
その瞳の奥底で揺れる闇は、刑務所で会った時よりも色濃くなっている気がする。それになんだろうか。雪が持つ俺への感情が不気味に揺らいでいる。
「……俺を、恨んでいるのか?」
恨まれる覚えは無いのだが、確かにその瞳にはそれが強く浮き出て見えた。そう言う事には敏感な方だ。この勘は多分間違ってはいない。じっと俺を見詰めた後に、雪は今入って来た扉へ軽々と踵を返した。
「……自意識過剰。合鍵ないの?たまには顔見せに帰って来てやるよ。そうしないと将生さんに怒られるだろう?」
「待て、話しを……!」
慌てて掴もうと伸ばした腕をひらりとかわし、雪は扉の向こうへと消えて行った。音を立てて閉められた薄い扉が、無情にも俺達の間を隔てる。
好きで男に抱かれているなら放っておけば良い。俺の知った事じゃない。だが好きでやっているならあんなにも辛そうな面をする筈がない。一体あいつはどうしたって言うんだ。何を抱えている。
取り残された部屋でしばらく、動く事すら出来なかった。
その声に周囲の作業員がこぞって作業の手を止めた。
「山室さん、はい!」
「おう。悪いな」
この現場で一番若手の少年が人数分のコーヒーを手に年の順から配り歩いている。キツイ上下関係の下で生きて来たのだろう。下っ端業務が板に付いている。
それにしても夏場の外作業で喉が焼けそうだ。受け取った缶コーヒーを躊躇もなく一気に飲み干す。冷たい水分が熱い喉を通り抜けて行く感覚が気持ち良くて、懐かしい。プルタブを起こす音も、煙草を吸った時に舌先がピリと痺れる感覚も。
出所してから早くも九ヶ月。何をするにもシャバに出たのだと実感出来る。十三年ぶりだから当然戸惑う事も多かった。例えば線路がやたらと増えていたり、改札を切符も持たずすり抜る連中を見て度肝を抜いたり、テレビがえらく薄っぺらくなっていたり。掃除機が自分で勝手に掃除をしている様をテレビで見た時には流石に感動した。あとはスカイツリーと言う新しい電波塔が立っていた。俺の借りている安いアパートからも小さく見える。僅か十三年なのに、まるで浦島太郎の気分だ。
当然良い事ばかりではなかった。本当は日雇いではなく定職に付きたかった。しかしやはり三十四歳にもなって定職に付いた事も無い俺は、面接の度に何をしていたか聞かれた。毎回そこで言葉に詰まり当然ダメになる。社会に大分遅れを取っているし、まだまだ世の中を勉強し足りない事は自覚している。新聞を何社も取ったり、支援団体の元に通ってみたり。時間がいくらあったって足りやしねえ。
陽が傾き始め、空がジワリと茜色に染まり始めた頃。俺達は監督の合図で片付けを始めた。最近暑くて夜眠れないとか、疲れが取れないとか、そんな下らない会話を楽しんでいると、見覚えのある顔がこっちに手を降りながら走って来るのが見えた。
「隆司さーん、お疲れ様!今日鍋にしたいんだけど食べれない物ある?」
腰くらいの長い髪を雑に頭の上でまとめ、背中に小さな子供を背負う、化粧をしていないからか女性と言うには少し幼く無邪気で可愛らしい女の子。
「悪いね、実咲ちゃん。好き嫌いはないよ」
「だと思った。あ、焼酎?ビール?」
「慎太郎のついでで良いよ」
「はーい!じゃあ五郎行って直ぐ戻って来るから、一緒に帰ろ!」
俺が軽く手を振ると、実咲ちゃんはでかい団子を揺らして颯爽とスーパー五郎へと消えて行った。
慎太郎と言うのは、俺の弟に恩義を受けたとか言って面会に来ていた若いヤクザ。今は足を洗って解体屋をしている。実咲ちゃんは慎太郎の嫁だ。出所以来、慎太郎は一人もんの俺の飯を心配してこうして平日はほぼ毎日嫁と子供を派遣し、仕事が終われば自分自身も襲撃して来るようになった。俺が呼ばれる時もある。慎太郎の家と俺の家自体そんなに離れてもいないから、半々位だろうか。
そもそも俺と慎太郎は面識がなかった。面会室のアクリル越しに数回会った程度。何より俺は社会的にはムショ帰りで、普通ならばなるべくそんな極悪人と関わりを持ちたくないと思うだろう。慎太郎よりも実咲ちゃんの事が心配で構うなと注意したんだが、これは実咲ちゃんから言い出した事だとか。正直一人の家に帰る事が少し億劫だったりもするから助かってはいる。
何より子供が可愛い。もうすぐ二歳になる女の子なんだが、子猿みたいで慎太郎にそっくりだ。二人共大して知りもしない俺を家族の一員のように扱ってくれている。休日に一緒に海に行ったり、動物園にも行った。今度旅行に行こうなんて話しも出ている。亡くした家族の代わりとかそう言うつもりはないが、俺はこの三人を家族同様に愛している。そう言い切れる自信があった。
上がる時に丁度実咲ちゃんも両手にスーパーの袋を持って戻って来た。現場の皆に挨拶をして二人並んで家路に着く。慎太郎の愚痴を聞いてやったりしている事がどうやら彼女のストレス発散になっているらしい。
赤錆の浮いたアパートに帰りつき、二人で何時ものように夕食の準備をしていると、外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ただいま夢ちゃーん!」
俺の家なのにただいまと言って入って来た慎太郎が娘の夢を抱き上げるよりも早く、実咲ちゃんのビンタが飛んだ。
「パパ、汚いからやめて!お風呂入ってから来いって何時も言ってるでしょ!」
こんなんでも二人は仲が良い。喧嘩も多いが、ちゃんとぶつかり合って解決して行く。本当にこの二人にはずっと一緒にいて欲しい。
そんな風に若い二人を応援していると、つい年を取った気になっていけない。俺もまだ三十四歳だ。なんとか仕事を見付けて、生活を安定させたい。それから少しずつやりたかった事と、罪の償いを一生かけてしていこうと思う。そして天国の妻と息子の分まで、精一杯生きていきたい。
そんな愛おしくて穏やかな日々が音を立てて崩れたのは、それから僅か二ヶ月後の事だった。今年は記録的猛暑だった事もあって、九月も末になるのにまだ汗ばむ日も多い。その日はそんな暑さもひと段落ついて、爽やかな秋の風が心地の良い日だった。
道路工事の仕事を終え帰宅すると、アパートの前で呆然と立ち尽くす実咲ちゃんの姿が飛び込んだ。
「……何があった?」
こう言う顔の連中は五万と見て来た。だからどうしたと聞くよりも、何があったのか聞いてしまったのかもしれない。悲しいヤクザの習性。
「隆司さんっパパが……!」
そこ迄言うと実咲ちゃんはボロボロと泣き出してしまった。
取り敢えず落ち着ける為に家に上げて水を一杯差し出してみたが、飲む筈もない。
「……夢は?」
娘の事を認識した途端、実咲ちゃんは漸く息を整え始める。母は強い。こんな時にそんな事を実感してしまった。
「ママに、預けてある……」
実咲ちゃんが落ち着いたのを見計らい、俺は再び問い掛ける。
「何があった?」
胸騒ぎが止まらないんだ。あまりにも、不吉な。
「慎太郎のお母さんが、借金肩代わりしちゃって……それで、あいつ、あてがあるから裏戻るって……!」
何を、バカな。やっとの思いで足を洗ったんじゃないのか。家族を幸せにする為に、カタギに戻ったんじゃないのか?
「……幾らだ?」
「二千万……闇金だったって……」
それはとてもじゃないが、俺にはどうする事も出来ない。まだ出所して一年も経っていないし、貯金もない。
だがこの家族の幸せを守らなくて良いのだろうか。俺は、こんなにも良くしてくれた人達を見捨てる事が出来るのだろうか。俺にはもう家族はいない。慎太郎には守るべき人がまだいる。そう思えば答えは自ずと出た。
俺は今この時、何もかもを捨てようと決めた。胸の奥底で想い続けた妻の事も、息子の事も。許してくれとは言わない。これは俺のエゴだ。たかだか後四十年程のこの人生。自己満足の罪滅ぼしじゃなく、せめて現世に生きる者の為に使いたい。
「実咲ちゃん。何も心配するな。こんな前科者を家族にしてくれてありがとう」
泣きじゃくる実咲ちゃんを家に送り届け、自分のアパートに戻ると、扉の前で立つ一人の男が目に入った。知らない奴だ。男は俺に気付くと柔らかい笑顔を浮かべた。
「あ、山室隆司さん?」
「……あんたは誰だ」
「白井将生です。お金、必要じゃないです?俺の下で働けば稼げますよ」
そう言って微笑んだ白井将生の第一印象は、タイミングもさることながら不気味な男だと思った。見た目は品の良い若手実業家風。だがその瞳の奥底で確かに底知れぬ何かを飼っている。会った事のないタイプだ。全てを見下し、そしてその全てに諦めているような……刑務所で会った少年と似ているようで、また別の冷たさ。冷たいと言って良いのだろうか。俺ですらゾッとする程の、暗い信念の元に生きている男に見えた。
その勘はあたり、よくよく話しを聞いてみれば白井将生は山室組の直参の一つにいたのだが、最近山室組に鞍替えしたらしい。ヤクザだったのだ。山室組はチンピラ上がりの若造はまず入れないし、この男がどれだけ有能かはそれだけで分かった。こうなってしまっては藁にも縋る思いで俺は二つ返事でこの男の下で働く事にした。立場的には準構成員。これで慎太郎は救えると思っていた。
だがそれは大きな間違いだった。この男は俺の所に来る前に慎太郎と話しを付けていたのだ。何の為に俺が白井将生の下で働くのかもはや分からなくなった。まあ、二人で稼げば倍早くなる。そう言う事にしよう。しかし足を洗った筈が、二人揃って再び裏稼業に身を落とすなんて……絶望的だ。
何故俺達が目を付けられたのか良くは分からない。白井将生と言う男の目的が全く見えないのだ。仕事は免許のない俺は秘書と言うにも憚られる位、ほぼ付き人のような事しかしないし、慎太郎は基本運転手。しかし寄り合いの時には正式な構成員が付くから俺達は本当にお付きみたいなもんだ。
法に触れる事をさせては来ない事が不幸中の幸い。金が出来る迄の辛抱だ。そう思っていたのだが、ある日俺達はこの男にハメられていた事に気付く。
それは俺達があの男の下で働くようになって二ヶ月後。白井将生の引っ越しをしていた時の事だった。
今日は寄り合いだから、俺達は家の片付けを任されていた。東京タワーの見える高層マンションのワンフロア。良い所住んでやがる。会員制の愛人紹介所とはそんなに儲かるのだろうか。確かに相手にしている連中はテレビでも見るような政治家や、時には俳優。どこぞの名のある社長と、金回りの良い奴らばかり。
「俺もこんな所に住んでみたいですよ」
窓の外を眺めながら呟く慎太郎に全くだと返し、ふと手に取った一冊の分厚いファイル。黒い表紙には小さく山室隆司・桐島慎太郎と書かれている。自分の名前だし、何気無く開いた瞬間、血の気が一気に引いた。
「……慎太郎、これ」
俺の声色に察したのか恐る恐る手に取った途端、慎太郎は小さく鼻で笑った。馬鹿にしたわけでもなく、絶望からだ。
「やられましたね」
その言葉通り。まんまとやられた。ファイルには事細かに俺達の身に覚えのない犯罪が記されていた。麻薬の運び屋から始まり、武器の運搬、恐ろしい事に先日起こったヤクザ者の発砲事件の関与に至るまで。
迂闊だった。俺達は知らぬ間に犯罪に加担していたのだ。そして全く身に覚えがないにも関わらず、ご丁寧に言い逃れも出来ぬ程の証拠が揃えられている。そしてこの罠は巧妙で、例えば俺が自首すれば芋づる式に組の上層部が捕まる仕組みになっている。組を窮地に追い込んだとあれば俺達はただでは済まないだろう。消されたとしても不思議はない。
俺は良い。だが慎太郎は違う。まだ幼い娘に嫁がいる。単純だが、守るべき者がある人間にとっては一番効くやり口だ。こんな分かりやすくしてくれた事も全てが計算だろう。これを仕込むに僅か二ヶ月とかからなかったと思うと、成る程うちの親父が気に入る筈だ。白井将生とは全く大した奴だ。しかしだからこそ白井将生と言う男が何故そこまで俺達にこだわるのか、まるで分からない。
だがまあ何にせよ罪を犯した事には変わりない。前科者に元ヤクザ者の言う事など、誰も信じてはくれないだろう。俺達は苦渋の決断を下し、白井将生の下で働く事を決めた。この男は普段スレスレであっても合法の事にしか手を出さない。それにのみ手を貸す事を条件に。情けないが屈したのだ。
何かを守る為、罪を犯す事は間違っている。そう言われたらそこ迄だ。だが忘れちゃ困る。俺達は元々極道だ。人の道に外れ生きて来た人間だ。間違いを犯し、人を苦しめ生きて来たんだ。今更、何とも思わない。そう思わないとやっていく自信がなかった。
それから更に二ヶ月後。俺は思わぬ人物と再会を果たす事となった。会社に登録している愛人を迎えに行く為車を出して欲しいと言われ、俺達は何時ものように車を回した。あまりこう言う事はしないのだが、金持ちの都合だったり打ち合わせの関係で将生さんが迎えに出向く事もある。
高級ホテルの前に車を付け、慎太郎とデカイだ綺麗だと下らない話しに花を咲かせていると、中から将生さんに連れられ一人の青年が出てくるのが見えた。
「あれ、若い男ですよ。借金ですかね。大変ですね」
そんな呑気な慎太郎の言葉も、俺には届いていなかった。これは見間違いだろうか。俺はあの青年に、覚えがある気がする。
車に乗り込んだ青年を助手席から振り返って確認すると、青年は大きな瞳を見開いて酷く驚いていた。
「隆、司さん……?」
「……雪か?」
記憶にある坊主頭から随分髪が伸びていて大分印象が違うから最初は他人の空似かと思ったが、間違いない。こんな綺麗な顔をした男、他探してもまずお目にはかかれないだろう。何故こんな所で──。
「あれ、知り合い?」
将生さんの声でふと我に帰る。
「ええ。ムショの時に……」
「へえ、雪ムショに入っていたの?君がいたらさぞ盛り上がるだろうね」
「そう言う言い方よしてやって下さい。こいつだって好きでアンコやってた訳じゃあねえ」
その言葉に将生さんは酷く驚いた顔を見せた。
「……は?何言ってんの?こいつ毎日自分から男引っ掛けるような奴だよ?」
そんなバカな。確かに元々男色の気はあったものの、俺が刑務所を出る直前はもうアンコでも無かったし、顔付きも大分変わっていた筈。
呆然とする俺を他所に、将生さんが雪の耳元に唇を寄せると、雪は小さく笑った。
「……流石。よく分かってるね」
その瞳の色は、刑務所で最初に会った時の物だ。
一体何があった。何もかも戻ってしまったのだろうか。かと言って俺が何をした訳でもない。ただ話し相手になってやった。こいつにしてやった事はそれだけだ。
細い指を首元に絡め自ら導いて行くその様は、予想以上に慣れた手付きだった。
「ちょっと、勘弁して下さいよ!家直ぐですから続きは二人でお願いしますよ!」
慎太郎の叫びに二人は漸く身体を離した。だが、将生さんは思い立ったようにとんでもない事を言ってのけた。
「いや、山室さ、これ飼わない?今うちに置いているんだけど、ほら、俺も忙しいからさ。生意気だけど可愛い奴だよ。頼めば抱かせてくれるんじゃない?」
「将生さん!」
慌てる雪を制すと、将生さんは嫌な笑みを浮かべた。
「良いよね、山室」
この男、何を考えている。そう警戒しても、その言葉の裏には逆らう事は許さないと言う強い命令が確かにあった。
「良いですよ。知らない仲でもないですし」
慎太郎がびっくりしていたが、そう言うしかないだろ。この男に従わないと痛い目を見るのは俺達だ。その心を汲んだのか、慎太郎も納得した様だった。
アパートの前に俺と雪を下ろすと、少し心配そうな顔をしていたが慎太郎はそのまま夜の街へと消えて行った。
赤錆の浮いた階段を上り一番奥が俺の部屋。家賃四万のボロアパートだ。この辺りは下町で赤提灯のぶら下がる居酒屋が多い。俺には住み心地の良い場所だが、この品の良さそうな青年にはどうだろうか。
「……足洗うんじゃなかったの。あの人ヤクザだって知らない訳じゃないだろ」
玄関に入るやいなや痛い質問だ。
「まあ、色々あってな。……飯食いに行くか」
納得していないようだが話せる事でもない。ボストンバッグ一つだけの少ない荷物を家に置いて、俺達は再び家を出た。
こいつとこんな風に夜道を歩くとは思ってもいなかったな。少し目を伏せて歩く癖は刑務所にいた時と変わっていない。しかし髪が伸びたからか、余計変な色気が増した。
「あ、風呂がねえんだよ」
ふと思い出した事を口にすると、あからさまに嫌そうな顔をされた。
「……風呂ないの?」
「悪いな。帰りに銭湯寄ろうな」
ふいと顔を逸らされてしまった。確かにこいつは銭湯なんか行った事もなさそうだ。だがまあ、刑務所暮らしをしていたのだからそれ位なんともないだろう。
その日は俺が良く行く居酒屋に連れて行った。赤提灯と、店先に置かれたビールケースの椅子に汚いベニヤの机。小汚いし酒も良くないが、こう言う雰囲気が好きで通っている。
暖簾を潜ると見慣れた初老の店主が満面の笑みで迎えてくれた。
「おっ、りゅうちゃんいらっしゃい!あんたの連れかい?興味ないなんて顔してやるねえ。えらい美人さんじゃねえか!」
店主は目も悪く常に酔っ払っているからこう言う絡みはいつもの事だ。それに年寄りには最近のひょろっとした男は女と見分けが付きにくいらしい。
「俺男だけど」
癪に触ったらしい雪を何とか宥めて漸く落ち着いて席についた。
取り敢えずビールで再会を乾杯し、適当に話しを振ってみたが終始ブスッとしたままだ。何か食い付く話題は無いものか──。
「お前さん、出た時何最初に食った?」
これもまた徒労に終わる話題かも知れないが、年も一回り離れているし俺達の共通の話題と言えばムショ関連しかない。だが予想に反して雪は一瞬考えた後ポツリと呟いた。
「立ち食い蕎麦」
これは好感触かも知れないとホッと胸を撫で下ろす。
「俺も蕎麦だったな。危なく泣きそうになったよ」
「俺なんか泣いたよ」
そう言ってやっと、雪は小さく笑ってくれた。人間誰でも笑った顔が一番良い。確かに雪は黙ってりゃ男顔の女と間違えられる位相当な美人だが、こう言うガキ臭い顔の方が俺は好きだ。ふとこんな若造のご機嫌取りなんてするようになった自分に笑える。
軽い夕飯を終えて俺達は銭湯に向かった。しかしいざ店先に来ると、雪は頑なに拒み始め仕方なく俺だけ入る事となってしまった。別にそれも良いんだが、裸の付き合いってもんが人の心を近づける。俺の中にそんな古い考えがある事も確かだ。
銭湯に来る爺さん方とももう顔見知りで、危うく捕まる所だったが、それを何とか振り切って湯船にも浸からず早々に切り上げる。
銭湯の軒先、電柱の影に隠れるようにして膝を抱え律儀に俺を待っていた雪を見た時、何だか変な気持ちになった。強いて言うなら罪悪感に近い。それはこの寒空の下で待たせていた事でもない。弱い街灯に照らされた暗いアスファルトを見詰める横顔が酷く、寂しそうに見えたからだろうか。
「寒かっただろう。悪いな」
雪はそんな俺に小さく首を振っただけだ。気のせいだろうか。一切目を合わせてくれない。何か悩んでいるのだろうか。そんな事を考えていたら帰り道は終始無言になってしまった。
身体が冷え切る前に家に辿り着き、取り敢えず寝床を作ろうと思ったものの、八畳一間の狭い部屋だ。布団だって一組しかない。どうしたもんか。
「良いよ。俺夜は出ていくから」
思案を巡らす俺に気を使ったのか、雪はそんな事を口走った。出ていくったってどこに……と聞こうとも思ったが、大方男の所だろう。不意に最初の疑問が蘇る。
「何でこんな事をしている?」
その問いかけに、雪は長い時を経て漸く俺と視線を絡めた。しかしそれは、あからさまに好戦的なものだった。
「……何で?俺は元々こう言う人間だからだよ。刑務所で少し話した程度で俺の事全て知ったつもり?」
言われてみればそうかもしれない。一年半位の付き合いで余計なお世話と言われたらそこまでだ。
「──隆司さん?」
その声に我に帰った瞬間、首にスルリと細腕が回された。
「抱いてみたら分かるよ。俺がどんな人間か、ね」
耳元を擽る甘い声は堕落へと誘う、悪魔の囁きだ。正直ゾッとした。俺は今迄男にそう言う感情を抱いた事はない。これからも予定はない。それなのにそんな事を凌駕する程、目の前の線の細い青年は恐ろしい色気を放つ。身の危険を感じ思いっきり引き離すと、雪は小さく嗤った。
「相変わらずつまんない男」
その瞳の奥底で揺れる闇は、刑務所で会った時よりも色濃くなっている気がする。それになんだろうか。雪が持つ俺への感情が不気味に揺らいでいる。
「……俺を、恨んでいるのか?」
恨まれる覚えは無いのだが、確かにその瞳にはそれが強く浮き出て見えた。そう言う事には敏感な方だ。この勘は多分間違ってはいない。じっと俺を見詰めた後に、雪は今入って来た扉へ軽々と踵を返した。
「……自意識過剰。合鍵ないの?たまには顔見せに帰って来てやるよ。そうしないと将生さんに怒られるだろう?」
「待て、話しを……!」
慌てて掴もうと伸ばした腕をひらりとかわし、雪は扉の向こうへと消えて行った。音を立てて閉められた薄い扉が、無情にも俺達の間を隔てる。
好きで男に抱かれているなら放っておけば良い。俺の知った事じゃない。だが好きでやっているならあんなにも辛そうな面をする筈がない。一体あいつはどうしたって言うんだ。何を抱えている。
取り残された部屋でしばらく、動く事すら出来なかった。
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