21 / 80
『Underground caT』
苦悶のテンプテーション
しおりを挟む何でこんなにも苛つくのだろう。刑務所を出て間も無く一年。こんなにも苛立った事は未だかつて無かった。
「雪、今日どうしたの?」
その声に視線を上げると、余裕のない表情が待ってと訴えている。その問いに、仕方なく男の足の間から身体を起こす。
「何?」
「ううん、なんか何時もより丁寧だなと思って」
そんなつもりは毛頭なかったし、俺は特に好きでもないフェラもこの男が好きだからやってやっているに過ぎなかった。
そもそも必要以上の前戯なんて、俺には必要ないんだ。乱して、乱されて、ぐずぐずに融けた暴力的なセックスが好きな性質は未だに変わらない。けれど一応にも金を落としてくれる客だから、適度に望みは叶えてやらなければならない。
「優さんは、もっと甘いのがお好み?」
さっき迄口に含んでいた怒張を指先で弄びながら薄く微笑み小首を傾げて問いかけてやるだけで、男は熱い吐息を漏らした。
「いや、そんな君も好きだよ。だけどちょっと休憩!少しでも長く、一緒にいたいからね」
そう言って額に唇を落とし、優しく髪を撫でるこの人は進藤優。よく気が利いて、一緒にいて嫌な思いをした事がない。嫌味の無い優しい男。
裸の胸にそっと頬を寄せると、上品な香水の匂いが鼻先を擽った。温かい。また、胸の奥がムカムカする。
「今日は上の空だね。何かあったの?」
自覚も無かっただけに一瞬変な汗をかいた。
「ちょっと、寝不足なのかも」
軽く笑って誤魔化してみたけれど、優さんは厳しい表情を崩さなかった。
「隠さなくても良いよ。好きな人でも出来たんでしょ」
何を言い出すかと思えば、バカだな。そのせいで今日はずっとベタベタしていたのかと思うと可笑しかった。だから態とらしく挑発を続ける。俺の厭いやな性だ。
「優さんは、片想いした事ある?」
「君らしくない質問だね。当然あるよ」
「絶対に叶わない片想いは?」
少し吊り目の瞳が射るように俺を見詰めた。それだけで芯がじわりと熱を持ち、揺らぐ嫉妬心に甘い期待が頭を擡げる。
「今、してる」
突拍子もない発言に思わず鼻で笑ってしまった。
「何それ、面白いね」
「雪、僕は──」
俺は言葉を待たずに唇を塞ぐ。続く言葉は、聞きたくない。口に出したらいけない。俺達はこの危うい均衡を保たなきゃいけないんだ。それが、長持ちの秘訣。
「ねえ、もういいじゃん。一緒にいる時は俺、優さんの物だよ。……言いたい事分かるでしょう?」
「……そうだね。下らない事言ってごめん。もう少し、こうしていようね」
そう言って苦しい程にキツく俺の身体を抱き締める。それがこの人の心の痛み。俺が欲しい。でも優さんには家庭がある。手に入らない焦燥が断続的な鈍い痛みを与えて行く。けれど人間は苦しんでいるフリをして、その甘美な毒を喜んで舐める。罪悪感に背徳心、満たされない金持ちのイケナイ遊び。俺はそう言う意味では最高の遊び相手だ。
満足なんてあげない。安心感なんてあげない。だから、楽しませてくれれば良い。
「じゃあ、またね」
小さく手を振ると車は静かに走り出す。ボロいアパートを見上げると、つい溜息が漏れた。
俺の苛立ちの原因、山室隆司。将生さんの気まぐれで一緒に住む事になってしまった。何でこんな事をしているのかなんて、バカな事を聞く男だ。
俺は刑務所を出た後、日替わりで男を引っ掛けて生きていたけれど、やはり金に困った。そんな時に将生さんの事を思い出したのだ。
会員制愛人紹介所、Underground rabitT──。最初はやはり迷った。それと言うのも、今迄関係を持った男からは金をもらった事はないから。金で身体を売れば本当に自分が無くなる気がして。〝物〟とか〝商品〟とか、そんな負い目を感じる気がしていたから。
けれど生きていく為に背に腹は変えられなくて、漸く電話を掛けたのが半年前。いざやってみたら何にも変わらなかった。金もらって抱かれる事も、合意の上での遊びも。バカみたいに守っていた物は何の意味もなかった。
何時もそうだ。俺は愚かで、頭が悪い。それも誰かの腕の中にいれば全部全部、忘れられる。
玄関の脇の小窓から漏れた明かりに、隆司さんが家にいる事が分かった。それだけで足が重くなる。
会いたくない。二度と、会いたくはなかった。こんな形で再会するとは思わなかったな。さぞ軽蔑しただろう。だから何だって話しだけど。着替えだけ取ったら直ぐに家を出れば良い。そう思って色褪せた扉を開く。
「隆司さんおかえりー!」
予想だにしていなかった女の声が俺を出迎えた。あっちもまるで予想外だったのか、お玉を片手に目を丸くして呆然としている。隆司さんの女か?
「……どうも」
「あ……どうも。えっと、もしかして雪君?」
取り敢えず挨拶したら予想外に名前を言い当てられてしまった。
「……あんたは?」
俺の事が分かって安心したのか、女はホッとしたように微笑んだ。
「桐島実咲、慎太郎の嫁。ああ良かった。一瞬強盗かと思っちゃった」
慎太郎ってあの猿みたいな奴か。良かった良かった言いながら猿の嫁は再び料理を再開した。背中に背負った子供がジーッと俺を見詰めている。気持ち悪い位父親にそっくりだ。
「雪君は何か嫌いな物ある?」
まるで俺が一緒に飯食う前提での押し付けがましい質問に、胸の奥が嫌に騒つく。
「いらない。着替え取りにきただけだから」
それだけ言って慌てて家を飛び出した。あの感じだと直ぐに隆司さんは帰って来るのだろう。その前に離れたい。そう思ったけれど、階段を上ってくる二つの影が見えて思わず舌打ちしてしまった。
「何してんだ。ほら、入れよ」
俺に気付いた隆司さんが少し驚いた顔をして見せた。一気にすり抜けようと走り出す。しかし狭い階段だ。直ぐに掴まってしまった。
「雪、少し話しをしないか?」
「あんたとする話しなんかないよ」
手を振り払おうにもこの男と俺じゃ体格が違い過ぎる。無駄な抵抗だと早々に諦めた。
「慎太郎、悪いな。直ぐに戻るから」
「あ……はい。実咲に伝えときます」
そう言って猿が立ち去った後に残ったものは、変な気まずさだけだ。
「……お袋さんと上手くいかなかったのか?」
少し伺うように問い掛けられ、頭に血が上って行くのを感じる。あんたを信じたから、傷付いた。
「あんたこそ、息子はどうしたんだよ。殺人犯の親はいらないって?」
苛立ちにおされ、余りにも残酷な言葉が自然と口をついた。顔を見なくても分かる。俺は今、この人を傷付けた。
これで分かっただろう。俺はこう言う人間だ。真っ直ぐな優しさが、今は苦しい。
「俺がちゃんと向き合えって言ったからか。だから俺の事を──」
「分かったら放っとけよ。お人好しもそこ迄行くとウザいんだよ」
自分の口から漏れる乾いた笑いにさえ虚しくなる。遠くで響くサイレンの音。それに吠え付く犬の声。何もかもが鬱陶しく思える程、重い沈黙が流れた。隆司さんの大きな手がポンと頭を叩く。
「鍵、作ったから。たまには顔見せろ。心配だからよ」
ポケットから出したちいなさ銀色の鍵を渡しアパートへと帰る背中すら見れなかった。
嫌ってくれ。二度と、優しく出来ない程に。あんたを好きだった事も、今では痛いよ。
胸を支配する苛立ちを忘れたくて今日も夜の街に立つ。眠りたい。夢も見ない程、深く。
「いくら?」
随分とガタイの良い男が声を落として問い掛ける。
「一万で良いよ」
安いか高いかは知らない。どうでも良い。今日眠る場所さえ持てれば良い。
少し距離を空けて歩いていた癖に、ホテルの部屋に入った途端男は俺の身体に貪り付く。まるで低脳な猿だ。
「風呂、入らせてよ」
「何で。良い匂いがするよ。男の匂い──」
そうだよ。この身体はもう、一人じゃ満足出来ない。
壁に追い詰められ、男の熱い舌が待ち切れずに唇の形をなぞり上げる。それに応えるように薄く開き、俺は態とらしく熱い鼻からくぐもった甘い呻きを漏らしてやった。たったそれだけで、男は興奮気味に深く舌を絡める。
唾液を流し込まれ、舌の根ごと犯されて。喉の奥が熱を持ち、淫靡な音色が薄い壁に反響し耳を攻め立てた。そんな貪るような口づけが息苦しくて、思わず縋るように男のシャツを握り締める。男は更に深みへと堕ち、執拗に口腔を嬲り続けた。呑み込み切れない甘い唾液が、顎先へと伝って行く。互いの荒い呼吸までもが響き、室内の温度が上昇して行く程熱を帯びた視線を絡め、何度も何度も唇を重ねる。
けれど、こんなもの俺には必要ない。
「ねえ、待てない」
甘く囁いて、スラックスに手を伸ばす。薄い布地越しに伝わるかなりの質量を持つ滾りに、俺の胸は踊った。今直ぐにでも、これが欲しい。
そんな俺の願いを無視して、男は相変わらず繰り返し執拗にキスをしながら、合間に問い掛けて来る。
「キスだけで、もう我慢出来ないの?」
それはお互い様だろう?その意を込めて太い首に腕を回す。早く抱いて、早く──。
「君の名前、教えてよ」
「好きに呼んでよ」
また、キス。膨れ上がる期待が、中心で脈打つばかり。
「……君、雪でしょう?」
突然男に名前を言い当てられても、動揺はしなかった。毎夜男を漁る俺はこの辺りでももう顔が割れ始めてきたようだ。それでも、俺にとっては何の障害にもならない。
「知ってんだ。なら、分かるだろ?」
上目遣いで問い掛けて、男の首筋に舌を這わせる。引き攣る筋肉の健康な様子に、また俺は期待に揺れた。
何時までも受け身なら、此方から襲ってやっても良い。ベッドへと誘導して、男を押し倒す。抵抗されなければ簡単なものだ。スラックスから取り出した怒張は、今にもはち切れんばかりに青筋を浮かべていた。早く痛みにも似た快楽欲しい、その一心で、俺は丁寧に裏筋を舌先でなぞり上げる。くぐもった呻きを上げながら、男は上体を起こし、そんな俺を見下ろした。
「本当、綺麗な子。端た金で身体を売るなんて勿体無い」
法外な値は、取れる所からふんだくっているだけだ。別に金に困っている訳じゃない。ただ、身体が、心が疼くだけ。
「もう、我慢出来ない」
甘えたように囁くと、ようやく男は乱暴に俺を組み敷いた。深く、一気にふとい指が沈み込む。別々に蠢く指先が肉の壁を押し開き神経に触れる度、俺は甘い甘い声を上げた。吐息混じりの喘ぎで煽って、煽って、限界に達した男が突き入れる、熱い肉欲の杭に貫かれる瞬間の何とも言えぬ快感。痛くて、苦しくて、けれど、満たされるような心地。
「最高だよ、雪」
喉を仰け反らせ快楽に喘ぎ狂う。その行為の間だけ、男に支配されるこの身体。抗うことの出来ない泥沼。激しく腰を突き入れられる度、悲鳴じみた嬌声を上げて、何度も何度も精を腹の上に吐き出す。疲れ果てるまで、延々と。
分かってはいるんだ。こんな事をしても誰も、この胸の隙間を埋めてくれる筈はない。それでも、眠る事が出来るならそれで良い。
そんな日々を二ヶ月程繰り返した。もうこの辺も温かい風が春を運ぶ。入学式の学生達に、春先の変質者。どうやらこの辺りは変質者が多いらしい。警官が巡回を強化しているとか、色褪せた緑の掲示板には注意喚起の張り紙が目立つ。
俺は昼に家にいて、夜は仕事か、ない日も出歩くから完全なすれ違い生活で隆司さんと会う事もない。それは俺にとって願ってもないことだ。あの人の側にいると、訳もなく苛立つから。あんなに隣にいたいと願ったのに、今となっては顔すら見たくない。
そんなある日。ケチな男のお陰で始発で帰らなきゃいけない事態になって、明け方怠い身体を引きずってアパートへと帰る。今時防犯上あり得ない位お粗末な鍵穴に銀色の鍵を差し込んで回すと、カチャリと小さな音が朝靄の立ち込める静かな住宅街に響いた。
軋む扉を開いて中を覗き込むと、鼻先を突いた独特の匂いに昨日の夕飯がカレーだった事が分かった。ちゃぶ台を壁に立て掛けてもギリギリに二枚敷かれた布団。
布団……買ったんだ。寝には帰らないと言ったのに。こうして毎日布団を敷いてくれていたのだろうか。夜は俺がいないし、いつも隆司さんが仕事に出た後に帰って来るから知らなかった。本当、この人は顔に似合わずどこ迄もお人好しだ。
静かに部屋に上がって何となく観察してみる。綺麗に整えられた顎髭が武骨なこの男には似合う。健康的な肌に堀の深い整った顔。近付きづらい雰囲気さえも、良い男だ。
「……おかえり。朝帰りするならもう少し静かにしてくれ」
突然声を掛けられ、危うく飛び上がるところだった。しかし男の寝起きの掠れた声も良いもんだな。そんな呑気な事を考えながら流しへと振り返り蛇口を捻ると、後ろで起き上がる気配を感じた。
「ああ、雪。水道水は飲むな」
寝起きの怠さを引きずってのそのそと流しの上に置いてあったペットボトルを取ろうと俺の背後に立った隆司さんの身体が、微かに背中に触れた。その瞬間、身体中が一気に粟立つような感覚が走り抜ける。
「ほれ、こっち」
そう言ってペットボトルを差し出した男の寝巻きのTシャツを引っ張って強引に唇を塞ぐ。背伸びしてもやっと届く位置にある唇は、思いの外柔らかい。
一瞬の間の後、直ぐに引き離された。
「……何の真似だ?」
驚いた顔を見たら、胸が締め付けられた。俺がずっとあんたをどんな目で見ていたか知らないの?
「抱いてよ」
俺らしくもない。色気のない誘い方。それ位切羽詰まっていた。この男に抱かれたい。疼く身体がそう訴え続ける。
「……悪いけど他を当たんな。いくら綺麗な面していても男を抱く気にはなれねえよ」
「試してみたら。女とだってアナルセックスはするだろう。目閉じていれば変わらないよ」
首に回した腕をゆっくり解くと、隆司さんは深い溜息を吐いた。
「なあ、雪。嫌がらせなら別の事にしてくれよ」
その言葉に一瞬、思考が止まる。嫌がらせ──そんなつもりは無かったけれど、そう捉えられても仕方が無いのかもしれない。実際何で自分がこんなにも隆司さんを意識するのか理解に苦しむ。満足出来ていないから?まだ足りないから?違うな。理由を理解出来ていない訳でもない。ただ壊して欲しいんだ。見て見ぬ振りをして来た、この男は別の奴とは違うと言う下らない幻想も、捨て切れない感情も。
皆同じ。人間なんて後ろめたい罪に溺れる汚い生き物だ。愛が世界を救うとか言って発展途上国に多額の金を送るような善人ですら、愛人を飼っている。例えば、優さんみたいにね。あんたも同じだと分からせてくれよ。そうしないと俺は何時迄も、この苛立ちを抑えられない。
再び減らず口を叩こうとした俺は、ぐいっと目の前に突き出されたコップに思わず言葉を飲み込んだ。
「今日、暇か?」
「……は?」
「柳橋一門の勉強会があってな、師匠も高座に上がるんだよ」
突然何の話しだ。柳橋一門?勉強会?師匠?
「……何、言ってんの?」
「慰問に来たろ?柳橋亭好福」
そんな名前だったかな。あの頃は隆司さんの後姿ばかり見ていたからあんまり覚えてない。……俺は恋する乙女か。気持ち悪い。
「まあ寝ようや。俺は眠いよ」
寝癖の跳ねた頭を掻きながら、隆司さんは布団に戻って行った。
しばらく放心状態で立ち尽くしていたが、小鳥の囀りが耳を掠め我に帰る。完全に目が覚めてしまった。掃除でもしようかと思ったけれど意外に綺麗好きみたいで、見回しても特にする事が無い。
ふと灰皿に少しだけ溜まった吸殻を見付けて嬉しくなった程に。流しの脇にぶら下がった袋から丁寧に三角に折られているビニール袋を取り出して、なるべく音を立てないように吸殻を捨てて行く。
「雪、うるせえよ」
この人はちょっとの音でも起きるのだろうか。謝る気なんかさらさら無いし、ビニールの口を縛って玄関に投げる。またキョロキョロと辺りを見回してると、隆司さんが面倒臭そうに手招きをした。
「ちょっとこっちに来い」
言われた通り無防備に近付くと、思いっきり腕を引っ張られ思わず布団の上に転がってしまった。
「少しは寝ろって。お前クマ出来てんだよ」
予想外に近くにあった顔に変に緊張した。抱けないって言った癖に、誘っているのか。身体に腕を回して厚い胸板に頬を寄せると、この人には似合わない柔軟剤の匂いが鼻先を掠めた。
「何してんだ。お前の布団はあっちだよ。せっかく買ったんだから使ってくれよ」
頭上で呆れた声が響く。面倒臭いおっさんだな。
「俺、誰かの腕の中じゃなきゃ眠れないの」
精一杯甘えた声で腕に力を込めると、深い溜息が耳を掠めた。
「身体だけ大人になったガキだな」
まるで本当に子供にするように背中を緩いリズムで叩かれて、自然と瞼を閉じた。
大きい手。俺なんかすっぽり覆ってしまう大きな身体。やっぱり、安心する。そんな物欲しくも無いのに、何故か居心地が良い。
微睡みの中で思い出す、刑務所暮らし。隆司さんの隣。甘くて切ない、初恋の思い出。同じ二人。それでも心の中はもう、違う二人。俺は二度と恋なんかしないし、誰も何も信じない。この気持ちは暗い欲情なんだ。俺はただこの大きな腕で、抱いて欲しいだけ。
だから絶対あんたの口から言わせてやるよ。俺が欲しいってね。
次の日。春の強い風がボロいアパートを軋ませる音で俺は目を覚ました。既に隣に隆司さん
はいなくて、ポケットに入れたままの携帯で時間を見ると十時を回っていた。俺の布団があった場所には丸いちゃぶ台が置かれている。
そこで煙草をふかしていた男が俺に気付きふわっとした優しい笑顔を向けた。
「おはよう。良く寝ていたな。後三十分で出れるか?」
一瞬なんの事かと思ったけれど、そう言えばどこかへ行くと言っていた。別に断った所でこの人はそうかと言うだけだと思うが、暇だし、何より一緒にいたら何か糸口が見付かるかも知れないし。その思いから断る事はしなかった。
遅い朝食を食べて、十一時前に二人で家を出た。隆司さんは免許が無いから移動は電車だ。ハタから見たら変な二人だろう。ガラの悪いスーツの男に、小柄な青年。ネクタイを締めていないからそんなキッチリしたイメージは無いけれど、私服もスーツ。隆司さんはムショ暮らしが長すぎて何を着たら良いのか分からないらしい。そんな二人が並んで歩いていても友達には見えないだろうし、舎弟にしては俺の態度がでかい。実際痛い程の視線を感じた。今も大学生らしい男がチラチラとこっちを伺っている。つい癖で微笑み掛けると途端に顔を真っ赤にして俯いてしまった。嫌いじゃない、可愛い反応だ。
「……節操ねえな」
「ちょっとからかっただけじゃん」
特に目立った会話もせず、無事駅に着いた俺達はその足で会場に向かった。
下町情緒溢れる浅草の街並み。小さい会場にはやはり老人しか見当たらない。腰の曲がった爺さん婆さん。俺は元より、隆司さんですら当然かなり浮いている。
受け付けでは柳橋一門の文字がプリントされた青い法被を着た若い連中が満面の笑みでペコペコと頭を下げていた。俺達も金を払おうと並んでいたら、そのうちの一人が近付いて来た。
「隆司さん、いつもありがとうございます!」
そう言って頭を下げる若者に隆司さんも軽く笑い掛ける。刑務所の中ではあまり話しをしない印象だったのだけれど、意外と社交的なのだろうか。そんな事を考えながら隆司さんの後について中に入った。
パイプ椅子をズラリと並べただけの小さな会場。隆司さんは寄席とは何か、始まるまで軽く説明してくれた。落語、講談、漫才、浪曲、手品に大喜利など。寄席はそれを行う場所の事を指すらしい。今日は柳橋一門の若手達の勉強会だとか。半分以上なんの事か分からなかったけれど、取り敢えず頷いておいた。
前座で司会の若手が軽い挨拶をした後、講談と言われる、何だか小難しい話しをする爺さんが高座に上がった。講談とは政治の事だったり、軍記、歴史物を読み聞かせる物らしい。眠くなるような物だが、元々勉強が嫌いじゃなく、成績も良かった俺は、流石に修行を積んだ人は凄いと素直に聞きいる事が出来た。
講談が終われば、若手の漫才だったり手品が披露されて、爺さん婆さんはヒーヒー言いながら笑い転げている。それを見ていた方が面白い位だ。
流石に年寄りが多いからか、休憩を長く取っていた。寄席での休憩は仲入りと言うらしい。そんなどうでも良い細かい事迄隆司さんは教えてくれた。柳橋亭幸福さんは、大トリで古典落語を演った。人情噺じゃなかったけれど、爺さん婆さんは手を叩いて笑っていた。
長い長い勉強会が終わった後、二人して外で突っ立っていると、幸福さんが軽く手を振りながら近付いて来た。
「隆司君、いつもありがとう。門弟の勉強会にまで来てくれて」
「いや、こっちこそありがとうございました」
そう言って隆司さんは頭を下げる。幸福さんも同じように頭を下げた。まるで塀の中の囚人のように刈り上げた頭を上げた幸福さんとふと目が合う。
「こちらは息子さん?」
「まさか、こんなでかい子供いないですよ」
笑っているが俺としては全く面白くない。
楽しそうに話す二人を見てたら無性に苛立ち少し離れてぼんやりと周囲を見回していると、お土産の饅頭を大量に抱えた爺さんが視界の隅に映る。爺さんは仲入りで皆が座る机に置かれた軽いお菓子すら必死で掻き集めていた。意地汚いなとその行動を見詰めていた俺の肩が不意に叩かれた。
「あの爺さん、万引き常習犯でな。釈放されると師匠の寄席に通って、大笑いして……また万引き繰り返してムショに戻って行くんだと」
俺の肩に手を置いたまま、隆司さんは少し声を落とした。その視線の先を追い掛けて再び爺さんに目を向ける。
「何でだと思う?」
「……バカだから」
あんな所に好き好んで行くなんて狂気の沙汰だ。それに何度も捕まっていたら知り合いだって見放すだろう。バカとしか思えない。鼻で笑った俺の頭を軽く叩くと、隆司さんは少し悲しそうな顔を見せた。
「ムショにいれば誰かしら必ずいる。飯が出て、仕事もあって、寝る場所がある。あの爺さんにとってシャバは、ムショより寂しくて、苦しくて、辛い所なんだ。誰も手を差し伸べちゃくれねえ。誰も話しを聞いてもくれねえ。刑務所に送られる時、あの爺さん笑うんだと。嬉しそうに、看守に頭を下げるんだとよ。そんなにも人生やり直すってのは大変な事なんだよ」
そう言ってその場を立ち去る背中を慌てて追い掛けた。もう一度振り向いて爺さんを見たら、胸が苦しくなった。
あの人にも誰もいない。待っていてくれる人も、話しをする人も……愛してくれる人すら。意地汚いなんて思って、ごめんなさい。そう心の中で呟いて、それっきり俺は振り向くのをやめた。
世の中にはまだ知らない事が多い。ここはアンダーグラウンド。一歩踏み違えば口を開けて待つ裏の世界。それでもこの背中があるならきっと迷う事は無い。
二度と誰も信じたく無いと思っていた。それでもどうして、この人の側にいるとそんな事すら忘れそうになるんだ。
……バカな俺。そんな人間いないんだ。一皮向けば皆一緒。金持ちも、犯罪者も、男も女も。隆司さんの事を想えば想う程、胸が苦しい。訳のわからない苛立ちが収まらない。また俺は堕ちて行く。暗い暗い、快楽の波間に。
また帰らなくなった俺に隆司さんは何も言わなかった。顔も合わせないのだからそれも当然だけど。たまに顔を合わせれば俺は抱いてくれとせがむ。酷く迷惑そうな顔をされる事に、また胸が押し潰されそうな痛みを覚えた。
その日も朝に帰って来た俺は、眠る隆司さんの唇を乱暴に塞ぐ。慌てて払いのけられて呆気なく転がった俺に遂に我慢の限界だったのか、珍しく隆司さんは圧し殺した声を荒げた。
「雪……!良い加減にしろ!」
「何であんたは、俺を抱いてくれないの?死んだ奥さんへの義理立て?俺の事……嫌いだから?」
思いも寄らない言葉が勝手に口をつく。バカみたい。これじゃあまるで、隆司さんの事が好きみたいじゃないか。
俯く俺の前髪を掬い上げると、深い溜息が漏れた。
「……こんな痕を付けて。男は女と違って身体の作りが違うんだから、もっと自分を大事にしろ」
そんな言葉、欲しく無い。
「お願い、抱いてよ……!」
こんな風に懇願した事なんか今迄一度も無い。それ位怖かった。この人の優しさが、こんな俺にすら向けられる、無償の愛情が。俺が俺じゃなくなる。それが堪らなく怖い。
掴みかかる俺を制すと、隆司さんは静かに口を開いた。
「俺がお前さんを抱いたらそれで満足するのか?何かが変わるのか?……何も変わらないよ。俺とお前の間に何も無いんだから」
……何も無い?
「何、それ」
「お前さんはな、手に入らないからムキになってるだけだ。手に入った途端興味が失せるだろ?一緒に暮らして行くには面倒な感情は捨てた方が良い。俺の事はただのジャガイモだと思えば良いし、俺はお前をただの居候だと思う」
面倒な感情……確かにそうだ。俺にとっても、俺の事を何とも思っていない隆司さんにとってもこれは酷く面倒な感情だ。
隆司さんの指が頬を拭って、俺は自分が泣いていた事に気付く。
「なあ、雪。お願いだから、もう自分を追い込むのはやめてくれ。お前を見てると辛いんだよ」
「だったら……助けてくれる?」
困ったように眉を顰めた男の顔を見送って、俺はそのまま家を飛び出した。
誰か俺をバカだと笑ってくれ。他人に頼ろうなんて考えた愚かな俺を。何度繰り返す。何度裏切られれば分かる。良い加減うんざりだ。もう認める。俺は今でも、隆司さんの事が好きだ。でもそれが何になる?叶わない恋をするには、俺は歪み過ぎた。誰かを真っ直ぐ愛すには、汚れ過ぎたんだ。
0
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
溺愛極道と逃げたがりのウサギ
イワキヒロチカ
BL
完全会員制クラブでキャストとして働く湊には、忘れられない人がいた。
想い合いながら、…想っているからこそ逃げ出すしかなかった初恋の相手が。
悲しい別れから五年経ち、少しずつ悲しみも癒えてきていたある日、オーナーが客人としてクラブに連れてきた男はまさかの初恋の相手、松平竜次郎その人で……。
※本編完結済。アフター&サイドストーリー更新中。
二人のその後の話は【極道とウサギの甘いその後+ナンバリング】、サイドストーリー的なものは【タイトル(メインになるキャラ)】で表記しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【R18+BL】甘い鎖~アイツの愛という名の鎖に、縛られ続けたオレは……~
hosimure
BL
オレの1つ年上の幼馴染は、強いカリスマを持つ。
同性でありながら、アイツは強くオレを愛する。
けれど同じ男として、オレは暗い感情をアイツに持ち続けていた。
だがそれと同時にオレ自身もアイツへの気持ちがあり、そのはざまで揺れ続けていた。
★BL小説&R18です。
恋なし、風呂付き、2LDK
蒼衣梅
BL
星座占いワースト一位だった。
面接落ちたっぽい。
彼氏に二股をかけられてた。しかも相手は女。でき婚するんだって。
占い通りワーストワンな一日の終わり。
「恋人のフリをして欲しい」
と、イケメンに攫われた。痴話喧嘩の最中、トイレから颯爽と、さらわれた。
「女ったらしエリート男」と「フラれたばっかの捨てられネコ」が始める偽同棲生活のお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる