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『Underground caT』
追憶の男達
しおりを挟む人間は愚かな生き物だ。分かっていた筈なのに、何度も過ちを繰り返し、迷ってしまう。それは俺も然り。罪を犯せば罰を受ける。そんな当たり前の事さえ、俺は忘れていた。
無差別に蒔いて来た憎しみの種達は、まるでバカな俺を嘲笑うかのように、深く強い根を張って大輪の花を咲かせる。隆司さんの隣で小さな幸せを噛み締めていた俺は、その微かな希望が我が身を滅ぼすとは、その時が来る迄思っても見なかった。
空から落ちる重たい雨に桜が散って、鬱陶しい梅雨が始まった。最近の隆司さんと言えば、時たま帰りが遅くなる事があった。将生さんの家で預かっているボーイの面倒を慎太郎と交代で見ているとか。一人に出来ないらしいけれど、どんな子供だよ。そんな事を言いながら、遅くなると連絡があった日は、玄関とリビングの間を行ったり来たりしてる俺も大概子供だ。
いつもは俺が必死で作った少し遅い夕飯を一緒に食べて、美味いよって笑ってくれる隆司さんに胸を躍らせて。俺が一緒に寝たいと言えば隆司さんは少し困った顔で許してくれて、仄かな柔軟剤の匂いに包まれて、温かい夜を過ごしている時間。優しい時。大好きな人の隣。ほんの小さな小さな、幸せ。今ここにあるものは耳鳴りがする程の静寂と、震える程の不安だけ。
「……早く帰って来ないかな」
ポツリと呟いた言葉が壁に反響して頭の中をぐるぐる回る。玄関の前で座り込んで待つ時間は、酷く、孤独に感じた。抱えた膝に額を押し付けて、ひたすら涙を耐えた。
十二時を回った頃ようやく玄関の扉が開かれ、隆司さんは疲れた身体を引きずるように帰って来た。
「ただいま……雪?どうした?」
玄関の前で蹲る俺を見下ろす驚きに満ちた顔を見上げたら、訳のわからな怒りが込み上げる。
「こんな長い時間、一人にしないでよ」
「そんな事を言われてもなあ、将生さんの指示は絶対なんだよ。分かるだろ?ほら、早く寝な。俺も早く風呂入りてえんだよ」
呆れたように溜息を吐いて通り過ぎて行く後姿が、不安を煽る。
「隆司さんっ!」
慌てて抱き着くと、広い背中に隙間無く張り巡らされた筋肉がビクリと強張った。
「……何だよ」
「何で、そいつにも優しくするの?」
ただの八つ当たり。そんな事分かっている。俺にこんな事を言う資格がない事も知っている。それでも嫌だ。隆司さんが他の誰かにもこんな風に優しくする事が耐えられない。俺の知らない所で、俺の知らない顔で、俺の知らない奴の頭を大きな手で撫でてるのかと思うと気が狂いそうだ。
俺の身体をゆっくり離して少し膝を屈め覗き込まれる。そんな優しい瞳で、そいつを見詰めるのだろうか。
「おいで。ゆっくり話そう」
「嫌だ」
「雪、ガキじゃねえんだからよ。頼むよ」
「今日は側にいてよ!」
深夜の静かな廊下に、俺の叫び声が響いた。眉を顰めジッと俺を見詰めた後、隆司さんは噛み殺すように深い溜息を吐いた。
「悪いが、お前がいると眠れねえんだよ。俺も疲れてんだ。分かってくれ」
涙が溢れそうになって慌てて俯く俺の頭に、大きな手が触れた。
「ごめんな。明後日は休みだから、どっか行くか?」
「じゃあ、抱いてよ」
「雪……」
「俺母さんの幸せを願えた。あんなに憎んでいたのに。隆司さんがムショの中で言っていた、〝愛する〟って事が出来たよ。だから、抱いてよ」
離れないで。この手を、離さないで。あんたがいなきゃ俺はダメなんだ。嘘でも良いから、求めて欲しい。けれど隆司さんの顔は、何時迄も浮かない。
「……分かってねえな。お前はいつもそうだ。自分の気持ちばっかりで、人の事は御構い無し。俺がお前を抱いたとして、傷付くのは誰だ?」
「……だってわかんない。人の気持ち考えて生きるなんて、俺には無理だもん」
「無理ばっかりじゃねえか。だから変われないんだよ」
変われない──そうかもしれない。それでも少しずつ変わっていた気がしたのは、本当に気の所為だったんだろうか。隆司さんにしてみたら俺はまだ、欠陥品でしかない。
「明後日、病院行こうか」
静まり返る部屋に響いたその言葉に、思わず涙が溢れた。
「行かない。病気じゃない」
「向き合わなきゃ何も変わらねえぞ?」
「隆司さんに分かるのかよ!好きな相手に、お前は精神病だって言われる、俺の気持ちが!」
悲しくて、悲しみさえ越えて、もはや胸に渦巻いたのは訳の分からない怒りだ。止めなきゃ。これ以上は言っちゃダメだ。頭でいくらそう思っても、口が勝手に最も残酷な言葉を選んだ。
「良いよね、あんたは。愛する妻はいつ迄も綺麗なまんまだ。写真の中でずっと笑っていてくれる。浮気もしない、傷付けない、苦しめない、こんな風に、みっともなく縋って拒絶される事も……ないもんね」
再び、静寂が訪れた。その時の隆司さんの顔は、多分一生忘れない。俺はまた好きな男の心に、深く、深い傷を付けた。
「……もう寝な。一人にして悪かったよ。なるべく早く帰れるように、将生さんに掛け合ってみるから」
踵を返し自室へ戻ろうとする背中が酷く寂しく見えて、深い後悔が押し寄せる。慌てて謝ろうと掴んだ手は、思っていたよりも強い力で振り払われた。
「失せろって言ってんだろ!今はお前の面も見たくねえ!」
鋭い怒声に身体が震え上がる。遠くなる背中を追い掛ける事も出来なかった。
やっぱり俺はダメだ。最低の人間だ。ならば嫌われてでもその瞳に映りたい。傷付ける事を知りながら爪痕を残すのは、こんな俺の出来る精一杯。誰かを真っ直ぐに愛するなんて、やっぱり難しいよ。不器用とかそんな可愛いもんじゃない。人を傷付けるしか脳がないだけ。こんな自分、本当に消えてしまえば良いのに。
財布だけ持って、俺は静かにマンションを後にした。誰でも良い。この漠然とした不安を忘れさせてくれ。束の間の安息が欲しい。
夜の街に立てば、名前も知らない男が俺を求めてくれる。快楽の波間で揺れて、あなたの事すら忘れられる。それが俺の生きる世界。何もない、暗い闇の底。疲れ果てて眠って、重い微睡の中で、二度と目が覚める事のないように願った。
窓を打つ雨の音が鬱陶しい。梅雨は嫌いだ。身体が怠いし、ベタつくし。布団の中で何度も寝返りをうって落ち着ける場所を探していると、不意に髪に何かが触れた。驚いて瞼を開くと、同じように驚いた顔が目の前で止まっている。
……ここどこだっけ。こいつ、誰だっけ?ふっと笑った男が少し長い前髪を掬い上げ額に優しく唇を落とす。……誰でも良いか。再び瞼を閉じて、男の首に手を回す。至る所に小さく落とされるキスを受け止めながら、寝ぼけた頭で記憶を手繰り寄せた。
マンション飛び出して、それから──そっか。こいつに声を掛けられて、飲んで、持ち帰られただけか。思い出せた所でゆっくり瞼を開けると、愛おしそうに見下ろす男と目があった。
「ねえ、いつもこんな事しているの?」
「……別に」
カーテンの隙間から差し込む朝日はまだ低い。男を押し退けて身体を起こすと、男も慌てて上体を起こした。……鬱陶しい。辺りを見回した所、ホテルじゃなくてマンションみたいだ。乱雑に脱ぎ散らかされた服が点々と床に落ちている。ベッドを抜け出した俺の背中に、少し低めの心地の良い声が響いた。
「名前は?連絡先教えてよ」
「また会えたらね」
拾い上げた服から知らない香水の匂いが香った。隆司さんと同じ柔軟剤の匂いはもう、残っていない。……帰りたい。まだおかえりと言ってくれるだろうか。自分で壊した癖に、俺は何を考えているのだろう。馬鹿らしい。それでも、期待している自分を呪いたい。
そんな事をぐるぐる頭の中で回しながらぼんやり服を見詰めていたら、腰元にするりと褐色の腕が回された。
「ねえ、俺下手だった?昨日はあんなに可愛い顔して啼いてくれたのに」
耳元に触った低い声に悪寒が走る。
「うるせえな」
振り払おうとしたものの、俺よりも明らかに体格の良い男の手で簡単に元いたベッドに押し倒されてしまった。見下ろす瞳の奥底で暗い欲情が揺れる。
「まだ良いじゃん。それとも、彼氏の所に帰りたい?」
「……は?何?」
こんな事をしているのに、そんなもんいる訳ない。けれど唇に軽いキスを落とすと、男は小さく鼻で笑った。
「〝りゅうじさん〟って、ずっと言ってたじゃん。覚えてないの?結構傷付いたんだけどな」
……最悪。こんな事、初めてだ。どれだけ隆司さんの事ばかり考えているんだ俺は。情けない。
「待ってるんじゃないの?」
そんな事を言いながら男が身体をどける様子はない。それに、誰が待っているって言うんだ。こんな俺の事なんか。
「待ってねえよ。俺なんか、いない方が良いんだよ」
「じゃあ俺と付き合おうよ。大切にするよ?こんな風に寂しい思いもさせない」
あまりにも男の顔が真剣で、思わず笑ってしまった。
「何の為に?俺を縛っておきたいから?あんたの物にしたいから?」
眉を顰めた男を押し退けて、床に落ちていた薄いシャツに腕を通す。慌てて止めようとする腕を払い除けて、俺は真っ直ぐに男を見詰めた。
「無駄だよ。俺は誰の物にもならないし、誰の事も愛せない。自分の事しか考えないし、傷付けるしか脳がない。心の底から好きだと思った男にだってね。欠陥品なの。悪いね」
自分で言っていて虚しくなるよ。呆然とする男を残して、足早にマンションを後にした。降りしきる雨の中を傘もささずに歩き出す。ハタから見れば頭の可笑しい奴だろうな。もう、何でも良いけど。
ふと忘れていた携帯を開くと着信が三件。隆司さんの文字が三つ並んでいるのを見て、暖かい物が頬を伝う。雨が降っていて良かった。
こんなに会いたいのに、こんなに好きだって思うのに、何で俺は大切に出来ないのだろう。何で俺は、こんなにも愚かなのだろう。止め処なく溢れる涙は冷たい雨に流されて、それが余計に胸を締め付ける悲しみを後押しした。
そのまま隆司さんが仕事に出る時刻になるまで時間を潰してから俺は漸く家に戻った。合わせる顔がないと思っていたのに、誰もいない家はやっぱり寂しい。風呂に入るのも億劫だ。濡れた身体も拭かずに、玄関に上がって直ぐ冷たい廊下に倒れ込む。ゆっくり目を閉じれば、もう夢か現か分からない。目の裏側がチカチカと瞬いて、気持ちが悪い。それでも疲れた身体が眠りを渇望するのに抗う事もなく、やがて意識はゆっくりと沈んで行った。
一瞬見えた一筋の光を見失った今、俺はまた、果てのない綱の上を歩む。気の狂う程の恐怖。息も上手くつけない程の壮絶な不安感に支配されて、それでもただひたすらに進む。ここを落ちたら奈落の底。二度と戻れぬ、暗い暗い闇の中。まだ堕ちたくない。いや……もう手遅れかもしれない。
ここはどこだ。俺は、一体どこにいる。隆司さん、俺は今何処にいる?あんたの側にいないとここが何処かも分からないんだ。情けなくても、みっともなくても最低でも、これが現実。弱くて自分勝手な、本当の姿だ。
──夢の中、何処かで俺を呼ぶ声がする。
「……隆司、さん?」
「雪!」
その声に意識がふっと浮上した。
「……え?」
俺の肩を揺する男は、思ってた人物ではなかった。
「大丈夫か!?」
「……犬飼?何で?」
まだ頭がぼんやりしている俺に向けて、犬飼は盛大に溜息を吐いた。
「何でって、今日は十七時からの約束だろ?連絡もつかないし下にもいないし、来て見たら鍵は開いてるしお前は倒れてるし。どうしたんだよ一体」
再び記憶を手繰り寄せるまでもなく、濡れた身体が小さく震える。
「……寒い」
「当たり前だろずぶ濡れだぞ。タオルはどこだ?」
俺の答えも待たずズカズカと風呂場の方へ行く背中を目で追いながら、取り敢えず廊下の壁に身体を凭れてみた。
直ぐにタオルを持って戻って来た犬飼は、まるで腫れ物の様に身体を拭って行く。時たまに触れる手の温もりに、何処かほっとした。
「……優しいね」
「何言ってんだ。今日は休め。二階堂様には俺から連絡するから」
「別に、大丈夫だよ」
立ち上がろうとした俺は、突然強い力で引き寄せられ抗う事もなく男の腕の中に収まった。
「……目、腫れてんだよ。そんな顔見せるな」
抱き締められた腕の中で感じる。俺への想い。それでも俺の心の中にいるのは、怖い顔した優しい男。俺の事を好きでもない、背中を追い掛けるだけの遠い人。俺達、報われないね。
腕の中で見上げた犬飼の顔は、複雑な色をしていた。きっと俺も同じ。辛くて、苦しくて、虚しくて。それでもどうしようもない程に愛しい。
背中に回した腕に力を込めて、そっと唇を塞ぐ。寂しい人間同士傷を舐め合う、意味の無い行為。それでも何も言わず抱き締める腕に力を込めた犬飼を、離したくはなかった。俺は何処迄も自分勝手な人間だな。
冷え切った身体に触れる犬飼の温もりに縋る様に、俺達は長い長い間そのままじっとしていた。
早く離れれば良かったんだ。玄関の扉が、この姿を最も見られてはならない男によって、開かれる前に。
「……何を、しているんだ?」
廊下に響いた低い声に、温まり始めた身体からサッと血の気が引いて行く。俺を見下ろす隆司さんの瞳の奥底で、抑え切れない怒りが揺れていた。最高に自分が運がなくて間の悪い人間だと言う事は自覚済みだけど、まさかこんな時に──。
「……悪いな、もう帰るよ。今日はキャンセルだ」
そう言って身体を離した犬飼は、呆然とする俺の耳元に再び小さく囁いた。
「ちゃんと俺が誘ったって言えよ」
そのまま静かに扉が閉まると、自然に気まずい沈黙が訪れた。静かな怒りは、殴られるよりも怖い。犬飼に誘われたなんて言った所でもう、手遅れだ。失望と、軽蔑。そのあからさまな空気だけで泣いてしまいそう。
しばらくして隆司さんは小さく息を吐き出した。
「心配して見に来たら、これかよ」
続く言葉が怖い。きっともう見捨てられる。流石の隆司さんもこれで懲りたろう。
「俺も疲れたよ。もう終わりにしよう、雪」
想像していた通りの言葉なのに、まるで鈍器で脳天を殴られたかの様にぐわんと脳が揺れた。息が上がる。苦しい。でも、絶対泣かない。これこそまさに自業自得。最後位、潔くいたい。これが俺の男としてのプライドだ。
「分かった。何年もこんなクズな居候の世話お疲れ様」
何も悪くないのに申し訳なさそうな顔する底無しのお人好し。そんなあんたが好きだったよ。
「……明日、将生さんに話し通そうな」
隆司さんはそんな事を呟いたけれど、それ迄俺がこの場所にいられるはずが無い。別れが決まったのなら今直ぐに出て行くに決まってる。
精一杯笑って見せて、視界を濁す涙が零れる前に背中を向けて、玄関の扉を思いっきり開き俺は走り出す。
「雪、今出たらダメだ!」
背中に響いた訳のわからない叫び声を振り切り、俺は階段を駆け下りた。
隆司さん。俺がこんな風に繰り返し、無差別に爪痕を残す理由があるんだ。嫌って嫌って嫌って、憎み抜かれて。それでも、誰かの心に残りたかった。最低な奴。面倒臭い奴。二度と、会いたくもない奴。そう思われてでも良い。忘れられる事程悲しい物はないんだよ。だからこそ母さんに首を締められた時、漸く心からあの人の幸せを願えたんだ。今俺が何処にいてもいい。例えここがもう綱渡りの綱から堕ちた奈落の底だとしても、誰かの心に俺はいる。それで十分なんだ。だからどうか、俺の事、忘れないでね。
そんな一世一代の決意でようやく地面に足を着いた俺の目には、思わぬ人物が飛び込んだ。紺色のビジネススーツを身に纏った、大人になったけど見覚えのある顔。
「佐武……?」
同じ高校に通っていた、こいつもまた俺が爪痕を残した過去の男。俺が蒔いた、憎しみの種の一つ。
遅れて下りて来た隆司さんは、呆然と見詰め合う俺達の間を遮るように立ち塞がった。
「部屋に戻ってろ!」
え、何で?色々何で?何で佐武がここにいるんだ。何で隆司さんはこんなに必死なんだ。
「隆司さん、こいつ、高校の同級生……」
「……は?ストーカーじゃないのか?」
ストーカー?会うのも五年ぶり位だ。
「こいつ、二週間位前からここらをウロついてるんだぞ?一度部屋の前に突っ立っていてお前のだって確信したんだが……」
隆司さんはそこ迄言うとチラリと佐武に視線を投げる。けれど淀んだ瞳は真っ直ぐに俺だけを見詰めていた。
「少し、話しても良い?」
「見張っているが良いか?」
小さく頷くと、隆司さんは少し離れた場所迄移動してくれた。
「……久しぶり」
「ごめん」
開口一番何を言うかと思えば、何がごめんなんだろう。それでも今も真っ直ぐな瞳を前に、俺はただ続く言葉を待っていた。
長い長い沈黙を経て、ようやく震える唇が開かれた。
「あの日から、お前に凄い腹立って、許せなくて……なのにお前が急にいなくなった途端、どうしようもない位好きだって気付いて。……忘れられなかった」
「うん……」
「好きなんだ。雪の事」
どう答えたら良いのだろう。数え切れない程に同じ事を言われた。俺を抱いて、心迄も手に入れたくなってしまった男達に。けれどこれは激しい情事の後のピロートークじゃない。まるで中学生のような、甘酸っぱい告白。何で五年以上会っていなかった人間を想い続けていられるんだ。傷付けた俺を、それでも何で好きでいられる。その答えも、今なら分かる気がする。分かるからこそ、こんなにも苦しいんだ。
「ごめん……」
たった一言の裏側には沢山の意味がある。それを知ってか知らずか、佐武は小さく微笑んで見せた。まるで、昔のまんま。こんな風に歪んでしまっても、変わらない純粋で真っ直ぐな青年。けれど告白されて嬉しいとは思わなかった。重い罪の意識を助長しただけだ。
「気が向いたら連絡して。もう、こんな事しないから」
小さな紙切れを手渡して、佐武は俺に背を向けた。
結局突然の佐武の登場により、俺はマンションに強制送還された。まだ仕事だからと実咲を見張りに付けて、隆司さんはマンションを後にした。部屋に引きこもってぼんやりと天井を見詰める。薄い扉の向こう側で、夢が騒いでいる声がゆっくり遠くなって行った。
今日で最後。もう、側にいる事さえ叶わなくなる。明日泣いてしまわないように、布団に顔を押し付けて声を殺して泣いた。
隆司さん、ごめんなさい──心の中では何度でも言えるのに言葉に出す事が出来ないのは、許される事がないと知っているからだ。それでも許しを請う汚い自分。その矛盾の中で、ゆっくりと最後の眠りについた。
深夜、スプリングが小さく軋む音に意識が浮上する。薄闇の中、枕元に腰を掛ける影が浮かび上がっていた。
「……隆司さん?」
これは、夢だろうか。そっと髪を撫でられて、揺れる瞳がぶつかった。
「ごめんな」
静かな部屋に響いた声に、思わず涙が溢れた。何も悪くない癖に、何で自分を責めるんだ。いっそ俺を罵って、希望すら見えない位に見捨ててくれたならどんなに楽か。隆司さんは優しくて、優し過ぎて、余計に辛い。重い罪悪感で心臓が壊れそう。それでも、離れたくない。側にいたい。涙を拭う手を取ってそっと頬を寄せた。
「好きです」
ごめんと、言ってくれ。手酷くフってくれ。もう二度と、立ちあがれないように。けれど隆司さんは、俺の好きだった微笑みを向けてくれた。
「分かってるよ」
抱き締められた胸の中で、子供みたいに泣いた。
嫌われても良いなんて綺麗事だ。逃げているだけだって事も分かっている。心に残るのはこの世でたった一人、今はもう隆司さんだけで良い。あんたの心の中にいられないなら、この世にいないも同然だ。本当は愛されたい。この温もりを信じたい。例えその資格が、俺には無くても。
それでも心の何処かでひたすらに願う。どうかこれが夢でありますようにと。今日で最後だから。幸せの後には必ず、絶望を見て来たから。怖いんだ。どんなに小さくても幸せだと感じれば感じる程、迫り来るのは不安だけ。俺はただ真っ直ぐに幸せを願う事すら許されない。永遠に抜け出せない、終わりの無い贖罪の道程。泥濘に足を取られもがくこの手を伸ばしたら、隆司さんは助けてくれるのだろうか。
本当に俺は矛盾だらけ。信じたくなくて、だけど信じたくて、愛なんていらないのに、愛されたくて。許される事がないと分かっているのに、助けを求める。こんな自分は今日で最後。そう、心に決めた。
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