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『Underground caT』
幸せの形
しおりを挟む人は俺をバカだと言うだろう。大切な人を追い詰めて、自分も追い込んで、自ら苦しみの中へと進んで行くこんな生き方を。
矛盾だらけの自分からの脱却を目指した先は、良い方向では無かった。信じろと言う隆司さんを突っぱねて過ちを繰り返し、愛される事を放棄して嫌われるように動く。ただ逃げたかった。何もかもから。
同居解消事件を期に隆司さんは俺が夜出歩くと、どんなに遅くなろうがソファで待っているようになっていた。その姿を目にするだけで辛くて堪らない。また倒れてしまうのではないか。その不安と、自分への嫌悪感。
俺がいなければ隆司さんだって再婚出来たのかもしれない。前の奥さんの事も乗り越えて、誰かを愛せたのかもしれない。隆司さんの人生を狂わせて、それでも止められないのは何故だと考えると吐きそうになる。そんな重い罪悪感を感じる事にもはや快感を得ているのではないかと思う程に、俺は狂っていた。
思えば一緒に暮らしてもう四年近く経った。状況は悪くなれど、良くなる事はない。
そんな中、大嫌いな梅雨が明けて、漸く夏が来た。その日は二階堂家の別邸でけたたましい蝉の声を聞きながら、俺はだらしなく畳の上で寝そべっていた。扇風機が熱風を運ぶ縁側は、懐かしいあのボロアパートを思い出す。
「雪君?大丈夫?」
覗き込んだ顔は、年の割には老けて見える譲さんの物。
「……ん?うん、平気」
「夏バテ?」
「そうかも」
それは大変だと言いながら、譲さんは団扇で優しく扇いでくれた。
忙しさがひと段落したそうで、珍しく今月はここに来るのも二回目。最近の譲さんはまるで父親のようだ。手も出されないし、俺も何となくこの人を誘う気にはなれなくて。こんな風にダラダラ話しをしたり、しなくてもぼんやり一緒にいるだけ。変な関係。
「そうだ。来月どこか行こうか。また暫く海外に行かなくちゃいけなくてね」
思い出したように言われて、慌てて起き上がる。
「本当?涼しい所が良いな」
「今年は暑いからね」
微笑んで髪を撫でてくれる掌は、何時でも優しい。肩に頭を預けてそっと目を閉じる。丁度東京を離れたいと思っていた。東京と言うよりも、隆司さんの側を。
優し過ぎるあの人を見ている事が、今は何よりも辛い。敏感な癖に最近じゃ玄関の開く音にさえ起きなくなった。相当疲れているのだと言う事は容易に想像が付く。それでもあの人は俺を責めない。将生さんの言い付けだから一緒にいるだけなのに。
本当は嫌われている事も分かっている。隆司さんが俺との間に大きな壁を作っている事も、感じている。それでも必死で平静を装う姿が痛々しくて、苦しい。優しい人間は何時でも無駄に損をする。人生ってそう言う物だ。
その日もダラダラ過ごして仕事を終えた。仕事と言って良いのか分からないけれど。犬飼の後ろについて駐車場迄来た所で、突然にその足は動きを止めた。
「……坊ちゃん?」
犬飼の視線の先には言葉通り、刑務所で会った末っ子の姿があった。一度ここでも会った事があるけど名前は忘れた。確か、昴だったっけ。
車の脇で不適な笑みを浮かべている男を前に、俺も犬飼さえも嫌な予感しかしない。
「ちょっとそいつ貸せよ」
穏やかな物言いの中に見える高圧的な空気に変な緊張感が走る。
「……坊ちゃん。この方はお父上の客人ですよ」
「客人ねえ。こいつがどんな仕事してるかは知ってる。今更隠すなよ」
犬飼の肩がピクリと動いたのは、背中に隠れていた俺からは良く見えた。その反応に御曹司は何かを察したようだ。
「……お前、親父の物に手出してる訳?」
犬飼は真面目だ。嘘の付けない男。特に、俺の事を好きだからこそ咄嗟に取り繕う事すら出来ない。
「そんな訳ないだろ。バカじゃないの?じゃあね、犬飼さん」
軽く手を振って、御曹司の車に滑り込む。満足気な笑みを浮かべた品の良い男は、一瞬の迷いさえ無く車に乗り込むと直ぐに別邸を後にした。窓の外で、呆然と立ち尽くす犬飼が遠くなって行った。
何で庇ったのだろう。今迄なら絶対こんな事はしなかった。自分でも不思議だ。一生変わらないと思っていた悪魔の性分が、ほんの少しだけ人間へと近付いたのだろうか。そう思った瞬間渇いた笑いが漏れる。だから、何?ドス黒い物が一箇所、ほんのり白くなった程度の物だ。……酷く、憂鬱。
流れる景色を見るともなしに見詰めていると、御曹司はチラリとそんな俺に視線を投げた。
「本当にまさかこんな所で会うとはな。それも親父の玩具になっているなんて思いもしなかったよ」
バカにしたような物言いの中に揺れる、違和感。譲さんの話しを聞いた限り無関心なのかと思ってたけど、そうでもないみたいだ。譲さんが憎いんだろうか。それはほんの好奇心だった。他人を知りたいなんて、やっぱり俺はどうかしてる。
暫く走った車が漸く止まったのは立派な日本家屋の裏手。別邸とは比べ物にならない、ここが本邸だとは考えなくても分かった。
問題児の末っ子は、表の立派な門からは入れないのか。それとも俺がいるからか。そんな事を考えながら前を悠然と歩く背中を追い掛けた。
離れの一室がどうやらこの御曹司の部屋の様だ。母方が華道一族だと言っていただけに、床の間には花が生けてある。花には詳しくもないし種類も分からないけど、白を基調にした品の良い作品だ。それにしてもどう言うつもりでこんな所に連れて来られたのか、分かる自分に嫌気がさす。男が俺に求める物なんて身体以外にあるだろうか。
一頻り部屋を見回して俺が満足した所で、御曹司は見計らったように口を開いた。
「気持ち悪くはないのか?あんな年寄り相手にするなんて」
「別に。仕事だし。それに年寄りには年寄りの良さがある」
自分でも呆れる程の返答に、御曹司は小さく鼻で笑った。
「……良い趣味してるよ」
「あんたもね。性欲処理に自分の父親の愛人使うなんて尋常じゃないね。嫌がらせ?対抗心?そう言うの、ガキ臭いよ」
俺のあからさまな挑発に、御曹司は予想以上の反応を見せた。
受け身も取れない程の早さで突き飛ばされ、背中に走った鈍い痛みと共に視界がぐるりと天井を映し出す。押さえ付けられた手首がギリギリと締められて、骨まで沁みる痛みに思わず顔が歪んだ。
「黙れ、殺すぞ」
ゾッとする程に鋭い怒りに不思議な期待が胸を熱くする。口許で笑みを作り、俺は危険な猛獣の挑発を続けた。
「大好きなお父さんから俺を奪ってみたら?そしたらあんたの事、見てくれるかもね」
振り下ろされた平手が頬を打つ。乾いた音と共に熱い痛みが走った。根底にある物が何かは知らない。だけど容易に想像はつく。
二階堂家と言う由緒正しい家柄に生まれ、不自由のない生活の中でまだ反抗期の坊や。父親との見え隠れする確執。この御曹司は俺と同じ。愛されたいと願っている自分を排除した、寂しい子供。バカなガキだ。
それでも憎める相手がいる事。ぶつかり合う相手がいる事。それが幸せな事だとその時にふと思った。俺は隆司さんに酷い事を言った。死んだ人を想う事は、ずっと綺麗な笑顔しか浮かべない相手を愛する事は、どんなに虚しく、辛い事だろう。一瞬で変わっていく世界。その中で二度と変わる事のない人。その苦しみを知らずに傷付けて来た罪がどれ程の物か、御曹司の腕の中でずっと考えていた。考えた所で答えなんか出る筈もない。
だから、罰を与えてくれ。こんなにも愚かな俺が変われる程の、重い罰を。頭が真っ白になる寸前に、そう強く願った。
人生の迷子。今の俺は正しくそんな感じだ。自分でも何がしたいのか、何処へ向かうのか訳がわからない。隆司さんの側にいればいる程変わりたいと心が叫ぶのに、無理矢理にそれを押し留めて逃げる。変われないと分かった時に、更なる絶望に沈みたくないから。俺は酷く臆病だ。そんな弱さも苛立ちと不安に拍車を掛ける。
痛む身体を引き摺るように家に帰ると、隆司さんは焼酎片手にぼんやりテレビを見ていた。
「おかえ……その顔、どうした?」
言葉通り、あの後御曹司に殴られた顔は結構酷い物になっている。それでも何も答えない事を察したのか、隆司さんは氷を持って来てくれた。俺を見詰める少し疲れた顔に胸が痛い。
「今日二階堂さんだろう?こんな事をされるのか?」
「違うよ。これは別の奴」
その答えに、見詰める瞳が微かに揺れた。
「……そうか」
それだけ言って切れた唇の端を優しく拭う仕草すら、何故か痛々しい。そんなに悲しそうな顔しないでよ。隆司さんの所為じゃない。どうして、俺にはこんな顔しかさせられないのだろう。
気付けば長い事、この人の笑顔を見ていない。心の中で懺悔の言葉を呟いて、俺は逃げるように自室へと入った。扉を開けた瞬間、蒸した熱風が通り抜けて行く。噎せ返る程の蒸し暑い部屋で、そのまま床に寝転んで重い瞼を閉じた。
胸に渦巻く不安が大きくなればなるほど思う。アパート暮らしに戻りたい。いつも隣にあの人を感じていたい。何処を向いてもその姿が目に入る狭い空間。手を伸ばせば触れられる、あの距離。
一度は離れようと決意した。傷付ける事しか出来ないならば諦めようと覚悟した。それなのに俺はもう、あの人無しでは生きていけないのかもしれない。隆司さんを追い詰めて、傷付けて、苦しめて。そんな俺にさえ『おかえり』と、そう言って苦しそうに微笑んでくれる優しさが辛い。辛いのに心の何処かで涙が出る程嬉しい。俺は狂っている。腐り切っている。もう、どうしたら良いのか分からない。……苦しいよ。
全てを忘れて隆司さんと向き合う事が出来たなら。過去を捨てて愛する事が出来たなら。隆司さんは俺を好きになってくれるだろうか。
……バカな俺。そんな物、夢物語でしかない。俺は重い重い罪を背負い生きて行かなきゃならないんだ。自問自答を繰り返し、行き着く先はいつも同じ。
俺は数え切れない足枷を引き摺り歩み続ける。増える事はあれど、減る事のない、罪の数々。一体どれだけ繰り返す。こんな人生、一体何時迄続けるんだ。教えて欲しい。俺は一体、どうしたら良いの?
そんな重い微睡みの中で不意にがくんと肩を揺すられ、無理矢理に現実に引き戻された。
「雪!お前死ぬ気か!?」
驚いて目を開けると、何処か怒っているような慌てた顔が目の前にはあった。
「……何?」
「何じゃねえ!こんな糞暑い中で寝ていたら、死ぬぞ!」
その声はやはり怒りを含んで見えた。命の危険を冒してまで、夢で良いから隆司さんの近くにいたい。なんて、自分勝手な事を考える自分が嫌になる。
「……ごめんなさい」
俯いた俺の頭に大きな掌が優しく置かれた。俺はずる賢いから知っているんだ。この人がこの表情に弱い事。隆司さんもきっと知っている。俺が気を引きたいだけだって事。心配させて、構ってくれたら喜ぶ事も。それでも気付かないフリをしてくれる。
「おいで。今日は一緒に寝ようか」
その言葉が出る事は分かっていたけれど、やっぱり嬉しくて思わず抱き着くと、呆れた小さな笑いが響いた。
「お前は子供か」
何でも良いよ。隆司さんにおいでって言われて行かない奴が何処にいる。
顔を埋めた胸元から、大好きな優しい匂いがふわりと鼻先を掠めた。
「……良い匂い」
「何言ってんだ。お前の服も同じだろ」
そうだけど、違うんだ。匂いって一番記憶と結び付くって言うけど、良くわかる。きっとこの先何かがあって離れることになったとしても、この匂いで蘇るんだろう。こんなに苦しくて、切なくて、それでも愛おしいこの日々が。
胸の中で見上げた俺に視線を合わせて、近過ぎる距離に少し気まずそうな顔をする大好きな人。もう少しで触れ合ってしまいそうな、危うい距離間。男を誘う時に使う手の一つ。それでもこの人にだけは胸の奥が痛い程に高鳴るのが不思議。俺はまた、隆司さんが好きだと自覚する。優しさを隠した鋭い瞳も、通った鼻筋も、武骨な中に隠された繊細さも、全部全部、俺の物になれば良いのに。
「好きだよ、隆司さん」
どんな男に抱かれてたって、俺はあんたの事だけを想っている。
「分かってるよ」
ふっと小さく笑った隆司さんがくれた答えはそれだけだった。普通の男だったら落ちるのに……。けれどそれだけ俺が酷い事をして来たって事だ。
「ほら、寝るぞ」
離れようとする身体をキツく抱き締めた。もう少し、このままでいたい。
「……本当に仕方ない奴だなお前は」
動かない俺に痺れを切らしたのか、軽々と抱き上げられた身体がふわりと地面を離れる感覚に、一瞬思考が追い付かなかった。子供みたいに運ばれてるこの状況に一気に羞恥が込み上げる。
「あ、歩けるから!恥ずかしいよ!」
慌てる俺に隆司さんは悪戯っぽい笑みを見せた。
「たまには甘やかしてやるよ」
……バカだな。たまにじゃない。俺は何時でも甘やかされているよ。首に腕を回して肩に頭を預けて、自然と綻む顔をなるべく見られないようにするだけで精一杯だ。
運び込まれた隆司さんの部屋は重苦しい暑さとは真逆で、汗が一気に引く程涼しい。ベッドに優しく下ろされ、キッチリ整頓された部屋を見回してふと頭に過ったものは、あの写真の事だった。小さな小物入れの引き出しは、今も硬く閉ざされたまま。
布団に潜り込む横顔を見てたら胸が苦しくなった。どれだけの絶望を乗り越えてここにいるのだろう。俺なんかでは比べ物にならない程に、苦しみ抜いて来た男。だからこそこんなにも優しくなれるのだろうか。今でも奥さんを変わらずに愛してる?だから、しまい込んでしまわなければならないの?
「隆司さん」
「ん?」
視線を投げた男の胸にそっと顔を埋める。脈打つ心臓の音すら、涙を誘う。
「写真……持っていたい」
突拍子もなさすぎる俺の発言に、隆司さんは身体を離して思わずと言った様子で顔を顰めた。
「何の?」
「奥さんと、息子の」
一瞬、息を呑む気配を感じた。薄闇の中で揺れる瞳が隠し切れない戸惑いを映し出す。
「……どうして?」
押し殺した声で問い掛けられて、こんな思い付き以外の何物でもない提案のその訳を自分でも考えてみた。
奥さんの話しを出して悲しませたい訳じゃない。引き離したい訳でもない。ましてや、思い出を奪い去りたい訳でも勿論ない。俺はこの時ただ隆司さんの想いを大切にしたいと思った。この世にはもういない、大好きなこの人が愛する二人の家族の事を。
知りたいんだ。絶望のその先で生きる隆司さんの気持ち。そして本当の意味で愛するって、どう言う事かを。例えまた迷子になったとしても、隆司さんの腕の中で人間になれるこの薄汚れた自分すら、信じてみたい。
「変わりたいんだ」
自然と口をついた言葉に、隆司さんは少しだけ苦しそうに顔を歪めた。
「なあ、雪。そりゃあ変わってくれたら嬉しい。だけど変われなかったとしても良いんだよ。ゆっくりでも良いから……」
続く言葉を隆司さんは咄嗟に呑み込んだ。その先を言えばまた、俺が嫌がるから。
でもね、本当は自分でも分かっているんだ。俺は異常だって。けれどそれを受け入れる事も、塞いだ心の奥底と向き合う事も、今の俺には無理だ。変わりたいと思ってもやっぱりまだ怖い。だけどいつかは必ず、向き合ってみせる。それ迄側にいて欲しい。そう思う事は酷く自分勝手だから口には出さないし、きっと明日になればまた、俺は過ちを繰り返す。隆司さんを苦しめて傷付ける。その所為で悔やんで、反省して、傷付いて。それでも自分では止める事が出来ない。口ばっかりの人間でごめんなさい。変われなくても良いと言う言葉の裏側で、自分を責めるなと言う優しさが胸に痛かった。
そんな思慮の波間に漂う俺の頭に不意に大きな手が触れた。
「まあ、一緒に頑張ろうな」
そう言って、隆司さんは小さく微笑んだ。
俺にとって幸せって途方もない物だと思っていたんだ。だけど再び胸に顔を顰めた俺の身体をキツく抱き締めた腕の中で触れた物は、憧れていたそんな幸せに、少し似ている気がした。
無駄に傷付けあっているように見えて、俺達は気付かない位に少しずつだけれど、前へと進み始めていた。そんな、四年目の夏の事だった。
それから暫くは俺も大人しかった。隆司さんがいない夜は冷房を消して眠る事でなんとか不安を押さえ込んで耐える。写真立てに入れたあの写真が、手助けしてくれている気がした。
凄く不思議。自分の手には入らない男が愛する人を大切にしたいと言う、まるで俺にとっては聖人のような気持ち。こんな心が自分の中にもあったんだ。茹だる様な暑さの中で思うのは、いつもそんな事だった。
そんな日々を繰り返し、それから一ヶ月後の八月中旬。俺は譲さんと約束した通り、避暑地に旅行に行く事となった。前日の夜、自室で荷造りをしていたらコンコンと扉を叩く音が響いた。顔を覗かせたのは他でもない隆司さんだ。
「明日か?」
「うん。北の方に行くんだって。三日だけだけど飯は実咲に作ってもらえよ。もう年だし、麺類ばっかじゃダメだよ?」
料理はし出すとハマってしまって、今では隆司さんの体調を考えて作ったりしている。俺がいない間夏バテしないか心配だ。けれど本気で心配する俺をよそに、隆司さんは呆れ顔を見せた。
「お前は嫁か」
何でもない言葉。なのに何だか、胸が痛い。嫁だったら、良いのにな。それは天と地がひっくり返ったとしても叶わない願い。男だからとかそれ以前に、隆司さんが俺を好きになる事もないし、俺にはその資格がないから。
そんな事を考えていた所為で変な沈黙が狭い部屋に流れてしまった。
「……身体に気を付けてな」
それだけ言うと隆司さんは逃げるように扉の向こうへ消えて行った。俺は暫く、動かない扉から目が離せなかった。
人を好きになるってこんなに苦しい物なのだろうか。街ですれ違う恋人達。高校の頃の同級生。皆こんなに辛い思いをしていたの?だとしたら人間って強い。俺は何だか、このまま叶わない恋を続けるなんて耐えられる気がしない。かと言って隆司さんの側を離れるのも無理だ。だけどいつかは必ず終わりが来る。それも、分かってはいるんだ。だからもう少しだけ。あの人の隣で夢を見させて欲しい。そう願いながら冷房を消して、俺は眠りについた。
次の日の早朝。小さな携帯のアラームで目を覚まして、軽くシャワーを浴びればもう約束の時間だ。
慌ただしく準備をする俺を横目で見ている隆司さんは何だか楽しそうで、それでもほんの少し寂しさが滲んで見えた。亡くなった息子と重ね合わせているのだろうと思う事は、たまにある。きっと今もそうなのだろう。
「いってらっしゃい」
玄関に向かう俺を優しい顔で見送る隆司さん。
ねえ、本当に分かってる?俺はあんたを男として見ているんだよ?泣きたくなる程好きな人に、男に抱かれに行く背中を優しく見送られる俺の気持ち、分かってる?そんな事を心の中で問い掛ける俺は何処までも自分勝手だ。
「ほら、客を待たせたらダメだろ?」
呆然とする俺に言葉を掛けて、隆司さんは困ったように微笑んだ。
「……行ってきます」
振り返ってしまわないように階段を駆け下りる。纏わり付く湿気を帯びた空気に泣きたくなった。汗を拭うフリをして、一緒に涙も拭う。切り替えなきゃ。
軽いクラクションの音に弱った心を無理矢理に硬くした。いつものようにシルバーのセダンの後部座席に乗り込んで、嬉しそうな譲さんと言葉を交わす。運転席の犬飼がご主人様の目を盗んでバックミラー越しに俺を盗み見るのも、悲しい事にいつもの事。目が合う度に鋭い吊り目がキュッと細くなる。犬飼も苦しいのだろう。
人を好きになるって、本当に良い事ばかりじゃないね。何で他人を好きになるんだろう。俺達は男同士で、子孫を残すわけでもないのに。それはどんなに考えたって答えなんかない。それを追い続けるのが、人間の性なのかもしれない。
譲さんの話しを聞きながらぼんやり考え込んでるうちに、長い時間が過ぎた。
夕日が沈む前に辿り着いた場所は、海辺の近くの二階堂家の別荘。忙しさもひと段落したとはいえ、やはり譲さんは大分疲れていたようで、外食を済ませて俺が風呂に入ってる間に眠ってしまった。白髪交じりの髪を優しく梳いて俺は一人部屋を出た。
吹き抜けのリビングを見下ろすとぼんやりソファに座る犬飼の姿が目に入る。なるべく静かに階段を下りた筈が、犬飼の視線は最後の段に足を踏み出す前に俺を捉えた。
「眠ってしまったのか?」
低い声が身体に響く。犬飼の声は嫌いじゃない。背格好もそうだけど、隆司さんに似ているから。
質問に小さく頷いて隣に腰を下ろす。俺は多分、今欲求不満なんだ。この男から香るスーツのノリの匂いにすら当てられそう。もう大分犬飼に抱かれていない。今日は抱いてくれるだろうか。瞼を薄く閉じて、隣の男が隆司さんだと思い込む。一度失敗した癖に俺はとことん懲りない人間だ。
「散歩でもするか?」
その声に顔を上げると見下ろす犬飼と視線がぶつかる。普通ならどちらともなく目を閉じて、唇を重ねる状況。けれど犬飼の顔が苦し気に歪んだのを俺が見逃せる筈がない。何でそんなに、切ない表情をするんだ。あんたの好きな男が手を伸ばせば届く位置にいるんだよ?勇気がないなら手助けしてあげるまでだ。俺は今、あんたに抱かれたい。
そんな邪な考えで頬に伸ばした指は、大きな掌に包み込まれた。
「海が……綺麗だから」
それだけ言うと、犬飼は俺の手をとって別荘を後にした。
別荘からも綺麗な海が一望出来る位だから、五分も歩かないうちに浜辺に出られる。俺達は手を繋いだまま、街灯のない道を無言で歩き続けた。人影もない。不安気な道を照らすものは薄い月光のみ。
寄せては還る波の音が近くなる度に握った手にじんわりと汗が滲む。随分前に打ち上げられた乾いた流木に腰を下ろして、金色に揺らめく海を見詰める。涼しい海風に髪が踊るのがくすぐったい。
「良い所だね」
その言葉に犬飼は優しく微笑んだ。隆司さんとも色んな所に行ってみたい。こんな風に並んで海を見詰めて、ただ時間を消費して行く。それがどうしようもなく、幸せに思えた。こんな時でも俺の頭はあの人の事ばかり。
不意に昔、客の一人に言われた言葉を思い出す。「その恋は雪をダメにする──」あの頃は嫉妬から来る負け惜しみだと思っていた。けれど今なら分かる。隆司さんが好きになればなるほど俺はボーイとしてダメになる。それに手に入らない焦燥が呼ぶ執着がどれ程に強い物か、俺は良く知っている。
本当の恋とか、愛とか。俺にはまだ良くは分からない。隆司さんが好きだ。それが真実か最近は考えないようにしてただけに、ゾッとする程の不安が突然襲った。もしも、何か間違いが起きて手に入ってしまったとしたら?俺は、興味が失せてしまうのだろうか。
衝動的に隣で海を見詰める男の袖を強く掴んだ。
「……どうした?」
少し驚いた顔が俺を見下ろす。怖いんだ。不安なんだ。波の音に押され、そっと唇を重ねる。そんな俺に答えるように髪を梳く指先が優し過ぎてほんの少し胸が苦しい。
だけど突然身体を離した犬飼は、俺の想像以上に辛そうに顔を歪めていた。俺は罪深い生き物だ。人の心を掻き乱しては突き放す。この男の好意を利用して自分の不安を解消して来た。それが深く、傷付けている事を知りながら。それでも止めないのは、人を思いやると言う心が欠落してるから。
ごめんね、犬飼。俺は悪魔と呼ばれた人間だ。人間が酷く完璧な物よりも、暗い歪みを好む習性を知っている、ずる賢い欠陥品。
「犬飼」
頬に伸ばした手は、またしてもやんわりと阻止された。
「もう、お前を抱けない」
犬飼は俯いたまま、ポツリと呟いた。波の音が煩い位に耳の奥に響く。こんな事初めてで、変に動悸が早まって行くのを感じた。
「……どう、して?」
息が詰まって上手く言葉が出ない。落とした視線を上げた犬飼は、酷く切ない微笑みを俺に向けた。
「お前の事が、好きだからだよ」
そんなの知ってる。だから何でなのか分からない。俺の事好きだって言う奴は皆抱いてくれた。恥ずかしくなる位に甘い愛の言葉を囁いて、俺はそれを嘲笑う様に切り捨てて生きて来た。好きなのに抱けないってどう言う事?
完全に狼狽える俺を、犬飼は堪らなくなった様にキツく抱き締めた。
「好きなんだ……雪。だからお前には幸せになって欲しい」
耳元で囁かれた、苦しそうで、切なくて、それでもどこかとても、深く優しい言葉。その時に漸く俺は、この男に愛されている事を知った。
俺を抱いた男の愛の言葉なんか信じた事なんかない。なのにどうして犬飼の言葉をすんなり信じる事が出来たのだろうか。それは本当の意味で、俺を想ってくれたからなのかもしれない。
硬く拳を握り締める。淫乱と言われ、魔性だと言われた俺が、初めて抱き締められた男の腕の中で、その背中を抱き返す事が出来なかった。
「ありがとう」
涙と共に零れ落ちた物は、重い懺悔の言葉でも無かった。
犬飼の事を好きになれば良かったと自分でも思う。それでも俺は、隆司さん以外、欲しくはないんだ。例え叶わない恋だとしても、心はずっと隆司さんを映し出す。愛する者の幸せをただ一心に願う。例えその瞳に自分が映る事がなくとも。俺にも犬飼のような、そんな高尚な事が出来るのだろうか。そんな風に、隆司さんを愛したい。強くなりたい──。
その旅行の帰りに、俺は譲さんに愛人契約の終わりを告げた。譲さんには申し訳ないけれど、これ以上犬飼を苦しめたくはない。初めて心の底から愛してくれた人に対する、俺が出来るせめてもの事がもう会わないと言う選択だった。俺はそう簡単には変われないから。まだ、強くはなれないから。譲さんはそんな俺に優しい笑顔で『ありがとう』と言ってくれた。この人の愛人になって良かった。初めてそう思えたんだ。
人間は酷く不恰好な生き物だ。頭でっかちで、理性と本能の合間で世を渡る。完璧な人間なんかいる筈もなくて、歴史の中の人々さえも蓋を開けてみれば何処かしらに欠陥はある物だ。そもそも完璧な人間て何?それこそが愚問なのではないだろうか。自分の事を責め続け、蔑みながら生きて来た俺も、最近では自分は酷く人間らしいのかもしれないと考えるようになった。
息苦しい夏が過ぎて、涼しい風が新しい季節を運ぶ。まるで嵐の前の静けさのように、最近は心が穏やかだ。犬飼のように、隆司さんを真っ直ぐに愛せる人間になる為に俺は自分と少しずつ向き合い始めていた。そんな風に前を向き生きる事は思いの外、清々しい物だった。
だから俺は気付かない。確実に忍び寄る足音が、もう鼻先まで近付いていた事も。深い絶望が、俺の中に芽生えた微かな希望さえも踏み躙るかの様に、紅い口を開けて待ち受けている事にも。
「それでね、そのスーパーのおばちゃんがね──」
夕飯の席で今日、スーパー五郎でおばちゃんにオマケをもらったと言うどうでも良い話しをしていた俺は、ふと隆司さんの手が止まってる事に気付く。
「隆司さん?」
ハッとして俺を捉えた瞳が、今迄見た事のない位に不安気に揺れた。それも一瞬の事だったけれど、俺は元来他人の心の動きに鋭い方だ。見逃せる筈がない。
「……ん?ああ、ごめん、何だっけ?」
「ううん。冷めるから食ってよ」
精一杯笑って見せて、その後は口も開かず夕飯を終えた。料理と買い物が俺の仕事なら、掃除、洗濯、洗い物は隆司さんの仕事。長い間の同居生活でそれが自然となっていた。今日も洗い物をしながら時たまにぼんやり手を止める。俺の視線にすら気付かない。
最近隆司さんは上の空だ。何があったのか、俺には検討も付かない。あの人は俺に仕事の話しはしないし、思い返せばいつも俺の話しを聞いてくれるだけ。
「何かあったの?」
カウンター越しに声を掛けると、ピクリと小さく反応した様が、遠い世界に旅立っていた事を露骨に表していた。
「……ん?いや、何もないよ」
そう言って笑った顔が、酷く心細い。やっぱり俺には何も言ってくれないか。
それ以上突っ込んでも悪戯に雰囲気を悪くする気がして、静かにソファに身体を横たえた。前髪が重力に逆らう事もなくパラパラと無駄に長い睫毛に引っかかる鬱陶しさすら、どうでも良かった。
蛇口を捻る音が静かな部屋に響く。洗い物してくれてありがとうと言おうと思って重い頭をもたげると、思いの外近くに隆司さんが突っ立っていた。デカい身体の癖に足音を立てない変な癖やめて欲しい。
首が痛くなる程見上げている俺に気を遣ったのか、隆司さんはスッと腰を落とした。いつもは感情すら巧妙に隠す瞳にはやはり目に見えて不安の色が浮かんでいる。
「……雪、不安にさせたか?」
不安そうなのはあんただよ。その思いで睨み付けると、隆司さんはふと視線を落とした。
「悪かったな」
髪をくしゃくしゃと揉まれ心臓が掴まれたように痛む。この痛みも、この男の事が好きだから。
まるで逃げるように立ち上がる腕を俺は慌てて掴んでいた。驚きと戸惑いに満ちた視線がぶつかる。隆司さんは底抜けに優しい。けれど表情はいつも硬くて、思わず怯んでしまいそうになる。人殺しの罪を被っただけなのに、本当にこの人がやったと言っても誰も疑わないだろう。それ程に威圧感がある。だけど知ってるから、怯えるのも一瞬だけ。
俺、変わりたいんだ。強くなりたいんだ。悲しみも絶望も乗り越えても今尚深い罪の意識に沈むあんたと一緒に、この奈落の底から這い出したいんだ。
「隆司さんが言ったんだよ?どんなに長くいたって、他人の事なんか分かりっこない。だから俺にも、隆司さんの事教えてよ」
俺の言葉に、隆司さんは顔を顰めた。
「……知る必要はねえよ」
意を決した筈なのに、明らかな拒絶を受け頭がグラリと揺れる。隆司さんが離れて行ってしまう気がして怖かった。この人のいない世界で、どうやって生きて行けば良いのか分からなくて、まるで駆け上がるような不安に身体が震える。側にいたい。行かないで。
「だって、好きなんだ……!」
「やめてくれ!」
久しぶりに声を荒げた隆司さんが、思いっきり俺の腕を振り払う。
「もう……やめてくれ……」
眉間に皺を寄せ、絞り出すように言葉を零す男の表情に全てを悟った気がした。
そんな自分が予想外だったのか、隆司さんは我に帰る。
「雪、ごめんな、俺は──」
慌てて頭に伸びた手を今度は俺が振り払い、乱暴に玄関の扉を開けて闇雲に走った。
これ以上聞いてはいけない。聞きたくない。何度あの男に好きだと言った?その度に分かってると言いながら優しく微笑んでいるように見えて、いつも苦しそうだった事に気付いていなかった訳じゃない。これは叶わない恋だと言い聞かせておきながら、心の奥底で持ち続けていた想い。それすら認めたくなかっただけだ。想い続ければいつかは叶うんじゃないか。俺はそんな大それた夢をいつ迄も見ていたかったんだ。
噛み締めた唇から、ジワリと生温い血が滲む。絶対泣かない。泣いたら認める事になる。俺の長かった初恋が、本当の意味で終わったと。
心細い街灯の下でぼんやりと足を止めた。今日は誰の腕の中でこの胸のドス黒い不安を紛らわせよう。ふと目に止まったものは、無理矢理教えられた、二階堂昴の携帯番号。二階堂家の面汚し。出来損ないの三男坊。そして、鋭く研いだナイフの様な男。少し触れれば傷付けられて、痛みを伴う乱暴な抱き方をする。それは刑務所を出た後も変わってはいなかった。
通話マークをタッチして耳に当てる。思いの外早く呼び出し音が止まった。まるで寝起きの様な気だる気な声が耳の近くで響く。相手の都合なんかどうでも良い。
「今から遊んでよ」
久しぶりに感じる。痛みが欲しい。滅茶苦茶に犯されたいと願う、訳の分からない欲情。まるで深い闇の底に引き摺り込まれるように、俺は少し上った崖を再び堕ちて行った。
俺は一体、何処へ行くつもりなのだろう。そんな野暮な事はもう考えない。何でも良いんだ。隆司さんの側にいられるのなら。その為に、俺は何度だって過ちを繰り返す。捻じ曲がった矛盾が巡り巡って一本筋が通った様な変な気分だった。
「お前から連絡してくるとは思わなかったよ」
車に乗るやいなや、昴は小バカにしたように鼻で笑った。いちいち鼻につく男だ。父親とはまるで正反対。昴は俺が返事をしない事にムッとした顔を見せ、そのまま無言で二階堂家に向かった。
離れに連れて行かれて何と無く携帯をみると、着信が十件。全部隆司さんのものだった。こんなにしつこく掛けて来る事も珍しいけれど、今話せば俺は酷い事を言ってしまう。隆司さんに会うのは心が落ち着いてからが良い。この男に抱かれればきっと、収まる筈だから。
そう言い聞かせて電源を切った。ちゃんと話しを聞かないからいつ迄も俺は変わらない。そんな事、その時は分からなかった。
「男?」
ニヤニヤと俺を見詰める御曹司の顔は、何だか腹が立つ。
「違う」
とっとと事を済ませて帰ろう。自分で誘っておきながらそんな事を考えて、シャツに手を伸ばす。喉の奥で噛み殺すような嫌な笑いが頭上で響いた。
「もう始めんのかよ。このド淫乱」
そう言って見下ろす瞳は、酷く冷たい。こいつは俺を心の底からバカにしてる。
「もう、煩い」
乱暴に唇を塞ぐと、答えるように舌を割り入れる欲望に素直な男。
普段の俺ならこう言う男は焦らして焦らして楽しむ。なのにその日は自分でも分かる程、俺には余裕がなかった。早く、早く触れて欲しい。こんなんじゃ足りない。
漸く離れたと思ったら、昴は濡れた唇をゆっくり親指で拭って嫌な笑みを俺に向けた。
「何かお前、痛々しいな。フられたか?」
自分でも認めないようにしてた事を突然放り投げられ、思わず頭に血が昇る。
「うるせえな!少し黙れねえのかよ!」
怒鳴った直後、重い襲撃が腹部に走り、次いで酷い吐き気が襲う。思わず蹲ってえずいていると、前髪が乱暴に掴みあげられ、ブチブチと嫌な音を立てた。どうやら俺の態度が癪に触ったらしい。
「……口の聞き方を教えてやろうか?」
鋭い睨みをきかせる男を前に、俺の口からは乾いた笑が漏れた。
「力で俺が平伏すとでも?あんた、頭甘いね」
昴は感情を隠さずに、全て暴力でぶつけて来る。そう言う子供みたいな男。だからこそ、扱い易い。
「悔しかったら跪かせて見ろよ。クソガキ」
思惑通り挑発に乗った男に殴り飛ばされ、畳に転げた身体。馬乗りになった昴は、首筋に鋭い歯を立てた。掠れた悲鳴を上げ、痛みにのたうち回る。けれどそんな抵抗を嘲笑うかのように、逞しい腕は簡単に俺の細腕を捻り上げた。
服さえ剥ぐ事もなく、性急な指先が暴く、奥の奥。やわらかくて弱い部分を態と曝け出し、歪んだ快楽に溺れて行く。喉元まで押し上げられるような壮絶な痛みと圧迫感の中で、俺は確かな安堵を得た。
まるで強姦魔のように目を血走らせ、その日は腰が立たなくなる程乱暴に弄ばれ、喉が灼けるように熱い。
明け方に、整ったアホ面で眠るガキを残して、俺は腰を摩りながら二階堂家を後にした。俺にとって昴はただの遊び相手。痛みを求めた時に、暴力的なセックスを与えてくれる、都合の良い男。それだけだった。けれど俺が自ら誘惑したものが最も刺激してはいけない人種だとは、この時は思ってもみなかった。
あれから隆司さんとは気まずいまま。やはり何も話してはくれないし、何だかよく分からないけれど家をあける事が増えて、帰らない日もあった。そんな時は佐武を呼ぶ。隆司さんが嫌がる事を知っているのに。俺はとことん最低な人間だ。
それと共に、昴と遊ぶ事も増えていた。傷を見ては顔を歪める隆司さんを見ると深い罪悪感に苛まれる。それでも止めないのは俺なりに理由があった。
そんな生活の中で心の距離が離れて行く事を、薄々は感じていた。佐武を家に連れ込めばこれでもかって位怒るし、変わらずにおかえりと言ってくれる。それでもふと、疲れ果てた顔を見せる事が増えていた。
もう、呆れられてしまったのではないか。再び突き放される日が来るのではないか。
だから俺は躍起になっていたんだ。何とか繋ぎ止めておきたかった。隆司さんを傷付けて、俺にはあんたが必要だと必死に訴える。まるで言葉を知らない子供のように、そうやって足掻く事しか出来ない自分が気持ち悪い。そして俺はまた振り出しに戻る。傷付けると知りながら、抱いて欲しいとのたまう日もあった。
そんな泥沼の戦争が続き、秋が通り過ぎて冬が訪れた。将生さんが離婚するらしくて、我が家で何故か将生さんちの居候を預かる事となった。家庭教師で二度程会ってる程度だけど、別に嫌いじゃない。ただ将生さんの事が好きな、不憫な奴。ついでに怒鳴り合いも増え、泥沼化してる我が家にこのタイミングで来るなんてさらに不憫だ。名前は冬弥。親に捨てられ、愛される事に飢えた寂しい兎。
「雪さん、料理上手いですね」
キラキラと瞳を輝かせて俺を見詰めるガキ。
「お前の為に作ってるんじゃねえよ」
ツレない俺の態度にも大分慣れたのか、冬弥は若者の特権と言わんばかりにガッついている。
今日も隆司さんは帰って来ない。佐武を連れ込めばまた喧嘩になるし、冬弥がいてくれて良かったと素直に思えた。喧嘩したい訳じゃない。俺はガキだから、気持ちの伝え方が分からないんだ。
「ご馳走様でした!」
そう言って俺の分の食器まで持って流しに向かう背中をぼんやりと見詰めた。将生さんは何で、こいつを側に置いているのだろう。不思議だ。だけど何となく、苦労しかしてこなかった冬弥は、そこらのクソガキとは纏う雰囲気が違う気がした。
だから口が勝手に思いも寄らない言葉を吐いていた。
「ねえ、冬弥。俺、どうしたら隆司さんに愛されると思う?」
まだ十七歳程度のガキに問う事じゃない。でも他にこんな弱音を吐ける相手が俺にはいない。冬弥は洗う手を止めて、少し考えた後に優しく微笑んだ。
「山室さんだって、雪さんの事嫌いな訳じゃない。人を愛するってどう言う事なのか俺にはわかんないけどさ、雪さんを見る山室さんの目は何時だって優しいよ。傷付いて、悩んで、苦しんで。それでも側にいてくれて、雪さんの幸せを願ってる。俺はそれ、立派な愛情だって思うな」
ガキの癖に……。少しの悔しさと、妙な胸の高鳴りで思わず視界が歪んだ。
「生意気」
俺が見過ごしていただけ?信じ切れていなかっただけ?そんな風に、俺を見てくれてたのかな。
強がる俺を見て小さく笑うと、冬弥は洗い物をする手を再開した。俺に偉そうな事を言っておきながら、物好きなこいつは将生さんに惚れているらしい。いくらやめとけって言っても聞かなかった。自分でも驚いたけれど、冬弥は初めて出来た友達みたいな気がして放っておけない。幸せになって欲しいと思う。だからこそ、将生さんの本性に早く気付いて欲しいのだけど。
そんな俺の願いも虚しく、それから一ヶ月後。我が家に居候していた冬弥は迎えに来た将生さんに連れられて帰って行った。居候のいなくなった家は、相変わらず俺と隆司さんの冷戦が続いていた。
今日も疲れているのか、短い言葉を残して早々に自室に入ってしまった。やっぱり冬弥の言う愛情を信じるには俺はあの人を傷付け過ぎたんだ。漠然とした不安が襲う。それに負け続けた結果がこれだ。だとしたら、その不安に勝てば良いのではないか。不安さえ吹き飛ばす程に、隆司さんだけを見ていれば良いんじゃないか。
冬弥の効用か、自分でも分からない程唐突に前向きになった俺は、終わりを告げたくて次の日の夜に昴と会う約束を取り付けた。
昴の選んだ場所は、二階堂家の離れの一室。自らの居城。
「もう、終わりにしたい。俺変わりたいんだ」
一世一代の覚悟は、目の前の男の表情を崩す事は無かった。シンと静まり返る和室が妙な緊張を煽る。そもそも本当はこんな事する必要もない。ただ自己満足でケジメを付けたかっただけだ。
じゃあと言って静かに立ち上がる俺を、鋭い声が制した。
「これ、何だと思う?」
昴はニヤけた面でヒラヒラと封筒を振った。
「……知らない」
見当も付かない。ただの茶封筒だ。だけどゆっくり立ち上がった昴が、妙に大きく見えた。
「お前の大切な男を、地獄に引き摺りこむ証拠品」
立ち尽くす俺の耳元で低く囁かれた言葉に、全身からサッと血の気が引いた。
「何、言ってんだよ……貸せ!」
掴み掛かる俺を嘲笑うかの様に長い足で軽く蹴り飛ばされ、強く打ち付けた身体が悲鳴を上げる。慌てて身体を起こそうと腕に力を入れた瞬間、背中を思いっきり踏み付けられ芋虫よろしく畳に延びた。
それでも俺の頭は多分キレていた。何で昴が俺の気持ちを知っているのかと言う疑問はもとより、痛みも何も感じない。ただひたすらに、焦っていた。それが何の証拠かも分からないけれど、これ以上隆司さんを苦しめるなんて許される訳がない。
「隆司さんは関係ないっ!あの人に手を出すな!」
普段見下したような態度を取って来たからか、自分ですら訳も分からない位とにかく取り乱して喚く様がさぞ面白いんだろう。見下ろす瞳が嬉々として輝いて見える。
「だったら俺の物になれよ。ここで飼われろ。俺に平伏して、俺の為に生きろ。そうしたら山室隆司には手を出さない」
淡々と語られる絶望的な言葉に、ただただ愕然とした。昴が俺に持つ感情は、ただの支配欲。下等な人間にバカにされた事への苛立ち。ただの道楽だ。だけど暇な金持ちの道楽には必ず暗い罠が待ち受ける。こんな風にね。
一日だけ猶予をやると言われ解放された俺は、記憶も曖昧に家に戻っていた。見上げたマンション。冷たい夜風に晒されて、押し寄せたものは悔しさだ。電気が点いたままの、長年暮らした家に足を踏み入れた瞬間、堪えきれなくて涙が溢れた。
俺の願いは何だった?ただ、隆司さんの側にいたい。それだけだったじゃないか。それすらも許されないのは、俺が犯してきた罪があまりにも重い物だからだろう。
涙を乱暴に拭って、隆司さんがいるリビングに足を踏み入れる。ソファに身体を沈めたまま深い眠りに落ちている男の顔には、重い疲れが色濃く滲んで見えた。
将生さんがいつか俺に問うた言葉がふと頭を過る。
「誰かの為に自分を犠牲にするなんて、バカだと思う?」
思うよ。愚かな俺は今迄誰の事も考えて来なかった。自分が一番。何でもそうだよ。だからいつも誰かの為に自らを犠牲にする隆司さんを、本当はバカにしていた。酷い人間だね。
昴の用意した証拠とは、大方犯罪の類だろう。この人は元々ヤクザだ。無実の罪で十三年も塀の中で耐え忍んだこの男を再びあの日々に引き摺り戻すのか。俺が離れて、昴の所有物になるのか。俺は誰かの為に、自分を犠牲に出来るのか。考えなくても答えなんか一つだった。
少し硬めの髪にそっと触れて、一緒に過ごした五年間を噛みしめる様に思い出して行く。
風呂のないボロアパート、銭湯での待ちぼうけ、よく一緒に行った、浅草寄席。ムカつく親父のいる居酒屋や、二人を隔てた白い壁。そして、隆司さんの腕の中。喧嘩して、殴られて、傷付けて、苦しめて。それでも隆司さんはこんな風に俺の帰りをいつも待っていてくれた。良い事の方が少ないのに、思い出すものは全部、小さな幸せを感じていた、愛しい日々の事ばかり。
けれど隆司さんを好きでいる事は想像以上に苦しかった。辛かった。沢山泣いた。恋なんか知らなきゃ良かったと、本気で思った事もあった。
でもね、側にいるだけで幸せ。顔を見るだけで幸せ。声を聞くだけで幸せ。その瞳に俺が映ったら、いつ死んでも良い位、幸せだ。それを離れなければならなくなった今知った。
だから心から、あんたの幸せを願うよ。
側にいられなくても良い。俺の事好きになってくれなくても良い。他の誰かを好きになったって、隆司さんが笑っていてくれたらそれで良い。そんな愚かな自分すら、愛おしく感じる。涙が溢れて、息が苦しくて、なのに心の奥底は凄く、温かい。
これが俺の、幸せの形。俺は山室隆司を心の底から愛している。今なら真っ直ぐに言える。だからさよなら、隆司さん。
疲れ果てて眠る男の少し乾いた唇に、触れるだけのキスをした。別れの口付けは、舌に沁みる、涙の味だった。
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