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『Underground caT』
喪失
しおりを挟む雪が消えた。書き置き一つなく。
少ない衣類。歯ブラシ、垢擦り、コップに茶碗。そんな小さな物も、何もかもが綺麗に消え失せていた。あいつの付けていた、香水だけを残して。
今迄何度もこの腕を擦り抜けて行った。掴めそうになる度に逃げられた。それでもあいつはいつもすまなそうに戻って来た。けれど今度はもう、二度と戻る事はない。その覚悟が痛い程に伝わった。
ただの居候。手はかかるけど可愛い奴。その程度だった。それに最近、俺が将生さんの下で動いてる事が親父にバレて、かなり大揉めに揉めていた。雪の構って欲しいサインにすら苦痛を覚える程に疲弊していた。正直限界に来ていたんだ。いっそ離れられたらと思う事も少なくはなかった。俺を好きだと叫ぶあいつを突き放した事もあった。
それなのに何故だろう。空っぽになった部屋で、動く事も出来ない程の衝撃を受けた。
まるで深い深い虚無を抱いたような、思い掛けない喪失感。戻って来てくれないだろうか。そう願っても二度と、この腕の中に戻って来る事は無いのだろう。それにここを出たと言う事は、他に良い奴が見付かったって事だ。それは雪にとっても俺にとっても良い事の筈。分かってはいるのに、まるで胸に穴が空いたように冬の冷たい空気が否応無く通り抜けて行った。
あれからどれだけ経っただろう。気付けば年も明けてしまった。雪の二十五歳の誕生日を一緒にいる奴は祝ってくれるだろうか。俺のように、泣かせていないだろうか。おかえりと……言ってやっているだろうか。どれだけ時が経っても、雪の残した爪痕が熱く熱を持って疼く。いらない置き土産残しやがって──。
「隆司さん、聞いてます?」
ふと名前を呼ばれ顔を上げると、慎太郎が睨んでいた。
「……ん?ああ、何だ?」
「はあ!?もう勘弁して下さいよ!だから、将生さんが広島帰省中、ここと、ここと、ここ!俺夢のお遊戯会なんですわ。冬弥さんお願いして良いっすか?」
「ああ……」
そうか、冬弥の見張りの打ち合わせをしていたんだったな。雪のいない今、俺が常に見てやっても良いんだが、帰って来ていたらと思う心もある。そんな事、ある筈は無いのに。
「らしくないっすよ」
ポツリと呟く慎太郎に視線を向けると、何だかその瞳には怒りが揺れて見えた。その理由も何となく分かるから、聞きたく無い意味を込めて煙草に火を付けた。
「探さないんすか。きっと待ってますよ」
当の慎太郎は全く汲んではくれていない。深く肺に吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す。白い煙が暖房の風に攫われて、フワリと消えた。それが何故か酷く胸を締め付ける。
「離れたって事は、もう必要ないって事だ」
「分かってる癖に」
間髪いれずに被せてくる慎太郎の意図がどうも掴めない。いなくなって一番清々している癖に。訝しげな視線を送ると、慎太郎は頬杖を付いて深い溜息を吐いた。
「俺はあいつの事は嫌いです。だけど、隆司さんの隣にいる時のあいつは嫌いじゃないです。言ってる意味分かります?」
「さっぱりだ」
「……もう良いです。将生さんがなんか重要な話しがあるって言ってましたよ」
呆れられてしまった。情けない男だよ俺は。乱暴に席を立つ背中を追い掛けて車の前迄来ると、振り向いた慎太郎の鋭い視線に思わず怯みそうになった。
「隆司さん。あいつに惚れたなら、逃げてる場合じゃないすよ」
いつ、誰が惚れたとか言ったよ。そう言いたいのに、車は颯爽と走り去ってしまい間に合わなかった。それどころかまるで核心を突かれたかのように、心臓が大きく脈打つ。何だこれは、年か?そう心の中でおどける事で、何とか自分を取り繕ってみた。……何をしているんだ俺は。全く嫌になる。
肩を落としたまま将生さんの待つマンションに向かうと、ここの主は何やら慌ただしく書類に目を通していた。挨拶もそこそこに本題に入る。
「麻生義昭って知ってる?俺の父親なんだけどさ」
「……そうなんですか」
知ってるも何も、世界的にも有名なでかい会社の社長だろ。この人の生い立ちなんざ興味はないが、そんな血筋だった事に多少の驚きはある。と言う事は、必然的に冬弥の父親と言う事にもなるわけだ。愛人の子か……全く不憫で仕方が無い。
「ちょっと俺、やっちゃうからさ。後始末頼んで良い?」
「冬弥の事ですか?」
「そう。あいついざとなったら絶対嫌がる筈だから。そう仕込んで来たし。そこをバッチリ写真におさめて、脅しを掛ける。どう、我ながら良く出来た作戦でしょう?」
子供のような無邪気な笑顔の裏側で燻る、ドス黒い邪気。そんな矛盾すらすんなり受け入れられる不思議な笑みだ。
「……復讐、ですか?」
「冗談。そんな下らない事を俺がすると思う?二度と遊べないようにお灸を据えてやるの。こんな人間、もうこの世に生まれてはいけないんだって分からせてやるんだよ」
そう言って微笑んだ将生さんの瞳は、ゾッとする程にやはり色を映さない。敵に回したく無い男とはこいつの事だろう。底知れぬ深い闇の底を嬉々として覗き込む程俺は命知らずじゃあない。
打ち合わせも済んだし、これ以上ここにはいたくない。来た時同様挨拶もそこそこに立ち去ろうとした俺は、コンコンと机を叩かれ再び大人しく椅子に戻った。
「山室は良いの。あの子は自分から戻っては来ないよ?」
そう言って真っ直ぐに俺を見詰める目の前の男には、何もかもを見透かされている気がした。俺が何から目を逸らし、逃げ回っているのかすら。それでも俺は認める訳にはいかなくて、必死で平静を装った。そんな浅はかな思いなど、この男に通用する筈がないのに。
「何か、知っているんですか?」
「いいや、何も。ただ契約は全部切ったけどね。後始末が大変だったよ。良い男でも見付けたのかね」
自分でもそう思っていたのに、将生さんに言われた瞬間総毛立つ程に熱い、灼けるような痛みが駆け抜けて行く。あまりにも強い嫉妬心にも似た、おかしな感情。どうかしてる。冷やかされると気になってしまう学生じゃああるまいし。自分への苛立ちから噛み締めた奥歯がギリっと嫌な音を立てた。
「……て言うより山室さ、気付くの遅すぎるから。お前があいつに惚れていたこと位、慎太郎すら気付いていると思うよ」
確かに慎太郎はそんな事を言っていたが、俺はまだ自覚していない。自覚していないと言うとこれはまた語弊があるんだが。それにこの人は、随分前から俺が雪に惚れていると勘違いをしている発言はしていた。否定するだけ無駄な気がしてノった事もあったが、何だか今日に限っては胸のあたりがムカムカする。
「惚れてませんて。それに、良い男を見付けたなら良かったじゃないですか。あいつが何処かで幸せになっていれば……俺もそれで良い」
自分の言った言葉に、柄にもなく酷く胸が痛む。それ以上何も聞きたくなくて、俺は逃げるようにマンションを後にした。
待つ人のない暗い自分のマンションに帰宅すると、自然と足は雪の部屋に向かっていた。気を抜くと何時もそうだ。全く嫌になる。
それでもぐるりと見回した空になった部屋にポツンと残された、銀色の蓋の四角い香水瓶。柑橘系なのに爽やかと言うよりも、少し大人っぽい雪の匂い。俺も気に入ったと言った時に、最初はキツいけれど馴染むとこんな匂いになるんだと教えてくれた。どうしてこれを置いて行ったのだろう。考えたってわかる筈もない答えを、まるで縋るように考えていた。
それからしばらくして、俺は久しぶりに師匠の落語を聞きに浅草に足を運んだ。笑える気はしないが、何とか心の熱い燻りを解消したい。だが席に付いてから、次に気が付いた時はオオトリが終わった拍手を受けてからだった。
寝ていた訳じゃないのに、今日の演目すら覚えてはいない。全くどうしたんだろうか。重い体を引きずるように寄席を後にして、外で師匠を待っていると、暫くして五分刈りの丸い男が慌てて近付いて来るのが目に止まる。
「隆司君!」
ニコニコと手を振る師匠に頭を下げて、何時ものように世間話やその日の出来云々の話しを聞く。話しも一区切り付いた時、師匠はふと思い出したように手を叩いた。
「そうそう、この間いつも連れてた美人君が一人で来ていたよ」
「……は?」
「ほら、ここに黒子のあるやけに色っぽい──」
そう言って左目尻を指差す師匠の肩を、俺は気付けば強く掴んでいた。いたっと小さく呻いた声に我に帰るも、頭の中が思いの外冷静じゃなくて、謝罪の言葉もそっちのけで口が勝手に動いてしまった。
「それ、いつですか?」
無礼な俺にもまるで嫌な顔をせず、師匠は記憶を手繰り寄せ少し空を仰いだ。
「先週、だったかなあ。声かけようかとも思ったんだけどね、何だかそんな雰囲気じゃなくてね。思い詰めていると言うか……今日の隆司君と同じような顔していたよ」
どうしてだ。幸せになる為に、離れたんじゃないのか?良い男が見付かって、そっちに行ったんじゃないのか。訳のわからない焦燥が酷く胸を締め付ける。雪、どうして俺から離れた?
ふと頭を過るガキ臭い笑顔。甘く囁かれた、好きだと言う言葉。抜け出せない泥沼でもがき苦しんでいた時の泣き顔。
叫びたくなる程に会いたいと、小さな身体をこの腕に抱きたいと、そう願っている自分に愕然とした。俺はどうした。何でこんな恐ろしい感情を持ってしまったんだ。頼むからこの重い蓋を、壊さないでくれ──。
フラフラとマンションに帰ったその足で、着替えもせずに布団を被る。硬く目を閉じて、何も考えないように深く意識を沈めた。それなのに、その日見た夢は、愛美と真也の物だった。
幼い真也を抱いた愛美が優しく微笑みながら、俺にひたすら手を振っている。もう一度抱き締めたくて、俺はひたすらに走る。だがいくら走っても全く近付く事が出来ない。焦りから額に汗が滲む。頬を濡らすものは、真也が旅立ってから流していなかった、熱い涙。待ってくれ。行かないでくれ。お前達と一緒にいたい。俺も、そっちに連れて行ってくれ。縺れる足で必死に近付こうともがく俺に、愛美は手を振るのをやめ、小さく笑った。
生涯愛し続けた女の紅い唇が、まるでスローモーションのようにゆっくりと開く。〝さようなら〟と、確かに、そう言ったように見えた。
俺はそれっきり走る事をやめた。足元が不意に黒く色を変え、ガタガタと震える程に冷たい底なし沼に呑み込まれて行く。
このまま呑まれてしまっても良いのかも知れない。最早足掻く気力さえ失くした俺の手を不意に取ったものは、雪だった。切な気に揺れる黒曜石のような深い漆黒の瞳。それが酷く懐かしく思えた。
何時からだ。何時から俺は、目を逸らして来た。俺は、俺は雪を、どう思っていた。夢の中の自分ですら、その続きを考えてはならないとのたうち回る。
急浮上する意識の中で思いっきり起き上がると、耳の痛くなる程の静寂に鼓動の音が嫌に耳についた。酷く汗ばんだ身体に冷たい空気が触れ、ゾクリと背筋に悪寒が走る。
「畜生っ──」
夢の中の雪の顔が脳裏に張り付いて離れない。頼むからそんな目で俺を見るな。俺がお前をどれだけ傷付けて来た。俺を想い生きる事で、どれだけ苦しめて来た。どうして離れた癖に夢に迄出て来るんだ。どうして夢の中でさえ、俺を愛おしそうに見詰めるんだ。
布団を蹴り飛ばし机に置いた煙草を乱暴に掴む。ベランダに出た瞬間、冷た過ぎる外気に身体が軋む。俺は一体どうしたいんだ。
ぐるぐると巡る思考は苛立ちを助長するだけで、何の解決にもならない。こんな風に苛立つ事も久しくて、対処の仕方すら忘れてしまった。けれど震える指先で煙草に火を付けた途端、不思議と何もかもがスッと軽くなった気がした。俺の相談相手は何時だって、この青いハイライトだ。なんてガキ臭いのだろう。そんな自分に笑えた。
見上げた空は、乾いた空気のお陰で深い藍色が鮮明に見える。一体俺はこの後に及んで何を望む。何を願う。雪は二度と俺の元に帰っては来ない。それが現実だ。だが例え俺が周りの言う通り雪に心底惚れていたとしても、その気持ちに何の価値もない訳じゃない。雪の幸せを遠くで祈ってやる事が出来る。二度と幸せすら願う事も出来ない、愛美や真也とは違う。それは浅はかな俺のエゴでしかない。けれどそれでも良いじゃねえか。辛くても苦しくても必死で生きて、それで何時かは、幸せになれよ。
まん丸の月に紫煙の輪をかけて、静かにそう祈った。
忍耐強い事は自分でもよくよく知っている。だから俺は気づき始めてしまったこの胸の想いを押し留める自信があったんだ。あの男が現れる迄は。この心の奥底で封じ込めた重い蓋が、ぶち壊される迄は──。
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