Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground caT』

籠の中

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 夜も更け切った美しい日本庭園を目の前に、ぽつりと佇む離れの一室。張りたての障子から微かに差し込む月光を引き寄せ青く光る首筋に浮き出た血管が、びくびくと脈を打つ。
「すば、る……!も、やあぁ……!!」
 一際高く啼いた瞬間、しなる身体の中心で快感に打ち震えていた芯から放たれた白濁が、ぱたぱたと散った。肩で息を吐きながら縋るように握り締めた白いシーツは、既に濡れそぼっていた。混ざり合った汗か、唾液か、はたまた自分で吐いた、精液か。
「何を休んでる。まだ五回だろ?」
 耳元で囁かれた冷たい声が、痺れた脳にわんわんと響く。俺にはもう、味った絶頂の数を数えられる余裕も無い。
「もっ、でない……!」
 身体中の力を失う俺に向かって、昴は美しく整った唇を下品に歪めた。
「出なくても、呑めるだろう?」
 深く沈み込んでいた怒張がゆっくりと引き抜かれて行くのに合わせ、中で爆ぜた欲望の滴が、淫猥な水音を響かせる。
「は、あぁ……!」
 甘い吐息と共に、蓋をなくし、物欲し気にひくつく蕾から溢れた白い蜜が、つうと太腿を撫でて行く。
 主人に屈服する犬のように、高々と上げた腰。血が混じり、淡く色付いた淫らな涎が上気した肌を穢して行く様は、さぞや絶景だったのだろう。
 尾骶骨を軽く吸い上げた後に、昴は強引に俺を抱き起こし、向かい合うように自らの股座に座らせた。萎えた俺のモノとは対象的に、昴の欲望は未だ熱く猛っている。また突っ込まれるのかと思いきや、何を思ったのか、昴は俺の半開きの唇を奪った。
「んんっ……!」
 腰のラインを辿っていた指先が、緩やかなカーブを描く双丘を滑らかになぞって行く。そのまま沈み込んだ指が、散々暴かれ敏感になった中を掻き回し、再び身体が熱を取り戻す。
 やがて、差し込まれる舌を自ら絡め取り、俺は無意識にもっと深い口付けを求めていた。断続的に耳に届く卑猥な音をリップ音と言うには、余りにも粘っこい。それが堪らなく、俺を煽るのだ。
 突然貪るようなキスを俺から取り上げ、顎を伝う唾液を舐め取ると、昴は甘い嬌声を垂れ流す俺に向けて、蔑んだ視線を投げ掛けた。
「好きだよな、これ」
 昴は見付けたのだ。俺をその気にさせるには、何が一番効果的か。
「突っ込める物なら何でも良いくせに、純情ぶりやがって」
 苛立ちに押され、昴は再び猛った凶器を穿った。駆け抜けた電流に、背筋が魅惑的な弧を描く。
「ひっあ、あぁっ……!」
 どろりと重い快楽の毒気を受けて、昴は目の前に差し出された小さな獲物をも貪欲に貪った。散々捻り上げられ、甘噛みされて、もうすっかりと熟した艶かしい胸の蕾は、むしゃぶりつくには丁度いい。
 心細い腰に食い込んだ男の十本の指。薄い胸の突起の上を乱暴に這い回る熱い舌。突き上げられる度に、せり上がる快感。
「やぁっ、あァ、も、イ、く……!」
 まるで女みたいな猫撫で声を上げて、身体が今迄とは比べ物にならない快感に打ち震える。締め付けながらも尚、快感を得ようと脈打つ厚い肉の振動に、耳元で男も小さく唸った。注がれる欲望も、止め処ない絶頂感を後押しする。
「おい……まさか、ドライでイったのか?」
 答える事も出来ない。俺は無様に鼻を鳴らし、止まる事のない痙攣を繰り返す。
「本当、良い身体だよ」
 射精を伴わない強烈な絶頂の余韻に浸る暇も与えず、猛々しく勃ち上がった杭が、剥き出しとなった奥底の神経を突き上げた。啼けば啼く程に、逃れられない絶頂が訪れる。眼の裏側がチカチカと瞬いて、突き抜ける様な快楽の毒気が行き届き桜色に上気した爪先が、シーツから逃れ柔らかい畳を掻いた。

 隆司さんと離れて、どれだけの夜を昴の腕の中で越えただろう。記憶も朧気だ。昨日は何をしていたかとか、何を食べたかとか。自分で作る事がないからなのかあまり記憶に残らなくなった。
 それでも唯一この生活で残る記憶。それはあの人と離れて以来見るようになった夢だった。広い背中をただ追い掛ける夢。離れたのは俺。それなのに隆司さんが離れて行く夢を見るのは、分かっていたから。あの人が、俺を探す筈が無いと。
 心に残した爪痕は消えてしまわないだろうか。もう何を望んだりもしない。だからせめて忘れないでくれれば良いんだ。憎まれても、嫌われても、俺がいたと、隆司さんが覚えていてくれたらそれで良い。ただ幸せを願いながらそんな事を思うなんて矛盾しているだろうか。でもそれ位許して欲しい。長かった人生の迷路の出口がやっと見付かって、ようやく進む事が出来た。けれどその先に待っていたものが、こんな真っ暗闇の一本道だったんだから。

 ぱちん、ぱちんと小気味良い鋏の音が虚ろな意識の中、遠くで聞こえる。一定のリズムがある訳じゃない。三回続いたと思えばしばらく止まり、また思い出したように一度。何か思いがあるのか、それとも迷っているのか。
 そんな取り止めの無い事を考えながら怠い身体を起こす。身体中がギシギシと痛み、昨日の激しい情事の記憶を嫌でも脳から引き摺り出される。晒された敏感な素肌が冷たい空気に触れるだけでヒリヒリとした。こんな風にどんなに普通の日常は忘れてしまっても、確実に身体に刻まれて行く。暴力的で傲慢で、痛々しい程に繊細な昴の激情が。
 数え切れない男に抱かれて来た。けれど今迄感じた事の無い程に、昴とのセックスは心が張り裂けそうになる。それは俺の問題じゃない。あいつは狂おしい程に純粋で、だからこそその純粋さが、剥き出しの狂気を生む。正直怖い。昴の熱を、忘れられなくなる気がして。

 再び鋏の音が耳を掠めた。足元で申し訳なさ気に丸まっていた着物を手繰り寄せて見たが、ここの暮らしが大分経っても着方がイマイチ分からない。撫で肩だからか肩口がずるりと落ちるし、帯もうまく締まらない。お陰で変に肌けて格好悪い。全く面倒だ。
 裾を引き摺りながら寝床の隣の襖を少しだけ開くと、昴は花を生けている最中だった。広げた新聞紙の上には名前もわからない様な草や花が並んでいる。部屋に充満する白百合の匂いが、この陰鬱な気分と酷くミスマッチだ。しなやかな指先で花を愛でる瞳は優しくて、なのに酷く、寂しそう。
 畳を擦る裾の音を響かせて定位置に腰を下ろすと、姿勢の良い背中から小さな溜息が漏れた。
「床の間はお前の椅子じゃない。何度も言わせるな」
 言葉の通り、中々畳に長時間座る事に慣れない俺は、いつも床の間に腰を下ろしている。そこでぼんやりとこの男の仕事ぶりを眺めるのが日課。そしていつも不思議に思う。
 こうして花と向き合う昴からは、触れるだけで傷付いてしまいそうな激情を感じない。それどころか酷く優しくて、思わず縋ってしまいそうな、慈愛に満ちたと言ったら良いのだろうか。達観してしまった僧侶と言うよりは、静かな湖畔とか、血の通った人間で例えるよりも大いなる大自然と言った方が近いかもしれない。
「ねえ、それって何考えて作ってんの?」
 暇だし、そんな素直な疑問をぶつけて見た。そこで漸く振り向いてちゃんと俺の姿を確認した切れ長の瞳が、驚きと呆れで見開かれる。
「お前……誘っているのか?」
 だらしない着こなしは無駄にこの男の欲情を刺激してしまったようだ。
 そもそも自覚はしている。俺のこの顔と纏う雰囲気が、人の目にどんな風に映るのか。だけど俺は性根が初心な可愛い子猫でもなんでもない。男の欲情には唇の端を持ち上げて、挑発するのが俺の本性。暗い快楽に溺れる悦びを知り尽くした汚い男娼だ。
「昨日あんだけ喰っといて、まだ足りないの?」
 チリと妬け付く程に鋭い視線にすら、俺が怯む事は無い。
 それにしても昔は抱かれたければ男から近付いて来てくれるし何て得なんだと調子に乗っていたが、隆司さんに想いを募らせた今では酷く疎ましく思う。もっと普通に生きれたら良かった。幸せも愛情も何にもいらないと突っぱねる事もなく、ただ真っ直ぐ人を愛せる様な生き方。正直、憧れる。……俺も随分と変わったな。大切な物を手放さなければならない崖っぷちで人は変わるものなんだろうか。
 そんな取り止めの無い事をぼんやりと考えていると大袈裟な溜息が耳に触った。
「ほら、立てよ。日本人の癖に着物も満足に着れないのかよ」
 昴はそうボヤいてまるで親が出来の悪い子供にするように、怠さを全面に押し出して立ち上がった俺の着物をキチンと直して行く。流石に慣れたもんだ。二階堂家の人間、と言ってもこの本邸で俺が会ったのは使用人達と、昴の母親である桜さんと、その弟子と昴だけだが。
 この歴史ある日本家屋に相応しく皆着物での生活をしている。昴以外は外に出る時もそうだ。そんな中で育ったこいつも自然と着付けが出来るようになったのだろう。
「腕あげろ」
 その言葉でダランと垂れた腕を素直に軽く上げる。言われるままになっていればこの男は暴力を振るわない。朝は俺の好戦的な性質もナリを潜めているから喧嘩はそうそう起きないし、朝の弱い俺にしてみれば有難い事だ。
 膝を屈めて腰に手を回す馴れた仕草を見るともなしに見下ろした。ピッタリと胸に頬を寄せた昴の熱い吐息が肌けた胸元に触る。ジワリと背筋が熱を持つのが自分でもよく分かる。
「キツくはないか?」
 帯を締めながら見上げる顔は、高貴な気品さえ感じる程。一線のように真っ直ぐこめかみに伸びた目尻。通った鼻筋。どちらかと言うと人工的な整った顔立ちも雰囲気も、野生的な雄の色気を放つ隆司さんとは正反対。それがせめてもの救いかも知れない。
 上げた腕をゆっくり首元に絡めると、形の良い眉が微かに歪んだ。小さい子供を抱き締める母親の様に、腕の中で見上げる昴に俺は優しく微笑み掛けた。
「愛してるよ」
 掠れた声でそう囁いて、淡い栗色の髪に唇を落とす。ピクリと身体が強張るのが手に取るように分かった。傍目には甘える昴と甘やかす俺。そんな優しい絵面だろう。だが俺達の腹の底に渦巻くのは、全く別の感情。いかに互いの優位に立つか。何時でも腹の探り合いだ。
 二度、三度と口付けを落とすと、腕の中の昴は小さく鼻で笑った。
「……白々しい。お前は俺の玩具だ。俺に抱かれて快楽に溺れていろ。それだけで良い」
 傲慢な俺のご主人様はいつもこうだ。言う事を聞かなければ力で捩じ伏せて、俺が黙る迄痛めつける。肌で感じる暗く重い支配欲。他人を見下す優越感。誰にも平伏す事のないプライドの高い人間を跪かせた時の、震え上がる程の快感。この男は捻くれ者で生粋のサディストだ。だけどね、その裏側で息衝く感情に、俺が気付かないとでも思った訳?
「……教えてあげようか?心の奥底で、あんたが何を求めているのか」
 言い終わるか終わらないか、思いっきり腕を掴み上げられ衝動的にキツく瞼を閉じる。続く痛みは訪れなかったが、強く握られた手首の骨が軋む音すら聞こえて来そうな程の痛みが走る。
「黙れ!」
 至近距離で発せられた鋭い怒声に鼓膜がビリビリと震えた。そんな痛みを隠して、目の前の男に視線を投げる。熱い怒りのその裏側で、まるで迷子の子供の様な瞳が揺れている。見詰めあったまま、俺はゆっくり口を開いた。
「昴、愛しているよ」
 途端、乾いた音共に頬に鈍い痛みが走った。次いで視界がぐるりと反転して、背中に鈍い痛みが響く。思わず息を詰める俺に馬乗りになったまま、昴はさっき綺麗に着せてくれた着物の襟元を乱暴に掴み上げた。
「何度も言わせるな!お前は俺の言う事だけ聞いてれば良いんだよ!余計な口を叩くな!」
 歯を食いしばって、抑え切れない怒りに小さく震える身体を優しく抱き締める。

 例えどんなに傷付けられたって、俺はこいつの心の奥底で抱えた闇を無理矢理にでも引き摺り出す。膝を抱えて泣き続ける、この御曹司の真の姿。何もかもを、壊してやる。
 俺は決して全てを諦めた訳じゃない。胸の奥底でふつふつと沸き起こる希望にも似た強い信念。こんなチンケな籠で、俺を縛り付けられると思うなよ。
 俺はいつか必ず隆司さんの元に帰るんだ。例えそこにもう、俺の居場所が無かったとしても。知らない誰かがその隣にいたとしても。こんな籠の中じゃなくて、自由に自分の人生を生きてる俺で、その姿を見詰めたい。そして笑って祝福するんだ。幸せになった隆司さんと、隆司さんが愛するまだ見ぬ誰かを。だからそれ迄、どうか俺を忘れないで欲しいと願う。

 怒りに任せて乱暴に組み敷かれた男の下で、この信念が折れる事のないよう、俺はここ最近ナリを潜めていた悪魔へと姿を変えた。

 結局朝の一戦を終える頃には、既に冬の低い太陽すら天辺に昇っていた。
 身体を流していつも食事をする母屋の大部屋に昴と連れ立って足を運ぶと、既に十数人の人が長い重厚な木彫の机を囲んでいた。
「あらおはよう、昴、雪ちゃん」
 誰よりも早く俺達に声を掛けたのは、きなりの品の良い着物を着た綺麗な女性。年的には大分行ってるだろうに、無邪気な少女の様な可愛らしい笑顔を浮かべている。この人が昴の母親である桜さんだ。
「お風呂に入って来たの?まだ髪が濡れているわ。風邪を引いたら大変だから、篠崎、乾かしてあげて」
 その言葉に躊躇なく立ち上がる使用人の篠崎さんを俺は慌てて制す。篠崎さんは地味なイメージの若い女の子。実咲のお陰で女嫌いも少しは緩和されたものの、やはり実咲以外は慣れるのに時間がかかるし、髪の毛乾かされるなんてとんでもない。
「いや、大丈夫です。お腹空いたし。待っててくれたんでしょ?」
「あら、そう……?じゃあ頂きましょうか!」
 桜さんは少し口を尖らせて拗ねた顔を見せたものの、直ぐにまたあどけない笑顔を浮かべた。
 ポツンと空けられていた席に昴と腰を下ろすと賑やかな昼食が始まる。こんなに大勢で食卓を囲むなんて初めてで最初は居心地が悪かったものの、最近は気配を殺す術を覚えた俺は黙々と昼食の蕎麦に箸を進めた。それでも昴のついでに桜さんがいちいち構って来て若干面倒臭い。
「雪ちゃん、ほら、薬味は?足りてる?おツユは?」
 その全てを軽くあしらってもこの女性はまるでめげないんだけど。
 そもそも何でこんなに構われるのかと言うと、桜さんは綺麗な物が無条件に好きらしい。だから顔立ち〝だけ〟は綺麗な俺も自然と気に入られた。
 はっきり言って変な話しだ。傍目から見て、桜さんは昴を溺愛している。可愛すぎて甘やかしまくってるとかそう言うレベルじゃない程の、文字通り溺愛。服の用意から始まり、食事はいつも昴に聞いて献立を料理長に伝え、昴の生けた花に駄目出しをした所なんか勿論見た事がない。まあ、昴の作品は俺でも感心する位だけれど、桜さん位になると一つはダメが出て来そうなものだ。
 そして常に昴の姿を映し出す温かい眼差しの奥底には、怯えにも似た何か暗い感情が宿っている。他の兄弟には会った事がないから、それがこの人の素なのか、昴にだけなのかは分からないけれど。
 そんな大事な華道の跡取り息子が男を住まわせてるなんて普通の親なら卒倒物だろう。なのに何故か俺の事はすんなり受け入れた。刑務所で抱かれた時に感じた事だが、昴が男を相手にするのは十中八九俺が初めてだった。だから今迄何度か女を連れ込んでいたとしても、男は俺が初めてだろう。全て憶測の域を出ないが、桜さん以外の周りの反応を見る限り多分間違いはない。
 そんな中昴はと言うと、桜さんはもとより、誰とも自分からは話そうとしない。使用人や弟子が腫れ物の様に扱っているのは肌で感じる。それでもこの家の主の息子なんだから、俺にするみたいに偉そうにすれば良いものを。

 そんな疑問だらけのいつもの昼食を終えて離れに戻ると、昴は朝の争いの所為で止まってしまっていた作品に再び向き合った。こうなると俺はとことん暇になる。
 集中してる昴の邪魔も悪いし、床の間ではなくシャンと伸びた背中に寄り掛かって携帯をぼんやりと見詰めた。こっちの方が邪魔だと思うだろうけど、昴はこんな風に甘えられるのが嫌いじゃない事を俺はよくよく知ってる。とことん性悪な人間だ。
 そんな事を考えながら電話の履歴を見ても、将生さんの名前ばかりが並んでいるだけ。隆司さんは俺がいなくなっても、電話一つくれなかった。分かっていたよ。けれど少しだけ、期待していた愚かな俺もいる。第一電話されても取る事はできない。あの人を守る為に、俺はここにいるのだから。
 将生さんはと言うと、突然全部の契約をブチ切ったから相当お冠だった。と言っても付き合いは長いし俺の事をよく知ってるから、呆れ半分な所もあったろうけど。だけど声を荒げる事もなく淡々と責められるのは、激怒されるよりも変に嫌な気持ちになるものだ。
 電話の履歴から電話帳に飛ぶと、ら行の一番上にある隆司さんの文字。俺の中に残る、唯一形のある物。今何をしているだろう。俺がいなくなってやっと心から笑えているだろうか。それでも会いたいと願ってしまう事が、酷く罪深く思えた。胸の痛みに押されるように隆司さんの文字を軽く撫でると、当然スクロールしてしまってバカみたいに焦った自分が可笑しい。
 ふと、刑務所の中でこんな風に会えぬ人を想い写真を撫でていた寂しい背中を思い出す。ほんの少しだけ、隆司さんの気持ちが分かった気がした。だけどあの人の胸の痛みはきっとこんな生易しいものなんかじゃない。もうこの世にはいない人を想うのは、どれだけ苦しいものだろう。俺にはまだ想像もつかない。
 そんな風に感傷に浸って携帯を弄るにも限界はある。だけど友達も、連絡を取る様な間柄の知り合いもいないし、ネットニュースを読むともなしに見詰めるだけ。どんなニュースも脳には入って来ないし酷く退屈。
 そんな時にふと思い出して柳橋亭好福と検索を掛けて見る。丁度明日、最初に隆司さんと見に行ったような門弟の勉強会があるらしい。
「昴、ちょっと明日出掛けたい」
 背中に頭を凭れる俺に向かって肩越しに鋭い視線が投げられた。
「何処にいくつもりだ?山室隆司の所か?」
 そんな自分勝手な事出来る訳ないだろ。かと言って、心の奥底では偶然でも良いから会いたいと願う薄汚れた自分。その苛立ちが減らず口に拍車を掛ける。
「ねえ、俺はもう昴の物だよ?俺が生まれて初めて誰かの物になったんだからさ、もっと自信持ってよ」
 耳元で囁いて背中から腰に手を回すも軽く振り払われてしまった。この男は俺が微塵も屈服していない事位分かり切っている。それでも平気でチンケな嘘を吐くのは、隆司さんの為でもなく多分、長年培って来た俺の性分なんだろう。
「……お前、何でそんなに俺を煽る?」
 花を見据えたまま振り返る事もなく呟かれた言葉には、不安が色濃く滲んだ。
「何でって?そんな事聞いて意味がある訳?腹の底が見えないから怖い?」
 答えが分かっているのに問い掛けるのは性格が悪いだろうか。それでも俺は止まれない。
 隠していた筈の弱い心を滅茶苦茶に掻き乱されて、そしていつしか昴は俺を手放せなくなるだろう。本当の意味で俺を愛する日が来たら、この胸の痛みを理解出来る筈だ。こんな悲しい思いを抱える人間が僅かでもいなくなるように。この寂しい御曹司が、二度と同じ過ちを繰り返さぬ様に。俺は何もかもを壊す。
「大丈夫だよ。俺は昴を──」
 言い終わる前に、乱暴に唇が塞がれる。思わず後ろに倒れ込みそうになった身体は、腰に回された長い腕に止められた。大切な玩具を取り上げられる事を恐れた子供の悪足掻きの様な、幼いキス。時たま垣間見えるこの男のそんな弱い所は嫌いじゃない。
 柔らかい髪に指を通すと、昴は振り切るように身体を離した。支えを失って転がる俺を見下す瞳は、さっきの弱さなど感じさせない。俺を支配するに相応しい威厳すら感じる程だ。
「行ってこいよ。ただし、欺いたらどうなるか分かっているな?」
 そんな事、重々承知。機嫌を損ねた昴に触れるだけのキスをして、再び頭を背中に預けた。
 目を閉じても浮かぶ、隆司さんの顔。会いたくて、会いたくて。でも、もう戻れない。これは罪を重ねすぎた俺への重い罰。それでも与えられた罰すら俺は力に変える。償う事の出来ない罪を抱え、それでも前を向き生きる為に。
 こんな風になれたのも全てあの人のお陰だ。見捨てないでくれた。何時でも向き合ってくれた。こんな俺にすら、愛情を掛けてくれた。感謝と言う言葉だと安っぽくなってしまうから、変われないと泣き付いた過去すら忘れさせる程に、変わって見せる事で報いたいと思う。
 そんな悠長な事を考える位、俺は愛される怖さをまだ知らなかった。

 次の日、何時ものように大勢で朝食を食べた後に俺は一人浅草に向かう準備を始めた。昴は終始不機嫌で、まるで本当に子供だ。嬉しい時でも必死で冷めたふりして、気に食わなければ駄々をこねる。弟がいたらこんな感じなのだろうか。同い年だけど。
「夕飯迄には戻るから」
 そう声を掛けても視線すら向けては来ない。大分拗ねてしまった様だ。後が面倒臭いとは思いつつも、取り止める気は更々無い。
 結局言葉を交わす事もなく俺は二階堂家を後にした。久しぶりに着る洋服はやっぱり楽で良い。着物を着てない人や、ただの道や電信柱ですら何だか新鮮だ。二階堂家はまるで刑務所の中みたい。それでもこんな風に出歩けるだけ全然マシか。
 そんな事で浮き立っていたのも最初だけで、浅草に着いた途端、賑わう往来のど真ん中で声を上げて泣きたくなった。
 何度も足を運んだ馴染みある風景。仲見世通りで寄席の帰りに買い食いして、二人で分け合って、落語の感想を聞いてよく分からないなりに必死で頷く。それがついこの間迄当たり前だった。ずっと続く筈はないと頭では思っていても、本当の意味で覚悟はしてなかったんだ。
 俺の隣に、もう隆司さんはいない──それだけなのに、それだけの事がどうしようもなく切なかった。
 胸が張り裂けそうな程の愛慕の念があまりにも苦しい。それでももう、恋なんて知らなきゃ良かったとは思わなかった。こんなに人を想う心が自分にあった事が素直に嬉しい。隆司さんを好きになって良かったと、初めて感じた瞬間だった。
 けれど寄席には顔を出したものの、内容も覚えていない程、俺はずっと隆司さんとの思い出ばかりを追っていた。女々しいったらない。
 そんな自分が情けなくて、肩を落としながら会場を後にすると、いつか見た万引き常習犯の爺さんが視界に映る。今日も相変わらず両手に持ち切れない程の土産の山を抱えウロウロとしていた。視線を落とし、腰を丸めた姿に酷く胸を締め付けられる。まだ人生の迷路で迷ってる、寂しい子供のようで──。
 気付いたら俺は無意識に骨の浮き出た硬い肩を叩いていた。驚きに満ちた瞳がゆっくりと俺を捉える。
「爺さんよく来てるよね?俺、間宮雪って言うんだ。また、会おうよ。待っているからさ」
 何十年と孤独を抱いて生きて来たこの人に、俺の言葉なんか響く筈は無い。それでも手を差し伸べてあげたかった。俺が、隆司さんにしてもらったように。
 変わりたいなら手を引いてあげるから。その地獄の底から、抜け出してみな。俺達はその先で、細やかな幸せを噛み締める事のできる人種なんだから。それが深い絶望と重い孤独の中を生き抜いた者にのみ与えられる、唯一の特権。
 未だ呆然とする爺さんを残し、俺は夕暮れの中帰路に付く。澄んだ空に眩しい深い橙色の太陽がビルの狭間に揺れる。紅く染まる雲達は、酷く悲しい色をしていた。
 そんな俺の、二十五年目の冬だった。

 それからしばらく、東京にも雪が降った。水分を含んだ重い雪が、灰色の空から降り続く。桜吹雪を雪と例えた遠い日のような、息を飲む程の美しさは感じない。それどころか、手入れの行き届いた庭が白く染められて行く様子は、屈辱にも似た可笑しな感覚を覚えた。
 そして俺が出掛けたあの日から少しだけ、昴が変わった。今迄よりももっと傲慢になり、少しでも気に触れば殴られるようになった。それでも俺は心の底からは屈する事はない。口では許しも乞うし、平伏した態度は見せる。だけど心の中では反省なんざしてないし、昴と同じ所に立っている。俺はそう言う人間だ。
 プライドばかり高くて自分本位で他人の苛立ちを悪戯に煽る。それをどれだけ巧妙に隠した所で、臆病な人間は人の瞳の奥底に宿る思いに敏感な物だ。それは昴もまた然り。
 そんな昴にとって、間宮雪と言う征服し切れない存在は、酷く中毒性の高い毒となって行く。強い力で押さえ込んでも落ちる事の無い俺に対する抑え切れない苛立ちに心を窶し、疲弊しながらも激しい欲情を覚える。そんな風に心が蝕ばまれて行く感覚は、暗く重い思いがけない快感を生む物だ。
 どうしたら手に入る。どうしたら跪かせる事ができる。どうしたら、支配できる。そんな激しい焦燥の中で苦悶する昴が、腐り果てた悪魔に溺れ始めているのが手に取るように分かる。俺は他人にとって陰鬱な毒となる不安を与える事だけは天才的に上手い。だからこそここにいる。だからこそ、酷く自分が嫌いだ。
 崩壊へのカウントダウンが始まる。混沌の幕開けは、二月の始まり頃だった。

 耳元で聞こえていた荒い息遣いが、明け方近くに穏やかな寝息へと変わる。絡みついたままの腕を器用にすり抜け着物を適当に羽織って静かに庭の見える縁側に出ると、素足に触る廊下が思いの外冷たかった。
 板張りの廊下に腰を下ろし、抱えた膝に頬を乗せ、ガラス戸の向こう側で白く染まる庭を見詰めていると、頭の中まで真っ白になる様だ。庭を囲う白塗りの壁に乗っかる瓦が、雲の裏側で昇り始めた太陽に薄っすらと形を露わにして行く。身体は昨晩の執拗な責め立てで酷く疲れているのに、眠気が訪れる気配はない。
 俺は最近眠れなくなった。理由は良く、分からないけれど。身体が勝手に自分を守ろうとしてるのかもしれない。夢でも、隆司さんに会えないようにと。会えないからこそ、連絡が取れないからこそ、俺は強くいられる。希望がないと人は弱くなる物。だけど希望がないからこそ、何もかもを捨ててでも前を向く事が出来る場合もある。失う物は何もない、死に物狂い。その言葉が今の俺にはピッタリ嵌る。
 しばらくぼんやり外を見ていたら、しんしんと降り続く雪が霙混じりの雨に変わった。多分今年最後の雪となるだろうそれに少し触れておきたくて、引き戸に手を伸ばした瞬間だった。
 突然横っ面に重い衝撃が走り、あまりにも予想だにしなかった情け容赦の無い攻撃に、冷たい廊下に転がった身体が動く事さえ出来ない。ワンテンポ遅れて悶絶するような痛みが左顔面に走る。
「い、てえ!」
 鋭い痛みと共に高い耳鳴りが止まらない。蹴り飛ばされた箇所を反射的に押さえ見下ろす男を睨み付ける。途端に心臓がギクリと跳ね上がった。全身から立ち昇る熱い怒りは、それ程に凄まじい物だった。
「……やはり外になんか出さなきゃ良かったな。逃げるつもりか?」
 小さく震えているのは寒さの所為じゃないだろう。何がそんなに怒らせたのか、正直よく分からなかった。こんなに早く独占欲が生まれるとも思っていなかった。昴はまだ溺れ始めた段階。ギリギリ引き返す事のできる場所にいる筈なのに。
 それにしてもこんな風にされたらいつか命すら危ぶまれる気がしてならない。死に物狂いとは言ったものの、死んでしまったら意味はない。
 必死で思案を巡らせる俺に向かい、長い足が一歩踏み出される。ギシッと床が軋む音に思わず息を飲んだ。それは正しく、恐怖だった。決して持ってはいけない感情。恐怖を持てば簡単に昴の狂気に飲み込まれてしまう。立場が逆転して、離れられなくなるのは、俺になる。
 大丈夫、大丈夫と胸の中で何度も唱えているうちに、顎を乱暴に持ち上げられ首筋にも痛みが走る。
「答えろ。本当は会いに行っていたんだろ?」
「ちがっ……!本当に浅草に行っただけだ!」
 平静を装おうにも、情けなく声が上ずっている自分に、更に焦りが募るばかり。
 昴を駆り立てる物はなんだ?鋭い怒りの裏側で、どうしてそんなに、痛い位の不安を抱えているんだ。この男は浅はかな俺が相手にするには複雑すぎるのかもしれない。それに気付いた時には、既に遅過ぎた。決して起こしてはならない怪物に面白半分で触れてしまったのは、俺。これもまた、自業自得だ。
「んっ……!」
 貪るように唇が塞がれ、昴の激情が身体の奥底に流れ込む。こんな朝っぱらから盛りやがって……大体この男はただでさえ乱暴に抱く癖に挙句こっちの身体なんか考えない。昨晩何回戦やった?お前は絶倫か。のしかかる身体をどけようと暴れながらも、心の中で一人ごちてみる。
 そんな非力な抵抗なんか物ともせず硬く閉じた足の間に身体を割り入れられ、呑気な思考もたちどころに吹っ飛んで行く。
「いやだっ!こんなの、身体がもたないっ……!」
 拒絶は仄暗い征服欲を増大させる事くらい知ってる。だけど堕ちたくない。負けたくない。今無理矢理に身体を開かされたら最後。俺の立場はこの男の下になる。その思いから必死に心を硬くした。俺は負けない。屈しない。何度も何度も心の中で言い聞かせた。なのに、怖くて涙が止まらなかった。
 ほんの二時間位前までこの男の昂りを存分に味わっていた身体は、細い指なんか簡単に受け入れてしまう。どんなに心が悲鳴を上げたとしても。一気に最奥を突き上げられ、生理的な涙が溢れた。
「言ってみな。お前は誰の物だ?」
「やっ……す、ばるっ!おねがっ、許して!」
 駆け上がる快感の波間で口をついたのは、見せかけの懇願などではない。一体何を許して欲しいのか分からないけど、怒りをそのままぶつけて来るこの男に、そう言わずにはいられなかった。身体はあまりにも正直だ。特に、快楽においてはね。
 冷え切った廊下に組み敷かれ、冷たい外気に否応無く素肌が晒されているのに、ジワリと汗が滲む。抉る様に欲望を深く穿つ昴に必死に答える自分にさえもう、嫌悪感すら抱く余裕もない。
 無理矢理に与えられる快感に呑まれ、心とは裏腹に男を煽るふしだらな男娼。それが俺だ。長い年月自覚し、受け入れて来た筈の真実は、ここに来てまるで鋭利な刃物と姿を変えた。心の奥底の大切にしてきた物がまるでズタズタに切り裂かれ、踏み躙られて行くようだ。どんなに酷く殴られるよりも重く、鈍い痛み。それでもこの道を選んだ事に悔いはない。
 人は人を愛して強くなり、そして傷付く事すら恐れなくなる。それをあまりにも残酷な方法で知らしめられた気がした。

 昇ってしまった太陽に、暗い影を落としていた惨状の輪郭がはっきりと浮かび上がる。起き上がる気力さえ最早ない。
 朦朧とする意識の中でそのまま冷たい廊下に身体を投げ出していたら、しなやかな指先が乱れた着物から覗く肩に触れた。それだけで敏感になった身体がヒクリと軋む。
「んっ……」
 自然と漏れる吐息混じりの自分の声すら、誘っているかのようにドロリと甘い熱を持つ。額に張り付いた前髪を乱暴に掻き上げた昴が、暗い悦びを隠して見下ろしているこの状況は、酷く官能的に思えて、俺のだらしない性質が浮き彫りになった気がした。
 思わず目を逸らした途端、耳元に鋭い声が響いた。
「俺を見ろ」
 言われたままに虚ろな瞳が端正な顔を捉える。ふと何の疑問もなく高圧的な言葉に従ってる自分に愕然とした。もう手遅れなのだろうか。恐怖を感じた時点で、この男に負けたのだろうか。
 ゆっくり重い瞼を閉じると、額に小さな口付けが落とされた。あまりにも優しい口付けに惑わされないように、俺はそのまま静かに意識を沈めた。

 それからは減らず口すら叩かなくなったお陰で、殴られる事はなくなった。求められれば何でもするし、プライドも意地も何となく姿を消した。まるで生きたダッチワイフ。こんなの飼ったって面白くもないだろう。飽きて捨ててくれれば良いのに。そうも思うけど、結局いつもどうでも良いと言う結論に至る。
 俺は隆司さんを守ったと言う過去の栄光に縋ってれば良い。そうやって何とか壊れて行く事を防ぐしか、俺には出来なかった。それ以上にもう、何を考えるのも億劫だった。

 そんな日々を過ごし、凍える寒さもあと少しと言う頃。思いもよらなかった人物が二階堂家の門を叩いた。

 今日も花と向き合う昴の側でぼんやり膝を抱えていると、珍しくこの離れに使用人の一人が顔を出した。少し怯えたような不安気な表情が気に掛かる。
「雪さん、お客様がお見えですが……」
「誰だ?」
 使用人の言葉に俺よりも大きく反応したのは、昴だった。
「さあ……ガラのあまり良くない男性のようですが」
 心臓が大きく脈打つ。ここに来る確率が一番高いのは将生さんだけど、あの人を第一印象でガラが悪いと言う人間はいないだろう。他に俺の知り合いでガラの悪い男、隆司さん以外に思い付かない。迎えに来てくれたのかもしれない。俺の事を忘れないでいてくれただけじゃない。求めてくれていたのかもしれない。けれどそんな酷く自分勝手で浅はかな天国は、ほんの一瞬だった。
「分かっているな?」
 鋭い睨みをきかせ、怒りを含んだ声に身体がビクリと強張る。その意図も分かってるし、昴に逆らおうとも思わない。たった一瞬の期待すら許されない現実を、その時に突き付けられた気がした。
 昴の後ろについて母屋へと向かう。すれ違う使用人や弟子の好奇の目に晒されながら、ひたすらに足元だけを見詰めた。
 やがて来客用の応接室の前まで来ると、昴は念押しする様に一瞥をくれた。分かってる。隆司さんにはきっぱりと、戻れない事を伝える。俺はここで生きるんだ。昴に飼われて、飽きられる迄。
 項垂れる俺に満足したのか、昴の手で襖が静かに開かれる。そこにいる愛する人の姿を思い浮かべ、ゆっくり視線を上げる。しかしこの家唯一のソファに腰掛けていたものは、ある意味予想を遥かに越える人物だった。
「……慎太郎?」
 悠然と深く腰を沈めて薄ら笑いを浮かべている、猿みたいな男。いつもは隆司さんの隣にいるし、子煩悩なバカ親だから気付かなかったが、こうしてみると確かにガラは悪い。
「久しぶりだな」
 慎太郎の声にふと我に返る。
「何で、ここに?」
 将生さんの指示?隆司さんの……?でも隆司さんは人にこんな面倒事を頼む様な性格じゃない。将生さんだってこんな風に慎太郎を伝令に使った事は無かった。じゃあ、何で?
 頭が疑問でいっぱいの俺を尻目に、慎太郎は鋭い視線を何故か隣の昴に流した。
「お前がいなくなる前にそこの坊ちゃんが妙な動きを見せてたんでな。こっちも調べさせてもらったんだよ」
 口元に浮かんでいた笑みがふっと消える。
「うちの兄貴分の探りなんて随分舐めた真似してくれるじゃねえか」
 忘れていたけれど、こいつも元々ヤクザだ。俺とそうは変わらない位若い癖に凄めば迫力はある。けれどそれもこの家で王様さながらに育てられた怖いもの知らずの御曹司には通用しない。皮肉に口元を歪めた昴に悪い予感しかしなかった。
「犯罪者の尻尾を掴んでやっただけだろ。人殺しのうえ、またヤクザに出戻りとはご苦労だね」
 頭に一気に血が昇るのが自分でも分かる。抑えの効かない悔しさに、気付ば昴に掴みかかっていた。
「何も、何も知らない癖にっ!」
 最近従順だった癖に突然キレた俺を、昴はまるで飼い犬に噛まれた様な顔で見下ろしている。後の事なんかどうでもいい。こんな甘えた奴に隆司さんの苦悶の日々をバカにされたくない。こんな奴に、あの人を愚弄する資格なんかない。
 睨み合ったまま固まっていた俺達の間に、見兼ねた慎太郎が割って入った。
「お前だって何も知らないだろ。あの人の気持ちも、本当の苦悩も。人の事言える立場か?」
 見下ろす瞳が深い怒りで揺れる。俺は、何も言えなかった。慎太郎の言っている事は最もで、最も過ぎて胸が痛い。俺は何も知らずに隆司さんを傷付け続けていた。いや、知ってからも止められなかった。昴よりもタチが悪いな。……最低だ。
 悔し過ぎて泣いてしまいそうで、拳を硬く握り締めて耐える俺の頭上で深い溜息が漏れる。
「まあ別に、離れてくれた今お前に何を言うつもりもねえよ。今日は冬弥さんの事で来たんだ」
「冬弥……?」
 今日は予想外の事が多すぎる。冬弥の事なんか俺に何の関係があるんだろうか。色々想像を巡らす俺を尻目に、慎太郎がスッと昴に向き直った。
「坊ちゃんは外してくれるか?これは極々内輪の話しだ。部外者が聞いて良い話しでもない」
「俺はこいつの──」
「カタギのお前が、山室組の内部事情を聞く勇気があんのか?」
 俺もなんだけど……喉迄出かかった言葉をゴクリと呑み込む。渋々部屋を後にする昴を見送り、慎太郎は元のソファにどかりと腰を下ろした。
「将生さんが姿を消した。俺達も何も知らない。……と言う事になってる。お前の所にもそのうち連絡が行くと思う。もしも冬弥さんから連絡入ったらお前もシラを切れ」
 ああ、やっぱりな。だからあの人だけはやめておけって言ったのに。いつでもそう。将生さんは戻れなくなる前に自分から切り捨てる。そう言う男だ。
「冬弥は……?平気?」
「さあな」
 平気な訳ないか。でもあいつならきっと、前を向いて生きて行けるだろう。そんな変な確信はある。
 それにしてももう要件は済んだろうに、慎太郎はジッと俺を見詰めていて、帰る気配はない。かと言ってそれ以上話す気配もない。別に俺が話すのを待ってるって雰囲気でもない。一体何なんだ。
 重苦しい沈黙が流れて行く。
「……隆司さんは、元気にやってる?」
 耐え切れなくて口を開いた俺に、慎太郎は呆れた様に鼻で笑って見せた。
「当たり前だろ。お前がいなくなって漸く肩の荷が下りたみたいにスッキリした顔してるよ。奥さんの事も乗り越えて、新しい人生を生きようと前を向いてる」
「……そう、良かった」
 分かり切っていた筈の答えすら、今は胸が痛む。
 俺は知ってしまった。人を恋慕う気持ち。だから将生さんのように、無情に切り捨てる優しさを持てない。隆司さんが少しでもヘコんでてくれたらと思っていたのは事実。待っていてくれるなら、戻りたいと思う気持ちを無理矢理に押し殺していたのも自覚してる。宙ぶらりんで、酷く自分勝手だ。いっそ将生さんの様に心の底から非情になれれば、もっと上手く生きていけたのかもしれない。
「本当にそうだったら、良かったのにな」
 ポツリと呟かれた言葉は聞き捨てならない物で、それでも聞くのが怖かった。深く息を吐き出した慎太郎は、まるで噛み締めるように言葉を繋いだ。
「お前がいなくなった日から隆司さん、何か上の空でさ。必死で平静を装ってるけどあの人は元々嘘の付けない素直な人だ。落ち込んでるのは誰が見ても分かる。はっきり言って見てて辛いんだよ。無理矢理に平気なフリしてるあの人見るの。……お前も分かるだろ?大切に想ってた存在が何も言わずに突然姿を消したんだ。心配にもなるし、心の中にぽっかり穴も空くだろ。惚れてたんなら、尚更だ」
 隆司さんが……俺に?そんな訳ない。分厚い壁の存在も認識していたし、まるで悲鳴のような重い拒絶も受けた。でも、慎太郎が言うんだからそうなのだろうか。ならどうして?どうして、教えてくれなかった?
 俺はずっと好きだと伝えて来たのに。だけど知ったとして受け入れられただろうか。隆司さんが俺を好きになる訳ない。そう言い聞かせてきたのは、自分自身で張った予防線でもあったのだから。
 想いが通じ合ったとして、俺はまた隆司さんを苦しめてしまう。男が俺に持つような、暗い独占欲が抑え切れなくなってしまうのは自分でも分かっていた。
 好きで、好きで、変わる事を望まなかった自分が変わってしまう程に、惚れた人だから。
 重い沈黙を破ったものは、やはり慎太郎だった。
「はっきり言って俺はお前が嫌いだ。だから勘違いするなよ。これは隆司さんの為に言うんだからな」
 揺らぐ事のない強い瞳から、目が離せなかった。
「戻って来い、雪」
 思わず涙が溢れそうになって、必死で唇を噛み締める。俺の事が嫌いだと豪語した慎太郎。バカで、能天気で、お気楽な男だと思っていた。それでも大切な人の為にプライドすら捨てる事の出来る、優しい人間だと知った。これが、実咲の惚れた男だ。真っ直ぐに見据える慎太郎の瞳を見て気付く。
 俺が何でここにいるのかも知っていて、それでもこいつには自信があるんだ。御曹司の浅はかな企てなんか、握り潰せる自信が。そんな慎太郎が羨ましくもある。俺は……怖い。自分の所為で大切な人を苦しめてしまう事が、何よりも怖い。自信なんて持てない。それでも、守りたい物がある。
「慎太郎が隆司さんを想うのと同じ位、俺もあの人が大切だ。だから、戻れない」
 慎太郎。形は違うけど、願う事は同じだよ。俺は俺のやり方で、隆司さんを守ってみせる。
「……分かった。ここにいる事は伝えない。それでいいな?」
 強い瞳が問い掛ける。二度と会えなくなるかもしれない覚悟はあるのか、と。元よりそのつもりだ。強く頷いた俺を見て、慎太郎は一瞬、悲しそうな顔をした気がした。それも気の所為だったと言い聞かせる。

 一人二階堂家を後にする背中を見送って、心の中で深く頭を下げた。ありがとう、慎太郎。例え二度と会えなくとも、隆司さんが俺を諦めたとしても。絶対に負けない。
 壊れ掛けた心が再び形を取り戻す。こんな風に俺は酷く揺らぎやすい。両手を離し、細い綱の上を歩んでいるから。縋る物も、差し伸べられた手をも、自ら蹴散らして生きて来たから。愚かで浅はかな人間。それでもいつからか、進むべき道は一つだった。
 永遠に続く綱渡りのその先に、淡い光が見える。隆司さんと言う、暖かい光。いつか必ず、届いて見せる。

 それからしばらく。譲さんが海外の支社から帰国した。俺を見て相当驚いていたと思うが、さすが年齢を重ねただけあって、見事な物だった。皆の前で初めましてとにこやかに挨拶された俺が逆に戸惑った位。そしてその傍に立っていた犬飼が、誰よりも驚きを隠しきれてはいなかった。
 帰国した日の夜、昴が風呂に入っている隙に、予想通り離れの部屋の襖が静かに開かれる。苦しそうな、切ない表情を浮かべた男がそこには立っていた。
「何でここに……?」
「色々あって」
「あの男とはどうなった?」
 静かに首を横に振る。犬飼を利用しようとは思わない。そんな非道な事を、この純朴な男にはしたくはない。それでも俺の幸せを願ってくれた犬飼にとって、ここにいる事が何よりも悲しい事だったらしい。顰めた顔に、その色がありありと浮かんで見えた。
「好きなんだろう?どうして……」
「違うよ……違うんだ」
 好きなんかじゃない。
「俺はあの人の事を、愛してる」
 小っ恥ずかしい言葉すら真っ直ぐに言えるのは、犬飼が俺を想ってくれたから。多分、そうなのだと思う。
「だから教えて、昴の事を」
「どうして坊ちゃんの事を?」
 不安気に問い掛ける犬飼に、笑って見せた。
「ここを出て、生き抜く為に」
 戦いの火蓋を自ら切って落とす。強くなりたい。再びあなたの前に立てる程、強く。だから俺はこの二階堂家を混沌の渦へと突き落とす。全てを壊したその後に、見える物がある筈だ。
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