Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground caT』

決断

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 桐島家の長男は〝晴〟と書いてせいと命名された。夢と違って実咲に似てるから男前になるともっぱら噂だ。
 新しい命の誕生に幸せを感じながら、その裏側で俺のカウンセリングは思いの外難航していた。そもそもの性格がこんなんだから、自分の認めた人間以外に何かを言われても響かない。響かないどころか苛立ちすら覚えてしまう。それでも培った長年の性が、心の懐柔やカウンセラーの診断を鈍らせる。自分の本音を曝け出し、与えられる言葉を素直に聞いているフリをする。それも酷く巧妙に。
 こんな事ではいけないと分かってはいても、自分では止める事が出来なかった。俺とこの病気の相性は最悪だったようだ。逆に、最高だったのかもしれないけれど。それでもカウンセラーより隆司さんのお陰で、俺は少しずつ変わり始めていた。

 秋も深まり少し肌寒い夜風に晒され、身体が小さく震える。吐く息も段々と白くなる日が増えた。ぼんやり思慮の波間に漂いながら、眩しいネオンを目を細めて見ると、歪んだ光の珠が無数に浮かぶ。汚れ切った大人の世界も、こうして見ると綺麗なもんだ。
「何してるの?」
 その声に細めた瞳を開くと、小綺麗なスーツの男が俺を伺っていた。何してるの、か……。
「人、待ってる」
 男はその言葉を受けて去って言った。少し淋し気な背中が雑踏に紛れるのを見送って再び目を細めてネオンを見詰める。
 俺は最近、自分を試す為にこうして街に立つ。押し潰されそうな不安や苛立ちを消したくて、真実の愛と言う物を、ただひたすらに追い掛けて、たった一夜の安息をくれる男を待ってたこの場所に。
 あの頃はただ埋めたかったんだ。誰に抱かれても埋める事なんか出来なかった、胸の奥の深い深いこの虚無を。
 愛のあるセックスって、一体どんな物なんだろう。
 そんな答えのない事をついつい考え込んでいたら、さっきとは別の男が声を掛けて来た。今度は人を待っていると言っても中々引かない面倒な相手で、いよいよ俺も苛立っていた時だった。不意に肩を叩かれ振り向くと、ガラの悪い男が立っていた。サングラスでよく見えないけれど、見覚えはある。
「……雪じゃろう?隆司さんとこの。こがあなところで何しとるん?」
 やはり耳に入ったのは聞き慣れない広島弁。俺の敵、伊崎だ。
「別に」
 伊崎が鋭い睨みを男に向けると、さっきとは打って変わって慌ててその場を去って行った。その背中が完全に見えなくなると伊崎は徐に煙草に火を付けた。
「……ありゃあ誰じゃ」
「知らない」
「お前隆司さんに惚れとるん?」
 そう言った伊崎はどこか、不機嫌そうだ。こいつは一体何が言いたい。
「だったら?」
「惚れとる癖に男漁りか?やっぱしそがあな面して男じゃのお」
 何も知らない奴には言わせとくに限る。こいつに自分の事を言うのも癪だ。仏頂面を突き通していたら、伊崎は呆れたように溜息を吐いた。
「隆司さんの事あんまし悲しませんでくれ。ほら、いぬるぞ」
 もう方言がきつ過ぎて何を言っているかさっぱりだ。何の事かとぼんやりしていると、その意味に気付いたのか至極面倒臭そうな視線を向けられた。
「いぬるは帰るって意味じゃけえ。ほら、いくで」
 何でこいつに帰るとか言われなきゃいけないんだ。でもそろそろ帰らないと隆司さんも心配するし。
 勝手にタクシーを止める後姿を見詰めながら、金が浮くから良いかと俺は呑気に考えていた。それにしても伊崎とタクシーに同乗するなんて変な気分だ。
 流れて行く繁華街のネオンを見詰め瞳を細める。それはあまりにも無意識な行動。どうして俺はこんな風に、自分の汚さからも目を逸らしてしまうのだろう。
「なんで浮気なんぞするん」
 黙り込んでいた伊崎の突然の問い掛けに、漂っていた思考が現実に引き戻されてしまった。
「浮気なんかしてねえよ。隆司さん以外に気持ちなんかない」
「そりゃあ随分自分本位な考えじゃのお。隆司さんが同じ事したらわりゃあどう思うん?嫌じゃろう?」
 何も言えなかった。伊崎の言う通りだ。例えば隆司さんが何もやましい事はないと言いながら風俗店の前で客引きを待つのと同じ事。こんな事をしていると知れたらどれだけ悲しむだろう。自分を試していると言えばきっとそれ以上追求しては来ない。でも俺は信じてもらえるような事を何一つやって来てはいないんだ。疑われても当然だし、隆司さんを傷付ける。けれど、その危険を冒してでも証が欲しかった。自分が変わって来ていると。それこそ自分勝手。相手の気持ちも考えられない、ガキのする事なのかもしれない。

 結局不本意ながら伊崎に送られ俺は家に無事帰宅した。上がって行けなんて嘘でも言いたくないからタクシー代のお礼だけ言ってとっとと別れようと考えながら車を降りる。しかしあろう事か伊崎は一緒に降りて来たのだ。
「……何してんだよ」
 睨み付ける俺なんか物ともせず、涼しい顔で煙草に火を付ける横顔が更に苛立ちを煽る。
「われの作る飯美味いらしいけえ、わしが味見しちゃろう思うてのお」
「お前に作る飯なんかねえよ!」
 つい声を荒げる俺に、伊崎はあからさまに眉を顰めて見せた。
「キーキーうるさいのお。ええからはよういのうよ」
「何語だよ!早く国に帰れ!」
「何をやってるんだお前さん達は」
 突然背後から聞こえた呆れた声に振り向くと、丁度仕事から帰って来た隆司さんが突っ立っていた。
「隆司さん!こいつが家に上がろうとするから……!」
「上げてやれよ。俺の昔の知り合いなんだし、一回会ってるだろ?」
 そうだけど、嫌いなもんは嫌いなんだ。しかしそんな事言って喧嘩になるのも癪だから、仕方なしに伊崎と食卓を囲む事となってしまった。
 けれど招かれざる客のお陰でその日の夕飯は想像以上にまずかった。わざとかって位俺の入れない会話ばかりする伊崎を隆司さんは止めもしない。この鈍感。そう心の中で毒吐いても虚しいだけだ。楽しそうに話す二人を残し、俺は早々に部屋に引きこもった。
 ベッドに身を投げて遠くで聞こえる笑い声を聞いていると、苛立ちだけじゃなくて情けなくなった。写真立ての中の二人が優しく微笑み掛けてくれているようで、それもまた燻る罪悪感を煽る。ごめんなさいと心の中で呟いて、幸せそうな笑顔をそっと伏せた。
 やる事もないし、本当にただ呆然と時間を消費していたら、コンコンと扉を叩いた後に隆司さんが顔を覗かせた。伊崎は帰ったのか、耳障りな声はしない。
「雪、先風呂入れよ」
「一緒に入る」
 子供みたいな発言に、隆司さんは心底呆れた顔を見せた。
「何言ってんだ」
「だって夢は入ったって言ってたし」
「……はあ?」
 伊崎の相手ばっかりして、夢とは風呂に入って。俺は隆司さんの事を一番知っていたいのに、結局一番知らない事が悔しかった。ただのガキ臭い嫉妬だ。そう思うと情けなくて、思わず俯いた俺の隣に隆司さんは静かに腰を下ろす。
「……お前には、見せたくないんだよ」
 隆司さんは突然、そうポツリと呟いた。それが何を指すか。俺の脳裏に、余りにも鮮やかな浮世絵が過る。隆司さんの手がまるで縋るように俺の指を絡め取った。
「この刺青はな、親父を恨んで恨んで死んで行った……お袋なんだよ」
「……隆司さんの、お母さん?」
 握った手に力を込めた横顔が、何かを噛み砕くように鈍く歪む。
「俺の親父とお袋は愛し合った事なんか一度も無かった。望まなかった結婚。望まなかった出産。俺も、弟の秀司も、親父の抑え切れない性欲の賜物でしかない。お袋にとっては疎ましい男の分身だ。それでもお袋は俺達を精一杯愛そうとしてくれた。そして、愛してくれた。愛しているからこそぶつけ所のない憎しみに呑まれ、虐待してしまう自分の弱さに耐えられなかった」
 そこで言葉を区切ると、隆司さんは深く息を吐き出した。
「幼かった俺達の目の前で首吊ってな、死んだのよ」
 この男の隠し続けた心の蓋を、俺はまた無神経に壊してしまった事に気付いた時には既に遅く。深い後悔だけが胸に押し寄せる。その後悔に暮れようとする俺を引き摺り戻すかのように隆司さんの大きな手が髪を撫で上げた。
「お袋や親父の犯した罪は決して許される事はない。それは生きている限り、血を分けた俺も同じく背追わなきゃならないんだ」
 一際強く言葉を繋いだ隆司さんは、やはり誰よりも愛情深い人間だ。俺はきっとそんな人生を生きたのなら、この人のように真っ直ぐには生きれない。
「まあ、こんな話ししたけどな、本当は家族ってのは良いもんだ。素晴らしいもんなんだよ」
 そう言って微笑んだ顔は相変わらず誰よりも優しくて、少しだけ、重い影が滲んで見えた。

 隆司さんはその背中に沢山の命を背負う。生きたくても生きられなかった奥さん。二人が愛し合った末に生まれた息子。身代わりとなった弟。そして、罪の重さに耐え切れなかった母。愛のないセックスの末に産まれた、悲しい現実。
 これがこの男がセックスと言う行為に潔癖に近い程の自論を持つ理由なのだろう。見せてくれて嬉しかった。教えてくれて嬉しかった。……それだけ。
 俺は結局、何もしてあげられない。部屋を出て行く背中を見詰めながらそんな無力感にただただ打ち拉がれる事しか俺には出来なかった。

 秋も終わり、冬が訪れても俺はちゃんとカウンセリングに通った。三日坊主にならないか心配してたけれど何とか波に乗った気がした。態度は相変わらず自分でも良いとは言えないけど。
「愛のあるセックスってどう言う物だと思う?」
 机に突っ伏して問い掛けた俺にカウンセラーである遠山さんが、貼り付けたような優しい微笑みを向けた。
「……お互いが高め合える物かな」
「教科書みたい」
 教科書みたいだけど、俺には良く意味が分からなかった。高め合うって何だ。
「何かあったの?」
 優しい問い掛けに何だか背中が痒くなる。この人の喋り方は優しすぎてむず痒い。けれど向き合わなきゃと、俺は顔を上げて背筋を伸ばした。
「俺、好きな人がいるんだ。その人の為に早く治したい」
「……間宮君。君は自分の足でここに来た。それはもう、君が変わった大きな一歩なんだよ」
 その言葉に小さく頷くと、遠山さんは優しい笑顔を向けた。
 変わった?それって本当?そう言われると余計に証が欲しくなる。
 その日も俺は夕暮れの繁華街でぼんやり立ち尽くす。これは本当はやっちゃいけない事。依存症の人間は依存対象から離れなければならないんだって。それは自分自身をコントロール出来ないから。
 健全な人からみたら意志が弱いだけだと思われるだろう。けれどアルコール、ギャンブル、依存症と名のつく物は何でもそう。やっちゃいけない。社会的にも立場を失う。頭では分かっているのにその衝動が抑え切れない。時にそれは、犯罪となり、他者を傷付けてしまう事も少なくない。それが依存症と言う物の恐ろしさだ。
 俺も同じだった。隆司さんを裏切っちゃダメだと頭では分かってるのに、ごく稀に抑え切れない衝動に負けて男に手を引かれホテルに入る。決まって襲うものは吐きそうな位の自分への嫌悪感と罪悪感。そんな日はやっぱりまだダメだったと項垂れて帰路につく。けれどその罪悪感があるならまだマシらしい。自分が何をしでかしたか、理解しているから。

 その日も俺は自分に勝てず、慌てて帰路についたものの隆司さんは既に帰宅していて、冷蔵庫の余り物で簡単な夕飯を作る事となってしまった。自然と決まったとはいえ、自分の役割すら満足にこなせない罪悪感にまた胸が痛む。
「どっか寄り道してたのか?」
 俺の所為で遅くなってしまった夕飯を食べながら何気無く問われた言葉に心臓がギクリと跳ねる。
「……うん、ちょっと散歩」
「病院は?どうだ?」
「……良くなってるって」
「そうか、良かったな」
 本当に嬉しそうに笑う顔が、酷く胸を締め付ける。俺はあんたを裏切ってる。最早直視も出来なくて、思わず視線を逸らした。勘の良い隆司さんはそんな俺の変化気付いている筈なのに、何も言わなかった。責めもしない。嘆きもしない。ただ真っ直ぐに、俺を愛してくれていた。

 そんな俺の愚行はそれからしばらく続く事となった。何事も焦ってはいけないと言われながらも、俺は早くこんな自分から脱却したかった。もう悲しませたくない。早く安心させたい。ちゃんと愛し合いたい。だから頑張らなくちゃいけない。まるで強迫観念に駆られるように、焦りは募るばかり。自分を試し、挫折を繰り返す。それが快復を遅らせている事にすら気付かなかった。

 年が明け、俺はまた一つ歳を重ねる。塀の中で迎えた誕生日から早くも七年。共に暮らし始めて丸五年。早いものだ。世界は目まぐるしく動いて行く。その中で生きる俺達も立ち止まる事なんか出来ない。まるで濁流に呑まれるように、俺達はただ進み続けていた。
 凍える冬を越えて、窓を叩く風が春の訪れを告げた。もうこの辺りの桜も咲き始め、次の休みには慎太郎家族と花見に行こうなんて話しも出ている。
 隆司さんとは相変わらず。俺が直ぐ子供みたいな嫉妬をする位で、ここ最近喧嘩はしていない。けれど真っ直ぐに目を見れなくなったのは、やはり後ろめたい気持ちがあるからだろう。病気を言い訳にしたくはない。だから俺は隠し通す事に決めていた。

 そんな平日の昼下がり。穏やかな春の陽光の中、ソファで気持ちの良い微睡みに浸っていた時の事だった。
 我が家の玄関が開く音がして慌てて身体を起こす。鍵は閉めた筈だけど……そう考えると自信はない。取り敢えず近くに武器になる物はないかと探し回っていると、玄関からは聞き覚えのある声が響いた。
「誰も居らんのかあ」
 知り合いだった事に安堵しつつ、その主が伊崎だった事に変な苛立ちが湧き上がる。リビングに我が物顔で入って来た非常識な男を見て、更に頭に血が昇った。
「何勝手に入って来てんだよ!不法侵入で訴えるぞ!」
「ええからええから、そこ座れ。あ、茶はええで」
「誰が出すか!」
 悪態を付きつつ、何と無く言われた通りソファにドカリと腰を下ろした伊崎の対面に、俺も腰を下ろしてしまった。それは伊崎の瞳が、微かにも笑っていなかったから。
「お前の事調べさしてもろうたわ」
「はあ?」
 突然の意味不明な発言に素っ頓狂な声が上がる。それでも伊崎はピクリとも表情を崩さなかった。
「浮気。しょおったんじゃろう?証拠もあるんじゃ」
 ……浮気って何だろう。線引きは人それぞれ。こんな曖昧な言葉はない。けれどあの繁華街に立つ事自体裏切りだと感じてる時点で、それはもう浮気と呼ばれる物なのかもしれない。そんな事をぼんやり考えていたら、伊崎は再び口を開いた。
「何でなん?」
 理由を問われても俺にはその答えを明かす気はなかった。
「別に……理由なんかない」
 こいつに言う必要もない。大体何でそんなに偉そうなんだ。年上だろうけど本当鼻につく男だ。ツンケンした俺の態度にも伊崎は特に苛立つ様子はない。ふうと息を吐き出した後、口元だけで笑みを作った。
「ほうか。んなら隆司さんの前から消えろ」
 再び飛び出した突拍子もない発言に、思わず鼻で笑ってしまった。
「何で、お前にそんな事言われなきゃいけないんだよ」
 一瞬、その瞳が揺らいだ気がした。それは煙草を吸う為に灯された、ライターの炎だったのかもしれない。
 一口目を存分に味わって深く紫煙を吐き出した伊崎の瞳が、ようやく俺を捉える。
「わしゃあガキん頃からあん人に憧れて、追い付きたくて生きて来た。どれだけ悲しみ抜いて来たかもよう知っとる。じゃけえ、あん人にゃあ誰よりも幸せになってほしいんじゃ。……おい、灰皿ないんかい」
 室内禁煙だとかそんな事、もう口にする気もない。ぐるぐると回る思考で俺は手一杯だった。
 伊崎の言いたい事は分かる。俺だって隆司さんには幸せになってほしい。だけど隆司さんと離れるなんて、そんな事出来ない。
「……嫌だ」
 ポツリと呟いた俺の言葉に、伊崎の表情が微かにだが初めて歪んだ。
「何戯言抜かしとるん」
「俺は……隆司さんが好きだ」
 不意に胸倉を掴みあげられ、身体がガクンと揺れる。
「好きなら傷付けてもええんか!愛されとったら何でも許されるんかよ!」
 それは今迄おチャラケて本心を隠し通して来た男の、あまりにも真っ直ぐな怒りだった。
「最初は、何で男なんぞに駆けたんやって腹が立った。じゃがそいつが、大切にしてくれるならええと思うとったのに……こがあな男が……何でなん!」
 悔しそうに吐き捨てた伊崎の気持ちが、俺には痛い程伝わった。憧れて、背中を追った。それがいつしか別の感情へと変わっていたのだろう。怒りに小さく震える伊崎もまた、誰よりもあの男を想ってる一人だ。
「……俺じゃ、いけないの?」
 震える声で漸く発した言葉に、鋭い瞳が微かに揺れた。
「そりゃあわれが、一番よう分かっとろう?」
 伊崎はそう言い残し、振り返らずに出て行った。残されたその言葉が深く胸に突き刺さる。抉るように、ただ深く、深く。俺はへたり込んだまま動く事すら出来なかった。
 愛する人に愛された幸せの絶頂において、こんな未来を誰が想像するだろう。胸が張り裂けそうな痛みを何故忘れていたのだろう。
 愚かな俺は思い知る。幸せの絶頂は何時だって、絶頂でしかない事を。絡まり合った足枷に引き摺られるように奈落の底へと堕ちて行く。どんなに足掻いても抗う事なんか出来ない。上り詰めたら後は、堕ちて行くだけなのだから。これが俺が犯して来た罪の重さだ。

 ふと気付けば辺りはもう真っ暗だった。静寂が支配する部屋はコトリとも音がしない。掴みかかられ乱れた衣服を整える気力も、電気を付ける気力すらも無く、よろける足で何とか立ち上がったものの、力の入らない身体は直ぐに床に崩れ落ちる。生まれたての仔鹿のように、ガクガクと膝を震わせて、それでも俺は突き動かされるように何度も立ち上がった。
 頭の中は文字通り真っ白で、何一つ思考は働かない。その中でたった一つ。伊崎への、当て付けのような重い憎しみだけが熱く渦を巻く。伊崎さえいなければ、俺は隆司さんの側にいられる。それはこの後に及んで僅かな希望に縋る、浅ましい姿だったのかもしれない。
 ようやく目的地であるキッチンに辿り着き、手に馴染んだ包丁を握り締める。その瞬間、不意に室内の電気が点いたと思ったら、後ろから伸びた手が俺の手から包丁を奪い取った。振り返るといつの間にか帰って来た隆司さんが青ざめた顔で俺を見下ろしていた。
「……何してる?」
 料理をする俺が包丁を持つなんて日常茶飯事なのに、それ程に尋常じゃない顔をしていたんだろうか。そう思って自分を見直して合点がいった。乱れた衣服も直していないし、ここで何かが起きた事は容易に想像は付いたのだろう。
「それ、返して」
 隆司さんは静かに首を横に振った。
「何があった?ちゃんと話そう」
 お願いだから……そんな目で俺を見ないでくれ。せり上がる苛立ちが抑え切れない。
「返せよ……!」
「何言ってんだ!危ねえだろ!」
 俺の届かない冷蔵庫の上なんかに包丁を上げられ、それでも形振り構わず必死で取り返そうと足掻く俺を隆司さんが慌てて止めた。
「落ち着けって……!」
「殺してやるんだ!」
 思わず叫んだ途端、乾いた音と共に頬に鈍い痛みが走る。
「雪……!」
 ようやく目が覚めた俺の視界には、あまりにも悲しみと苦悶に満ちた顔が映る。俺はまた、隆司さんを傷付けてしまった。
 伊崎の言う通りだ。俺じゃいけない。それは俺が誰よりも分かってた筈だ。真っ直ぐに愛せない。傷付ける事しか出来ない。もう頭の中がグチャグチャで、気付けば隆司さんに掴みかかっていた。
「教えてよ隆司さん!どうしたら良いの!?愛する事が出来たのに、苦しいんだ、辛いんだ……!」
 隆司さんの腕が俺の身体を痛い程強く抱き締める。小さく震えるその背中に、俺は腕を回す資格もない。伊崎に向けたフリをして、自分に対して感じていた憎悪が、涙になって溢れて行った。
「俺……カウンセリングの後いつも街に立ってたんだ。たまに、男に抱かれる事もあったんだ」
 裏切りの告白を、隆司さんはただ黙って聞いていた。それもまた辛かった。責めてくれ。詰ってくれ。俺は、最低だと。
「あんたは、幸せなのかよ。俺は、あんたを愛してるって分かっていながら、自分が抑え切れないどうしようもない人間なんだ!こんなの──」
 幸せな筈が無い。けれど抱き締める腕に一際強く力を込められ、思わずその先の言葉を呑み込んだ。
「幸せだよ。雪がここに帰って来る。それだけで俺は、誰より幸せだ」
 それはかつて一番欲しかった筈の答えだった。それなのに俺の心は引き裂かれそうな程の痛みを覚えた。答えない俺に、隆司さんは優しく諭すように言葉を繋いだ。
「なあ、雪?汚くても良い。どんなに腐った人間でも良い。病気が治らなくても良い。お願いだから……もう、何処にも行かないでくれ」
 この人はこんなにも俺を想ってくれている。きっとこの世で誰よりも。それなのに愛されれば愛される程苦しくなるなんて、思ってもみなかった。いっそ呆れて捨ててくれと、他力本願になってしまう自分が憎い。なら進むべき道は自分で決めなきゃ。そう、心に決めた。
「昔した話しを、覚えてる?」
 俺を抱き締めたまま、隆司さんは静かにその続きを待つ。身体に響く鼓動の音が、堪らなく愛おしく感じた。
「父さんは、母さんを愛してた。愛して愛して、そして壊れてしまった。俺を復讐の道具にして、そして一人その罪深さに耐え切れず死ぬ事を選んだ。だけど俺は、父さんを一度だって恨んだ事は無かったよ」
 あの人は俺と似ているから。愛に依存し過ぎて、愛を綺麗な物だと信じ込んで、勝手に裏切られたと思って、深く深く傷付く。大切な人を信じきれない、弱くって、愚かな男だった。真っ直ぐに愛する術を知らず、深い愛情故に傷付ける事しか出来ない哀しい人間。
 身体に回った腕をそっと解いて、隆司さんを仰ぐ。長年見て来たその顔は、やはりどんなに時が経った今でも胸を熱くする。
 命にかえても守りたい。何よりも大切で、心の底から愛おしい。俺は隆司さんに愛されてその感情を知った。だからこそ、父さんとは違う道を歩まなきゃいけない。隆司さんが母親の罪をその背に背負うように、俺もまた父の犯した罪を背負う。それが〝家族〟だと、この男が教えてくれた。
 愛する者を傷付ける事しか出来なかった父さんとは違う道を生きると言う贖罪。それは不器用にしか生きる事の出来ない俺の決断だった。
「もう、終わりにしよう?」
 隆司さんは何も言わずに小さく笑って、再び俺を抱き寄せた。
「愛してるよ、雪──」
 止める事も、責める事もしなかった隆司さんは、こうなる事を知っていたのかもしれない。本当に俺が隆司さんを愛する日が来たなら、離れて行かざるを得ない程に重い罪の意識に押し潰されてしまう事を。
 俺に何も望まなかった隆司さんが最後に望んだ願いすら、俺には叶えてあげられない。幸せだと言う隆司さんの顔すらも、もう真っ直ぐに見る事が出来なかった。

 その日の夜は言葉も交わさずにキツく抱き合って眠った。この温もりを忘れないように。隆司さんの胸の中で泣くのは何度目だろう。それも、最後だ。そう思うと、堰を切った様に溢れた涙が止まる事はなかった。
 夜が明ければ別々の道を行く。それが傷付け合いながらも愛し合った長い道程の果てに俺達が下した、愛すべき決断だった──。
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